秦氏、阿知王、東漢氏 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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漢氏の起源は、高祖劉邦の漢帝国を西暦二十五年に再興した劉秀(光武帝)から九代目 の後漢霊帝と言われる。戦乱で朝鮮半島(帯方郡)へ逃れた漢王二十九代阿知王は、その 子都賀使王及び七姓氏・十七県人を率いて289年9月5日に備中国窪屋郡大倉谷に渡来 する。

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  • 5世紀の前半、朝鮮半島南端の阿邪加耶(あやかや)とか安羅加耶(あらかや)と呼ばれた国からこの地に移り住んだ人々がいた。彼らは特に血縁関係のない小さな氏族集団にすぎなかったが、出身地や居住地を同じくしたことから、次第に同族意識を高め、やがて東漢(やまとのあや)氏を名乗るようになった。

    『日本書紀』は、応神天皇20年9月に、東漢氏の祖・阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が渡来し、檜隈郷の地が与えられたと記されている。しかし、東漢氏は単一の氏族ではない。文(ふみ)氏、民(みたみ)氏、坂上(さかのうえ)氏、谷氏、内蔵(くら)氏、長氏など多くの支族によって構成される渡来系氏族の総称である。檜隈やその周辺に住み、蘇我氏のもとで、大和政権の外交・財政・軍事などに深く関わって成長してきたとされている。彼らは一族のアイデンティテイとして共通の祖先渡来神話を作り上げた。それが、この阿知使主・都加使主父子の渡来伝説だったとされている。
  • 平安時代初期に征夷大将軍に任ぜられ蝦夷征伐に活躍した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、東漢氏の支族の一つである坂上氏の出だ。その父である坂上刈田麻呂(かりたまろ)は、奈良時代の天平宝字8年(764)に起きた恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で活躍し、一族の隆盛を決定づけた人物として知られている。刈田麻呂が宝亀3年(772)4月に朝廷に提出した上表文が今に伝わっている。その中で、刈田麻呂は高市郡司に同族を任ずべき由縁を綴っている。その理由として、「およそ高市郡内は檜前=檜隈忌寸および(渡来した)17県の人々が、地にみちあふれるほど居住し、東漢氏につらならない姓の者は十のうち一か二に過ぎない」と述べている
  • 岡山県倉敷市に阿智神社がある。

    4世紀,応神天皇の時代,社記によると岡山県倉敷一帯(倉敷市の美観地区)は阿知潟
    あるいは吉備の穴海と呼ばれていて,その中の小島(内亀島,現在の鶴形山)に漁民が社 殿を奉祀したのが阿智神社とされている。東漢氏の祖である阿知使主(あちのおみ)とそ の子の都加使主(つかのおみ)が漢人を率いて帰化し,一部がここに定住した。帰化する にあたって帰属意識を明らかにするために,日本古来から伝わる盤座(神が岩に宿る思想) や磐境を設けたとされる。この思想に中国の神仙思想が導入された。盤座は日本庭園の石 組みの起源をさぐる貴重な存在とも言われている

    阿知使主が帰化したときに連れてきたという「七 姓の漢人」の子孫と、その後に、阿知使主の旧居地帯方にすむ人民はみな才芸ありとして 連れてきたものの子孫とをあわせて、三十以上の村主姓(すぐりせい)の諸民が付属して いた。
  • 漢高祖劉邦
    光武帝(AD25年 漢を再興) 後漢霊帝(光武帝から九代目) 献帝
    石秋主
    康王
    阿知王 (魏の乱を避け朝鮮帯方へ逃れる、漢王から二十九代目) 都賀使主、七姓氏・十七県人を率いて AD289年9月備中国窪屋郡大倉谷に渡来。東漢の姓と臣の位を賜り斉蔵(大蔵)の長官に任せ られ、奈良県高市郡飛鳥村桧隈に住まう。
    阿多倍
    東漢直掬(雄略天皇 427-489 時代)
  • 正史上における津史(ツノフヒト)の初見は、書紀・敏達3年(573)に記す、
      「冬十月十一日、船史王辰爾の弟、牛に詔して、姓を賜って津史とされた」
    の記事で、その後、淳仁朝・天平法字2年(758)に連(ムラジ)の姓を賜り、桓武朝・延歴9年(790)、勅により菅野朝臣の姓を賜っている(続日本紀)。
     新撰姓氏禄には、これら3氏について、
     ・右京諸蕃(百済) 葛井宿禰  菅野朝臣同祖  塩君男味散君之後也
     ・右京諸蕃(百済) 船連     菅野朝臣同祖  大阿郎王三世孫智仁君之後也
     ・右京諸蕃(百済) 津宿禰    菅野朝臣同祖  塩君男麻呂君之後也
  • 畿内とその周辺の地域における秦氏の分布

