三国遺事

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代史書
image三国遺事

朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に頼るしかない。 古代の朝鮮半島に関しての文…

Read the full story here


コメント

  • 朝鮮の史書「三国史記」・「三国遺事」の伝える所によると、390年~425年間に新羅が、高句麗と倭に送った「質子・ひとじち」の事が書いてある。

    この話を整理すると以下になる。

    390年 美海(末叱喜)を倭へ(三国遺事)
    392年 実聖を高句麗へ(三国史記)
    401年 実聖帰国(三国史記)
    402年 末斯欣を倭へ(三国史記)
    412年 卜好を高句麗へ(三国史記)
    418年 卜好・末斯欣、高句麗・倭より帰国(三国史記)
    419年 宝海を高句麗へ(三国遺事)
    425年 宝海、高句麗より帰国・美海(末叱喜)、倭より帰国(三国遺事)

    高句麗はBC2には周囲に知られる国であった。国の知名度は、高句麗・百済・新羅の順になる。新羅は遅れて成長したために、4世紀末~5世紀初には迷いながらも先進の高句麗に従属するが、高句麗の支配より抜け出そうと計っていた。

    高句麗と戦争をした時に、倭の攻撃を受けると困るので、倭と友好な関係を築くため、倭にも人質を送ったと考えられる。高句麗従属の迷いを見せる一つの例が上記である。

    *「三国史記」より
    「朴堤上・毛摩利叱智・毛永(末)、モーマル」倭より人質奪還
    390年~425年間の約30年間「倭の人質」であった美海(末叱喜)を取り戻すために策を弄して目的を果たしたが、罰を受け焼き殺された新羅の忠臣「朴(金)堤上・毛永(モーマル)」の話。

    新羅の王は人質として高句麗と倭に送った二人の弟に長い間会えないのを憂いていた。
    そこで臣下が「朴堤上」(ボクテイジョウ・毛永、モーマル)という剛勇にして知恵のある者がおります。この男ならば王の望みを叶えることが出来るやもしれませんと進言した。王に拝謁した朴堤上は、高句麗は大国で王も賢君であるが、倭人のごときは口先で用が足ります。我が命に代えて謹んでお引受けいたしますと答えて、妻子に別れも告げず、倭に出発した。

    倭王に接見した朴堤上は「鶏林の王が罪なき我が父兄を殺したので、逃亡して倭国にやって来ました」と言い、倭王はこの言葉を信じて住む家を与えた。
    堤上は人質である美海(末叱喜)と日々一緒に海浜に遊んで、魚鳥を捕えて倭王に献上したので、倭王はこれを喜び、益々堤上を信用した。

    堤上は頃合いをみて、暁に霧がかかった日に舟で海に出、美海(末叱喜)に「今が新羅に帰るチャンスです。このまま行ってください」と進言して、美海(末叱喜)を送った。

    そして美海(末叱喜)が逃げる時間を稼ぐため美海の家に行き、翌朝~日暮れまで見張りの者に美海が疲れて寝ていると言い繕った。

    しかし、事が明らかになり堤上は囚われた。堤上を信用していた倭王は「お前はなぜ美海(末叱喜)を逃がしたのだ)と聞いた。「私は鶏林(新羅)の臣であり、倭国の臣ではない。新羅王の命令を達成するのが私の望むところだ」と答えた。

    倭王は怒り、「お前が、鶏林(新羅)の民と言えば、五刑を具す。ただし、倭国の民と言えば、重禄を与える」と言った。

    堤上は「鶏林(新羅)の鞭打ちを受けようとも、倭国の食禄は受けない」と答えたので、堤上は拷問を受けた後焼き殺された。(巻45 朴堤上伝)

    「日本書紀」の記述
    新羅の王がウレシホツ・モマリシチ(堤上)・ホラモチ等を遣わして朝貢してきた。
    久しく帰っていない人質のミシコチホツカン(末叱喜)を返してくれとの要望である。
    使者の話を聞いて同情した皇太后が、カツラギノソツヒコを同道させて送ることにした。

