大伴氏、紀伊の名草、豊日別

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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天忍日命━天津彦日中咋命━日臣命(道臣命)━味日命━稚日臣命━大日命━ ー角日命━豊日命━武日命━武以(建持)…

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  • 名草の鳴神社
    『紀伊続風土記』では、『延喜式』での当社祭神が一座であることから速秋津彦・速秋津姫の2神祭神説を疑問視し、天太玉命を祭神とする説を掲げた。この推測は当地周辺を『和名類聚抄』に見える「忌部郷」の地に比定する説に基づくもので、同記では当地に居住した忌部氏(紀伊忌部)がその祖神・天太玉命を祀ったかという。加えて同記では、荒廃していた当社が享保4年(1719年)に再興された際、速秋津彦・速秋津姫の2神に考定されたかという

    鳴神社を祀った忌部氏の祖先。
     鳴神社の鎮座地は忌部郷と呼ばれていました。この神社の祭神は忌部氏の遠祖の天太玉命であったとも、また紀州忌部氏の祖の彦狭知命とも言われています。 現在は天太玉命を祭神としていますが、これは3年ほど前の宮司さんが取り入れたようで、それまでは、水門の神だけでした。 今の岡崎に当たる忌部村にも天太玉命を祭る忌部里神社がありました。
     忌部氏は中臣氏台頭以前は朝廷の祭祀を司って来た氏族です。従って橿原宮造営に力を発揮したと伝わるように宮大工的な技術者集団でもあったようです。
  • 式内社 伊豫國伊豫郡 高忍日賣神社
    旧郷社

    御祭神 高忍日賣神 
    配祀 天忍日女命 天忍男命 天忍人命
    愛媛県松前町にある。北伊予駅の東1Km。南は田に面した、道路の北側に鎮座。

    創祀年代は不詳。産婆乳母の祖神として信仰されている神社。

    祭神は高忍日売神だが、配祀の神々を見ると、社号の「忍日」からの想像・付会であるような感じ。享保の社記には「天忍男命・大鷦鶺命・阿俾良姫命」。他の社記には「阿俾良姫命・天忍人命・天忍男命・天村雲命・大鷦鶺命」。江戸末期の社記には「天忍人命・天忍男命・天忍姫命」。

    境内の案内には、箒の神ともあったが、これは、『古語拾遺』にある、鵜葺不合尊の生れる時に、産屋の蟹を掃き清めた天忍人命に由来する。天忍人命は掃守(かにもり)連の祖神。
  • 式内社 伊豫國桑村郡 布都神社
    旧村社

    御祭神 布都主神
    配祀
    武甕槌神 天照皇大神 武布都蛇麁正剱
    倭武命 高倉下神 神倭磐余彦神
    愛媛県西条市(旧東予市)にある。壬生川駅から西へ直線で4Kmほどの石延に鎮座。南北に走る道路の西脇に、南向きの狭い境内がある。

    境内には「式内布都神社」の石碑と、案内板。

    案内板にある「秘密祭神」が気になるところ。

    創祀年月は不詳。

    祭神の「秘密祭神」に関しては、古来色々と考証されており、素盞嗚尊ではないか、とする説がある。これは、当社の東500mの佐々久山が「如龍蛇」と形容され、龍蛇退治をした素盞嗚尊の霊剣に関係するとする伝承による。

    志賀剛氏によれば、当地周辺は、中古、津宮郷と呼ばれ、これは布都宮の略。また、地名を石上里としていたが、石ノ辺「伊志乃倍」が石延の字になった。つまり、大和石上神宮と同じ社であると考えられている。
  • 京田辺市の棚倉孫神社

     当社は天神の森に鎮座する。
    祭神は天香古山命(あめのかごやまのみこと)・別名 高倉下命(たかくらじのみこと)・手栗彦命(たなくりひこのみこと)ともいい、手栗彦が棚倉孫に転じたともいわれる。一説にはこの地は養蚕が盛んで棚倉とは蚕棚の小屋の意であり、養蚕に関係のある神ともいう。旧郷社。創祀の由緒は明らかでないが、「三代実録」貞観元年(西暦859)正月27日条に従五位上に叙せられた諸神の一に「棚倉孫神」があり、「延喜式内社」である。本殿は東面し、一間社・流造・桧皮葺。
     以上
  • 出雲神を祭る名草戸畔の一族は、天照大神を祭る天道根命の一族によって、暫時、紀伊国における主導権を奪われた。それは名草戸畔が殺されたときに始まり、国造の地位は荒河刀辧の系から大名草比古命の系の子孫に帰したときが決定的だったのではないか。その結果、荒河刀辧の子孫、豊城入彦命たちは出雲神を担いで紀伊国から東の国へ移住せねばならなかった。そして聖地二荒山に出雲神が祭られたのである。
  • 三輪の大己貴

