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百済より弓月の君が来た。「百済の120県に住んでいた」と伝わる。 新羅が阻んだ 高句麗が百済を攻撃した370年…
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●亀慈国系譜
クムトゥラ・キジール石窟にみられるような有名な仏教国でした。
要するに、
系譜上の始祖「功満王」は、「コウ(カイ)バン」と読み、亀茲国の最初の王「絳賓(コウヒン)」
次の「弓月君、功智王」は「キュウチ(ゲ)」で、「弓月・亀茲国」の始祖のこと。
続く「真徳(シントク)王」は、亀茲国の2代目「丞徳(ショウトク)王」、もしくは後漢時代の「身毒(シンドク)王」
そして、「普洞王」は浦東の発音から比して「ホ・フトゥ」「ウトウ」の読みで、「于闐(クゥタン・ホータン)」のこと。仁徳記にあるように、秦氏の「ハダ」姓の原型となった。
「武良王(ウリョウ・ウロウ)」は、亀茲国の6代目「尤利多(ウリタ)王」となります。傀儡王は排除されてますね。
その他、「武安君」は、秦の時代(前278年)の人名で、「武安県」を河北省にあり、遼東半島の根元あたりにおいてます。始皇帝の故郷だそうです。
「雲師王」の雲師は、西域の「車師国」を想起しますが、あるいはコリア語で「ウ(ン)サ」と呼んでおり、ちょっと宇佐関連で気になります。「雲を呼ぶ雲師(ウンサ)(青龍)(東)」
亀茲国周辺から、秦氏の祖先がやってきた可能性はあろうか?
この五郡のうち、最も奥地の遼東郡は郡治が襄平(いまの遼陽)とされるから、『魏略』と『史記』匈奴伝は同じことを記したものであろう。秦開の系譜は不明であるが、遠くは秦王室と同族であったことも考えられ、秦開の族裔がこの討伐以降、朝鮮半島に遷住したのではなかろうか。あるいは、秦韓王家はこの秦開同族の流れだったのかもしれない。
「辛嶋」(からしま)とは「日本の加羅(秦の国)」という意味になろう。その辛嶋氏の加羅の国にヤマト王権(蘇我馬子)の意を受けた大神比義が派遣され、渡来の神辛国息長大姫大目命を「ヤハタの神」(=香春八幡神)に変えたという説がある。
『八幡宇佐宮御託宣集』に、
辛国ノ城ニ、始メテ八流ノ幡ヲ天降シテ、
吾ハ日本ノ神トナレリ
とある。
大神比義の大神氏も辛嶋氏と同じルーツの渡来系氏族だといわれる。以後大神氏は、宇佐地域に居住するようになる(豊後大神氏)。辛嶋氏も香春の地から宇佐の地(豊後)に移っていた。
この「ヤハタの神」(=香春八幡神)が何度かの移座を経て神亀2年(725)、現在の宇佐小倉(椋)山に辛嶋勝波豆米の託宣によって遷座される。
ここには、この地の国造宇佐氏によって信仰されていた比売神三座が馬城峯(御許山)から移されていた。その社に応神天皇の霊を付与された「ヤハタの神」が主祭神として遷座されたのである。宇佐八幡のはじまりである。ここに「秦王国」に辛嶋氏によって奉じられた渡来の神が、辛嶋氏(と大神氏)によって日本の国神(くにがみ)「八幡神」となったのである。このことは同時に辛嶋氏つまり秦氏の日本同化策であった。事実、この半世紀前の「白村江の戦」に辛嶋氏は出兵させられている。
秦氏の弥勒信仰はやがて、秦氏が本拠地とした山背太秦に秦河勝(はたのかわかつ)が建てた蜂岡寺(後の広隆寺)の本尊弥勒半跏思惟像や、聖徳太子の伝建立七寺の本尊弥勒半跏思惟像や、平城京の官大寺に流行した弥勒信仰や、空海の弥勒信仰にも大きな影響を及ぼした。
