大伴氏、紀伊の名草、豊日別

2»

コメント

  • こんな説がある

    「百済本紀」(日本書紀に引用された)は時間についての記載が必ずしも正確ではないかもしれない。

    というのは、537年の記載で、大伴金村は子の大伴磐(いわ)と狭手彦とを派遣。磐は筑紫にあって国政をとり,狭手彦は渡海して任那を統治し,百済を救ったとされている。
    筑紫にあって国政をとった「磐」が磐井である可能性は否定出来ない。
    10年前に反乱の末に敗れた逆賊「磐井」に通じる名前を、筑紫にあって国政をとる人間が名乗るだろうか、という問題だ。

    もしこれが磐井だとすれば、10年の時差を無視すれば、事態はかなり飲み込めてくる。狭手彦が毛野だ。
    狭手彦が半島で命がけで戦っているのに、大伴磐は支援をさぼり、あまつさえ新羅と手を結ぼうとさえする。

    狭手彦はどうも松浦の一らしい。筑前に王様がいて、筑後の磐井が総理大臣、狭手彦が倭軍の大将という構図だ
    出典
    http://shosuzki.blog.jp/archives/14613361.html
  • 安曇氏が文献上初めて登場するのは、奈良時代(746)年頃で、その年の10月に正倉院に献納された麻布に記載されている文字に『信濃国安曇郡前科(さきしな) 郷戸主安曇部真羊調布壹端(へぬしあづみべのしんよう)』とあります。献上した真羊さんが安曇姓を名乗っていたことが分かります。また、ここに登場する前科郷というのは明科小泉から押野、池田町にかけての山麓に展開していた50戸あまりの郷村で、当時は麻の産地でこれを布に織って税の一種として朝廷に納めていたようです。

    この八面大王の戦いは、ある説では793年~795年の間、もう一つの説では806年と言われています。794年が平安京遷都の年です。
    ここで注目すべき名前が「八面大王」です。いまでこそ(はちめんだいおう)と呼んでいますが、大和言葉(本来の日本語)では(やめのおおきみ)となります。漢字は輸入された文字ですので本来の日本語を漢字になおすときは素直に当てはめていったものの、長い年月で文字だけが記録に残り、読みも漢字の読み方に変わっていったものと思われます。(坂本博著より)
    魏石鬼(ぎしき)さんは、九州の八女(やめ)のおおきみ(磐井氏)の子孫なのです。

    西暦550年前後に安曇野にやって来た八女の磐井氏の息子と安曇族は100年ほどかけて未開の地安曇野に安定した基盤を作り、地名にもなるような繁栄をし、たくさんの古墳を残しました。
  •  古事記には、伊邪那岐命と伊邪那美命は次々と島を生んでゆくのであるが、九州の島を生む場面では、次の記述がある。
     
     次に筑紫島(つくしのしま)を生んだ。
     この島には、身(み、体のこと)が一つで、面(おも、顔のこと、つまり国のこと)が四つある。
     四つの面の名前は:
    1)筑紫国(つくしのくに)は白日別(しらひわけ)、
    2)豊国(とよくに)は豊日別(とよひわけ)、
    3)肥国(ひのくに)は建日向日豊久士比泥別〈たけひむかひとよくじひねわけ〉、
    4)熊曽国(くまそのくに)は建日別(たけひわけ)と謂う。
  • November 2018 編集されました
    豊日別
    祭神
    豐日別命 配 罔象女命、高神

    由緒
     豊前國風土記には、行橋市一帯を「宮処の郡 子え、天孫ここより発ちて、日向の旧都に天降りましき。蓋し、天照大神の神京なり」としている。 行橋市の川の上遺跡は三世紀の墳墓群であり、後漢から三国時代の道鏡、勾玉、鉄刀などが出土していると云う。 相当な権力の存在を思わせる。
     神社の創建はこの社に伝わる古文書では、人皇三十代欽明天皇、(附記欽明天皇は人皇二十九代なり)即位二年秋九月十八日神化老翁之相而現矣託于筑紫日別大神神官大伴連牟彌奈里曰吾和是佐留多毘古乃大神奈利云々(中略)夫猿田彦者天照大神之分神也因之日別大神宮以猿田彦為別宮云々(下略) 即ち、筑紫の日別大神の神官である大伴連牟彌奈里に吾は佐留多毘古乃大神なりと神託があり、豊日別の本宮の為に伊勢神宮並の神宮を建て、猿田彦は別宮としたとある。
     元より頭から信じる必要はないが、猿田彦神を天照大神の分身としてある事は面白い。

