斯摩宿禰、千熊長彦 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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364年 百済人久氏ら、卓淳国を尋ね、倭国との通交を求とめる。
 366年 倭国の斯摩宿禰、卓淳国へ行き、使者を百済におくる。
 367年 千熊長彦を遣わして新羅を責める。
 369年 新羅を攻め、比自体(ひしほ)以下の7国を平定し、比利以下の4邑を降伏させる。
 372年 百済の肖古王、久氏らを倭国に遣わし、七枝刀1口・七子鏡1面をおくる。
 382年 襲津彦を遣わし、新羅を攻める。
 390年 神功皇后没年(日本書紀269年)

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コメント

  • 369年(3月31日 ~ 4月29日)日本の将軍である荒田別・鹿我別らが新羅を撃ち破った。そして 比自㶱ひしほ・ 南加羅ありひしのから・ 喙国とくのくに・ 安羅あら・ 多羅たら・卓淳・ 加羅からの七国を平定した。また兵を移して西を廻って 古爰津こけいのつに至り、南蛮の 忱弥多礼とむたれを亡ぼして、百済に賜った。そこで肖古王と王子 貴須くいすも出陣した。 比利ひり・ 辟中へちう・ 布弥支ほむき・ 半古はんこの四つの邑が自然に降服した。百済王父子と荒田別らは共に 意流村おるすきで合流し、互いに喜んだ。礼を厚くして送った。ただ千熊長彦と百済王は、百済国の 辟支山へきのむれに登って 盟ちかった。また 古沙山こさのむれに登って共に岩の上に居り、百済王が盟ってもし草を敷いて座れば、火に焼かれるかもしれない。木を取って座れば、水に流されるかもしれない。岩の上で盟うことは、永遠に朽ちないということを示す。今後は千秋万歳に絶えることはないだろう。常に西蕃と称して春秋には朝貢します」と。千熊長彦を連れて都に帰り、厚く礼遇した。また久氐らをそえて送った。【日本書紀 神功皇后摂政四十九年三月条】
  • 播磨に来た新羅の王子の未斯欣(微叱己知)

    『神功紀』九年冬十月三日の条に「新羅王の波沙寝錦(はさむきん)は、微叱己知珍干岐(みしこちとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅・かとり絹を沢山船にのせて軍船に従わせた。」とある。一方、『三国史記』には、実聖王元年(402)3月に倭国と通好して、奈勿王の子・未斯欣を人質としたが、納祗王(ヌルジワン)二年(西暦418年)の秋に王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰ったと記している。

    新羅本紀第三 実聖王 尼師今の七年(西暦408年)条には、実聖王は倭人(日本人)が対馬に基地を設置して、武器と資材・食糧を貯えて、新羅を襲おうと準備しているという情報を手に入れた。王は、倭(日本)が動き出す前に精鋭の兵を選び、敵の兵站基地を撃破しようと思ったが、部下の未斯品が諌めて言った。「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません。」これに従って王は思いとどまった。
  • 五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彦詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣国以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴国、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、国基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。
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