「功智王。弓月王。誉田天皇[謚応神。]十四年来朝。上表更帰国。率百廿七県伯姓帰化。并献金銀玉帛種々宝物等。天皇嘉之。賜大和朝津間腋上地居之焉。男真徳王。次普洞王。[古記云。浦東君。]大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。賜姓曰波陀。今秦字之訓也。次雲師王。次武良王。普洞王男秦公酒。大泊瀬稚武天皇[謚雄略。]御世。奏�X。普洞王時。秦民惣被劫略。今見在者。十不存一。請遣勅使鬲括招集。天皇遣使小子部雷。率大隅阿多隼人等。捜括鳩集。得秦民九十二部一万八千六百七十人。遂賜於酒。爰率秦民。養蚕織絹。盛��詣闕貢進。如岳如山。積蓄朝庭。天皇嘉之。特降籠命。賜号曰禹都万佐(うづまさ)。是盈積有利益之義。役諸秦氏搆八丈大蔵於宮側。納其貢物。故名其地曰長谷朝倉宮。是時始置大蔵官員。以酒為長官。秦氏等一祖子孫。或就居住。或依行事。別為数腹。天平廿年在京畿者。咸改賜伊美吉姓也」
このように,「弓月王」が,応神(おうじん)天皇(在位270-310年)の第14年(西暦283年)に「来朝」し,さらに,「百廿七県(あがた)」(127あがた)の民を率いて「帰化」したとある。
「男功満王。帯仲彦天皇[謚仲哀。]八年来朝。男融通王[一云弓月王。]誉田天皇[謚応神。]十四年。来率廿七県百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。以百廿七県秦氏。分置諸郡。即使養蚕織絹貢之。天皇詔曰。秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。次登呂志公。秦公酒。大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。糸綿絹帛委積如岳。天皇嘉之。賜号曰禹都万佐(うづまさ)」
このように,その記録には,
第14代「仲哀(ちゅうあい)天皇」の第8年に,弓月(ゆづき)国の巧満(こうまん)王が,日本の朝廷を公式訪問した
ということが記されている
という国は,十一世紀の中国の史書(ししょ)(歴史を叙述した書物)「資治通鑑(しじつがん)」(「弓月」の名は,その651年の記述に初めて出てくる。部族としての「弓月部」は,唐紀十七。高宋竜朔二年(662年)12月に初出)にも記されていて,
「中央アジア」にあった。
佐伯好郎博士の研究によれば,この弓月王国は,「小国」とはいえ,「キリスト教王国」だったのである。
* * * * * * * * * *
佐伯好郎博士は,その晩年において(88歳の時),
『極東における最初のキリスト教王国弓月,及び,その民族に関する諸問題』
というタイトルの論文(英文)の中で,次のように述べている。
「私見によれば,弓月の民は,使徒時代以後のキリスト教徒であったに相違ないし,又,大多数がユダヤ人改宗者であった原始教会のキリスト教徒であったかもしれない。」
これは,百済(くだら)の第26代の王,聖明王(せいめいおう)(在位523-554年)が日本に初めて「仏教」を伝えたと言われる時(西暦六世紀)よりも,はるか以前の話なのである。
第15代「応神天皇」(在位270-310年)の第14年,2万人以上の「弓月」の民が,さらにやって来た
さて,「弓月(ゆづき)国」でも戦争が始まり,「仲哀(ちゅうあい)天皇」の時代に日本の朝廷を公式訪問した功満(こうまん)王の子,「融通(ゆうずう)王」(「弓月の君」)は,民を率いて国を脱出した。彼らは,戦火を逃れて中国方面へと向かい,朝鮮半島に亡命した。
彼らは,しばらくそこに留まった後,巧満(こうまん)王の来日からおよそ84年後,第15代「応神(おうじん)天皇」(在位270-310年)の第14年(283年)に,日本に渡来している。
英語で絹はsilkである。蒙古語でsirkek、満州語ではsirgeである。斯廬、新羅の語源ともされる
石廊崎権現神社
この神社の縁起には次のような一文が記されていた。
「石室神社の起源は詳らかでないが、5世紀ごろ石室金剛院として建立されたのが最初だと言われている。人皇15代応神天皇14年に日本に帰化した、秦始皇帝5世の孫弓月君の日本での功績に、朝廷大いに喜び給い物忌奈之命の諡を贈った。弓月君の子孫秦氏により当地に祀られたものである」
