英彦山、天忍穂耳 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
英彦山、天忍穂耳 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

天忍骨尊は天忍穂耳尊とも書き、三重県伊勢神宮に祀られる天照大神の御子であり、英彦山神宮の御祭神である

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コメント

  •  英彦山をはじめて開いたのは北魏の善正ともいうが、平安初期の僧法蓮上人とも伝えられる。伝説によると、まだ日本に仏教が伝来しない時代、人皇10代崇神天皇(一説では西暦紀元元年の弥生時代中期)の御代、すでに日子山権現(権現とは仏の仮の姿)の霊神が、天竺から東に向って五つの霊剣を投げたといわれ、また26代継体天皇の御代に、大唐(いまの中国で異説では魏国)から善正和尚という僧が飄然として海を渡って大宰府につき、豊州(豊前国)の高岳(英彦山)の聖なる地に「彦山霊仙寺」という一寺を建立して、釈迦如来、阿弥陀如来、観世音菩薩を本地(仏)にしたという。また別伝によると、その昔、不思議な光を発する霊光が西方から飛来して英彦山の南岳に止まった。その光は、八角五光の玉石に見えたという(裏彦山道の玉屋の岩屋に現われたという伝説の水精の石のことであろうか)。さらに、中国の天台山(天梯山とも書く)に住んでいた王子が、日本国鎮西の日子山の峰に天降った、などの諸説がある。 
  •  英彦山に関する最も古い縁起とされる『彦山流記』は、奥付に「建保元年癸酉七月八日」とあり建保元年(一二一三年)頃の成立と見られています。同書のこの記事は当山の開基を九州年号の教到年(五三一~五三五)としているのです。また同書写本の末尾には「当山之立始教到元年辛亥」と記されており、教到元年(五三一)の開山とあります。また、元禄七年(一六九四)に成立した『彦山縁起』や寛保二年(一七四二)の『豊鐘善鳴録』によれば、彦山霊山寺の開基は継体天皇二十五年(五三一)北魏僧善正によるとあります。いずれにしても英彦山霊山寺の開基が仏教初伝の通説五三八年よりも早いとする縁起が存在してる
  • 『豊前国志』によれば仁賢帝の御宇(四八八~四九八)百済僧正覚の開山とされています。このように九州内陸部に当たる英彦山などへの仏教の浸透時期が五世紀末から六世紀初頭とする伝承の存在を考えますと、朝鮮半島に近い九州北岸部への伝来は。更に遡ることが予想されるという

  •  『筑前双書』に「雷山縁起」という文書が収録されています。同縁起の表題には「雷山高祖縁起」とあり、「高祖」の下に「ナシ」と加筆されているところから、本来は「雷山縁起」と「高祖縁起」の両方が存在していたようです。その内容は「雷山縁起」「附録」「雷山千如寺法系霊簿」の三つからなり、「雷山縁起」は雷山にある上宮・中宮・下宮の由来などを記し、「千如律院草創芻 實相」による跋文には允恭天皇四年に縁起が選集され、寶暦九年(一七五九)に再選録したと記されています。

    「雷山千如寺法系霊簿」には千如寺の歴代の住職の名前が記されており、始祖清賀上人以後、のべ百八十七名にも及んでいます。時代にすれば、始祖清賀上人の「成務天皇四十八年来朝、應神天皇十一年庚子示化」から安永八年(一七七九)まで続いているのです。
    ちなみに「雷山千如寺法系霊簿」の冒頭頭部分は次のように記されています

       雷山千如寺法系霊簿
       始祖法持聖清賀上人   人王十三代成務天皇四十八年来朝
                       應神天皇十一庚子七月十五日示化
    清辮上人 仁徳天皇御宇       圓賀上人 仁徳天皇御字
    明辮上人 履仲天皇御宇       明遍上人 允恭天皇御宇
    遍照上人 安康天皇御宇       圓明上人 雄畧天皇御宇
    禅賀上人 雄畧帝代          行賀上人 清寧天皇御宇
    覺賀上人 仁賢天皇御宇       圓瑜上人 武烈天皇御宇
    圓融上人 繼躰天皇御宇       圓濟上人 同
    仁済上人 宣化天皇御宇       恵濟上人 欽明天皇御字
    恵観上人 同              恵達上人 敏達天皇御宇
    智達上人 用明天皇御宇       恵到上人 推古天皇御宇
    到岸上人 同              圓盛上人 同
    叡意上人 舒明天皇御宇       叡詮上人 大化年中
    敬天上人 斉明天皇御宇       光天上人 天智天皇御字
    含曦上人 同              恵観上人 白鳳年中
    観淳上人 朱鳥年中常山縁起撰録 行忠上人 文武天皇御字
    行恵上人 大宝年中          圓祐 和銅元年二月三日 一字虫喰
    (以下、略)
     中でも注目すべきは、清賀上人が来朝したとされる成務天皇四十八年は戌午にあたり、仏教が戊午の年に伝来したとされる伝承に一致することです。
  • 雷山縁起の付録

