好太王・広開土王 碑文

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代史書
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廣開土王、(好太王)は高句麗の王。374年生~412年没。391年即位。 廣開土境平安好太王と、その子長壽王の…

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  • 「好太王碑」の倭に関する記述
    ・399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。
    そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが、「多くの倭人が新羅に侵入し、王を臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。

    ・400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

    ・404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
  • 1444年成立の文献『龍飛御天歌(たっぴぎょてんか)』
    好太王碑文 の存在が明らかにされていない。

    1536年頃の朝鮮驚辺使・沈 彦光が、 満浦から集安辺を眺望して「完顔(わんやく)の故国・荒城あり、皇帝の遺墳巨 碣(けつ)存す」と述べるに止まり、さらに又、1872年成立の『江界志』中 においても、その石碑が何たるかが全く理解されていなかった。  さらに又、現北朝鮮の科学院々士・林 時亨博士も「その陵の真相は全く分か らない」という程度の認識しかなかったという。

    この巨碣が「好太王碑」であるということが明らかになったのは、西暦188 2年・明治15年であったにもかかわらず、当時、朝鮮はこの程度の知識しか持 ち合わせていなかったという。  

    「好太王碑」であると判明する以前は、「後金」の皇帝陵墓くらいに見なされ ていたらしく、この碑文中に出てくる「高句麗」と戰ったという「倭軍」・「倭」 を、当時の朝鮮の学者達は、大体において今の南韓方面の在地勢力と解釈してい たと言われる。
  • 1880年(明治13年・光緒6年)頃に清の集安(現中華人民共和国吉林省通化地級市集安市)の農民により発見され、翌年関月山より拓本が作成された。1961年(昭和36年)、洞溝古墓群の一部として、全国重点文物保護単位に指定される。

    1884年(明治17年)1月、情報将校として実地調査をしていた陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰った資料の中に、好太王碑の拓本が含まれていた(「酒匂本」)。その後、参謀本部で碑文解読に当たったのは文官である青江秀と横井忠直であり、これが倭の五王以前の古代日本を知る重要史料とわかったため、漢文学者の川田剛・丸山作楽・井上頼圀らの考証を経て、1888年(明治21年)末に酒匂の名により拓本は宮内省へ献上された。

  • 倭国の記事 史書では


    『三国史記』

    新羅本紀においては倭兵の状況をリアルにとらえている。
     「(奈勿王九年=三九四年)夏四月、倭兵大いに至る。王、之を聞き、敵すべからざるを恐れ、草の偶人(人形)数千を造り、衣衣(衣を衣(き)て)兵(兵器)を持たしめ、吐含山の下に列立せしむ。勇士一千人を斧[山見]の東原に伏す。倭人、衆を恃(たの)んで直進す。」

    宋書 倭国伝


    倭国の武王、上表文として中国の順帝に差し出していた。
    「わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏みこえ、席の暖まる暇もなく戦ってきた。東方の毛人を征すること五十五国、西方の衆夷を服すること六十六国、海を渡って北方を平げること九十五国にのぼった。(中略)しかるに高〔句〕[馬鹿]は理不尽にも〔百済を〕併呑むしようと企て、辺隷(百済をいう)を抄掠し殺戮をやめようとしない。(中略)今は亡き父の済は、〔高句麗が〕入朝の海路を塞いでいるのを憤り、戦備を整えた百万にものぼる兵士たちも、義声をあげて感激し、大挙出征せんとしたが、その時、にわかに父(済)と兄とを喪い、まさに成就せんとしていた功も水泡に帰してしまった」(「『宋書』倭国伝」)

    倭王武は順帝から「使持節・都督倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六国諸軍事・安東大将軍・倭王」を認められているが、ここに高句麗は当然のことながら記載されていない。「百万にものぼる兵士たち」は誇張があるとは言えども、倭国側の命令で兵士達が争っている事実は、王氏の国の歴史書である中国の『宋書倭国伝』にある。
  • 碑文
    ●399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出むいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出た。
    ●400年、大王は新羅の願いに応じて5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅の王都を占領していた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
    ●404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

    客観的にみて、こうした記述は、倭が百済を助けて高句麗の南進を阻止しようとしたり、伽揶諸国を助けて新羅に侵入した事実があったことを物語るものであろう。
    『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」とあり、人質となった王子を連れ戻すために朴提上が活躍する逸話が記載されている。
  • 1972年、李進煕(りじんひ)氏はその著作『広開土王陵碑の研究』の中で好太王碑に関する驚くべき研究を発表された。陸軍参謀本部の密偵・酒匂景信(さこうかげのぶ)は1883年に碑文の一部を削り取るかまたは不明確な箇所に石灰を塗布し改竄したのち、双鉤加墨本(そうこうかぼくぼん)を作り持ちかえり、さらに酒匂の偽造を隠蔽・補強するためさらに1889年から1900年ごろ参謀本部は碑の全面に石灰を塗布したというのである。さらには、そうした改ざんは、我が国の朝鮮半島へ進出を正当化する意図でなされたというのだ。

