大伴氏、大伴金村、 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

大伴氏、大伴金村、 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

大伴氏の最初の実在人物とされる大伴室屋が雄略朝で大連となり、それまでヤマト王権に参画して勢力を誇っていた葛城氏に替わって大伴氏が急速に台頭する。

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コメント

  • 5世紀後半の雄略天皇の時代に大伴室屋(むろや)が出て勢力をのばし、孫の大伴金村(かなむら)が武烈天皇の時代に大連(おおむらじ)となって全盛期を迎えた。金村は継体天皇の冊立に功があり、また任那の運営を主導して武烈、継体、安閑、宣化、欽明の5代にわたって大連を務めた。しかし、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われて失脚した
  • 587年の丁未(ていび)の変で物部本宗家が滅亡し、645年の乙巳(いし)の変で蘇我本宗家が滅びても、古代氏族大伴氏はしぶとく生き残った。649年には大伴長徳(ながとこ)が大化の改新の右大臣になっている。672年の壬申の乱では、長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てており、以後、奈良時代までの政界で大納言・中納言・参議等が輩出している。
  • 穂積臣押山

    継体6年の夏、4月6日に穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣しました。その時、筑紫国の馬40頭を贈りました。

    冬12月に百済は日本に使いを送って朝貢してきました。別に上表文を書いて、任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県(こおり)を譲渡するように請願しました。

    哆唎国守(みこともち)の穂積臣押山が
    「この四県は百済に近く、日本からは遠く隔てています。哆唎と百済は近くて朝夕通い易く、鶏や犬がどちらの国のものか分からないほどです。今、哆唎を百済に与えて合併させるのは手堅い政策で、最良のものでしょう。しかし、たとえ百済と合併させても(他国からの侵略に対して)まだ危ういといえますが、それでも百済と切り離して置いたなら、数年も守りきれないでしょう。」と奏上しました。

    大伴の大連金村も詳しくこの事情を知っていて同じ内容を奏上しました。 

    そこで物部の大連・麁鹿火(あらかひ)を勅命を伝える使者としました。物部の大連・麁鹿火は難波の客館に出立して、百済の使者に勅命を伝えようとしましたが、その妻が強くいさめて、

    「そもそも住吉大神が初めて海の向こうの金銀の国、高句麗、百済、新羅、任那などを、胎中天皇と言われる誉田天皇に授けられました。だから大后の息長足(おきながたらし)姫の尊(神功皇后)が大臣の武内宿禰と国ごとに官家(みやけ)を初めて置いて、海外の属国として長年経っているのです。そのように由緒あるものです。
    もしそれを裂いて他の国に与えたなら本来の区域と違ってしまいます。永く世のそしりを受けて人々から非難されるでしょう。」
    と言いました。

    大連(おおむらじ)は「そなたが言うのも道理だが、勅命があった以上は、反対すれば天皇の命令に逆らう事になる。」と言いました。妻は強く諫めていいました。
    「病気だと言ってあなたが伝えなければいいのです。」

    大連は妻の言葉に従いました。そのため、改めて使者が選ばれて、勅文に下賜の物を付けて、百済の上表文に応じて任那の四県を与えました。
    勾大兄(まがりのおおえ)皇子はこの件に関して全く知らず、あとで勅命があった事を知りました。驚いて悔いて変更する命令を下しました。

    「誉田天皇の御代から官家(みやけ)を置いていた国を軽々しく隣国が乞うがままにたやすく与えられようか。」と。すぐに日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして改めて百済の客人に伝えました。

    百済の使者は言いました。
    「父の天皇が便宜を図られて既に勅命を与えられたのです。子である皇子がどうして父帝の勅命を変えて、みだりに改めて言われるのですか。きっとこれは虚言でしょう。もしそれが真実ならば大きな頭の杖を持って打つのと小さな頭の杖を持って打つのとどっちが痛いでしょうか。(もちろん天皇の勅命が重く、皇子の命令は軽い。)」と言って帰国しました。