    「雷山縁起」は雷山にある上宮・中宮・下宮の由来などを記し、「千如律院草創芻 實相」による跋文には允恭天皇四年に縁起が選集され、寶暦九年(一七五九)に再選録したと記されています。「附録」は允恭以後寶暦九年までの記録等が記されています。

     或るひと問うて云ふ、人王三十代欽明天王の時、仏法始めて弘伝す。何ぞ夫の皇后(神功皇后)の時に仏法有らんや。
     答ふ、天子の命を以て天下一統に仏法を弘通せしむるは、実に欽明を以て始めと為るなり。彼の漢土後漢第二の主明帝の時、仏法初めて度る。是れ我が朝第十一の主垂仁帝の時に当たれり。如し古の時、則ち和漢往来し、両つながら交渉を得ば、漢土に既に有るに、何ぞ聖僧等の我が朝に遊化する有るを妨げんや。
     況んや復た清賀上人の如きは、是れ持明仙人にして、石壁も礙ぐること無く、空に騰ること自在、凡情の測度すべからざるものなるをや。(以下、略)(中小路駿逸氏訳・原文は漢文)
  • 清賀や雷山千如寺伝承は、『太宰管内志』にも少なからず紹介されています。例えば同書に引用されている「雷山詔書」に次の記事が見えます。

      筑前國雷山千如寺僧等解状稱、當山者、水火雷電神之開山、神功皇后宮之御願也。 (略) 法持上人開發 (略) 建長七年三月十九日 参議忠棟源大納言殿。(『太宰管内志』筑前之三〕

     清賀が神功皇后の勅願により建立したことがふれられており、伝承の存在が鎌倉時代までさかのぼれることがわかるという

    http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu1/firstbuk.html
  • 和銅二年に創始した香春神社は、豊比口羊命のほかに辛国息長大姫大目命と忍骨命を祀る。辛国は韓国、息長は息が長いということで、ふいごの風がよく通るという説が一番有力である。大姫は神と人との間を取り持つ巫女的な存在である。大目は、たんに大きな目という意味ではない。大目はダイマナコと呼ばれる。ダイマナコはヒトツメコゾウ、あるいはイチョメドンとも呼ばれて、一つ目を云う。いわゆる金属技術者を指す「目一つの神」である。そうすると、辛国息長大姫大目命は、新羅から香春にやってきて、ふいごを使って銅を採掘し鋳造する技術者たちの信奉する「一つ目の神」に仕える巫女ということになる。

     また、忍骨命はその存在が稀薄で付け足しの感がある。

    そうすると、もともと香春岳の三ノ岳に祀られていた鉱山の女神の豊比口羊命と香春神社の辛国息長大姫大目命は同一神にほかならず、この二柱の神は実体において一つであったことになる。そこで豊比口羊命は新羅からの渡来人技術者が信奉した金属精錬の神であったことがはっきり分かる。

    英彦山は香春神社と同じ天照大神の御子・天忍骨尊(日の御子)を祀る神社。 「忍骨命( オシホネノミコト)」「シホ」は神の降臨する聖地を意味する。新羅の「御子神」である。

    『彦山権現垂迹縁起抜書』- 『熊野権現御垂迹縁起』 によっているがー、これは現在、写本しかないのですが、また変わったところがある。
    『熊野権現御垂迹縁起』では彦山のご祭神ほ水晶の形になって唐から飛んできたが、この話では五つの剣になってきたと伝えられています。剣を投げたところが、一つは彦山、一つは熊野、一つは日光、一つは羽黒、もう一つは淡路の乙鶴羽へ落ちたと書いてある。乙鶴羽は 『熊野権現御垂迹縁起』 では諭鶴羽です。これはこの五つの山の信仰上の同一性を主張する意味があった。
  • 昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。 早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、 その周辺を落合といった。大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、 田川と呼ぶようになったという。
     ところがその後、天忍骨尊(吾勝命)が英彦山に天降って来たので、大国主命は北岳を天忍骨尊に譲った。天忍骨尊は、 八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「彦山」と呼ぶようになった。
  • 射手引神社