弓月君とは、秦氏の祖と伝えられる人物で、『日本書紀』によると、応神天皇の御代に百済から一族を率いて渡来したと言われている。また、『新撰姓氏録』(古代日本の氏族の系譜。815年成立)では、秦氏は秦始皇帝13世の孫の孝武王の後裔で、王の子の功満王が仲哀朝に、その子融通王(弓月君)が応神朝に一族を率いて帰化したと記されている。
例えば、5世紀頃というあまりにも早すぎる寺院の建設年代は何を意味しているのか。この縁起を信じるならば、石室権現神社は日本最古の神仏混合社ということになる。
鎮座の神々
物忌奈之命:「太公秦の始皇帝五世之孫弓月王也」
石廊崎権現神社の由来が正しければ、「太秦」とは、秦氏の祖、秦始皇帝の末裔という意味になる。
木像二体があり、その脇に細長い板に由来が書かれてあった。
石廊権現初代神主夫婦
秦宿禰 槻本 神祇官従5位下
當社御祭神弓月王22世之孫
繁子 武蔵之国小澤の領物部高皇の女
物忌名命とは弓月君なのである。
弓月君の末裔である槻本氏が秦宿禰である
槻本氏が初代神主であって、その妻が物部高皇の女なのである。
「弓月君の子孫秦氏により当地に祀られたものである」
京都太秦に弓月君由来の大酒神社があり、聖徳太子から授けられた広隆寺(蜂岡寺)があり、これは秦河勝の別名である広隆をとってつけられた名前である。やはり秦河勝も弓月君の末裔ということである。
伊豆半島近辺で何らかの功績によって弓月君は物忌奈之命という諡を賜ったのである。
南伊豆町手石の月間神社
由緒記に
「旧称竹麻神社・主神及び相殿ともに記録の存在するもの無し、ただ口碑に伝うるものを記述するときは主神は事代主神、物忌奈神、比売神の3座の神を祭神として鎮め奉りしを年代不詳なるが、物忌奈神一座を湊村に遷し奉り、比売神一座は朝日村吉佐美へ遷し奉る」
「南豆神祇誌」
「月間神社の祭神は事代主命、阿波命、物忌奈命の三柱である。承和5年(838)より同7年(840)の間に神津島の噴火があったので伊豆国守高原王、阿波命の神託を奏して冠位を請うたから、すなわち造島の霊験によりて阿波神、物忌奈命に従五位下を奉授され、文徳天皇嘉祥3年(850)には官社に列せられ、後其の遥拝所を鯉名に造営せられたのが月間神社である」
南伊豆地方には事代主命一族が、いわゆる賀茂族として神津島より渡来し、伊豆地方を開拓し、統一したことが伝えられている。
『湊郷土史』の中で、賀茂族が神津島から伊豆半島に上陸してきたことについて述べている。
「島焼」が完了した事代主命は、神津島より本后阿波命、第一王子物忌奈命を伴って海路伊豆半島に渡来した。
続日本後紀の巻9承和7年(840)9月23日(乙未)の條
「伊豆国に言う、賀茂郡に造作の島あり。本の名を上津島名づく。この島に坐はします阿波神は三島大社の本后なり。又物忌奈乃命即ちさきの社の御子神なり」
ということは、物忌奈之命の母は阿波命ということになり、父は三島神ということである。この物忌奈之命が弓月君、ならば三島神の正体は一体誰なのだろう。
日向神社神名帳
祭神・とうなへの王子。称日向大明神続日本後紀には集録されざるも三島大社の本后阿波命に二王子あり。御兄命は長じて物忌奈命として奉斉されたるも御弟命「とうなへ」の王子は夭逝せられて此地へ奉斉されしこと伊豆七島誌に見えたり
昭和三年に国に提出した「神社昇格願」の全文が資料として収録されています
伊豆三島神社伊豫大山積神社摂津三島鴨神社此三社ハ御祭神同一神ニ坐マス則チ伊豫風土記ニ仁徳帝ノ時自百済帰来坐津国御島坐云々トアリ因テ推ルニ当神社創祀ノ年代不詳ナレトモ右ハ仁徳帝ノ御宇此神ヲ津国ニ奉祀セラレタルヲ謂ヘルモノニシテ此神此島ニ住マレ給ヒシニハ非ジ此御代ハ難波高津宮ニ遷都シ給ヒシ御代ナレバ其上流タル淀川ノ川中島タル此神島ニ奉祀シタルモノナルベシ蓋シ同帝ノ最モ叡慮ヲ垂レ給ヒシハ淀川ノ氾濫ニシテ浸水ハ帝都及ビ難波国ノ一大恐怖タリシナリ而シテ堤防守護ノ神トシテハ此大山祇神ニ越シタル神ハ坐サズサレバ此神ヲ淀川川中島ニ奉祀シタルニテ大水上ノ神ニ坐セバ河身奉祀ノ意義モ合理ニ坐セリ
