国造、年代順 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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大和朝廷の行政区分の1つである国の長を意味し、この国の範囲は令制国整備前の行政区分であるため、はっきりしない。地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。
朝廷への忠誠度が高い県主とは違い、国主(くにぬし)と言われた有力な豪族が朝廷に帰…

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コメント

  • ・ 崇神天皇の御代に、火国造には大分国造と同祖の志貴多奈彦命(彦八井耳命の孫で、敷桁彦命とも書く)の子の遅男江命を定めたと記されている【国造本紀】。
    設置の時代は問題であるが、遅男江命の遅男江は、【肥前風土記】に肥(火)君の祖とある健(建)緒組の行書を誤写した可能性が強く、遅男江命は健(建)緒組命と同一人物であろう。
    さらに健(建)緒組命は、日本書紀景行天皇3年2月の条に「屋主忽男武雄心命(一にいう、武雄心命)……紀直が遠祖菟道彦の女影媛を要りて武内宿禰を生ましむ。」とある屋主忽男武雄心命と同一人物視されたのではないかと思われる。もしもそうであれば、武雄神社の祭神の中の武雄心命・武内宿禰(古事記は建内宿禰と書く)と関係が生じてくる。関係というのは、武雄神社の祭神は本来は火国造らの祖の建緒組命であったものが、それを氏神とする武雄地方の豪族(武雄氏?)によって、武雄心命に改められたのでほないかということである。
  • 稲置は県主に比べて極端に少なく、畿内・東海の両地方に出雲・讃岐を加えて九か国に十四例しかなく、九州には全くないといわれてきた。稲置は屯倉に関する税長のような職名の性格が強いものである。そうすると松浦国造や松浦の県主と稲置との関係をどう解釈するかが問題である。

    末羅国は松浦国と同じで、魏志倭人伝にでる末慮国の地域で、この時代の豪族の墳墓である古墳の分布から考えて、現在の唐津市の鏡地区と浜崎玉島町とを中心として伊万里・平戸方面にも及んだ範域であろう。対外関係の要地として大和朝廷が重視した地域である。その国造には成務天皇の時に、有力な軍事団の長の一つでもある物部氏の祖の伊香賀色雄の子の大水口宿禰(足尼)の孫の矢田稲吉を任命したと記されている。この矢田稲吉は肥前風土記に出る同じ唐津地方の土蜘妹を討滅した大屋田子(風土記では日下部君らの祖とある)と同一人物ではないかと思う、大をとった場合にそう考えられる。
  • 闘鶏稲置大山主命は古事記には登場しませんが、都祁直(つげのあたい)という姓が、初代神武天皇の皇子で、二代綏靖天皇の兄にあたるカムヤイミミを祖とする系譜で登場します。闘鶏は都祁と同義、もともと直だった姓は、第十九代允恭天皇の御世に不敬があったとして稲置に格下げされたもの、といいます。

    そのため、仁徳天皇の御世では「稲置」ではなかった可能性があります。

    それはともかくとして、都祁村は 2005年4月1日に奈良市に併合されるまで実際に存在した村
  • 安寧の第三皇子シキツヒコは、
    -書紀・古事記をみると「安寧第三子磯城津彦に二柱ありて、一柱は伊賀・三野の稲置の祖、一柱は和知都美といい淡路宮に坐す。その子二柱ありて蝿某姉・蝿某弟という-

    この和知都美が淡路に宮を設けたので、「大和大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)は、兵庫県 南あわじ市 にある神社 」が祭られているのだろう。

    孝霊の妃に意富夜麻登玖禰爾阿禮比売がおり夜麻登登母 母曾毘売を産んでいる。この系譜は安寧の末子の師木津日子命の子の和知都美 命が淡道の御井宮におり、その娘が夜麻登登母母曾毘売とある。大物主神の神 妻になった倭迹迹日百襲姫は淡路嶋から来たのだ。御井宮は淡路の三原郡とい われ、そこ式内社のに大和大国魂神社がある