    「筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ。庄の東北に山あり帝王山と云ふ。斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征の時、豊前宇佐島より阿柯小重に出でて天祖吾勝尊を兄弟山の中腹に祭りて、西方に国を覓(もと)め給はんと出御し給ふ時、この山路を巡幸し給ふ故に此の名あるなり。神武山」

    ここで云う阿柯小重は我鹿(赤村)の旧名であると思われる。

     田川郡に入り、田川の地をしろし召した天皇は、駒主命を道案内として、帝王越を経て嘉穂郡の地に入らせられ、夢に手力雄命の神霊を受け給ひ、猪位金村の一端、兄弟山に登って天祖の御霊を祭られたが、その神跡を帝王山といひ伝へている。天皇はここで、嘉麻(鎌)の天地をみそなはし、進んで小野谷の里(宮野村)に成らせられ、ここの岩山に高木の神を祭られた。

     赤村は吾勝野とも呼ばれその昔、天忍穂耳命がタカミムスビの娘と結婚し、この地で、田川郡一帯を統治していた。その跡地を狭野命は訪問しているのである。比較的簡単に豪族たちの協力が得られたものと判断する。
  • 日子山から改称 ーー天台と日吉神社の関連は??


    英彦山の古い記録「彦山流記」では彦山の始まりは、玉屋窟であるといわれています。彦山の開祖はこの窟で修行した、恒雄という人だったのです。恒雄は、この窟でながいあいだ一心不乱に修行を積んで、如意の宝珠(世の中の人々を救うためにたいへん役立つ不思議な力を持つ珠)を授かりました。その珠は窟の奥から小さな倶梨伽羅(竜)が口にくわえて細い水の流れにのって現れたのです。珠が出現したことから、それまで般若窟と呼んでいましたがそれを改めて、玉屋窟と呼ばれるようになりました。
    英彦山には修行のための窟が49ヵ所あったということで、いままでの調査では48ヵ所まで推定できています。まだあと1ヶ所だけ分かっていません。
    この近くに、岸壁に板碑の形を刻んでいる所があります。しかし、そこは山歩きになれた人でないと寄りつかないような場所で、地元の人たちもあまり行きません。
    英彦山の寺は、はじめ霊山時といっておりましたが、弘仁13(822)年、嵯峨天皇より、「日子を改めて彦となし、霊山を霊仙に改め、四方七里を寺の財産とし、比叡山に準じ3千の僧を置き、天台の教えを学ばしめ、70州を鎮めて海宇の豊かなることを祈れ」とお言葉をいただき、以後彦山・霊仙寺となりました。
  • 旧国幣社 玉祖神社由緒
     周防国一ノ宮として由緒深く、御祭神は三種の神器の 一つである八坂瓊曲玉を造られた玉祖命であります。玉祖命 は五伴緒神の一柱として中国地方を治められ、ここ大崎の地で 歿せられたと伝えられ社殿の北、約五百米にある玉岩窟(たまのいわや)はそ の墓所と云われています。 神社の創建はあまりにも古く 定かではありませんが、景行天皇十二年西征にあたって戦 勝祈願のため宝剣を奉納されたものが今も御神宝として 伝わっております。
     仲哀天皇・神功皇后も西征の折ご参拝になり。今の佐野焼 の始祖と云われる沢田の長に三足の土鼎と盎を作らせ米を炊 き捧げられ、また軍の吉凶を占われたことに起因すると云う 占手神事も昔ながらに伝えられ厳かに執行さされております。
     玉は洋の東西を問わず美しく尊いもので平和のシンボルと されていますが四月十日の玉の祭には全国各地から宝石・眼鏡・ 時計・カメラ業者が参拝しており、玉の祖神として、また平和 の神として崇敬されております。
    例祭 九月二十五日に近い日曜日
    玉の祭 四月十日
    特殊神事 占手神事(山口県無形文化財)
    釣垂神事
    主な宝物 重要文化財 俊乗坊重源造替目録
    大内弘幸重建目録
    毛利輝元宗広再建目録
    重要美術品 銅製巴文双雀鏡
    防府市文化財 源義経奉納吉包の太刀
    天然記念物 日本鶏 黒柏
    付近には玉岩窟・宮城の森・浜宮御祖神社・若宮社があります。
    -境内説明板-
  • 天照大神の子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、本社の御祭神の娘、栲幡千々姫命(たくはたちじひめ)が嫁ぎ、御子の瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高天原から降臨される。その神話に言う高天原がこの台地である。
    御祭神を氏神とした葛城族は、大和朝廷に先行する葛城王朝を築き、亡びた後も平群・巨勢・蘇我の豪族として栄えた。延喜の制では、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗には、官幣に預かってきた神社である

