天武天皇:壬申の乱と高市皇子

December 2018 編集されました カテゴリ: 舒明ー聖武
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天武天皇 名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天…

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  • 壬申の乱において近江朝の将として活躍した者である。

    書直薬(フミノアタイクスリ)、智尊(チソン)、☆穂積臣百足(ホズミノオミモモタリ)、犬養連五十君(イヌカイノムラジイキミ)、忍坂直大麿呂(オシサキノアタイオオマロ)、谷直塩手(タニオアタイシオテ)、佐伯連男(サエキノムラジオトコ)、壹岐史韓国(イキノフヒトカラクニ)、樟使主磐手(クスノオミイワテ)、廬井造鯨(イオイノミヤツコクジラ)、大野君果安(オオノノキミハタヤス)、中臣連金(ナカトミノムラジカネ)、田辺小隅(タナベノオスミ)、山部王(ヤマベノオウ)、境合部連薬(サカイベノムラジクスリ)、秦友足(ハタノトモタリ),社戸臣大口(コソベノオミオオクチ)、土師連千嶋(ハジノムラジチシマ)である。

    途中で吉野方に寝返った人物である。すなわち、高坂王(タカサカノオオキミ)、☆穂積臣五百枝(ホズミノオミイオエ)、☆物部首日向(モノベノオビトヒムカ)、稚狭王(ワカサノオオキミ)、☆羽田公人国(ハタノキミヤクニ)、☆羽田公大人(ハタノキミウシ)である。

    さらに、吉野方に心を寄せていた人物である。すなわち、☆蘇我臣安麻呂(ソガノオミハタヤス)、☆蘇我臣果安(ソガノオミハタヤス)、☆巨勢臣比等(コセノオミヒト)である。


    乱の後、許されるか、減刑された人物である。

    すなわち、☆物部連麻呂(モノノベムラジマロ)、☆蘇我臣赤兄(ソガノオミアカエ)である。このように、近江朝の豪族の中で、名門といわれる、蘇我・物部氏には全く戦う意欲がなく、また出雲系豪族の殆どが吉野方に心を寄せていた気配が見られる。
    次に挙げるのは、