    山城・河内のほか摂津・近江・播磨でかなり稠密である。このうち、播磨の秦氏については系統が不明であるが、近江の秦氏は葛野の秦河勝の子の田来津が愛智郡に住んで依智秦公の祖となり、同郡大国郷及び浅井郡湯次郷を中心に繁衍したものである。このほか、近江には簀秦画師、秦大蔵忌寸、秦倉人、秦忌寸などの居住が知られる。
      摂津国では、豊島郡が秦氏の中心地で、同郡には秦上郷・秦下郷(池田市を中心とした一帯)があったが、葛野に遷住した意美の子の知々古が豊島郡の秦井手忌寸の祖とされる。これらのことから、山城以前の秦氏では河内の幡多郷を重視せざるをえない。
     河内の太秦・秦一帯には、後鳥羽天皇に召された刀工秦行綱の宅址と伝える地があり(秦小字鍛冶屋垣内)、大字秦には秦川勝の後裔と称する西島(もと大津父)・平田・茨木の三旧家があり、旧村社八幡神社の宮衆を勤めている(今井啓一著『帰化人』95~7頁)。
  • September 2018 編集されました
    長府、蚕種渡来之地
    秦の始皇11世の子孫功満(こま)王が来朝帰化し、ここ豊浦宮にご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を献上したのが、わが国養蚕の始まりと云われている

    弓月国の功満王が万里の長城の建設の苦役に耐えかねてシルクロードの終点で渡来人で溢れていた新羅(慶州)にやってきた。定住する場所を探し求めていた時誘ってくれたのが九州で王朝を開いていた仲哀天皇であった。仲哀8年(358年)正式に会見して彼らの受け入れを了解したものと思われる。

    秦功満王と仲哀天皇の約束から十数年後の372年(応神期)王の子息、融通王が18,670人を率いて日本にやってきて帰化している。

  • 聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始されたが、宇佐八幡宮から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」という協力の託宣を出した。しかし、実際の対応は豊前国では無かった。銅は長門国の長登銅山産を使用した。また、平安時代末期、東大寺が消失した際、その再建にあたっては周防国が御造料地と定められた。
  • 玉野の金甲山と坂上田村麻呂
    由加山に住みついた鬼どもは、夜な夜な人里におりて強盗を働き、女や子供をさらうという悪事の限りをつくした。

    村の人は都へ鬼征伐を願い出た。時の御門は有名な坂上田村麻呂をつかわした。御門の命を受けた田村麻呂は山田に上陸し、神の峯(金甲山)の麓にあった円通寺の竜王さまにお願いして必勝を祈願したうえ、苦心さんたんした末、由加山の鬼を退治した。

    そこで、田村麻呂は神さまのご援助のお礼として自分のきていた金の甲を竜王さまに奉納したのである。そのため、神の峯のことを人々は金甲山と呼ぶようになった。

    一説に、坂上田村麻呂は児島の通生に上陸して鬼を退治したといわれている。

    それでは坂上田村麻呂とはどんな人物であったのか。阿知使主の裔である苅田麻呂の子であり、眼は鷹の如く、ひげは黄金の糸のようであった。怒れば猛獣も恐れ、笑えば赤子もなついた程であったという。

    蝦夷征伐のほか、薬子の乱に勲功があり、位は正三位にすすみ、官は大納言に及んだ。嵯峨天皇の弘仁二年、五十四才で死に、天皇は哀惜して、従二位を贈った。そして山城国に葬った。これを将軍塚という。

    田村麻呂は伝説の多い人物で、国家に事ある毎にこの墓は鳴動するといい伝えられている。

    「玉野の伝説」
    著者:河井康夫
    発行:昭和53
  • September 2018 編集されました
     坂上氏が歴史の表舞台に現れるのは、壬申の乱で東漢氏一族がこぞって大海人皇子(吉野朝廷)に味方し、そのなかでも坂上氏の軍事的活躍はめざましく、たとえば大伴吹負(ふけい)と共に飛鳥古京に攻め入り、古京を陥れ大友皇子(近江朝廷)の有力な拠点を、逆に大海人皇子側のものとしました。この功により坂上氏一族は昇進し、田村麻呂の祖先である坂上老(おゆ)は直広壱(ちょくこういつ、正四位下に相当)の位を与えられました。
      祖父の犬養(いぬかい)は造東大寺司長官正四位上左衛士督(さえじのかみ、京内宮中の警護の責任者)兼左右馬監(めげん)兼播磨守(はりまのかみ)といった四つの職を兼ねた高官にまで昇進し、最後は大和守に任命され、出身地である高取町に所在する大和国府の長官として赴任し、故郷に錦を飾りました。
      父親の刈田麻呂(かりたまろ)は、陸奥鎮守将軍、安芸守、丹波守、越前守、右衛士督兼下総守(しもふさ)兼左京太夫などを歴任し、従三位の地位まで到達しました。また娘を天皇の後宮に入れ内親王が生まれています。刈田麻呂は大和国高市郡(たけちぐん、現在の高市郡・橿原市のほぼ全域と大和高田・御所両市の一部)の郡司(ぐんじ)に同族の檜前忌寸(ひのくまのいみき)を任命されるように上奏し認可されており、譜第の高市県主(たけちのあがたぬし)を差し置いて同族を郡司にできる力を高市郡におよぼしていました。