百済よりやってきた(渡来した)のではなく「帰り来て」云々としています。
三島鴨神社の主祭神は大山祇神と事代主神の二柱で、これは伊豆の三嶋大社と同様です。三島=御島神はオオヤマツミ神であるのに、どうしてここに事代主神が一緒にまつられているのか、また、社号になぜ「鴨」がついているのかは大きな謎なのですが、『三島鴨神社史』によれば、三島=御島神、つまりオオヤマツミ神の祭祀に奉仕するのは三島王族=鴨一族が朝廷から命じられたもので(「朝廷から山背川の中州の大山祇神のおやしろを護持せよと命じられた三島王族」)、三島王族=鴨族の祖神はオオヤマツミ神ではなく事代主神(言代主神)だったからだと説明しています。『神社史』は、「大山祇神につかえる神主でもあった三島王が、みずからが尊崇していた言代主神を、御島の大山祇神のおやしろにともにお祀りしたのは、自然なことだった」と結んでいます。
河野氏の秘伝的家伝書『水里玄義』には、物部氏の祖神饒速日命より出、物部氏の父祖徐福の子孫でもあった越智氏がもともと伊予にいたといいます。
「越智姓 神饒速日命より出つ。伝に曰く、秦の徐福吾が朝に来たりて裔をととめ、其の孫功有りて与州(=伊予)越智郡を領す故に越智を以て姓となす、云々と。」
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/27996987.html
『二十一社記』に賀茂社と同じく天神に属するとあり、伊豆の三島大社に賀茂氏系の言代主神と合祀されることから、(越智氏と)賀茂氏との親類関係が窺える
百済の建国は346年とされていますので、『日本書紀』が言う、応神天皇の時代(270年-310年)に弓月君が百済から来たとなれば矛盾が生じます。
『日本書紀』には応神3年(272年)の事として、
百済辰斯王失礼於貴国天皇 故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰 嘖譲其无礼状 由是百済国殺辰斯王 以謝之 紀角宿禰等便立阿花為王而帰
という記述があります。これは、「百済の辰斯王が貴国(倭国)の天皇に無礼を働いたので、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰らを遣して(つかわして)、その無礼を叱責した。百済の民は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは、阿花(アシン)を王にたてて帰国した。」と言う意味です。
つまり応神3年に百済王・辰斯王(しんしおう/チンサワン)が死んだと言う事です。12世紀に記された、朝鮮三国時代から新羅が統一するまでの歴史を記した『三国史記(さんごくしき/朝鮮半島に現存する最古の歴史書)』によると、辰斯王が死んだのは392年とされ、前述の広開土王碑では、辰斯王が死んだ年の事として先に挙げた「百残(百済)と新羅は高句麗の属民であり、高句麗に朝貢していたのに、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民とした」という記述があるのです。両者に1年の誤差はありますが、辰斯王が死んだのは391年、もしくは392年という事になり、これから逆算すると応神元年は389年か390年という事になり、『日本書紀』が270年と伝える応神天皇の時代とは120年も誤差がある事になるのです。このような事から、秦氏らが日本へやって来たのは5世紀以降と考えられるのです