    のちに「大伴の大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済のワイロを貰ったのだ」という噂する者がいました。
  • 「日本書紀」の武烈天皇(499~506)3年11月条に

    天皇が大伴室屋大連に 「信濃国の男丁を発して、城を水派邑に作れとのたまふ。仍りて城上と日ふ」

    とあり大伴氏が信濃国に関係していることが分かる。したがって、当時の指揮官は大伴氏である。甲斐の国一の宮にある浅間神社の宮司の古屋氏の系譜は、近年大伴氏の古系譜と注目されている。その系譜の中の「室屋大連公(大伴室屋大連)」の譜文には、

    自遠明日香大宮至飛鳥八釣大宮五朝供奉長谷朝倉大宮朝丁酉年十一月朔為大連 (トホツアスカの大宮から、アスカヤツリの大宮に至る五朝にお仕え申し上げました。) と書かれている。

    上記の表から大伴室屋大連は、西暦412年ころから487年ころまでの間仕えたことになる。したがって日本書紀の武烈天皇(499年~506年)の記事は大伴室屋大連ではなく金村大連公が事実ではないかとされている。

    この点について「信濃古代史考」も「『日本書紀』の大伴室屋大連については、金村の誤記か雄略紀の記述がまちがって武烈紀にまぎれこんだかのどちらかであろう。」としている。
  • 1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣に記載された「獲加多支歯(雄略天皇)」でも分かるように東国への大和王権の進出は、大伴室屋が仕えた雄略天皇朝であり大伴氏が古代東山道を通り東国へ何らかの影響(支配権)を有していたことが推測される。
  • 大臣の大伴金村が丹波国に出向いた時、おびえて山中に逃げた倭彦王を密かに連れ去り、邸宅にかくまっていたのだ。なぜ、金村は、倭彦王を密かに匿ったのか? 大伴氏の始祖は天忍日であり、邇邇藝とともに狗奴国から日向の高千穂に天降っていた。また、磐余彦の東征では、曾孫の道臣が大久米の軍を率いて熊野から大和国まで転戦し、神武天皇の大和王権樹立に大いに貢献した。その後、狗奴国系の大王家(天皇家)と共に歩むことになる。垂仁朝では、武日は物部十千根らと共に、大夫になる。景行朝では、武日が倭建の東征に吉備武彦と共に従い、その功により、靫負部を賜る。大伴連武持は仲哀朝の四大夫で、初めて大伴宿禰姓を賜った。応神天皇から始まる邪馬台国系王統の時代には大伴氏は冷遇されたようであるが、允恭朝になって、大伴連室屋が政権内に登場する。室屋は、雄略天皇即位に伴い、物部連目と共に大連となる。室屋の子の談(かたり)は、新羅掃討に派遣されるが、戦死する。談の子、金村は平群臣真鳥・鮪父子の乱を平定、武烈天皇を即位させ、自らは大連となる。以後、金村は半世紀近くにわたって政治的実権を掌握することになる。大伴連金村は、後嗣のない武烈天皇の後継者を求め、宮中の記録を検証し、丹波国桑田郡にいた仲哀天皇の五世の孫である倭彦王を皇位継承者として抜擢したのである。しかしながら、金村は、倭彦王はとてもではないが大王となる器量ではないと見破ったのだ。だがしかし、大伴氏にとって、仲哀天皇の後裔の倭彦王は歴代の主君(狗奴国系王統)の後裔であった。だから、私邸に連れ帰り、密かにかくまったのである。