    吉備津彦命・稚武彦命兄弟の実際の系譜は不明な点が多く、淡路の御井宮に坐したという和知都美命(安寧天皇記に皇子の子とされる)を外祖父とし、能登・毛野氏族や彦坐王と近い親族関係があったものとみられる。この氏族が大王族・磯城県主族と密接な親姻族関係をもったという事情から見て、吉備地方古来の氏族とするよりも、大和から播磨西部を基地として進出した氏族とみるほうが妥当と思われる。
  • 参考:大和宿禰。神知津彦命より出る也。神日本磐余彦天皇日向国より大和国に向い、速吸門に到るとき時・・・・・即ちひきて皇船に入れて海導と為し給う。仍って神知津彦(一名椎根津彦)と号く。能く軍機の策を宣しければ、天皇之を嘉し給い、大倭国造に任じ給う。是れ大倭(宿禰)の始祖也。(氏姓録)
  • 平田の曽我山古墳は、高知県下でただ一つの前方後円墳であるとともに県下最大の古墳でもある。
    この古墳からは銅の鏡や鉄の剣が出土しているが、その主は波多国の国造であった天韓襲命であろうと考えられている。
    高知県は、昔は都佐国と波多国に分かれていた。
    国造は土着の人間ではなく、おそらく特別な人事として中央から派遣されて来たものだろう。
    韓襲という字から考えてもどうも韓国と関係がありそうである。 当時の韓国文化は日本文化よりかなり進んでいた。
  • 大分国造(肥)

    大分国造は大分国(現・大分県大分市、大分川流域)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)の国造名列記の項には欠落して名が無いが、火国造の項には大分国造と同祖とあり、また天孫本紀には高屋大分国造との名が見え、日本書紀によると神武天皇(初代)の頃に国造が設置されたようであるが、場所も国造系譜も定かではない。
    大分国造の系譜を引くのは大分君(おおきだのきみ)であるとされ、記紀等に見える地方豪族で、古事記の神武記には神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とし、その第2子で火君・阿蘇君・筑紫連三潴と兄弟である建弥阿久良命(たけみあくらのみこと、建彌阿久良命)が初代(高屋)大分国造だろうと考えられている。

    大分市木ノ上にある御陵古墳の被葬者は大分君宗家の墳墓だとも言われている。
  • 九州・四国地方で多氏族と称する諸姓氏は、本来、多臣とは別流で、宇佐国造同族の武国凝別命の族裔ではないかと推される

    武国凝別命の子の大笠別命が大分国造・日向国造の祖、建緒組命が火国造・筑紫国造・讃岐国造・針間国造・粟国造・伊予国造等の祖であったとみられる。武国凝別命と同人(あるいは兄弟)ではないかとみられる健磐竜命の子が速甕玉命で、阿蘇国造の祖となっている。
  • 日羅
    火葦北国造刑部靫部・阿利斯登ひのあしきたのくにのみやつこおさかべのゆけひありしとの子。官位は達率(百済の官位十六階の第二)


    火葦北は、今の熊本県の宇土半島や氷川より南の不知火海南部沿岸の地。国造は大和王権が地方官として地方豪族を任命した官名で、6世紀に制度化。刑部(おさかべ)は允恭大王のときに后の忍坂大中媛(おしさかおおなかつひめ)のためにに定められた名代部、つまり忍坂部。
    したがって、阿利斯登は在地では忍坂部を管理してその生産物を大王家に届け、中央でひゃ宮廷の警護などをする靫大伴部に出仕した葦北の豪族。
    阿利斯登は新羅が加耶諸国を侵そうとした537年(宣化2年)、大伴金村の命令で大伴狭手彦(おおとものさでひこ)に従って朝鮮半島に渡った武将。阿利斯登はその後帰国せず、百済の女性に産ませた子が日羅である。
  • 国郡の造長・県邑の稲置・・・古事記では「国造」「県主」とおなじみの単語で記している。国郡の造長は「国造」を連想させるが、県邑の「稲置」(イナキ)は「県主(あがたぬし)」とは似ても似つかない。
     『随書』の「倭国伝」には、開皇20年(600年)のこととして、「軍尼(クニ)、120人あり。中国の牧宰(知事)のごとし。80戸に一伊尼翼(イニキ)を置く。今の(中国の)里長の如し」との記述があり、国(軍尼)造120人の下部組織として、80戸ごとに「稲置」が置かれていたと見えるので、あるいは「稲置」の設置の方が古いのではないかと思えるが、稲置系の地域(たとえば九州)と県主系の地域(たとえば近畿)とが同時に並立して存在していたとも考えられる。
  • 国造が大王から与えられた姓(カバネ)は、