    坂上刈田麻呂
    坂上田村麻呂の父。坂上犬養の子。
    桓武天皇の御代、右衛士督に任ぜられ、伊予守・備前守・下総守・越前守を兼任。
    一説に、阿知使主の末裔で鉄鉱及び水銀採掘の犬一族の神。
  • 坂上氏の系譜

    坂上氏系図によれば坂上直姓の初代は東漢氏の坂上直志拏[3]。東漢氏は後漢霊帝の後裔と称し、応神天皇の時代に百済から日本に帰化した阿智王(阿知使主)を祖とすると伝わる。後漢の最後の皇帝、献帝の子といわれる石秋王の子が阿智王(阿智使主)で、その後、「高尊王―都賀直―阿多倍王」と続き、阿多倍王の孫が、坂上氏初代の志拏であるという(別説では「阿智使主―都加使主」の子ともされる)。
    坂上志拏には坂上志多、坂上刀禰、坂上鳥、坂上駒子らの子があった。その子孫が坂上田村麻呂である。大蔵氏と同族。

    後漢霊帝━延王━石秋王━阿知使主(阿知王)━都加使主(高貴王)━坂上志拏直━坂上駒子直━弓束直━
    首名直━老━大国━犬養━苅田麻呂━田村麻呂

    田村麻呂┳長男大野━氏高━樹並
        ┣次男広野┳峯雄━峯益━行松━高時
        ┃    ┗当道━広道━國当━恒蔭━範親━定成━範明━明兼
        ┗三男浄野━当道━好蔭━是則━望城━厚範━範親━定成━範政━明兼

    『新撰姓氏録』逸文では、都賀使主から3腹の氏族が分かれたと記されるが、これについては事実ではなく、複数の渡来系集団が後世に擬制的同族結合を結んだ際に架上されたものと考えられている。
    また、『日本書紀』において「都加使主」と「東漢掬」とが異なる時期に記述されることについては、「東漢掬」の人物名が遡及して東漢氏の祖先伝承に組み込まれ、「都加使主」の伝承が形成されたとする説が挙げられている。
  • 坂上氏の本拠地は大和国添上郡坂上である

    都加使主(つかのおみ)または東漢 掬[2](やまとのあや の つか)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。

    『日本書紀』では「都加使主」「東漢直掬(やまとのあやのあたい つか)」「東漢掬直」、他文献では「都賀使主」「都賀直」とも表記される。「使主」は敬称。

    倭漢直(東漢氏)祖の阿知使主(阿智王)の子とされる渡来人である。
  • 日本書紀』応神天皇20年9月条では、倭漢直の祖の阿知使主およびその子の都加使主が、自分達の党類17県を率いて来朝したと見える。

    次いで応神天皇37年2月1日条によれば、阿知使主と都加使主は呉(中国の江南の地)に縫工女を求めるため遣わされ、呉王から兄媛・弟媛・呉織・穴織を授けられた。応神天皇41年2月に阿知使主らは呉から筑紫に至り、そこで胸形大神(= 宗像大神)の求めに応じて兄媛を同神に献上した。そして残る3人を連れて帰ったが、既に天皇は崩じていたため、大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に3人を献上したという。

    さらに雄略天皇7年条によれば、天皇は大伴室屋に詔して、東漢直掬(東漢掬直)に命じて新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを上桃原・下桃原・真神原の3所に遷居させたという。また雄略天皇23年8月7日条によれば、天皇は大伴室屋・東漢掬直に遺詔し、皇太子(のちの清寧天皇)を援けて星川王(星川皇子)を滅ぼさせている。
  • September 2018 編集されました
    坂上系図」所引『新撰姓氏録』逸文では、東漢氏の多くの支族(62氏)が都賀使主から分かれた旨が記される。

    『新撰姓氏録』(抄録)では、次の氏族が後裔として記載されている

    右京諸蕃 檜原宿禰 - 坂上大宿禰同祖。都賀直の孫の賀提直の後。
    右京諸蕃 内蔵宿禰 - 坂上大宿禰同祖。都賀直四世孫の東人直の後。
    右京諸蕃 山口宿禰 - 坂上大宿禰同祖。都賀直四世孫の都黄直の後。
    右京諸蕃 平田宿禰 - 坂上大宿禰同祖。都賀直五世孫の色夫直の後。
    右京諸蕃 佐太宿禰 - 坂上大宿禰同祖。都賀直三世孫の兎子直の後。
    右京諸蕃 谷宿禰 - 坂上大宿禰同祖。都賀直四世孫の宇志直の後。
    右京諸蕃 畝火宿禰 - 坂上大宿禰同祖。都賀直三世孫の大父直の後。
    右京諸蕃 桜井宿禰 - 坂上大宿禰同祖。都賀直四世孫の東人直の後。
    右京諸蕃 文忌寸 - 坂上大宿禰同祖。都賀直の後。

    『新撰姓氏録』逸文では、都賀使主から3腹の氏族が分かれたと記されるが、これについては事実ではなく、複数の渡来系集団が後世に擬制的同族結合を結んだ際に架上されたものと考えられている。