    最初から最後まで吉野方についていた人物である。やはり☆印は、出雲族を示す。
    大伴連吹負(オオトモムラジフケイ)、大伴連馬来田(オオトモノムラジマグタ)、書首根麻呂(フミノオビトネマロ)、大伴連御行(オオトモノムラジミユキ)、栗隈王(クリクマノオオキミ)、美濃王(ミノノオオキミ)、小子部連鉏鈎(チイサコベノムラジサイチ)、三野王(ミノノオオキミ)、秦造綱手(ハタノミヤツコツナテ)、忌部首子人(インベノオビトコビト)、
    村国連依(ムラクニノムラジオヨリ)、土師連真敷(ハジノムラジマシキ)、物部連雄君(モノベノムラジオキミ)、稚桜部五百瀬(ワカサクラベノイオセ)、☆三輪君子首(ミワノキミコヒト)、☆三輪君高知麻呂(ミワノキミタケチマロ)、☆田中臣足麻呂(タナカボオミタリマロ)、☆当麻公広嶋(タギマノキミヒロシマ)、☆鴨君蝦夷(カモノキミエミシ)、☆紀臣阿閇麿(キノオミアエマロ)、☆坂本臣財(サカモトノオミタカラ)、☆坂田公雷(サカタノキミイカヅチ)、☆紀臣堅麻呂(キノオミカタマロ)、☆星川臣麻呂(ホシカワノオミマロ)、☆膳臣麿漏(カシワデノオミマロ)、☆当麻公広麻呂(タギマノキミヒロマロ)、☆布勢朝臣御主人(フセノアソミミヌシ)、☆尾張宿禰大隈(オワリノスクネオオスミ)、☆尾張連馬身(オワリノムラジマミ)である。
  • 吉野方には、圧倒的に出雲族がついていたことがわかる。逆に近江方の名門豪族で最後まで戦い抜いたのは、中臣連金(ナカトミノムラジカネ)と穂積臣百足(ホズミノオミモモタリ)だけであった。つまり、近江朝にいた名門豪族の殆どが、開戦後吉野方に寝返ったということある。
     こうして、壬申の乱は、吉野方(大海人皇子)の圧倒的勝利に終わった。近江朝の大友皇子は、天智天皇から譲り受けた王朝を実にあっけなく失ったのである
  •  飛鳥で兵をあげた大伴吹負は飛鳥古京の役人を味方にし,秦造熊(はたのみやっこくま)に「高市皇子がたくさんの軍勢を率いてきた」と叫ばせながら飛鳥寺西にあったとされる朝廷軍の陣営に向かわせた。これを聞いた兵たちは,散り散りになった。そこへ数十騎の兵で攻めた。
     また,小墾田の武器庫(雷丘付近)にいた朝廷側の役人(穂積臣百足)を呼び寄せて殺し,武器を手に入れた。こうして飛鳥古京を占領した。この様子を野上の大海人皇子に知らせると,皇子は大いに喜び大伴吹負を将軍に任じた。
  •  大伴吹負の軍は奈良県北部の乃楽山(ならやま)を越えて大津京に進軍することを考えた。しかし,途中で朝廷軍が大阪難波方面や奈良から攻めてくるという情報を得て,直ちに兵を向かわせ,当時の主要3街道(竜田道,穴虫越えの街道,竹内峠越えの竹内街道)を守らせた。
     この時の朝廷側の将軍は,難波から壹伎史韓国(いきのふひとからくに),奈良から大野君果安(おおののきみはたやす)だった。
  • 乃楽山(ならやま)に着いた大伴吹負の軍はここで朝廷軍と戦うこととした。しかし,飛鳥の守りが弱いことに気づき,荒田尾直赤麻呂や忌部首人らの兵を飛鳥にもどした。飛鳥にもどった兵たちは,飛鳥川や八釣川などの橋板をはずして盾を作り,この周辺に立てて守った。
  • 大伴吹負の兵,坂本財の軍は朝廷軍が高安城(たかやすのき)にいると知り,攻めこんだ。
     朝廷軍は信貴山近く高安山の高安城(天智天皇の時代に唐・新羅軍から大和を防衛するために築いた朝鮮式の山城)に集まっていた。
    坂本財の軍が高安城に近づくと,朝廷軍は米倉に火をつけて逃げた
  • 坂本財の軍は高安城を大阪方面に下り,難波から攻めてきた壹伎史韓国(いきのふひとからくに)を大将とする朝廷軍と衛我河(えがかわ-現在の石川)で戦った。しかし,味方の兵が少なく,敗れてしまった。そのため,坂本財の軍は飛鳥に撤退した。
  •  大伴吹負(おおとものふけい)は奈良市の北にある乃楽山(ならやま)で大野君果安(はたやす)を将とする朝廷軍と戦ったが破れ,兵たちは散り散りになり,吹負は飛鳥から宇陀へ向かって敗走した。
     大野君果安(はたやす)の朝廷軍は大伴吹負を追って一気に飛鳥に入った。しかし,山の上から飛鳥を見下ろすと,盾(橋板でつくられたもの)が立っているのを見て,防備が厳重だと判断し,兵を進めなかった。672年,壬申の乱の時は多くの兵が飛鳥寺の広場に集結していた

    大伴吹負は宇陀群榛原の墨坂で置始菟(おきそめのうさぎ)の軍1000人と合流し,再び大和へ向かった。置始菟は紀阿閉麻呂(きのおみあへまろ)を将軍とする東海道を大和に向かった軍の部将だった。墨坂は榛原の西の坂と言われるが,西峠付近か。
  •  体勢を立て直した大伴吹負(おおとものふけい)は壹伎史韓国(いきのふびとからくに)を大将とする朝廷軍と当麻(たぎま-北葛城郡当麻町)で戦って勝利した。韓国は軍を離れて逃亡してしまった。
     大伴吹負は東国の軍と合流し,大和の上ツ道,中ツ道,下ツ道を警備した。
  • 難波へ