    欽明一年(540年)、大伴金村は任那政策の失敗を物部尾輿らに責められ、失脚する。
    欽明二十三年(562年)、金村の子の狭手彦が大将軍として高句麗を討つ。
    用明二年(587年)、同じく金村の子の噛 (くい=咋子) が、蘇我馬子による物部守屋討伐軍に参加する。この時、物部本宗は滅亡する。591年任那復興のため大将軍として出陣。608年隋使「裴世清」を迎える。
    崇峻天皇が即位(588年)すると、金村の子糠手 (ぬかて) の女小手子 (おてこ) が妃となる。大伴氏の女が初めて妃となったのである。
    推古元年(593年)、厩戸皇子が立太子(聖徳太子)し、大伴屋栖古 (やすこ) が太子側近の侍者となる。
    推古二十二年(614年)、中臣御食子の妻大伴夫人(智仙娘、大伴咋子の女)が鎌子(後の藤原鎌足)を生む。
    大化五年(649年)、粛清された蘇我倉山田石川麻呂の後任として大伴長徳が右大臣に就任する。
    白雉二年(651年)、右大臣大伴長徳が死去する。その後、孝徳朝末期以後、天智朝まで大伴氏の動静は伝わっておらず、また斉明朝末年から天智初年(661~663年)にかけての百済救援にも大伴氏の活躍は記録されない。この期間大伴氏は中央政界から疎外されていたようにみえる。
  • 大伴と言えば壬申の乱で活躍した馬来田、吹負、長屋王事件に連座した旅人、橘奈良麻呂の変に連座した古麻呂、藤原仲麻呂暗殺の謀議に加わった家持、彼は一旦許されるもののまた天武系最後の皇親氷上川継の乱で左遷、藤原種継暗殺事件で継人は死刑になります。
  • 鎌足の一代上に遡ると


    両親は中臣御食子と大伴咋子の娘智仙娘(藤氏家伝には大伴夫人)
    智仙娘の兄の大伴長徳。
    蘇我倉山田石川麻呂が日本書紀曰く無実の罪で中大兄皇子に抹殺されたあと右大臣になった。

    この時左大臣になったのが例の巨勢徳太
  • 10/12編集されました
    毛野氏ー大荒田ー車持へ
    車持は不比等の母方

    毛野国は後に上毛野(かみつけぬ)国(現在の群馬県)と下毛野(しもつけぬ)国(現在の栃木県)に分国された。さらに後年(713年)になって上野国(こうずけのくに)・下野国(しもつけのくに)と呼称が変化した。それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏である。
    共に「豊城入彦」の末裔である。この両氏を中心とした毛野氏一族は全国に分布していくが、東国六腹朝臣(上毛野・下毛野・佐味・池田・車持・大野氏)が中心である。684年に揃って朝臣姓を賜った。地方豪族としては破格の待遇であった。
     JR東日本に「両毛線」というのがある。栃木県小山駅から群馬県新前橋駅(実質的には高崎駅まで)までの過っての上毛野国と下毛野国を結ぶ鉄道である。ここにも「毛」の字が残っているのである。
     上毛野氏は「赤城神社」を奉斎し、下毛野氏は「二荒山(ふたあらやま)神社」(現:宇都宮市)を奉斎してきたとされている

    大荒田別
    ①父:御諸別 母:不明
    ②子供:韓矢田部現古  上毛野竹葉瀬  下毛野田道
    ③紀(神功49):新羅を討つ。
    ③紀(応神15):上毛野君祖荒田別・巫別を百済に遣わし、西文氏の始祖「王仁」を徴す。

    上毛野竹葉瀬(たきはせ)
    ①父:荒田別 母:不明
    ②子供:島名 別名:多奇波世命
    ③紀(仁徳53):新羅に派遣された。

    ・韓矢田部現古
    ①父:大荒田別 母:不明
    ②子供:武額・若多気姫(下毛野奈良別妻)
    ③神功代の人物。車持朝臣氏祖。
     
    ・車持射狭
    ①父:韓矢田部布禰古
    ②兄弟:迦波
    ③雄略朝、車持姓を賜る。
    ④この流れから藤原不比等の母とされる車持国子娘与志古が出たという説あり。
  • 10/12編集されました
    田辺史難波
    750年上毛野君姓を賜った。従五位上。出羽守。皇別田辺氏。大野東人と蝦夷征伐。
    渡来人系であるはずの田辺史氏が何故上毛野氏の姓が与えられたかは謎である。
    上毛野腹赤ー努賀ー百尊ー徳尊ー斯羅の流れが皇極朝に田辺姓を名乗った。どこかの
    段階で渡来人系の田辺史氏が上毛野氏と婚姻関係により同一視されるようになったものとも言われている。この田辺氏は蕃別氏族ではなく、皇別氏族となっている。