    また、『日本書紀』において「都加使主」と「東漢掬」とが異なる時期に記述されることについては、「東漢掬」の人物名が遡及して東漢氏の祖先伝承に組み込まれ、「都加使主」の伝承が形成されたとする説が挙げられている。
  • 坂上志努:東漢掬の中腹(次男)。坂上氏祖。
    坂上駒子:志努の子。
    坂上弓束:駒子の子。
    坂上首名:弓束の子?系図によってはいない。
    坂上国麻呂:弓束の子?首名の子?
    坂上老:弓束の子?首名の子?
    坂上大国:老の子。右衛士大尉。7世紀末から8世紀前期の人。
    坂上犬養:大国の子。8世紀前期から8世紀後期の人。正四位上。武勇を聖武天皇に愛された武人。
    坂上苅田麻呂:犬養の子。従三位。中衛府中将。藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を鎮圧した将軍。
    坂上石津麻呂:苅田麻呂の子。
    坂上広人:苅田麻呂の子。
    坂上田村麻呂:苅田麻呂の子。征夷大将軍。正三位。大納言。蝦夷平定を成し遂げた将軍。没後贈従二位。
    坂上正野:田村麻呂の子。右兵衛督。清水寺別当。従三位。
    坂上滋野:田村麻呂の子。
    坂上継雄:田村麻呂の子。
    坂上広雄:田村麻呂の子。
    坂上高雄:田村麻呂の子。
    坂上高岡:田村麻呂の子。
    坂上高道:田村麻呂の子。
    坂上春子:田村麻呂の子。桓武天皇の后。葛井親王の生母。晩年は弟の広野を頼り、平野庄に住み、坂上氏の尼寺の長寶寺を開いたと伝わる。
    藤原有方母:田村麻呂の子。藤原三方室
    坂上鷹主:苅田麻呂の子。
    坂上貞守:鷹主の子。丹後守。美濃国の徳山氏の祖と伝える。武人として名声があった。
    坂上鷹養:苅田麻呂の子。相賀荘領主。大和守。従三位。相賀八幡神社を創建。
    坂上氏勝:鷹養の子。
    坂上瀧守:氏勝の子。右近将監。大和守。貞観時代の武人で清和天皇の信頼が厚かった
  • September 2018 編集されました
    坂上浄野:田村麻呂の子。右兵衛督。正四位上。陸奥国安達郡に住す。子の坂上当宗、孫の坂上良宗はいずれも鎮守府将軍となり武威を保つ。
    坂上当宗:浄野の子。
    坂上良宗:当宗の子。
    坂上当峰:浄野の子。
    坂上当道:浄野の子、あるいは広野の子の清野の弟。左兵衛佐。陸奥守。生没年は813年‐867年。摂津国平野庄の杭全神社を創建したと伝わる。

    杭全神社
    貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道が牛頭天王を勧請し、社殿を創建したのが最初と伝えられている。

    以降、建久元年(1190年)に熊野證誠権現(伊弉諾尊)、元亨元年(1321年)には熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請合祀し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の勅額を賜り、熊野権現社の総社とされた。

  • September 2018 編集されました
    坂上氏系図の概略では

    漢高祖皇帝・・・・・阿智王(阿知使王)----坂上犬養ー苅田麻呂-田村麻呂

    となっていて、祖とする阿智王は応神天皇時代(270年~310年)に百済から日本に帰化したといわれています。

    田村麻呂が創建したという清水寺(京都市東山区)に残る平安後期編纂(へんさん)の「清水寺縁起」に墓の位置が記されていた。
    墓の場所は「縁起」にある弘仁2(811)年10月17日付の朝廷の命令書「太政官符(だじょうかんぷ)」の表題に記されていた。行政の最高機関が土地を管理する民部省に送った文書で、田村麻呂の墓地に「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があった。この場所は平安時代の図を基にした「山城国宇治郡山科地方図」と照合すると、今の山科区西野山岩ケ谷町にあたり、西野山古墓の場所と一致するという。

    西野山古墓

    清水寺から南東約2キロの山科盆地西部にある。8世紀後期から9世紀前期と見られ、田村麻呂の時代と一致する。大正8年に墓穴が見つかり、内部から、武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が出土している。

     こうした研究から時代と位置と身分が一致し、田村麻呂の墓と特定した。古墓の南東約1.5キロには、地元で「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる史跡があり、坂上田村麻呂公園になっている。

    遺物は1953年に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)が所蔵している。6日から7月8日までの「京大の至宝」展で初公開する
  • September 2018 編集されました
    『播磨国風土記』の揖保郡大田の条
    その里の名の由来が説明されている。
    昔、呉の勝というものが韓国から渡来してきて、最初は紀伊の名草の郡大田(和歌山市おおた、日前神宮の西の地)に到着した。その後そこから分てた連中が、摂津の国の三嶋の賀美郡の大田(大阪府茨城市の北部)に移った。その連中は更に播磨国の揖保郡の大田(揖保郡太子町大田)に遷ってきた。そこに紀伊の国の大田の地名をつけた。という