    対馬に至り、一同がさひのうみ水門に泊まった時の事、新羅の使者モマリシチ等が密かにミシコチを船に乗せて、新羅へ逃がした。(ミシコチの床に人型を作ってミシコチが重病であると装い欺いたが、ソツヒコが人を遣わして病人を看に行かせたのでバレてしまった)
    ソツヒコは新羅の使者三人を捕え、檻中に入れて火を以って焚きて殺した。
    (神㓛摂政五年条)
  • 倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。この時、于老の子は幼くして、能く歩くこともできなかったので、人がかれを抱いて馬に乗って帰ってきた。この子は後に訖解尼師今(十六代王)になった。未鄒王(十三代王)の代に倭国の大臣が来た時、于老の妻は国王に乞うて、家に倭国の使臣を招待して酒宴を設け、彼らが酒に酔うや、力の強いものに彼らを庭に引きおろし焼殺して、夫を焼殺された恨みをはらした。これに倭人は怒り、金城に攻めて来たが、勝てずして引き返した。「三国史記・列伝」
  • 397年 夏五月、百済王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。「三国史記・百済本紀」

    399年 百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで高句麗王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。「好太王碑文」

    400年 5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。「好太王碑文」
  • 402年 三月に新羅は倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。「三国史記・新羅本紀」 倭国と和親を結ぶ時、倭王は奈勿王の子の未斯欣を人質として請うた。実聖王はかつて奈勿王が自分を高句麗へ人質としてつかわした事をうらんでいたので、その恨みをその子ではらそう思っていた。それ故に、倭王の請いを拒まないで未斯欣を倭国に派遣した。「三国史記・列伝」 五月 百済は使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。「三国史記・百済本紀」

    403年 春二月、倭国の使者が来たので、百済王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。「三国史記・百済本紀」

    404年 倭が高句麗の帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。「好太王碑文」

    405年 百済の腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。「三国史記・百済本紀」
  • 美海

    ?-? 新羅(しらぎ)(朝鮮)の奈勿(なもち)王の第3王子。
    「三国遺事」によれば,倭王のもとめで人質として来日した。兄の訥祇(とつぎ)王(在位417-458)が即位すると弟の召還をもとめ,かわりに金堤上(きんていじょう)(毛麻利叱智(もまりしち))を派遣し,美海は30年ぶりに帰国した。味叱喜(みしき),未斯欣,微叱己知(智)とも。

    久留米の高良宮に残る古文書「高良宮縁起」に、390年ころと見られる次のような記述があるそうです
    <高良玉垂命、没す。子の斯礼賀志(しれかし)命、立つ。>

    この玉垂命(倭王旨かも)の時代以降はまさに英雄時代で、王躬ら軍の先頭に立ち高句麗や新羅と激しい戦に明け暮れていたようです。当然、半島の国々も同じでしょう。十二世紀半ば高麗時代に作られた「三国史記」また十三世紀に作られた「三国遺事」には、倭国が半島に攻め入った話がかなり出てきます。でも新羅の史料はかなりあるようですが、高句麗や百済の史料はあまり残っていなかったようです
  • <那密(奈勿)王の即位三十六年(390年)、倭王、使いを遣わす。来朝して曰く、「寡君(かくん。倭国の使いが倭王を謙譲して呼んだ)は大王(奈勿)の神聖なることを聞きて、使臣らをして以って百済の罪を大王に告げしむるなり(新羅の虚言?)。願わくは大王、一王子を遣わして、誠心を寡君に表したまへ」と。これにおいて王、第三子美海(未叱喜ミシキ、また未斯欣とも)をして、以って倭を聘(と)はしむ。美海、年十歳。言辞と動止とはなお未だ備具せざりき。故に内臣朴娑覧ボクサランを以って副使となして、これに遣わす。>(三国遺事新羅)
  • 396年に高句麗に攻められて、臣従を誓った百済が、翌年すぐさま、また倭にも太子を送って質とした。

    ところが同じ質が新羅からも倭に送られている。
    新羅はまた倭のみならず、高句麗へも同じ意味の質を送っている。これはつまり新羅に対する圧力の強さが高句麗と倭と同等であったことを示している。
     この新羅の質に関しては、二つの伝えがある。