大酒神社の 祭神、秦始皇帝、弓月王、秦酒公
『新撰姓氏録』左京諸蕃上には
「秦の始皇帝の十三世孫・孝武王の子・功満(コマ)王、仲哀天皇八年来朝帰化 その子・融通王(ユウズウオウ=弓月君)、応神天皇十四年来朝帰化。
太秦公宿弥(ウズマサコウスクネ)の祖也」とあります。
『三代実録』には 「元慶七年十二月、右京人・秦宿祢永原、秦言。
秦氏は秦の始皇十二世孫・功満王の子・融通王の苗裔(ビョウエイ)で、功満は占星して翌朝に深向、遠く日域を志したが、新羅が路をはばみ王都を隔てしも、陽を仰ぐ心、空しからず、天誅くだって罪人を伐ち、官軍塵を払って、百二十七県の人民、誉田天皇十四年、歳次(サイジ)・癸卯(ミズノト ウ)、ここに内属し焉わる也。」
との記述があります。
この香春神社は西暦927年に編纂された延喜式神明帳(エンギシキジンミョウチョウ)に記載されている延期式内社です。
香春神社の祭神は辛國息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト)、忍骨命(オシホネノミコト)、豐比賣命(トヨヒメノミコト)です。
弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波陁姓を賜ったとする。)その後の子孫は氏姓に登呂志公、秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。
「(太秦公は)秦始皇帝の三世孫、孝武王自り出づ。男、功満王、帯仲津彦天皇、諡は仲哀 の八年に来朝く(まうく)。男、融通王、一に弓月王と云ふ 、誉田天皇 諡は応神 の十四年に、廿七県(にじゅうしち・あがた)の百姓(ひゃくせい・おおみたから=民人)を来け率ゐて帰化り、金銀玉帛(はく・びゃく=秀麗な布)等の物を献りき。大鷦鷯(おおさざき)天皇 諡は仁徳 の御世に、百廿七県の秦氏を以て、諸郡に分ち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢ら使めたまひき(たてまつらしめたまいき)。」
同書山城国諸蕃筆頭秦忌寸条
「太秦公宿禰と同じき祖。秦始皇帝の後なり。(以下ほぼ上と同文につき中略)(応神)天皇嘉(め)でたまひて、大和の朝津間(あさづま・朝妻)の掖上(わきかみ)の地を賜ひて居らしめたまひき。」
これは現在の奈良県御所市朝妻一帯を指している。
来朝して最初の大和での居住地が御所市だったわけであるが、朝妻掖上と言えば、近くに神武天皇東征で国見をした朝津間ほほまの丘があることでも知られている。
葛城
古代の地名。「日本書紀」神武記に「葛城」の地名の伝承を載せている。(この記事は地名に付会して、奈良町時代に作られた説話である。)
同書に、
「又高尾張邑に土蜘蛛有り。其の人と為り身は短くして手足長く、侏儒と相類たり。皇軍葛網を結いて掩襲ひ殺しつ。因りて其の邑を改め号けて「葛城」と曰ふ。」
とみえる。奈良朝の「風土記」「日本書紀」「古事記」などにみえる地名の伝説については、その起源は曖昧であるが、地名の発生が古いという査証と考えられる。
この書にいう「高尾張邑」とは、土蜘蛛の伝説と合わせ考えると、旧吐田郷村の葛城の丘陵をさしているのであろうと思われる。
「高」は高地を、「尾張」は山の尾根・丘の尾根が張り出してる丘陵。
鴨
「鴨」は賀茂、迦毛、甘茂、加茂とも書く。いわゆるカミ(上・神)の転呼で、部族名から地名に用いられたと考えられる。
加茂大御神⇒賀茂朝臣・賀茂県主・鴨部叔・鴨県主・鴨君⇒大和葛城の鴨・山城の鴨・播磨、安芸、佐渡、美濃、三河の賀茂郡など全国的に分布。
掖上
「ワキカミ」は、「日本書紀」神武記にみえる。「掖上頬間丘」、同推古記に「掖上池」の名がみえる。御所市平坦部の総称であったらしく、鴨神信仰によって広域に波及した古代地名であろうか?