    車持の君は、榛名山の南麓一帯の、旧榛名・旧箕郷町など、高崎北部から東は榛東村までの支配者であったらしい。

    東国へ移った毛野氏は荒河刀辧→豊城入彦命の『日本書紀』に出てくる 系譜は次のようになる。豊城入彦命→八綱田命→彦狭島命→御諸別命→大荒田別命→上毛野君→分家の車持の君となる。
    車持の名は居住地の名ではなく職掌に基づく姓である。天皇に近侍として儀礼に出かける時の興の供御輿を担いだり、牛の越車を引いたりする時の管理=重要官僚ポストであったと考えられる。
    天皇の乗輿を製作、管理することを職業とした氏族である。職務を果すための費用を貢納する車持部であった。雄略天皇の時、乗輿を作って献納した功により、車持の姓を賜わった。車持氏は天皇と深く結びついた氏族であったと推測できる。
  • 高崎市旧榛名町十文字に『車持神社』・・・創立年月日は詳らかではないが、上野国神名帳所收の従五位上「車持若 御子明神」は現在の車持神社である。当社は、車持公の遺徳を追慕し、縁の地に崇祀勧請したものと伝えられている。車持公は上毛野君豊城入彦命の後裔射侠君の末裔で榛名山東麓一帯を統治されていたことから、この地は車の里と呼ばれていたのである。雄略天皇の時乗輿を作り献上したことにより、車持の姓を賜り、以後子孫はこの地に居住し、善政を施したのでやがて地名にまでなったという。また、榛名神社には豊城入彦命を祀る国祖殿があり、神南備の山の榛名神社大神を合祀したものである

    車持の君の子孫:『勘解由屋敷』善地入田・・・上野君:豊城入彦命の後裔:彦狭島君の末裔:車持公は代々榛名山の南麗の一帯の地を領地とされ、古くから「車の里」とよんだ。雄略天皇の時、乗輿を作って献納した功により、車持の姓を賜わった。子孫は「風の三郎」を名乗り、善地の地に住んだ。勘解由として、屋敷を善地入田に構えた。勘解由は国司が交代するときに、安全を管理する役目である。延暦年間・・坂上田村麻呂に三郎は蝦夷遠征に上野勢の総帥として従った。戦功により、「善知」の姓を賜った。やがて「善地」という地名となった。しかし、善知三郎は京に行ったきり戻らなかった。(★みさと散策:斉藤勲著)
  • 10/12編集されました
    上毛野稚子(わくご)
    645年 大化の改新、中央貴族として奈良に戻って活躍した。
    天智天皇2年(663)、上毛野稚子(わくご)は新羅討伐の副将軍として新羅に渡った。
    白村江の戦い・・・海戦で百済&日本連合軍は新羅&唐連合軍に壊滅させられた。新羅に大敗したが、上毛野君稚子が戦果を収めた

    645年大化の改新、大化の改新以来、藤原(中臣)鎌足は、日本の外交責任者の地位にあった。上毛野稚子(わくご)が大化の改新後、中央貴族として奈良に戻って活躍した。

    藤原不比等に関しては群馬の多胡碑にその名が見える。(右大臣:正二位藤原(不比等)尊)
  • 天智天皇の落胤:藤原不比等説・・・藤原不比等は実は中臣鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。
    天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説が伝わっている。実際に生まれのは男子=不比等が生まれた。
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