    http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den136.htm

    崇神朝にいたって大物主神は崇り神となり、国内に疫病多く、民は亡んだ。占ってみると百襲姫命に憑いた大物主神は「よく我を敬い祭らば必ず平む」というので、百襲姫命は祭るが験が現われない。そこで他の三人と崇神が夢占をすると同じ夢をみて、大物主神は大田田根子をもって吾を祭れば必ず平むという。茅渟懸の陶邑から大田田根子を呼び出して祭らせると、さしもの大物主神の崇りも祭り鎮められたという。
    その後、大田田根子は大物主神の祭主となり、三輪氏等の祖となったという。それは磯城族から三輪氏への三輪山の祭主の交替に他ならなかった。そしてこれ以降、記紀の記事から磯城氏の名は一再表われない。
    この三輪山の出雲神大物主神の祭主交替と、御諸山=三輪山における豊城入彦命たちの夢占は無関係なのか。共に出雲神を祭る者の敗北が語られているのではないか。因みに、大物主神の祭主から降ろされた磯城族出身の百襲姫命の父、孝霊は紀伊国造族の女が母であった。豊城入彦命と同様に紀伊族の中で生れ育ったのである。 
  • 天道根命
    妻はタカクラシタの妹。 
    タカクラシタの後を受けて紀の館を賜り、国造となる。紀氏の祖神

    『紀伊続風土記』所載の「国造家譜」は、日前大神と国懸大神(紀伊国造が奉斎する和歌山県和歌山市秋月鎮座の日前宮の祭神)の降臨に随従して以後両大神に仕え、後に神武天皇の東征に際して両大神の神体である日像鏡と日矛の2種の神宝を奉戴して紀伊国名草郡に到来し、毛見郷(現和歌山市毛見 筆者註:日前宮の元宮浜の宮)の琴ノ浦にそれを鎮座させて天皇の東征の成功を祈念したために、即位後の天皇によって論功行賞として紀伊国を授かるとともに国造に任じられ、以来その子孫が国造職を襲うとともに日前宮を奉斎し続けることとなったとの由来を記す

    和歌山県和歌山市秋月、日前国懸 (ヒノクマクニカカス) 神宮。
    香川県坂出市高屋町、高家 (タカベ) 神社。 
    千葉県安房郡千倉町南朝夷、高家 (タカベ) 神社。
  • 『高家神社』紀伊忌部氏祖の彦狹知命の子。


    高家神社由来 主祭神 磐鹿六雁命(尊称・高倍神)
    天照大神・稲荷大神を併せ祀る

    五月十七日 春の例大祭
    十月十七日 秋の例大祭・庖丁式奉納(旧神嘗祭)
    十一月二十三日 新穀感謝祭・庖丁式奉納(旧新嘗祭)
    毎月十七日 月次祭・包丁供養祭

    「日本書紀」の第十二代景行天皇五三年冬十月の条に祭神・磐鹿六雁命に ついて記されているが、延暦八年(七八九)に磐鹿六雁命の子孫である高橋 氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文」にさらに詳細に記述されている。

     景行天皇が皇子日本武尊の東国平定の事績を偲ぴ、安房の浮島の宮に行幸 された折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり海に人れた所堅魚を釣りあげ、 また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(=はまぐリ)がろ れた。磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を膾にして差し上げたところ、天皇は大 いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部を賜った。
  • 『「日本書記」の第十二代景行天皇53年冬10月の条に祭神・磐鹿六雁命について記されているが、延歴8年(789)に命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文」にさらに詳細に記述されている。
    景行天皇が亡き皇子日本武尊の東国平定の事業を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折り、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり、海に入れたところ堅魚を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(はまぐり)がとれた。磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を膾にして差上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(注=子々孫々天皇の食事を司どる役)を賜った。
    これにより磐鹿六雁命(尊称高倍神)はわが国の料理の祖神となり、宮中大膳職の祭神であると同時に、ここ安房、千倉に鎮座する延喜式内社高家神社の祭神として祀られている。
    また、大いなる瓶(かめ=べ)に例え高倍さまとして宮中醤院で、醤油、調味料の神としても祀られている。』(「高家神社由来」より)
  • 香川県坂出市の高家神社

    香川県神社誌によると
    「往古高家首の一族此の地に居住し、其の遠祖天道根命を奉齋して氏神となせるものにして、一に森の宮とも奉称せらる。
    又、崇徳天皇に御還幸あり長寛二年八月二十六日鼓が岡にて崩御せられ、同年九月十六日白峰にて御葬祭奉祀の途次高屋村阿気の地にその御棺を休め奉りしに、俄に風雨雷鳴あり、天晴れて御棺を龝ひ登せ奉れり。
    御葬祭の後村民畏みて天皇の神霊を当社合殿に奉齋し、又御棺を休め奉り石をも社内に納めたり。爾来俗に崇徳天皇血ノ宮と称へらる。」とある
  • 神武天皇
    天皇本記より
    治世二年の春二月二日、天皇は論功行賞をされた。