    縁起には書かれていなかったが、史料には
    厩戸皇子が587年に社殿を造営させたとある。

    聖徳太子が社殿を建立したのだ。背景を考えると、やはり大伴氏の軍事力が物を言ったのだろう。

    朝鮮半島での戦いにおいても重要な位置をしめていたから
    この宮を祀ることは格別の意味があったのではないか。

    以下、『日本書紀』などの編年で年表を作ってみた。

    ●宣化2年(537)大伴狭手彦は松浦佐用姫と別れて渡鮮する。
    ●欽明元年(540)父・大伴金村は失脚する。
    ●欽明2年(541)大伴狭手彦の三男・神牟祢奈里に猿田彦大神の託宣があった。
    ●欽明23年(562)大伴狭手彦は再び渡鮮して高麗に勝利。
    ●用明2年(587)厩戸皇子が豊日別宮の社殿を造営させた。
  • 由緒によると

    大神は豊日別宮に降臨し「猿田彦は天照大神の分神なりこれにより豊日別大神を本宮とし猿田彦を以て別宮となす」と告げた
    宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造しそれを豊日別大神に併せて祭り、本社の神輿とともに陣列を組んで宇佐への神幸が行われた。
    とあります。

    猿田彦は天照大神の分霊であり、豊日別大神と宇佐神宮は同格であると云っているようです。
  • 景行18年と28年を中心に筑紫や肥前の縁起も含めて整理してみました。

    18年3月 天皇、京に向かおうとして筑紫国を巡狩する。
    7月4日  筑紫後国(みちのしりのくに)の御木(みけ=三池)に至って高田行宮に居す。
           倒れた巨木、歴木(くぬぎ)について話す。
    7月7日  八女県(やめのあがた)に至る。藤山を越えて南粟岬を望んで
           神の山ついて水沼県主猿大海に尋ねる。八女津媛について答える。
    8月     的邑(いくはのむら)で食事をするとき、ウキ(杯)を忘れたことで浮羽という地名になった。
    9月20日 日向より至る。

    27年7月 武内宿禰に北陸視察を命じる。
    8月     熊襲が背く。
    10月13日 日本武尊(16歳)に熊襲を討たせる。
    12月    川上タケルを討伐。
    28年2月  日本武尊戦勝報告。

    以上が『日本書紀』の記述(一部)です。
    景行天皇は18年に三池から八女、藤山を経由して北上し、8月に浮羽に着いています。
  • November 2018 編集されました
    国造本紀に「兄多毛比命」という名前が5箇所ほど出てきます。

    本人としては、无邪志(武蔵)国造として記載され、出雲臣祖二井之宇迦諸忍之神狭命の10世孫とされています)。「兄多毛比」の児とされる4人が、胸刺(武蔵)、波伯(鳥取西部)、大嶋(周防大島)、菊麻(上総市原菊間)の国造に任じられています。
    先代旧事本紀(大野七三編著、新人物往来社)では、「えたもひ」と仮名が振ってあり、すっかりそう読んで居りました。無理のない、一定の説得力のある読み方ではありましょう。

    「兄(え)」は兄弟の兄の意味と取って良いでしょうから、「兄」を分離して「たもひ」の部分に就いて、ちょっとイタズラ(?)心を起こして「たけひ」と読んで見ました。(音訓音、という、重箱+湯桶読みになりますが、そういう読み方も可能です。)

    さて、「タケヒ」と読むと、実は、書紀に3回出てくる「武日」と云う人と名前が一致します。

    垂仁紀25年2月紀には、「武日」は大伴連の遠祖とあります。
    景行40年7月紀では、大伴武日連をヤマトタケルの東征に随行させます。
    同10月紀では、靫部(ゆけいのとものお)を大伴の遠祖である武日に賜った、とあります。
    つまり、ヤマトタケルと関東東北を平らげた後、随行していたタケヒが武蔵の国造となり、その子どもが武蔵国造を継ぎ、他の1人が上総菊間を監督し、他の2人は西国へ、となったように読めます。なお、国造本紀には、房総の、阿波国造、大伴直大瀧、と云うのもあり、これも大伴武日の子孫かと考えられます。

    「兄・多毛比命」は出雲臣祖二井之宇迦諸忍之神狭命の10世孫ですから、これが「大伴武日」のことだとすると、大伴は出雲出身、なんてことにもなりそうです。
  • November 2018 編集されました
    朝鮮半島に渡る大伴狭手彦(さでひこ)を見送った松浦佐用姫(さよひめ)は
    悲しみのあまり、そのまま石になったと言う。
    ところが、コメントで、佐用姫は狭手彦との間に子供を設けている
    との情報が入って来た。その子供の一人が豊日別宮の神官になったという。

