大伴氏、佐伯氏、和気氏、天平時代 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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大伴家持:族を諭す歌
孝謙天皇…

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コメント

  • 梅原猛はこの<東国><防人の歌><仲麻呂の警戒>から<遷都><仏教支配>に失敗、追い詰められた<橘諸兄>がクーデターを計画したが、未発に終ったと推理している。

    橘諸兄が家持を使って<国家的事業>の「万葉集」に取り組んだ<狙い>は何か。
    梅原説
    「万葉集」の巻1は<雑歌>。「雄略天皇から元明天皇までの政治の中心人物、あるいはその周辺にいる人間の歌を集めている。それは歌による歴史叙述である」(同・268頁)。
    巻2は<相聞>と<挽歌>だが、「やはり、元明帝までの愛と死の歌を集めている。巻1をパブリックな歴史としれば、巻2はプライベートな歴史というべきであろうか」

    「この相聞と挽歌をよく読むと、ふつうの相聞歌・挽歌ではない。相聞歌は多く、たとえば石川郎女をめぐる草壁皇子と大津皇子、但馬皇女をめぐる高市皇子と穂積皇子、紀皇女をめぐる権力ある皇子と弓削皇子など。そして大津皇子が典型的であるように、結局、力のない皇子たちは、この不倫の愛を理由として滅ぼされる」(269頁)。
    相聞歌は<引き裂かれた愛>の歌。最後は<人麿>が石見国で妻と別れた悲愴な歌で終る。

    「<人麿>復興は人麿が最も親しかった<高市>皇子の復興である。<不比等>政権批判は現在の<仲麻呂>政権への批判」(270頁)となる。まさに<藤>か<橘>か―――だ。
  • 756年(天平勝宝八歳)5月2日聖武天皇没。皇太子を道祖王に遺詔。橘諸兄に出し抜かれた。
    葬儀の中心は藤原豊成、文室真人智努、橘奈良麻呂、塩焼王など、反仲麻呂人脈。
    757年(天平勝宝九歳=天平宝字元年)正月6日、政敵橘諸兄没。
    孝謙天皇・光明皇太后と図り、3月29日道祖王を廃した。4月4日大炊王を皇太子に決めた。この件で橘奈良麻呂はじめ反仲麻呂派は、仲麻呂誅殺、孝謙天皇廃位を狙うようになる。仲麻呂はこれに対抗して、5月20日紫微内相に就任し軍事権を掌握。同年7月先制して橘奈良麻呂の乱を鎮圧。奈良麻呂・黄文王・大伴古麻呂らを拷問死させた。道祖王は配流。
    左大臣就任。仲麻呂51歳。
  • 藤原仲麻呂が光明皇后の協力者だった。「天平勝宝年間は二重権力の時代だった。」梅原猛はいう。聖武天皇と橘諸兄のラインと、光明皇后と藤原仲麻呂のラインである。聖武天皇の死によって光明皇后=仲麻呂の勝利が確定する。
    聖武天皇没後一年、後継皇太子をめぐって奈良麻呂の乱とよぶクーデター未遂事件。藤原仲麻呂はすばやい反撃に出て、奈良麻呂、黄文王、道祖王など反仲麻呂派を一掃した。
  • 藤原房前は、左道を用いて謀叛を企てたとして長屋王を殺す。これが長屋王の変(729年)。おもてむき長屋王が謀叛を企てたということになっているが、実は藤原氏の陰謀である。長屋王の家系を絶ち、光明子を通じて藤原氏権力を確実にするねらいをもっていた。
    長屋王の変のあと、天平九年(737年)藤原房前ら四人の兄弟は相次いで死んだ。天然痘の流行だった。藤原氏の権力は武智麻呂の子、藤原仲麻呂にうつる。

  •  家持は天平宝字4年(760年)これ以降彼はうたわぬ歌人になってしまう。

     さかのぼること3年、天平勝宝9年に、橘諸兄が死去した。
     7月には橘諸兄の嫡男、立橘奈良麻呂の乱が起きる。大伴・佐伯氏の多くが連座した。相手は力を蓄えてきた藤原仲麻呂(恵美押勝)であった。
     多くの盟友が参加し、池主まで血の粛清の犠牲者となった
      その後彼は、763年恵美押勝(藤原仲麻呂)暗殺計画に連座、京外に追放され翌年薩摩守に左遷となる。世は称徳天皇と弓削道鏡の政治に移り、家持は薩摩守も解任された。770年に天皇死去とともに道鏡も失脚、ようやく政治的に追い風となる。従四位下から従三位となりやがて中納言にまでなるが、やがて桓武帝に憎まれて死ぬ。死んでからも、藤原種継暗殺事件にかかわっていたことが判明、葬儀も行われず、骨まで流罪という罰を受けている。
     なくなったとき68歳。因幡国庁で最後の歌を詠んでから25年以上の歳月が流れていた。
  • 隠岐ノ島
    家持死後20数日で、藤原種継暗殺の疑いを掛けられ、息子永主(ながぬし)とともに、その遺骨が流された地。
    日本では墓を掘り返し遺骨を流刑にするのは珍しい。