    李氏の研究論文は当時センセーショナルな波紋を呼んだ。しかし、2005年6月になって、酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一である旨の新聞報道がなされた。さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新氏により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。これにより、李進煕氏が主張した旧日本陸軍による改竄・捏造説が成立しないことが確定したことになる。
  • 第15代美川王(在位300-330)の時代だとされている。同王の14年(313年)に楽浪郡を侵し、男女2千余人を捕虜とし、翌5年には帯方郡に侵入して、旧楽浪・帯方の両郡を奪取した。
  • 南に新しく興った百済は破竹の勢いで勢力を増してきていた。両国の本格的な衝突は、故国原王が369年に百済の北界に侵入したことに端を発する。

    そこで、百済の近肖古王は、371年に太子の近仇首とともに精鋭3万を率いて高句麗の南進の牙城である平壌城を攻めた。このとき、故国原王は不幸にも百済軍の流れ矢にあたって死んでしまった。この故国原王の戦死は、高句麗にとって忘れがたい怨恨事となり、それ以後百済との衝突はますますエスカレートしていく。
  • 好太王碑発見のいきさつ

    発見されたのは19世紀後半の1880年、清の年号で光緒6年、明治13年(その4年前という異論あり)、作業中の農民が、蔦や苔で覆われてい大石碑に気 が付いたのです。その話を翌々年、清の役人で金石愛好家が知り、県知事とも相談して、碑面に牛糞を塗って乾かしてから焼かせ、刻まれた字(一字約12セン チ大)を初めて見たということです。ざらざらした小石混じりの角礫凝灰岩で、焼損もあり、丈夫な紙がないと拓本は困難でした。拓本に代わって、双鉤(そう こう:碑文の字画の外縁を線でなぞって写し取り、後から回りを墨で塗りつぶす法)ではなく、墨鉤(ぼっこう:ざっと拓本をとって字形を赤字に描き、紙を当 ててその形を墨で白く浮き出させる法)で複数部造られました。


    この数ヶ月後の明治16年秋に、日本の陸軍参謀本部の情報員、酒匂景信(さこうかげあき)中尉が現地の「地理政誌」を隠密裡に調べるなかで、先の墨鉤本 一式を持ち帰りました。参謀本部はこの重要性に気づき、漢学者などを動員して解読、写真・釈文あわせて『會餘録』第五集として出版します。時に明治22年 (1889年)、明治憲法発布の年です。

    朝鮮や韓国は、このときまで好太王碑の存在を知りませんでした。

  • 永楽五年(三九五年)王は自ら兵を率いて契丹族の稗麗を撃った。これに付随して、辛卯年(三九一)、百済・新羅は元属民であったのに、倭が海を渡り百済・新羅を臣民としたことも記述している。

    永楽六年(三九六年)王は軍を率いて百済を撃ち、空前の大成果をあげた。

    永楽八年(三九八年)王は兵を粛慎に派遣し撃ち、朝貢させた。

    永楽九年(三九九年)百済が倭と内通した。王は平壌に下り倭の進出に直面した新羅の救援を決定した。

    永楽十年(四〇〇年)王は新羅救援のため五万の兵を派遣し、新羅・任那加羅などに進み倭を退却させ、また安羅人を撃ったらしい。また、新羅は広開土王の時に朝貢するようになったとみられる。この部分は判読が難しい文字が多い。

    永楽十四年(四〇四年)倭はまた侵入してきたので王は自ら率いてこれを撃った。

    永楽十七年(四〇七年)王は五万の兵を派遣し、大勝利をおさめた。

    永楽二十年(四二〇年)王は自ら率いて東扶餘の国都にせまった。年譜の最後には、王がおおよそ撃破したところは、城が六四、村は一四〇〇であったと述べている。

    倭と百済の関係

    『三国史記』百済本紀より
    広開土王が百済を討ったとする三九六年の翌年、阿莘(あか)王の六年(丁酉年、三九七年)に、百済は倭国と好を結び、太子の腆支を質とした、とある。阿莘王が十四年(乙巳年、四〇七年)に亡くなると、太子の腆支は倭国から帰国して腆支王となった。
    この二つの記事は『日本書紀』にも書かれている。応神八年三月の記事では、百濟人が来たという本文に「百済記」を引いた注で、阿花王が日本に無礼であったので、土地を奪われた上、王子直支を遣して、日本と好を脩めた、とある。また応神十六年是歳条には、百済の阿花王が亡くなったので、直支を帰国させて王としたことを述べている。『日本書紀』は、応神八年を丁酉年、応神十六年を乙巳年としているので、百済と日本に残る記録は一致している。
  • 『三国史記』新羅本紀によると、奈勿王三十七年(壬辰年、三九二年)には高句麗から使いが遣され、次の王となる実聖を質として高句麗へ送ったとある。広開土王が即位した辛卯年(三九一年)の翌年であるから、広開土王は王となって早々に新羅への働きかけを始めていたことになる。碑文で新羅を救援したという⑤の二年後、新羅本紀実聖王元年(四〇二年)には、倭国と通好し、奈勿の王子未斯欣を質としたとある。しかし、五年後の実聖王六年(四〇七年)には倭人が辺境を侵し、七年には倭人が対馬島に「営」を置いたという情報が入るなど、新羅と倭は外交上の緊張と緩和が時に応じて伝えられている