    高天彦神社前の案内看板より
  • August 2017 編集されました
    『熊野縁起』に熊野権現は北魏(あるいは唐)から英彦山へ飛来したとか、『彦山縁起』に北魏僧善正が英彦山の開山だとかある。
    英彦山は古代より神体山として信仰されていたとみられる。当社の開基については次のような伝承がある。継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が英彦山山中で修行中に日田の猟師の藤原(藤山)恒雄(こうゆう、のちの忍辱〈にんにく〉)に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという


    延暦寺第五世座主・円珍は唐から帰国後、園城寺(=三井寺)を開くが、その本尊は弥勒菩薩像であり、円珍の没後、園城寺の寺門派は、比叡山の山門派に対して、天台宗の正統性を主張する。この論拠になったものは最澄の弥勒信仰を円珍の園城寺が受け継いだことにあった。その園城寺の鎮守社・新羅善神堂のご祭神は新羅明神と称する弥勒菩薩の化身であった
  • 807年、最澄が空海の師・勤操遣わし、空海に遊行を止めて直ちに比叡山に戻るよう説得をしたが、二人は日本の将来を按じながら、香春山や英彦山などの秦王国の神々の宿る多くの山野遊行したのだろう。じっくり時間を掛けて、勤操に導かれて和泉国槇尾山寺に移り、ここで受戒している。更に山背国の高尾山寺へと入った。高尾山寺は、河内国のヌテシワケ命を祀る例の高尾社付近にあった。和気清麻呂が八幡神の託宣によって創建された神護寺(一名高尾寺 高尾社が鎮守する)を、子の真綱と仲世が山背国の高尾山に移したもので、後の神護寺である。この寺は愛宕山とともに、秦氏に関わる山岳信仰の拠点の寺である。愛宕社の神宮寺も白雲寺の開祖も、役小角と運遍上人となっているが、後者は加賀白山の開祖・秦澄のことである。道理で愛宕山は「白山権現」でもあり得る
  • October 2017 編集されました
    豊前・豊後・筑前に広がる英彦山(彦山。もと「日子」山)である。ここには英彦山社があり、香春と同じオシホネ命が祭られている。

    『彦山流記』によれば、英彦山の鷹栖の窟に鷹が来て住み、この鷹が英彦山の神の化身となったとある。

    『彦山流記』(1213年成立)は、震旦国の王子晋(弥勒の化身)が英彦山の磐窟の上に天下り、四十九窟を開き、そこに天童(金剛童子)を置いたとする。今度は「天童」(太子)である。次に『彦山縁起』は北魏僧・善正が開山と記す。先の『熊野縁起』には、熊野権現は北魏渡来とも書かれている
  • 辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)のことだった

    これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が正一位になった年よりはるかに早く、
    この「香春」という重大な意味が見えてくる。

     神社伝承で豊前の一の宮は宇佐でなく香春という記述も残る程という
    『記紀』神話には天の香具山という山が登場するのだが、神話では、銅や鉄が採れるとあるのに奈良の香具山からは何も存在しない。
    そこで本当の香具山は香春岳という説も根強く、筑豊では今、この伝承を重要視して公的団体(財団・西日本新聞など)市町村単位で多くの講演会活動を行っている。
     面白い内容がある。『日本書紀』では八咫の鏡を造るときに天の香具山の銅を取りてとあるが『古事記』では、天の香具山の真金(鉄)を取りて八咫の鏡を造ったと記述していいる。
    そこで江戸時代の国学者、飯田武郷と平田篤胤は八咫の鏡は「鉄鏡」だと江戸時代に仮説している。日田出土「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」とも関連していると私見では思う。
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