    これらの事件によって、室屋以来870年間も天皇家に仕えた名氏族も、日本歴史から消え去る。これは、藤原氏の他氏排斥の一環と考えられ、家持が政争に巻き込まれまいと、万葉集巻20に「族(ながら)を諭す歌」を残した気持ちは良く分かる
  • 軍事的伴造氏族。八草の姓の制定により、連から宿禰に改姓。門号氏族で大伴氏の同族とされている。職掌が宮廷防守であったことから、「塞ぎる」が「さえき」になったと言われている。
    佐伯氏系図
    天押日命 ━ 天津彦日中咋命 ━ 天津日命 ━ 道臣命 ━ 味日命 ━ 稚日臣命 ━ 大日命 ⇒
    ⇒ 角日命 ━ 豊日命 ━ 武日 ━ 武以 ━ 室屋 ⇒
    ⇒ ┳ 談 ┳ 金村
    ┃ ┗ 歌連 ━ 平曽古連 ━ 平彦連 ━ 伊能直 ━ 大人直 ━ 枳都直 ⇒
    ┗ 御物(林宿禰)
    ⇒ 男足 ━ 田公 ━ 道長 ┳ 空海
    ┗ 女子 ━ 円珍
  • 式内 久佐奈岐神社
    鎮座地 清水市山切字宮平一〇一番地
    御祭神 日本武尊
    合祀 弟橘媛命 吉備武彦命
    大伴武日連命 膳夫七掬胸脛命
    由緒
    庵原川流域は古代には廬原の国と呼ばれ、その政治的中心となったのが、庵原 古墳群の立地する丘陵に囲まれたこの平野であります。
    当社は人皇第十二代景行天皇の時代(西暦一一〇年、約一八八四年前)に詔勅により 皇子日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けたとされる旧蹟の地にあります。
    創立年代は古くして不詳ですが、東征の副将軍として活躍した、吉備武彦命が 後に其の功績により廬原の国を賜り、尊の縁り深いこの地に社殿を造営し 日本武尊を祀ったのが創祀とされ、其の後お供として東征に随行した 姫、弟橘媛命を初め諸神を合したものと考えられております。
    文献上の記録では風土記に第十三代雅足彦(成務天皇)の元年(西暦一三三年、約一八六一年前)に官幣を奉ると あり、異本類聚六国史に清和天皇、貞観元年(西暦八五九年、一一三五年前)久佐奈岐神社従二位を 授くとある。延喜式(平安時代初期の儀式や制度を定めた律令の施工細則) 神名帳には廬原郡三座(久佐奈岐神社・御穂神社(三保)・豊積神社(由比))と記載されており、 式内社であります。
    昔は有度の草薙神社に対し、東久佐奈岐神社、或いは東久佐奈岐大明神等と称えら れたこともありましたが、明治六年郷社に列せられてからは、今の社名となっております。
    御神体
    本殿に四柱の御神像が鎮座されており、これは朝廷より賜った貴重なもので 開披してはならないとの言伝があります。
    境内社
    稲荷社 宇迦之御魂命
    白髭社 武内宿弥
    天満宮 菅原道真
    雨之宮 天之水分神 国之水分神
    津島社 須佐之男命 稲田比女命
    金刀比羅社 金山彦命 大国主命
    今宮社 素嗚命 稲田比女命
    九万八千霊社 東征軍の御供の諸神
    事比羅社 金山彦命 大物主命 少彦名命
    雨之宮社 志那都比古命 志那都比賣命

    -参道案内より-
  • 式内社 讃岐國鵜足郡 宇閇神社

    御祭神 武内宿禰命 配祀 品陀和氣命 菅原道眞
    合祀 金山彦命
    香川県丸亀市綾歌町にある。
    岡田駅の南500mほど。
    438号線に参道入口の鳥居が立ち、参道が東へ約300m。

    階段を上り、神門をくぐると、丘の上に広くて明るい境内。
    社殿は西向き。

    社伝によると、因幡国一ノ宮の宇倍神社を勧請し、
    宇閇神社と称した神社。

    別名、岡田の天神さんとよばれるのは、
    岡田上村廻池の畔にあった天満宮を、
    池の改修に際し、当社へ合祀したため。

    綾歌町には、同名の神社がもう一つあり、 ともに式内・宇閇神社の論社である。

    参道脇に幾つかの境内社があるが、
    稲荷以外は、石祠で、どれがどれかわからなかった。
    (稲荷神社、開耶神社、御魂神社、八幡神社)

    社殿には、片喰の紋が付いていた。
  • 「710年元日朝賀」の『三年春正月壬子の朔、天皇、大極殿に御(おは)しまして朝を受けたまふ。

     隼人・蝦夷ら、亦、列に在り。左将軍正五位上大伴宿禰旅人、副将軍従五位下穂積朝臣老、右将軍正五位下佐伯宿禰石湯、副将軍従五位下小野朝臣馬養ら、皇城門の外、朱雀の路の東西に分頭して、騎兵を陳列し、隼人・蝦夷らを引きて進む。』(続一 159頁)
  • 姓氏録右京皇別の佐伯直条の記事
    同書によると、景行天皇の皇子、稲背入彦命の後であり、「男・御諸別命」が稚足彦天皇(謚は成務)の御代に、針間(播磨)国を中ばに分けて給わったので、針間別と号づけられ、さらに「男・阿良都命(訓はアラツ。一名は伊許自別)」が、誉田(応神)天皇に命じられ日本武尊の東国平定の際に俘(とりこ)にした蝦夷の後裔(佐伯)の管掌者となって氏を針間別佐伯直と賜ったと記されます。佐伯は針間のほか、安芸や阿波・讃岐・伊予の五国に分散して配置されたとありますので、播磨の支族が四国各地の佐伯を管掌したことが考えられます。播磨国内では、印南・揖保郡等に佐伯直の分布が見えますが、河内皇別の佐伯直も稲背入彦命の後と『姓氏録』に記されます。
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