    推古天皇が播磨国の水田百町を聖徳太子にたまわったので、太子町鵤にある斑鳩寺に納入したという記事がある。


    『峯相記』によると
    聖徳太子が推古天皇から水田三六一町(後の鵤庄)を施与された際、斑鳩寺も創建されたという。


    天平十九年(747)の法隆寺資財帳によると
    推古天皇六年に、法隆寺に施入された播磨国佐西地50万代は法隆寺領の鵤庄の前身とみられている。

    茨木市大田鎮座の太田神社について『大阪府史蹟名勝天然記念物』から
     土俗大神宮と称せり。西南字太田山にあり。創建の年月不詳。播磨風土記には呉勝の裔として、太田の原を帰化民族とすれども、新撰氏姓録摂津神別に中臣藍連同神(天兒屋根命)十二世孫大江臣之後也、中臣太田連同神十三世孫御身宿禰之後也、とあり、而して安威、太田、耳原等の土地相接して存するを見れば蓋しこの太田連が其の祖神を祀りしものとなるべし。

     これから見ると祭神は天児屋根命と云うことになろうか。

     また太田の東方には、弥生後期~古墳時代中期の「太田遺跡」があり、竪穴住居跡、大量の埴輪、鉄製利器・須恵器・銅鐸などが出土してます。これらの出土品からでしょうが太田田根子を祭神とする説もあるようです。
     
     『播磨国風土記』(揖保郡大田の里)の条の、始め呉の勝が紀伊の国の名草の郡の大田の村についた。その後、分かれて来て摂津の国の三島の賀美の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。
    の中間の場所です。茨木市近辺の古墳の中には紀の川沿いでとれる緑泥片岩が使用されているものもあり、明らかに紀の国との関連がありそうです。
  • 皇極4年(645)の乙巳(いっし)の変

    漢直(東漢直)らが族党をすべて集めて、武装して蘇我蝦夷のために軍陣を設け、壬申の乱(*)には大海人皇子側
    の軍勢に、書直智徳・同 成 覚・ 民 直大火・同小鮪・大蔵直広隅・坂上直国麻呂・同熊毛・
    同老・路直益人・長尾直真墨・倉墻直麻呂・谷直根麻呂・蚊屋直木間らが加わり、また「一、 ふけい
    二の漢直」らが、大伴吹負・坂上熊毛の密計により、大海人皇子側に寝かえっている。これに対して大友皇子の陣営には書直薬・忍坂直大摩侶・谷直塩手が属し、まさに骨肉相食 む形で戦闘に参加している。

    天平宝宇8年(764)の恵美押勝の乱

    には坂上苅田麻呂が軍 功をあげ、押勝を湖上で捕らえその首を斬った石村村主石楯(いわれのすぐりいわたて) も、「系図」逸文に阿知使主の「本郷の人民」の裔を記す村主姓氏族中の一氏である。押勝 の乱の後には、賊と戦い、内裏に宿衛した檜前忌寸二百三十六人にそれぞれ爵一級(位一 階)が与えられている。奈良時代から平安時代にかけて、犬養・苅田麻呂・田村麻呂の三 代の著名な武人を出した坂上氏は「家は世々弓馬を事とし、馳射を善くす」「家は世々武と 尚び、鷹を調え馬を相る」と特記された武芸の名門である。
  • September 2018 編集されました
    阿知王ーー阿多倍王

    狩場明神は二匹の犬を連れた狩人の姿の神で、弘法大師を高野山に導き、高野山開山を助けたとされ、高野山境内にも祀られています。
    狩場明神は高野山とその周辺を領地としていた豪族、丹生氏の氏神であり、蝦夷征伐で有名な田村麻呂はこの神野々の出身とされています。狩場明神の信仰が遠い古代だけではなく今日にも続いていることが分かる興味深い例です。

     社伝によれば、天授阿多倍王は津加使主のことにして狩場明神の初代に当たり、田村麻呂は分家の武将とされています。

    空海をめぐる伝説を記録した「空海僧都伝」や「金剛峯寺建立修行縁起」などによると、丹生都比売は息子の高野明神(狩場明神)と白黒2頭の犬を遣わして空海を高野山へ導き、社領の一部を譲ったのだという。丹生都比売は各地で丹(朱砂、水銀の原料)を支配した一族が祀る女神で、高野山一帯の有力者が、空海を支援したことをうかがわせる伝承である
  • September 2018 編集されました
    阿倍 仲麻呂[698~770] 奈良時代の遣唐留学生
      唐で国家の試験に合格し唐朝において諸官を歴任して
       高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。
    空海[774~835]
      804(延暦23)年、留学僧として入唐。留学20年の予定だったが
       2年後帰国して密教を伝える。
    なるほど、空海は30歳のときに入唐しているわけですから、阿倍仲麻呂没後30年に唐にいたということになります。
  • 空海と坂上田村麻呂