ワキカミの地は、清水湧出する「ワキス」に近く、そこに鎮座する神の地とする説。
ワキカミは、「大神」に対する区別呼称で、分神の意で、ワカカミの義であろうとする説。等々の諸説有り。
秋津洲
アキツシマは、「日本書紀」神武記31年の条に「因登掖上頬間丘、国状廻望日雖内木綿進迩国、如猶蜻蛉臀咄、之有秋津洲之号云々」とあるように、奈良朝時代から実在した地名である。
遠近江の大社、2社のひとつ
現在の祭神は次の9柱
主祭神 敬満神(きょうまんしん/けいまんしん)
相殿神 少彦名命(すくなひこなのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)
速須佐之男尊(すさのおのみこと)
合祀神
建御名方命(たけみながたのみこと) - 明治7年(1874年)合祀の諏訪神社祭神。
事代主命(ことしろぬしのみこと) - 同じく合祀の諏訪神社祭神。
阿遇突知命(かぐつちのみこと) - 同年合祀の愛宕神社祭神。
御食都神(みけつかみ) - 同年合祀の三狐神社祭神。
高皇産霊神(たかみむすびのかみ) - 同年合祀の天神社
祭神は『日本文徳天皇実録』[原 1]では「敬満神霊」と見えるが、伴信友が『蕃神考』で主張して以来、その素性を秦氏遠祖の功満王に比定する説が知られる。この功満王は、『新撰姓氏録』[原 2]によると秦の始皇帝三世孫の孝武王の子、かつ融通王(弓月君)の父とされる伝承上の人物で、仲哀天皇8年に渡来したという(ただし『日本三代実録』[原 3][原 4]では出自・渡来時期の異伝を載せる)。
功満王説では「敬満」が「功満」に比定され、また『続日本後紀』[原 5]に遠江国蓁原郡の人として見える「秦黒成」の存在から、当地一帯に居住した渡来系氏族の秦氏がその氏神を祀ったものと想定されている。
近世頃から祭神は文献に少彦名命と記されるようになり、明治以降も少彦名命説を踏襲していたが、昭和13年(1938年)に現在の「敬満神」に訂正された。
なお、一帯では現在までに
敬満大井神社(榛原郡川根本町千頭)
鏡満神社(焼津市西島)
敬満神社(榛原郡吉田町大幡の八幡神社に合祀)
の関係社3社の分布が知られ、これらは敬満神社(当社)からの分祀とされる。
静岡県島田市阪本の牧ノ原(牧之原)台地に鎮座する敬満神社(けいまんじんじゃ、きょうまんじんじゃ)は、垂仁天皇26年(237年)に創建されたと伝えられています。
平安時代の貞観2年(860年)には、遠江国(静岡県西部)の神社としては最高位の正四位下に格上げされたと、歴史書「日本三代実録」(延喜元年(901年))に記載。
延長5年(927年)に編纂された「延喜式」(全国の神社一覧がまとめられた巻九・十は、「延喜式神名帳」(えんぎしきじんみょうちょう)と呼ばれる)には、敬満神社(大名神)と記されています。
遠江国の神社で「大社」「名神」という呼称があるのは、浜名郡の角避比古神社(つのさくひこじんじゃ)と敬満神社だけで、非常に格式の高い神社でした。
弓月君が倭国に来朝する際、加羅国に迎えに行ったのは対新羅外交を統括する葛城襲津彦であったが、十四〜十六年の三年間半島で延滞した。新羅は対百済外交を妨害している事がわかる。三年間の延滞は、葛城襲津彦が新羅王の仕組んだハニートラップに懸かっていたためかもしれない。いずれにしても、弓月君が百二十県の人民を連れて帰化するということは、ほぼ一国分の人民が日本に移住したのである。『紀』にはないが、弓月君=融通王は後に秦(はた)氏の祖とみなされている(『新撰姓氏録』など)。『記』では、秦氏の祖、仁番(にほ)が渡来したとなっており、弓月君との関連は記されていない。それでは、秦氏の祖といわれる弓月君は半島のどこにいたのか?