    畿内及び周辺諸国の直姓国造
    吉備や出雲の臣姓国造
    山陽道の一部と南海道の凡直(おおしのあたい)姓国造
    東海・東山の御名代の伴造(とものみやつこ)姓国造
    東の毛野(けぬ)、西の筑紫・豊・肥の君姓国造
  • 07/25編集されました
    肥前国風土記と肥後国風土記逸文によると、益城郡(ましきぐん)の土蜘蛛(つちくも)が天皇に背いたので、10代崇神天皇が健緒組命(たけおくみのみこと)に討たせた。
     その後、健緒組が国内巡察して白髪山(しらかみやま、1,244m、球磨郡五木村)に着いたとき、夕暮れ空に火が燃え上がるのを見て、驚いて天皇に報告した。天皇は「火の下る国であるから火の国というべし」と云われ、健緒組に「火の君」の姓を賜った。
     健緒組は佐賀県武雄市の武雄神社(祭神:武内宿禰、武雄心命ほか)と繋がりがあるようだ。武雄神社の本来の祭神は健緒組命であったとも云うが、健緒組命は武雄心命(武内宿禰の父)であるとも云う。健緒組は年代的には武雄心の父の家主忍男かもしれない。

    健軍神社
    欽明天皇19年(558年)に阿蘇神社の大宮司に神託があり、同神社を勧請して、異賊鎮退のため西に向けて社を建て社号を「健軍」(たけみや)と称したという。
     由緒板には、「欽明天皇(二十九代)十九年勧請の由来は、阿蘇神社神事祭祀執行の折々国司(藤原法昌)阿蘇神社へ供え物等運送するに夏は洪水旱魃、冬は、雪霜早く降りて五穀不熟を憐れみ、或る年冬十二月十三日国司阿蘇宮参詣の時此の原にて俄の大雪道路を塞ぎて進退に窮り椎の樹下に野陣を張り遙拝して国司心底に阿蘇大神を勧請し老弱者阿蘇参詣の労を救えればと念願なるに五更(現在の四時頃)の頃に至り三歳ぐらいの童子忽然として石上に現れ国司に向かい「汝阿蘇大神を尊信し二心なく厳寒積雪を厭はず此に来たりあまるに衆人遠路の労を憐れみ大神を此の地に勧請せんと願う神明何ぞ感応せらんや宜しく此処に勧請すべし、然るに阿蘇宮は皇城鎮護の為東に向かい当社は夷賊新羅鎮退の為西に向かい健軍(たけみや)と号すべし汝に託す吾則阿蘇大神也」と宜り終えて去り給ふ国司驚き感じ此由、見聞に依って、直ちに社宇を造建し阿蘇大神の荒霊を鎮祭して健軍社と号す。(文化四年の古文書より抜粋)」とある。
     健軍神社は、健軍宮(たけみやぐう)

    御祭神(健磐龍命から彌比咩命は「阿蘇十二神」)
     ・健緒組命(たけおぐみのみこと)【健軍大神】・・・[火国造の祖・阿蘇大神の外祖]
     ・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・・・[造化三神・別天津神]
     ・仲津彦神(なかつひこのかみ)
     ・仲津姫神(なかつひめのかみ)
     ・健磐龍命(たけいはたつのみこと)・・・[神八井耳命の御子、神武天皇の御孫]
     ・阿蘇津姫命(あそつひめのみこと)・・・[健磐龍命の妃]
     ・神渟名川耳命(かむぬなかはみみのみこと)【綏靖天皇・神沼河耳命】・・・[神武天皇の御子]
     ・日子八井命(ひこやゐのみこと)【草部吉見神・國龍命】・・・[神武天皇の御子]
     ・國造速瓶玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)・・・[建磐龍命の御子神]
     ・比咩御子命(ひめみこのみこと)・・・[國龍神の妃]
     ・彦御子命(ひこみこのみこと) 【惟人命】・・・[健磐龍命の御孫]
     ・若比咩命(わかひめのみこと)・・・[彦御子神の妃]
     ・新彦命(にひひこのみこと)・・・[國龍神の第一の御子]
     ・新比咩命(にひひめのかみ)・・・[新彦神の女神]
     ・若彦命(わかひこのみこと)・・・[新彦神の御子・新比売神の弟神]
     ・彌比咩命(やひめのみこと)・・・[新彦神の妃]
  • 阿蘇惟敦の記した「阿蘇家伝 六」の笹原系譜、市原系譜等に健緒組命が記載されている。