     箸墓(はしはか-奈良県桜井市箸中)の北(池のある辺り)で朝廷軍と大伴吹負(おおとものふけい),置始菟(おきそめのうさぎ)らの軍が戦って勝利した。
     大和での戦いはこれで大海人皇子軍の勝利が決まった。
     難波へ入った大伴吹負(おおとものふけい)の軍は朝廷軍と戦い,ここを制圧する。
     聖武天皇の時代,難波に都がおかれた。
  • 奈良の戦いの後,近江朝廷との決戦に向かったと思われる。京都伏見区の三栖(みす)には,ここを通過する大海人皇子軍を,地元の人たちがかがり火を灯して暗夜を照らして歓迎したという伝説が残っている。これが毎年10月に行われる「炬火(たいまつ)祭」のいわれとされている。三栖神社には天武天皇が祀られている。
  • 始まり

    672年5月 吉野の大海人皇子のもとへ緊急事態を知らせる者がやってきます。近江の朝廷が先の天皇の陵(みささぎ-墓)を造ると言って美濃と尾張の農民を集め,武器も持たせているというのです。また,大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,さらに,吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わってきました。大友皇子の妃で,大海人皇子と額田王(ぬかたのおおきみ)との子十市(といち)皇女からも朝廷の動きを伝えてきました。
     いよいよ自分の身に危険が迫っており,今こそ決断の時と考え,吉野を出て戦うことを決意します。そのためには,安全な地へ身を移さねばなりません。大海人皇子は自分の私領地がある美濃への脱出を決行します。そして,舎人たちに命じて東国(現在の三重県東部・岐阜県・愛知県・長野県)の豪族たちを味方にするよう準備を進めます。
  • 奈良での戦いは大伴吹負(おおとものふけい)・馬来田(まぐた)の兄弟が大活躍しました
    吹負(おおとものふけい)を大将とする大海人皇子軍は朝廷軍と二上山のふもとで戦って勝利しました。

    当麻(たぎま)は二上山のふもと(奈良県北葛城郡当麻町)
  • 出陣 672年7月2日

     大きく二手に分かれて出陣(しゅつじん)しました。

    大海人皇子が脱出した吉野から不破への道を逆に戻って大和(奈良)へ進む
    琵琶湖東岸を大津京に向かって進む



     これらとは別に

    琵琶湖西側を大津に向かう
    大和(奈良県)で朝廷軍と戦う

     朝廷軍の山部王(やまべのおうきみ),蘇我臣果安(そがのおみはたやす),巨勢臣比等(こせのおみひと)は不破を目指して犬上川に陣営を設けた。先発隊が不破の北へまわり,大海人皇子軍の背後から攻撃しようとした。そのころ,犬上川の陣営で内紛が起き朝廷軍は分裂。 
  • 滋賀県水口町-甲賀郡甲賀町-伊賀町柘植へ抜ける道がある。これが鹿深道(かふかのみち)。ここは伊賀と近江をつなぐ交通の要所であった

    倉歴(くらふ)での戦い。夜の戦いで敵味方がわからないので,朝廷軍(田邊小隅の軍)は「金(かね)」という合い言葉を使って区別した。これにより大海人皇子軍は混乱し敗走した。しかし,(たらの)を警護していた大海人皇子軍側の多臣品治軍3000の兵と戦い,朝廷軍は打ち破られた。
  •  息長横河(おきながのよこかわ)-米原市梓河内での戦い。
     村国男依(むらくにのおより)らの軍が朝廷軍を破る。
  •  鳥籠山(とこのやま)での戦い。村国男依らの軍が朝廷軍を破る。
     鳥籠山は現在の大堀山(鞍掛山)か

    最大の決戦地となった瀬田橋。東側に村国男依の軍が布陣。大友皇子率いる朝廷軍は橋の西で構えた。その軍の後が見えないほどの兵の数だったという記述が日本書紀に見える。弓を構えた兵たちは一斉に矢を放ち,それらが雨のように落ちてきた。橋の中程の板をはずして敵を落とすという朝廷郡の仕掛けたわなは,一人の勇者,大分君稚臣(おおきだのきみわかみ-大津皇子の従者)によって破られた。彼はわなを見破り,弓矢の中に突撃し
     朝廷軍は総崩れとなった。橋での決戦は村国男依(むらくにのおより)らの軍が朝廷軍を破り,大海人軍は瀬田川を渡り大津京へ向かう。
  • 大友軍は破れ山前(やまさき)へ敗走。大友皇子はここで自害する(25歳)。