秦氏とはどういった氏族なのであろうか? 『梁書』新羅伝(629年)は記す「新羅者 其先本辰韓種也 辰韓亦曰秦韓 相去萬里 傳言秦世亡人避役來適馬韓 馬韓亦割其東界居之以秦人 故名之曰秦韓」(新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。辰韓はまた秦韓ともいう。双方は遠く離れている。伝承では、秦代に苦役を避けた逃亡民が馬韓にやって来たので馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させたゆえに、これを秦韓と名付く)。「辰韓始有六國 稍分為十二 新羅則其一也」(辰韓は初め六国だったが十二に細分した、新羅はその一国である)。つまり、馬韓の地に秦から逃亡した漢族が住み着いた。その地を「秦韓」あるいは辰韓といった。辰韓は初め六国だったが十二に細分した。新羅はその一国である。「秦韓」と新羅は遠く離れているということになる。応神天皇の時代には漢族とは異なる民族が新羅の版図を拡大させたため、「秦韓」の漢族が百済にのがれたのであろうか。仮にそうであれば、新羅人が漢語を話せなかったことと符合する(『梁書』新羅伝「言語待百濟而後通焉」)。
もう一つ手がかりがある。それは、倭の五王の上奏文である。『宋書』倭国伝には、438年「珍」の上奏文に「使持節都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓 六国諸軍事安東大将軍 倭国王」とある。また、478年「武」の上奏文には「都督倭 百濟 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 七國諸軍事安東大將軍 倭國王」とある。ここに「秦韓」が一国として出てくる。新羅とは異なる国である。そして倭王はその国を統括する大将軍と自称している
五胡十六国時代に華北を平定した前秦(チベット系の氐族)滅亡の394年および後秦(チベット系の羌族)滅亡の417年が、神功皇后・応神天皇の時代と一致している。その秦の王族が人民を率いて華北から半島に逃れ、「秦韓」を形成していたとも考えられる。特に前秦は華北を統一し、「皇帝は農耕儀礼である籍田の親耕を行ない、その后は養蚕の礼を行なった」とある。秦氏が養蚕・織絹の技術を持っていたことと符合する。ま
漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていた。学者によると、周王朝(紀元前1066年 - 256年)の創業者である武王が商(殷)王朝(紀元前16世紀 - 紀元前1066年)の末代の帝辛(紂王)を討ち取った後、中原に定住し、その一族を「華族」と称した。また夏王朝(紀元前21世紀 - 紀元前16世紀)の創業者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている。
姫姓
中国史では、姬姓は元々、禹の姒姓と同祖であり、黄帝、帝嚳の別姓とされる。
嚳の子孫の后稷はこの姬を姓として使ったという。后稷の子孫とされる古公亶父が周の始祖であり、その曾孫の武王が殷を滅ぼして、周王朝を築いたためその国姓となった。
周王室から分家した姬姓の諸国として呉(諸説あり)・燕(諸説あり)・晋(もとは唐、諸説あり)・韓(晋の分家で分岐国、晋と同様に諸説あり)・魏(もとは畢、晋の分岐国)・管・魯・鄭・衛・霍・虢(東虢/西虢に分岐)・曹・蔡・虞・滕・随・韓(戦国の韓とは別国家)・劉などが挙げられる。