    具体的には阿蘇家本では健磐龍命--速瓶玉命-惟人という譜に対して
    笹原系譜では阿蘇大明神健磐龍命--国造大明神速瓶玉命--郡浦大明神--甲佐大明神--健男玉命-健軍大明神健緒組命-惟人命となっている。
    市原系譜では阿蘇大明神--国造大明神--速神玉命--速甕男命--神八彦命--健速玉命--健玉彦命--大池主神--健津彦神--速彦麿神--甕男人神--健男玉神--健男組神--惟人神
    となっている。
    健緒組命の父が健男玉神となっているところが気になるところだ。
  • 健軍神社の住所は健軍村竹宮と呼ばれていた時代があり確かに竹林が周りを囲んでいた。

    この健軍神社の本当の祭神は健緒組命(たけおくみのみこと)という話がある。
    健軍神社の入口の由緒書きの立て看板にも健軍大神(健緒組命)と書かれている。

    肥前風土記によると
    崇神天皇の御代に熊本の益城の朝来山に拠点を持つ土蜘蛛を
    健緒組命が天皇の命令により討滅した。
    その帰りになぜか国道443号線の道を辿らず
    遠回りの445号線の道を歩み八代の白髪岳あたりで日没となったそうだ。
    その時、大空に霊的なかがり火が現れたという。
    たぶん不知火のことではない。
    健緒組命は崇神天皇にその不思議を奏上し、
    天皇はそれゆえにこの国を「火国」と名付け、
    健緒組命を火君として「火国造」に任命し統治させたという。
    この統治した都が今の健軍神社あたりだということになる。
    古い時代の肥後の国造は火国・葦北・阿蘇の三つで
    吉備津彦命の子の三井根子命が初代葦北国造となり
    その子供が大伴金村の命で軍を率い任那を制圧した阿利斯等でさらに日羅と続く。
    それから阿蘇国造の方は健磐龍命の子とされる速瓶玉命が初代阿蘇国造となっている。
    ただこの三つの国造の中では「阿蘇国造」が最初だろうと思われる。

    また風土記の記載では火国造は天皇の配下のごときの記載だが実際は健緒組命は偉大なる『天子』であった可能性が高い。
    ところが健緒組命として祭祀する神社は健軍神社一社しかない。
  • 武内宿禰の父、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと、生没年不詳)

    3世紀から4世紀頃の日本の皇族。彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の王子で第8代孝元天皇の孫に当たる。莵道彦(うじひこ/宇豆比古)の娘影媛(かげひめ)を妃とし武内宿禰を儲ける。古事記で武内宿禰は彦太忍信命の王子となっており、屋主忍男武雄心命は登場しない。
    日本書紀景行紀に景行天皇3年2月1日に、景行天皇が紀の国に行幸し、神祇を祀ろうとしたが、占いによると吉と出なかったため、命が天皇より紀の国に派遣され、阿備の柏原で神祇を祀り、同地に定住して紀直の後裔莵道彦の娘影媛を娶り、武内宿禰が生まれたとある。 また高橋氏文に、磐鹿六雁命が卒した際、宣命使として遣わされた「武男心命」が見え、あるいは同一人物か。

    別の書では
    崇神天皇の御代に、火国造には大分国造と同祖の志貴多奈彦命(彦八井耳命の孫で、敷桁彦命とも書く)の子の遅男江命を定めたと記されている【国造本紀】。
    設置の時代は問題であるが、遅男江命の遅男江は、【肥前風土記】に肥(火)君の祖とある健(建)緒組の行書を誤写した可能性が強く、遅男江命は健(建)緒組命と同一人物であろう。さらに健(建)緒組命は、日本書紀景行天皇3年2月の条に「屋主忽男武雄心命(一にいう、武雄心命)……紀直が遠祖菟道彦の女影媛を要りて武内宿禰を生ましむ。」とある屋主忽男武雄心命と同一人物視されたのではないかと思われる。もしもそうであれば、武雄神社の祭神の中の武雄心命・武内宿禰(古事記は建内宿禰と書く)と関係が生じてくる。関係というのは、武雄神社の祭神は本来は火国造らの祖の建緒組命であったものが、それを氏神とする武雄地方の豪族(武雄氏?)によって、武雄心命に改められたのでほないかということである。 武雄市史上巻 昭和56年

    武内宿禰の武の美称ですが、阿蘇氏に顕著に見られる美称であり阿蘇氏の歴代の当主が引き継いできたものと思われます。
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