     山前がどこかがはっきりしないが,三井寺前の長等山ではないかと考えられている。現在,大友皇子の陵がここにある。
     逃亡していた近江の重臣だった者たちは次々ととらえられ,8月25日の処罰発表を待った。
     重臣のうち8名が死刑となり,その一人が右大臣中臣金(なかとみのかね)だった。彼は大友皇子軍の中心にいて戦争の指示をしていたのだろうと思われる。
  • 処刑など

    ■8月25日になってようやく、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江方の群臣の罪状と処分を不破で発表させた。死刑の重罪に処せされたのは8名である。その中には、去る7月24日に捕縛された右大臣・中臣連金(なかとみのむらじ・かね)がいる。彼は近江浅井の多根(滋賀県東浅井郡)で斬首の刑に処せられた。

    ■流刑に処せられたのは、左大臣・蘇我臣赤兄(そがのおみ・あかえ)とその子供、大納言・巨勢臣比等(こせのおみ・ひと)とその子供、中臣連金の子供、および自害した蘇我臣果安(そがのおみ・はたやす)の子供だけである。
  •  「聞くところによると、近江朝の廷臣らは私をなきものにしようと謀っ
     ている。お前たち三人(村国連男依・和珥部臣君手・身気君広)は、速や
     かに美濃国に行き、安八磨郡の湯沐令の多臣品治に機密をうちあけ、まず
     その地の兵を集めよ。なお国司らに触れて軍勢を発し、速やかに不破道を
     ふさげ。自分もすぐに出発する」


      これが六月二十二日のことである
  •  出発するに際して、迷いを見せている。

      「二十四日、東国に向かおうとしたとき、一人の臣が、『近江方の群臣
     は元から策謀の心があります。ですからきっと国中に妨害をめぐらし、道
     路は通りにくいでしょう。どうして無勢でいくさの備えもなく東国に行く
     ことができましょうか』といった。天皇はその言葉に従って、男依を召し
     返そうと思われた。大分君恵尺・黄書造大伴・逢臣志摩らを、飛鳥守衛の
     高坂王のもとに遣わして、駅鈴を求めさせた。」
  • 二十四日に出発した後、「桑名」到着が二十六日であるから、この間の距離と、少なかったとはいえ従っていた者達三十名を考慮に入れると、二日間というのは、信じられないほどわずかな日数であるといえよう。

    ところが、不眠不休で駆け抜けたにもかかわらず、「桑名郡家」に至っ て、ここで宿営し、これ以上動くことはなかったという。  
      郡家到着の間際には、先に使いにやった「村国連男依」から、
  • 最大の軍勢は
    「壬申の乱」の勝利は「尾張」の兵2万兵が帰属したこと

    「不破の郡家に至る頃に、尾張国司小子部連鋤鉤が、二万の兵を率いて帰属した。」
  • 美濃の軍勢三千人もおおきく貢献


    「美濃国」の国司は誰だかわからない。しかし、「甘羅村」を過ぎたあたりで遭った「美濃王」が、そうであったのかもしれない。
    「美濃王」は大宰師・「栗隈王」の子、「美努王」(三野王・弥努王とも書く)と同一視されているが、『壬申紀』にあえて「美濃」の名を当てて登場する以上、別人であり、文字通り「美濃国の王」であろう。
  • 尾張の軍勢は尾張宿禰大隅

      天平宝字元年(757)十二月九日の条に次のようにみえる。


    「従五位上尾張宿禰大隅が壬申の年の功田卅町、淡海朝廷の諒陰の際、義をもちて興し蹕を驚せしめ、潜に関東に出たまふ。時に大隅参り迎へて導き奉り、私の第を掃ひ清めて、遂に行宮と作し、軍資を供へ助けき。その功実に重し。大に准ふれば及ばず、中に比ぶれば余り有り。令に依るに上功なり。三世に伝ふべし。」


      三世に伝ふべし”とは、霊亀二年(716)四月、『壬申の乱』の功臣
     の子息ら十人に田を賜ったことを指しているのだが、この十人の中の一人
     に、「尾張宿禰大隅」(おわりのすくねおおすみ)の子「稲置」(いなき)
     の名がみられる。ちなみにこの中には、「男依」の子「志我麻呂」(しが
  • 褒美??