    空海をめぐる伝説を記録した「空海僧都伝」や「金剛峯寺建立修行縁起」などによると、丹生都比売は息子の高野明神(狩場明神)と白黒2頭の犬を遣わして空海を高野山へ導き、社領の一部を譲ったのだという。丹生都比売は各地で丹(朱砂、水銀の原料)を支配した一族が祀る女神で、高野山一帯の有力者が、空海を支援したことをうかがわせる伝承である

    嵯峨天皇側の動きを知った平城上皇は激怒して9月11日早朝、挙兵することを決断し、薬子と共に輿に乗って平城京を発し、東国へと向かった。嵯峨天皇は田村麻呂を派遣。美濃道より上皇を迎え撃つにあたり、上皇側と疑われ左衛士府に禁固されていた文室綿麻呂の同行を願い出て、嵯峨天皇は綿麻呂を正四位上参議に任命した上で許可している。平城京から出発した平城上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、田村麻呂が宇治・山崎両橋と淀市の津に兵を配したこの夜、右兵衛府で仲成が射殺された。

    嵯峨天皇側の迅速な対応により上皇が9月12日に大和国添上郡越田村にさしかかったとき、田村麻呂が指揮する兵が上皇の行く手を遮った。進路を遮られたことを知り、平城上皇は平城京へと戻って剃髪して出家し、薬子は毒を仰いで自殺したことにより対立は天皇の勝利に終わった。この事件の時に空海が鎮護国家と田村麻呂の勝利を祈祷している
  • 阿智王と身狭村主青

    『日本書紀』
    「(応神天皇)三十七年の春二月の戌午の朔日に、阿知使主・都加使主を呉に遣わして、縫工女を求めた。阿知使主らは高麗国を通って呉に行こうと考えた。そうして高麗国に入ったがその先の道程はわからなかった。そこで高麗の宮廷に案内人を付けてくれる請願したところ、高麗王は久礼波(くれは)・久礼志のふたりを案内人として副えてくれた。このおかげで呉に至ることができた。
    呉王は求めに応じ、工女の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の、四人の婦女を与えた」

    この四人の工女については『日本書紀』の中に異伝がふたつ載せられています。

    そのうちのひとつが『日本書紀』の応神天皇四十一年の次の記事。

    「阿知使主らは呉より筑紫に至った。この時、胸形大神(宗像大社の祭神)が工女を求める神託があったので、兄姫を胸形大神に奉った。すなわち今筑紫にいる御使君(みつかい君)の始祖である。そうして三人の工女をつれえ摂津国の武庫(むこ)まで来たときに天皇が薨去した、
    そこで大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に三人の工女を献上した。この工女たちの子孫が呉衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)の始祖である」

    さらに、『日本書紀』の雄略天皇十二年の記事には、身狭村主青と檜隈民使博徳を呉に遣わした、とあり、
    雄略天皇十四年の記事には、その身狭村主青らが、呉の使者と漢織・呉織・兄媛・弟媛をつれて住吉津に帰国した、とあります。

    その後については次のように記されています。「衣縫の兄媛を大三輪の神に奉る。弟媛を漢衣縫部(あやのきぬぬいべ)とする。
    漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部、伊勢衣縫部の祖である」

    なお、この時身狭村主青らがつれてきた呉の人々を接待する席が設けられ、その責任者に選ばれたのが根使主だったのです。

    ところが根使主はこの席で大日下王から横領した玉縵を身に付けていたために、かつての悪事が露見してしまうのです。

    さて、『日本書紀』では、「応神紀」、「雄略紀」ともに、呉から日本に来た工女は四人と伝え、その名も「応神紀」が兄媛・弟媛・呉織・穴織、「雄略紀」が兄媛・弟媛・呉織・漢織と、ほぼ一致します。

    また兄媛が「応神紀」では宗像大神に、「雄略紀」では三輪山の神に捧げられたとあるのも似通っています。

    そうすると、「応神紀」と「雄略紀」に記された記事は元々同一の伝承だったと思われます。では、どちらがより史実に近いのか?と、考えた時に、ひとつの参考になるかもしれない記事が「雄略紀」には記されています。
  • September 2018 編集されました
    阿智王(阿知使主)と身狭村主青とは何かしらのつながりがあるのでしょうか。

    身狭村主の出自を訪ねると、『新撰姓氏録』には、牟佐村主(身狭村主)は「呉の孫権の子、高」が始祖であることが記されています。
    しかし、『続日本紀』には、阿智王が来朝した時に七姓の人々(七つの氏族)をつれて来たとあり、その七姓とは朱・李・多・皀郭・皀・段・高の名が記されています。
    七姓の氏族の中に高の名を持つ氏族がいたわけですが、これが身狭村主の祖の高と同じ名であることも留意が必要です。

    阿智王がつれて来た高氏は、「坂上氏系図」によれば檜前村主(ひのくまのすぐり)の祖とあります。ところが『新撰姓氏録』には、この檜前村主の始祖は、「漢の高祖の子、斎王肥」とあるのです。
    高祖の子孫だから高を称したと解釈できなくもありませんが、この辺り差異が見られます。
    おそらくこのような混乱は、渡来系の氏族たちが自分たちの始祖伝承に阿智王を絡めたことに起こったのではないかと思われます。