    大伴金村と大伴狭手彦は親子に当たる。
    ということは、松浦佐用姫は大伴家の嫁として迎えられて、少なくとも三人の子を生んだということになる。

    その三男が豊日別神社の神官となった。名を神牟祢奈里(こう・むねなり)と言う。

    大伴金村の失脚した年を調べると、540年となっている。
    ここからは、ウィキペディアの通説の年号で考察していこう。
    欽明元年(540)、新羅がついに任那を奪ってしまった。金村は外交政策の失敗を追及されて失脚する。かつて512年の任那四県割譲事件の責任も問われた。

    これをきっかけに大伴氏は凋落していったという。
  • 宣化2年(537)大伴狭手彦は松浦佐用姫と別れて渡鮮する。
    ●欽明元年(540)父・大伴金村は失脚する。
    ●欽明2年(541)大伴狭手彦の三男・神牟祢奈里に猿田彦大神の託宣があった。
    ●欽明23年(562)大伴狭手彦は再び渡鮮して高麗に勝利。
    ●用明2年(587)厩戸皇子が豊日別宮の社殿を造営させた。

    ただし、当宮編年によると、
    ◆欽明元年(532年)猿田彦大神の託宣・降臨
    となる。
  • November 2018 編集されました
    金村大連は天皇の鏡と剣も預かっていて、継体天皇に奉っている。
    手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に推挙したのも金村大連だった。

    大伴金村大連は軍事力で他の豪族をしのぎ、政をほしいままにしていた。
    天皇を推挙する実権を持ち、皇后選びも思うがまま。全盛期を迎えていた。

    大伴氏の拠点はずっと古代には佐賀の吉野ヶ里遺跡の近くに
    あったことを思い出す。
    佐賀平野から玄界灘に抜けるルートも掌握していた痕跡があり、
    武寧王が唐津で生まれたことが、
    大伴氏の存在を抜きには考えられないようになってきた。


    「高田牧全体」では1300頭の成牛馬がいた時期があるという。
    この牧を掌握していた筑紫の長は誰か。当然ながら磐井君だ。
    ここ津屋崎は九州王朝の末裔たる宮地嶽神社関連の領地だった。

    この四十頭の馬を運んだ穂積臣押山は饒速日の末裔。すなわち物部系だ。
    朝鮮半島の南にあった任那諸国の中の哆唎国(たり)の守(みこともち)だった。


    継体6年は西暦では512年。
    百済王の末多王が廃位されたのが502年のことだと書いたが、
    この末多王を任命したのが日本だった。それが479年のことだ。

    この時、百済王の任命権を日本が持っていた。

    国王となすべく、末多王を日本から送り届ける時に、
    筑紫の軍士が500人も護衛して海を渡った。
    この筑紫の軍士派遣から筑紫馬贈与にかけての時代こそ、
    百済に前方後円墳が築造された時代(5世紀後半~6世紀前半)と重なってくる。
  • 此花咲耶姫神社   佐賀県基山町大字園部字古屋敷

    ニニギノ命とコノハナサクヤ姫が結婚したという契山(ちぎりやま)があります。
  • 宇佐神宮の重要神事である「行幸会」にも触れておきたい。これは6年に一度、卯と酉の年に行われるもので、京の公家から神服・網宝が貢納され、宇佐宮側にある古いものと交換する儀式になっている。
    その年には、まず下毛郡大貞の薦神社の池で刈られた眞薦(水草)で、長さ一尺、径三寸の方舟の形をした薦枕を作る。それを御神体として神輿に乗せて担ぎ、宇佐八幡周辺の8つの摂社を巡り、本社に納める。古い神体は奈多八幡宮に移され、6年を経て今度は伊予(愛媛県)の矢幡八幡に移動、最後は海に流されるのだ。
    また、宇佐八幡では、1000余年にわたって「宇佐八幡宮に神鏡を奉納する」という「放生会」の儀式も行われてきた。
    まず、豊前の国司が勅使となって宇佐から直線距離で35キロほど北西にある香春の採銅所に行き、小川で禊をして宮柱の長光家で鏡の鋳造に参加する。
    神鏡ができあがると、ひとまず豊前仲津郡(福岡県行橋市)の草場地区にある豊日別神社に運ばれる。そこから鏡は神輿に乗せられ、氏子たちが行列を組み、7日がかりのリレーで宇佐の隼人塚(凶首塚)に運んで祭りを行い、約6キロ離れた和間浜の浮殿に出るのだ。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。