    宇摩志麻治命に詔して仰せられた。
    「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、さきに神霊の剣を授けて類いない勲功を称え、報いた。いま、股肱の職にそえて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」
    そこで、宇摩志麻治命と天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は共に拝命して、食国の政事を行う大夫になった。この政事を行う大夫とは、今でいう大連、または大臣のことである。
    天日方奇日方命は、皇后の兄で、大神君の祖である。

    道臣命に詔して仰せられた。
    「お前には忠と勇があり、またよく導いた功績がある。そのため、さきに日臣を改めて、道臣の名を与えた。それだけでなく、大来目を率いて、たくさんの兵士たちの将として密命を受け、よく諷歌(そえうた)、倒語(さかしまごと)をもって、わざわいを払い除いた。これらのような功績でつくした。将軍に任命して、後代の子孫に伝えよう」
    その倒語の用いられるのは、ここに始まった。道臣命は、大伴連らの祖である。
    また、道臣に宅地を賜り、築坂邑(つきさかのむら)に住ませて、特に寵愛された。
    また、大来目を畝傍山の西の川辺の地に住ませた。いま、来目邑と呼ぶのはこれがその由来である。大来目は久米連(くめのむらじ)の先祖といわれる。
  • 神武天皇は論功行賞をおこなわれた。

    道臣命は宅地を賜り築坂邑(ツキサカムラ、橿原市鳥屋町付近)に居らしめて特に目をかけられた。また大久米を畝傍山以西の川辺の地に居らしめた。今、来目邑と呼ぶのはこの縁である(古事記にはみえない)

    垂仁天皇紀
     ・5年条--冬10月1日、天皇は来目にお越しになり、高宮におられた。
     ・27年条--この年、屯倉(ミヤケ・朝廷直轄の田畑および収穫物を収納する倉庫)を来目邑に興(タ)てた。
     (古事記は久米、書紀は来目と表記が異なるが、以下、久米と記す)

    久米御県神社
    奈良県橿原市久米町宮の谷
    祭神--高皇産霊神・大久米命・天槵根命
                                           
    「創建は明らかではないが、来目(久米・クメ)に関わる伝承は古事記・日本書紀の神代までさかのぼり、神武東征の伝説に、八咫烏(ヤタガラス)の導きで大和入りする時に活躍し、その功により、『大来目をして畝傍山の西の川辺に居らしめたまふ。今、来目邑(クメムラ)と号(ナヅ)く』との記載がある。
     書紀・垂仁27年紀に『是歳、屯倉(ミヤケ)を来目邑に興す』とみえ、久米村の地に王家の米倉がもうけられており、久米氏の祖神として奉斎されたこの神社は、かなり古い時期にまでたどることができる」
    とある。

    創建後の当社については不詳だが、次第に衰微していったようで、上記案内には
     ・久米氏の退潮により神社も衰えたが(一旦は消滅したのかもしれない)、
     ・のちに同地に建立された久米寺の寺域の一画に、鎮守として天神社または久米宮が創建された(神仏習合思想にもとずく鎮守社と思われ、式内・久米御県神社を引き継いだものかどうかは不詳。
  • 久米御県神社
    弘法大師・空海が若いとき当寺を訪れ密教教典である大日経を発見し、密教招来のための渡唐を決心し、また帰国後の空海が当寺に於いて弟子たちに密教教典を講義したともいう。
     これらが史実かどうかは不明だが、当寺が真言宗に属することからみて、空海と何らかの関係があったとみても良いだろう。
  • 久米氏の系図(古代豪族系図収覧・1993)では
      高皇産霊神--○--○--天津久米命--○--大久米命--○--○--味耳--
    とあり、天津久米命(天槵津大来目命)は大久米命の祖父となっている。

    久米氏の出自・系譜などはも一つはっきりせず、ネット資料(久米氏考)によれば、久米氏発祥の地として、北九州糸島半島説・熊本県人吉地方説・鹿児島県薩摩半島説・大和国高市郡説(当地)などがあるという。
     また古事記・神武天皇段に
     「天皇の命により、オオクメ命が嬬恋の使者としてヒメタタライスケヨリヒメを訪れたとき、命が入れ墨をした鋭い目をしていたことを、姫が不思議に思って・・・」(大意)
    とあることから、当時の久米氏には目の縁に入れ墨をする習慣があり、それが九州南部の隼人族などの風習に通じることから、久米氏の出自は九州ではないかともいう。