    これらの氏族が本当に漢や呉から来た中国系だったのかも疑わしいのです。それは、呉の工女たちの呉衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)の始祖というところからもうかがえます。
     呉衣縫が呉の国だということは想像できますが、蚊屋とは何を指すのでしょうか。おそらく、これは朝鮮半島の小国伽耶を指すものと思われるのです。
     同じく朝鮮半島の小国に加羅がありますが、日本では、朝鮮半島の国をカラの変化音で呼んでいたようです。もちろんカヤ(伽耶)もそうですし、百済もそうです。
  • 東西の漢氏によって祓いが行われ、次に文武百官を集めて、中臣氏によって祓いが行われるのである。この東西漢氏の祓いと、中臣氏の祓いの言葉が、「延喜式」の祝詞(のりと)に残されているが、東西漢氏の祓詞(はらえごと)は漢語であり、中臣氏の祓詞(はらえごと)は和語である。東西漢氏の祓詞(はらえごと)次のようである。「謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司令司籍、左東王父、右西王母、五方五帝、四時四気、捧以禄人、請除、禍災捧以金刀、請延帝祚、呪曰、東至扶桑、西至虞淵、南至炎光、北至弱水、千城百闕、精治万歳、万歳万歳」』

    『 これは、明らかに道教の神事であろう。東西漢氏は、これを漢語で読み、人形(ひとがた)を捧げて、天皇の身のけがれを除き、金刀を捧げて、天皇の齢(よわい)の長久を祈る訳である。祓いの儀式の一つの目的は、明らかに、天皇の長久を祈るためである。しかし、それに尽きないところに、祓いの神道の政治的性格がある。中臣の祓いは、文武百官を集めて行われるところに、その意味がある。親王以下文武百官を侍らせて、祓いがなされ、神の言葉が告げられる。皇孫が天降りましましてから多くの罪が出たが、この罪を、この六月の晦(つごもり)、あるいは十二月の晦(つごもり)を期して、水に流してやる。それゆえに、購(あがな)いを出せ。これを私は、国家による司法権の確認の神事であると思う。』

    『 このように不比等は、東漢氏の伝える道教の儀式を、律令の精神によって改造して、「中臣の大祓の祝詞」なるものを作成し、そして、それに基づいた記紀神話を創造したと思われるが、この祓いに刑罰を含ませる事は、おそらく天武帝から学んだのであろう。』・・・と。
  • 天武6年(677)、天武帝が東漢直らに次のような詔(みことのり)を出したのは、はなはだ注目されることである。「なんじらがやから、もとより七つのあやしきことを犯せり。ここを以て、小墾田(おはりだ)の御代(推古朝)より、近江のみかど(天智朝)に至るまでに、常になんじらは謀るを以てわざとする。今わが世にあたりて、なんじらのあしきかたちをせめて、おかしのままに罪すべし。今よりのち、もし犯すものあらば、必ず赦さざるかぎりにいれむ。」 この詔にあるように、漢直は、推古朝から天智朝まで、たえず政治の裏方の主役をつとめたのである。陰謀が、彼らの伝世の業であったのである。「七つのあやしきこと」というものが何であるか分からないが、その中に再三にわたる裏切りがあったことはまちがいがない。政治の世界には、いつも暗いものがある。そしてその政治権力が安定せず、時代が変革を必要としていればいるだけ、陰謀と裏切りがを必要とする。天武帝は、この変革の時代を終わらせる任務を持って、政治の舞台に登場したのである。そういう天武帝に、この政治の裏面で絶大な力を振るっていた東漢氏の存在は、まことに不気味なものに映っていたに違いない。実際、蘇我氏も、藤原氏も、その権力の多くを東漢氏の陰謀と裏切りに負っていた。崇峻を殺し、推古朝を実現したのは東漢の力である。そして、豊浦や飛鳥への都の遷移は、東漢氏の力を借りずには不可能であったろう。そして、この蘇我氏の滅亡も、彼の一族の裏切りのせいであった。以後の数々の策謀、おそらく日本書紀の本文に記せられないさまざまな歴史の秘密に、この東漢氏はかかわっているにちがいない。そして壬申の乱の勝利にも、この東漢氏一族の寝返りが大きく貢献したのである。ここで、東漢直らに異例の詔が出されたのは、このような東漢氏のもつ不気味な力を恐れたためであろうか。ここで天皇は、東漢氏の罪を指摘しながら、それを罰してはいない。ただ、今後はもう許さないと警告しているだけである。
  • 『続日本紀』延暦四年(785)六月の条には、「東漢氏の祖・阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきた」と、阿知王の末裔で下総守の坂上苅田麻呂が述べたと書かれているが、坂上苅田麻呂は下総守を拝命していたのである。そして、ご承知のように、上総国と下総国の場合、元々東海道は海つ道(海路)であり、房総半島の南部の上総国の方が畿内により近い位置関係にあったのがその由来とされたのであって、奈良時代の交通は海上交通が中心であったのである。下総国は、東海道に属する一国であり、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11郡であり、現在の東京都葛飾区や千葉県佐原市を含んだ広大な国であったのである。
  • 「阿志神社」の最古の記録は「文徳実録」 に「仁寿元年(八五一)冬十月従五位下 を授く」とある。「延喜式神名帳」にも 「渥美郡一座阿志神社」とあり、郡内唯 一の式内社となっている。阿志神社の源は、大和朝廷に文化・技術をもたらした 渡来人の阿智使主を祖神とする奈良県明 日香村の「於美阿志神社」であることは言うまでもない。
    「阿知神社」は、戦国時代から江戸時代初期にかけては 荒廃していたが、寛文四年(一六六四) 田原藩主となった「三宅能登守康勝公」によ り再興されたと伝わっている。夢枕に立った神様からお 告げがあったとされており、領内三十三 ヶ村に命じて社殿を造営し、燈籠二基を 奉納した。代々の藩主も厚く崇敬し、参 勤交代の際には参拝して道中の無事を祈 ったと伝えられており、大草村から伊良 湖村にいたる表浜一帯が氏子であった。