    その一は三国遺事載の記事「391年、奈勿なもち王の第三子、美海びかいを倭に質として出したところ、倭の王は美海を留めて返さなかった。その間419年には王弟寶海ほうかいを高句麗に使わしたところ高句麗王も又寶海を留めて返さなかった。426年になって歃良そうら郡太守堤上ていじょうは王命に従って高句麗に入り、寶海をのがれ帰らさせ、又、転じて倭に渡り、美海を逃れ返らせた」と言うものである。

    その二は「三国史記」にある「392年・(新羅の)伊飡大西知いさんだいにしちの子、實聖じっせいを以て高句麗に質とした。402年、實聖は高句麗より還った。402年、奈勿王の子、未斯欣みしきんをして倭国に質とした。412年、奈勿王の子卜好(未斯欣の兄)を以て高句麗に質とした。418年堤上奈麻の努力により、ト好は高句麗より戻り、また未斯欣は倭国より還った」という話である。
  • 好太王碑にも、新羅が高句麗に人質を出している事は、碑文の永楽十年(400年)の条にうすうす見える。高句麗と倭が戦う中、新羅はひそかに高句麗にも繋がろうとしていたから、倭の攻撃は西方のみでなく、東方でも行われた。
     しかし、その後、高句麗の南進が成功し、新羅はより強く高句麗と結びつく。倭はそれがために、より強く百済と結びついて高句麗に対峙した。

     新羅と高句麗が接近が強化したことを示すのは、417年に新羅王として即位した訥祇王の即位の事情である。三国遺事にはその事情が記されている。
    「實聖王は前王の太子、訥祇が大変徳望があるので、新羅進駐の高句麗兵に頼んで、訥祇を殺そうとした。しかしながら高句麗兵は訥祇の賢行あるを見て、かえって逆に實聖王を殺し、訥祇を立てて王とした。」
  • 『三国遺事』末鄒王
     第十三末鄒尼叱今(一作末祖又末古)金閼智七世孫赫世紫纓仍有聖德。受禪于理解始登王位(今始稱王之陵為始祖堂。蓋以金始始登王位。故後代金氏諸王皆以末鄒為始祖。宜矣)。在位二十三年而崩。陵在興輪寺東。
     第十三末鄒尼叱今(末祖、末古とも)。金閼智の七世孫。赫居世は紫の房に包まれ、聖德を有した。儒理と南解から禅譲され、初めて王位に登った(今、始稱王の陵を始祖堂とする。思うに金氏は初めて王位に登ったのである。故に後代の金氏諸王は皆、末鄒を始祖とする。宜しいかな)。在位二十三年に崩御。陵は興輪寺の東に在る。
  • 初代 赫居世居西干(朴氏)
    *2代 南解次次雄(朴氏)
    *3代 儒理尼叱今(朴氏)
    *4代 脱解尼叱今(昔氏) ←倭人。丹波の国出身説が有力。
    *5代 娑婆尼叱今(朴氏)
    *6代 祗摩尼叱今(朴氏)
    *7代 逸聖尼叱今(朴氏)
    *8代 阿達羅尼叱今(朴氏)
    *9代 伐休尼叱今(昔氏) 13代 味鄒尼叱今(金氏)
    10代 奈解尼叱今(昔氏) 14代 儒礼尼叱今(昔氏)
    11代 助賁尼叱今(昔氏) 15代 基臨尼叱今(昔氏)
    12代 沾解尼叱今(昔氏) 16代 訖解尼叱今(昔氏)
    ..                17代 奈勿尼叱今(金氏)