その後、春秋戦国時代の激動の時代の中で次第に姓は氏(例えば公孫氏など)を用いることが多くなり、周およびその分家の国が滅んでいく中で姬姓と称する者は徐々に消滅していった。
史料によると、その後の姬姓に該当する人物としては、漢の武帝が封禅を行おうとした際に、周の末裔を探したところ庶流筋の姬嘉という人物を発見し、子南君に封じて、周の祭祀を奉じさせたと記載されている。この人物は、衛の公族筋で、以後時代の変遷と共に何度か転封を繰り返しながら、西晋期間中まで存続し、少なくとも咸康2年(336年、東晋代)までに戦乱のために断絶したと記録されている。
応神紀
「15年
●百済王が阿直伎を派遣し、良馬二匹を奉ったので、阿直伎を管理者として、軽の坂上の厩で飼わせた。
●阿直伎は経典を読むのに習熟しており、太子の菟道稚郎子の教育係とした。
●阿直伎に、汝より優れた博士がいるかと尋ねると、王仁という人物がいると教えた。
そこで、上毛野君の祖、荒田別、巫別を百済へ派遣して、王仁を迎えた。阿直伎は阿直岐史の始祖である。
16年2月、王仁が渡来したので、皇太子の教育係とした。これが書首(ふみのおびと)等の始祖である。
20年、倭漢直の祖、阿知使主とその子、都加使主が、党類十七県を率いて渡来した。」
百済からの渡来人、阿直伎の居住した軽の坂上は高市郡にあり、軽は孝元天皇の都が置かれたとされる土地で、孝元天皇とは卑弥呼を補佐したという男弟です。そして、阿直伎(アチキ)が王仁を紹介するという親密な関係を持っています。つまり、これは全て邪馬壱国の一族の表現です。
漢氏の本拠地は高市郡(=古くは今来郡)の桧隈で、宝亀三年(772)四月庚午(二十日)、漢氏の坂上刈田麻呂がこう奏上しています(続日本紀)
「先祖、阿智使主は、応神天皇の御世に十七県の人夫を率いて帰化し、高市郡の桧隈村を賜って住んでいました。およそ、高市郡内は桧隈忌寸及び十七県の人夫が地に満ちて住み、他姓の者は十のうち一、二でした。」
阿智王自身の姓は記されていませんが、阿智は阿千と同音です。楚人の後裔、タイ族は雲南ではセン、セム、サム、シェム、シャンなどと呼ばれており(「雲南」)、日本ではシャムとなります。見比べると、これが千の転訛であることは一目瞭然ですし、高句麗王も同一人物が朱蒙、鄒牟、衆解と表されていました。
延暦十年(791)四月戊戌(八日)、文忌寸や武生連などが奏上します。
「文忌寸等には、もと二家があり、東の文(=漢)は直と称し、西の文は首と号しました。今、東文はこぞって宿祢に昇格したのに、西文は漏れて忌寸に沈んでいるので、できれば同じ栄号を賜りたいのです。(続日本紀)」
桓武天皇がその本系を明らかにすることを求めると、
「漢の高祖の後を鸞といい、その後の王狗が転じて百済に至りました。百済の久素(貴須)王の時、聖朝(日本)が使を派遣して文人を召したので、久素王は狗の孫、王仁を献じました。これが文、武生等の祖です。」と答えて、文宿祢を授けられています。
王仁を祖とする文首から文忌寸、文宿祢へと転じたのです。どちらも坂上系図の弟腹に含まれています。文氏と漢氏が同族であることは、坂上系図や、漢に出自を置くこの文氏の奏上から明らかです。漢から百済に至り、さらに日本に渡来したことが述べられていますし、祖先の名は「王狗」として、狗トーテム、ヤオ族であることも同時に示唆しています。