    三宅能登守康勝が田原城の城主になったいきさつを説明しておきたい。
    田原は渥美半島の中央部にあり、明応4年(1495)戸田弾正左衛門宗光が田原城築いた。戸田氏は藤原氏の末裔といわれているが、碧海郡上野庄の庄官だった宗光は西三河から渥美半島に移り、田原に居住した一色七郎の遺領をうけて田原城を築き、これを本拠として渥美半島を統一したのである。
    さらに東方に進出しようとした宗光は、田原城を子の憲光に譲り、二連木城を築いて移り、東三河の宝飯、八名2郡勢力を伸ばした。その後、松平清康や今川氏の攻撃をうけたが、よく防ぎ、天文6年(1537)4代の宗光の代には吉田城を攻略している。子の尭元の天文15年、抬頭してきた今川義元に吉田城は奪われた。天文16年、今川義元のもとに人質として送られる松平広忠の嫡子竹千代(後の家康)を塩見坂に奪って、尾張の信長に送った。竹千代を奪われた義元は大いに怒り、同年9月、田原城を攻略、ひとまず戸田氏の名は消える。その後、義元部将、岡部石見守輝忠、朝比奈肥後守元智が城代として入城。永禄3年(1560)桶狭間に義元が敗死すると、家康は本多豊後守広孝に田原城を攻撃させ、広孝を城主とした。広孝の子、康重の天正18年(1590)徳川氏の関東移封と共に本多氏も上野臼井に移り、東三河の大部分は吉田城主池田輝政の領有となった。慶長5年(1600)池田氏は播州に移封、翌6年、戸田尊光が父祖伝来の地に再入封、その後、55年目に御家再興がかなった。尊光、忠次、忠能、忠昌の三代60年続いて寛文4年(1664)肥後天草富岡城に移り、代わって三宅康勝が入城したのである。

    三宅一族は、すべて名前に「康」の字がついており、その名から徳川家康の重鎮であったことが伺えるが、実際に徳川幕府の重鎮であったのである。松平家に松平元康(後の徳川家康)が現れると、三宅正貞は永禄9年(1558年)に松平元康の家臣となった。その子が三宅康貞であり、三宅康勝はそのひ孫である。その後、江戸時代には挙母藩主を務めた後、田原藩主として幕末まで存続した。この田原城主・三宅氏の江戸藩邸付近の坂が東京の最高裁判所付近の三宅坂である。

    田原城は、田原市の市立博物館のあるところにあった。堀や石垣など当時の面影も残っている

    「阿志神社」と田原城を目玉とした渥美半島
  • 桧隈寺(ひのくまでら)と於美阿志神社(おもあしじんじゃ)は、高松塚古墳とキトラ古墳のほぼ中間、山間の狭い地域にある。阿知王が、渡来してきてそこに住みつき開拓した地域である。阿知王の一族が営んだ寺として桧隈寺(ひのくまでら)があるが、 於美阿志神社(おもあしじんじゃ) はその鎮守の社(やしろ)であったらしい。祭神は阿知王御夫妻である。
  • 『日本書紀』の朱鳥元年(686年)8月条に「檜隈寺、軽寺、大窪寺に各百戸を封ず。三十年を限る」と見えるのが文献上の初出である。『書紀』のこの記事から、当時檜隈寺が存在したことがわかるが、この寺名が正史にみえるのはこの時のみである。

    鎌倉時代の『清水寺縁起』には大和国高市郡檜前郷に「道興寺」という寺のあったことがみえ、中世には道興寺と呼ばれていたことがわかる。1908年に大阪府中河内郡で出土した永正10年(1513年)銘の梵鐘には「大和国高市郡檜前」「奉道興寺鐘」という文言があり、当時、道興寺が存続していたことがわかる。

    現在の於美阿志(おみあし)神社は1907年(明治40) に移設されたものであるとしても、明日香に阿知王を祭神とする於美阿志(おみあし)神社が現に存在している
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