  •  八年 夏五月丁卯朔 日有食之 秋七月 <高句麗>王<談德> 帥兵四萬 來攻北鄙 陷<石峴>等十餘城 王聞<談德>能用兵 不得出拒 <漢水>北諸部落 多沒焉 冬十月 <高句麗>攻拔<關彌城> 王田於<狗原> 經旬不返 十一月 薨於<狗原>行宮
    — 『三国史記』「百済本記」391年

     八年、夏五月一日に日食あり。秋七月、高句麗の王、談德(好太王)が4万を兵で北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とされた。王は談德が用兵に長けてると聞き出兵を拒否、漢水の北の部落が多数落とされた。冬十月、高句麗に關彌城を落とされた。王が狗原に狩りに出て十日が過ぎても帰って来なかった。十一月、狗原の行宮にて死去した。
  • 阿莘王(あしんおう、生年不詳 - 405年)は百済の第17代の王(在位:392年 - 405年)。『三国史記』百済本紀・阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王(あくえおう)とされる。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。第15代の枕流王の長男であり、枕流王が385年11月に死去したとき、阿莘王がまだ幼かったので叔父の辰斯王が第16代の王位を継ぎ、辰斯王が392年11月に死去して阿莘王が第17代の王位についた。

    『日本書紀』には「枕流王の薨去の際に辰斯王が王位を簒奪し、後に辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために日本の側は紀角宿禰などを遣わせて譴責したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花を百済王に立てた。」とある。

    即位の直前(392年10月)に高句麗に奪われた関彌城について、百済北辺の要衝の地であるとして奪回を企てた。勇将であった真武(王妃の父)を左将に据えて、393年8月には一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしたが、高句麗兵の籠城戦の前に兵站が途切れたために撤退することとなった
  • 高句麗に奪われた関彌城[2]について、百済北辺の要衝の地であるとして奪回を企てた。勇将であった真武(王妃の父)を左将に据えて、393年8月には一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしたが、高句麗兵の籠城戦の前に兵站が途切れたために撤退することとなった。翌年にも高句麗と戦って敗れており、さらに396年には好太王に漢山城(京畿道広州市)まで攻め入られて大敗した。阿莘王は高句麗への服属を誓わされ、王弟や大臣が高句麗へ連行されることとなった。しかし服属を誓いながらも、倭国との修好を結んで高句麗に対抗しようとし、太子(後の腆支王)を倭国へ人質として送ってもいる。こうして高句麗との戦いは続けられたが、敗戦を重ねるだけであった。また、399年高句麗討伐の為の徴発が厳しく、百済から新羅に逃れる者も多く出た。『好太王碑文』によると399年から倭の新羅侵攻がおこっており、倭は新羅国境に満ちて城池を潰破して、さらに翌400年になると倭が新羅の首都を占領する状況にあったが、この399年に百済は高句麗との誓いを違えて倭と通じている。後に403年には新羅への侵攻も試みている。
  • 『三国史記』によれば402年5月にも使者を派遣(目的は宝玉の入手か)しており、403年2月には倭国からの使者を迎え、特に手厚くねぎらった、と記されているが、使者の往来に関する記事は日本側の資料には見られない。また、

    『古事記』に記される「百済から献上された和邇吉師(王仁)」は阿莘王の時代に相当するが、王仁に比定されうる人物は半島側の資料には見られない
  • 琅邪王氏 書家

    名前が同じ人が一族に居た
    「倭に渡来した文人・和邇吉師は琅邪王氏かもしれない」というが、、、


    和珥(wani)が王(wan)を元にした名ということであれば、やはり大陸系の名を反映してると見れそうです。

    琅邪王氏の初代は「王吉」
    wan-kichiと読めば和邇吉師(wani-kishi)の名前とそっくりになる。この王吉は後漢時代の政治家で、「論語」など五経を好んで読んでたということです。

    「新撰姓氏録」によれば、王仁の子孫は「出漢高皇帝之後鸞王也」で皇帝だったとか。


    王仁は百済人ではなく、
    中国の山東半島の琅邪王氏との仮説に、信憑性が高まるが、ここは百済と高句麗の争奪の地
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