    興味深いのが新羅建国時に宰相となって影の王のように振る舞い活躍した、「瓢公」。
    瓢箪を腰につけて船で渡来したことから「瓢公」と称された倭人。
    金氏の祖は、件の、倭人である昔氏初代にして第四代新羅王脱解の治世時に、これまた件の倭人宰相瓢公が拾って来たとされている。
    瓢公(あるいは朴氏も)や昔氏一族といった倭人たちが新羅建国に深く関わり、王、宰相として支えた
    辰韓の語が何を意味するかというと、「瓢」とは「朴」
  • 金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)
    説話では、脱解尼師今の治世時に、鶏の鳴き声を聞いたので瓠公に調べさせたところ、金色の小箱なかから小さな男の子が現れた。容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。
    日本側伝承では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとされている[6]。また昔氏の出生について倭国東北1千里(当時の1里はおよそ500m)とされ、今の兵庫県北部等と推定されるが、時代を下ると、兵庫県豊岡周辺のアメノヒボコ伝承との関連が指摘される。昔氏は現在の日本の但馬、丹波、肥後のいずれかの地域から船で渡った倭人と見る向きが多く、その後、日本に戻ったとされる。天之日矛に登場した王子は但馬に腰をおろしている。
  • 新羅
    2011年に発見された『諸番職貢圖巻』では、斯羅國が韓や倭に属したと記してある

    斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王姓募名泰,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉

    斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して始めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。
  • 「法興」という年号
    法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘・『伊予国風土記』逸文といった信用すべき史料に実例が見られる。
    原文『釈日本紀』が引用した古書「伊予風土記」逸文

    「法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣 道遙夷予村正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首  惟夫 日月照於上而不私 神井出於下無不給 万機所以妙応 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異干(天の誤りか)寿国 随華台而開合 沐神井而?(癒)疹 ?(言巨)舛于落花池而化弱 窺望山岳之巌?(愕) 反冀子平之能往 椿樹相?(蔭)而穹窿実想五百之張蓋臨朝啼鳥而戯?(峠の山が口) 何暁乱音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓弥葩以垂井 経過其下 可以優遊 豈悟洪灌霄霄庭 意与才拙実慚七歩 後之君子 幸無蚩咲也」(「法隆寺ハンドブック」より)

    梅原氏の現代語訳(福永光司氏の読み下し文に従って)

    「法興6年10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。 思うに、日月は上にあって、すべてのものを平等に照らして私事をしない。神の温泉は下から出でて、誰にも公平に恩恵を与える。全ての政事(まつりごと)は、このように自然に適応して行われ、すべての人民は、その自然に従って。ひそかに動いているのである。 かの太陽が、すべてのものを平等に照らして、偏ったところがないのは、天寿国が蓮の台に従って、開いたり閉じたりするようなものである。神の温泉に湯浴みして、病をいやすのは、ちょうど極楽浄土の蓮の花の池に落ちて、弱い人間を仏に化するようなものである。険しくそそりたった山岳を望み見て、振り返って自分もまた、五山に登って姿をくらましたかの張子平のように、登っていきたいと思う。椿の木はおおいかさなって、丸い大空のような形をしている。ちょうど『法華経』にある5百の羅漢が、5百の衣傘をさしているように思われる。朝に、鳥がしきりに戯れ鳴いているが、その声は、ただ耳にかまびすしく、一つ一つの声を聞き分けることはできない。赤い椿の花は、葉をまいて太陽の光に美しく照り映え、玉のような椿の実は、花びらをおおって、温泉の中にたれさがっている。この椿の下を通って、ゆったりと遊びたい。どうして天の川の天の庭の心を知ることができようか。私の詩才はとぼしくて、魏の曹植のように、7歩歩く間に詩をつくることができないのを恥としている。後に出た学識人よ、どうかあざわらわないでほしい」(『聖徳太子』梅原猛・著。集英社)
  • <三国史記 百済本紀 阿シン王朝>
    6年(397)夏5月に王が倭国との友好を結んで、太子支を人質に送った。秋7月に漢水之南から大閲した。
    (六年夏五月王與倭國結好以太子支爲質秋七月大閱於漢水之南)

    <三国史記 三国史記권제45(列伝第5)、朴堤上>
    先是実聖王元年壬寅(402)に倭国と興和したが、倭王が奈勿王の息子の未斯欣を人質にすることを求めた。王はかつて奈勿王が自分を高句麗に人質に送ったことを恨んでいたので、その息子で恨を解こうとして、拒絶しなかった。
    (先是實聖王元年壬寅與倭國講和倭王請以奈勿王之子未斯欣爲質
    王嘗恨奈勿王使己質於高句麗思有以釋憾於其子故不拒而遣之)

コメントするにはサインインまたは登録して下さい。