     太上天皇とは、文武天皇のときの持統太上天皇が、「太上天皇が参河国に行幸された。「十一月十三日、行幸は尾張国に到着し…」「十一月十七日、行幸は美濃国に到着…」「十一月二十二日、行幸は伊勢国に到着し…」「十一月二十四日、伊賀国に到着、行幸の途中に通過した尾張・美濃・伊勢・伊賀の国の郡司と人民に、位階や禄を身分に応じて賜った。」「十一月二十五日、天皇は参河国から帰還された。」とある。
    『壬申の乱』の功績のための慰問と考えられ、「尾張」の兵力、二万兵のうちには、「三河」勢も相当数含まれていたものと思われる。
  • 「人麻呂」の最高傑作か



       高市皇子の尊の、城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首
                              <119>


       かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き
       明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を
       畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります
       やすみしし 我が王の きこしめす 背面の国の
       真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の
       行宮に 天降り座して 天の下 治めたまひ
       食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の
       御軍士を 召したまひて 千磐破る 人を和せと
       奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任きたまへば
       大御身に 大刀取り帯ばし 大御手に 弓取り持たし
       御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は
       雷の 声と聞くまで 吹き響せる 小角の音も
       敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに
       差上げたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば
       野ごとに つきてある火の 風の共 靡くがごとく
       取り持たる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に
       旋風かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く
       引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来れ
       奉はず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく
       去く鳥の 争ふはしに 度會の 斎ひの宮ゆ
       神風に 息吹惑はし 天雲を 日の目も見せず
       常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を
       神ながら 太敷き座す やすみしし 我が大王の
       天の下 奏したまへば 万代に 然しもあらむと
       木綿花の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を
       神宮に 装ひ奉りて 遣はしし 御門の人も
       白布の 麻衣着て 埴安の 御門の原に
       あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ
       ぬば玉の 夕へになれば 大殿を 振り放け見つつ
       鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひかねて
       春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに
       憶ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ
       神葬り 葬り行して あさもよし 城上の宮を
       常宮と 定め奉りて 神ながら 鎮まり座しぬ
       しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして
       作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや
       天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ
       畏かれども
  • 弘文天皇
    弘文天皇は、名を大友皇子、伊賀皇子といい、天智天皇を父とし伊賀采女宅子娘を母として生まれた。
    父天智天皇崩御後に壬申の乱が起き、大海人皇子(天武天皇)の吉野側が勝利したため、その即位を認められなかった(舎人親王が編纂した「日本書紀」は、弘文天皇の記事を載せず、一代として扱っていない)が、明治3年に至り弘文天皇と追号された。
    従って諱がない。
    皇妃には大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女として天智天皇の崩御後に近江にあって政務をみたとされている。
    天智天皇の崩御後、大海人皇子は草壁皇子、鵜野讃良皇女、高市皇子、大津皇子らと吉野を脱出して大友皇子(弘文天皇)の近江朝廷側と対立した。
    この対立は、大海人皇子の吉野側が大友皇子(弘文天皇)の近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで吉野側の勝利に終わった(「壬申の乱」という。

    皇太子を囲んだこのときの5人の家臣はその後の壬申の乱の結果、

    左大臣蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ)捕らえられ、流刑

    右大臣中臣金連 (なかとみのかねのむらじ)捕らえられ、斬殺。

    蘇我果安臣   (そがのはたやすのおみ)近江国犬上川の戦いに敗れ、自殺。

    巨勢人臣    (こせのひとのおみ)    捕らえられ、流刑

    紀大人臣    (きのうしのおみ)     不明。逃亡か。天武12年生存の諸伝も残る。

    大友皇子自身は、皆に逃げられ、山前と言われる場所で、自ら首をくくって死んだとあります。


    大伴黒主神社
     
    大伴黒主は大友皇子(弘文天皇)の皇子で大伴姓を賜ったと言う大友与多王の子孫と伝えられる。大友の名は、当地の旧名滋賀郡大友郷に由来する。
    大友氏はこの大友郷を本貫とする氏族で、黒主も滋賀郡司をつとめたことがあって、「滋賀の黒主」とも称されていた。また園城寺(三井寺)の神祠別当職をつとめた。

    鴨長明は『無名抄』に、「志賀の郡に大道より少し入りて山際に、黒主の明神と申神います。是昔黒主が神になれる也。今に大伴の黒主の宮ある。」と記している。
    …そうである。
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