     新撰姓氏録(815)によれば、久米氏には
     ・左京神別(天神) 久米直 高御魂命八世孫味耳命之後也
     ・右京神別(天神) 久米直 神魂命八世孫味日命之後也
    として2系列があったとする。
     この両者をみたとき、両氏とも始祖を味耳命(=味日、読み不明)とはいうものの、遠祖の名はタカミムスヒ・カミムスヒと異なっている。この二神は、天地開闢のときアメノミナカヌシとともに成り出た所謂・造化の三神で、この両神を遠祖とするのは、氏族の出自を神別とするための付加とみるべきだが、カミムスヒを遠祖とするのは出雲系氏族に多いことから、出雲との関係がみえない久米氏の遠祖はタカミムスヒとみるのが妥当であろう。
  • 先代旧事本紀は・天日神命を 対馬縣主等の祖、とする。(阿麻氏留神社) 月神命を 壱岐縣主の祖、としている。
  • 案内板より
    『 豊日別宮(草場神社)の由緒
     欽明天皇即位の年(532)、神が老翁の姿と化して現われ、神官の大伴連神牟祢奈里に「我は猿田彦の大神なり天皇を護り臣民の繁栄と安寧、五穀豊穣、病平癒の神である」と告げた。翌日、大神は豊日別宮に降臨し「猿田彦は天照大神の分神なりこれにより豊日別大神を本宮とし猿田彦を以て別宮となす」と告げたことから社殿を建てて祀ったのが本社の起源とされる。
     欽明天皇28年(567)には洪水飢饉などが各地を襲ったが、豊日別大神に祈願し治まったといわれ、その後代々の天皇によって大和の霊跡、西海鎮護の神として尊崇されたという。
     養老4年(720)大隅、日向の隼人が反乱したため、朝廷は大軍を派遣するとともに宇佐八幡神に祈願してこれを討伐した。しかし官軍に殺された隼人の祟りでさまざまな病や災いがあったため、宇佐八幡神は隼人の霊を鎮めるため金光明経の教えに基づいて「毎年放生せよ」と託宣した。これにより魚や鳥などを解き放って生を全うさせる仏教儀礼である放生会が行われるようになった。放生会の際に、朝廷の勅使が一旦、豊日別宮に官幣を奉安したことから官幣宮と呼ばれるようになった。
     官幣奉安の間、田川郡採銅所では宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造しそれを豊日別大神に併せて祭り、本社の神輿とともに陣列を組んで宇佐への神幸が行われた。
     神幸の経路は8月9日草場豊日別宮を発し、国作御所屋敷、徳政若宮を経て11日祓川で禊ぎをし、築上郡湊八幡宮、上毛郡高瀬村、宇佐郡佐野里を経て、13日凶士塚に至り宇佐神宮の神幸を待つ。宇佐八幡の神輿が到着すると並んで和間の浜に向い、浮殿頓宮に宇佐八幡神に官幣と神鏡を奉る。14日後、法会と伝戒があり、15日朝、海に蜷や貝を放流する。
     宇佐神宮に対して度々行われる官幣の奉納に際しては、その後も豊日別宮が官幣奉安の宮居となった。
      平成19年3月  豊日別宮顕彰会  』
  • 英彦山神社
    天照大神の御子であるオシホミミを祀る神社

    英彦山と書いて、「ひこさん」と読み、天照大神の御子・天忍骨尊(日の御子)を祀る神社。

    創祀年代は不詳だが、一説に、継体天皇二十五年(531)、魏の国の僧善正が、山中で修行中、猟師・藤原恒雄と遭い、殺生の罪を説き聞かせた。だが、恒雄は、その戒めを聞かず猟を続け、一頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現し、鹿に檜の葉に浸した水を与えると、鹿は蘇生して逃げ去った。その光景を見た恒雄は、鹿が神の化身であったと悟り、善正の弟子となって上宮三社を建立したという。
  • May 2016 編集されました
    大化前代,紀伊国北部に置かれた地方官。名草郡に本拠をもつ豪族紀直氏が世襲的に任命された。紀直氏は紀ノ川下流域を開発した地方豪族で,日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)両社を奉斎し,祭政両面にわたる勢威を有した。《旧事本紀》《紀伊国造系図》によれば,神武天皇の世,その祖天道根命が当国国造に任ぜられたのに始まるという。《古事記》《日本書紀》にも紀国造もしくはその祖として,宇豆比古(孝元記),荒河刀弁(崇神記),豊耳(神功紀),押勝(敏達紀)らの名が見える。

    …《日本書紀》《古語拾遺》の天磐戸(あまのいわと)の段では,天照大神が素戔嗚尊の暴状を怒って天石窟(あまのいわや)にこもったとき,思兼神の発案で石凝姥が天香山(あまのかぐやま)の銅をとり,天照大神の神威をかたどる鏡を鋳造した旨を記したあと,〈これすなわち紀伊国にまします日前神〉と記しているが,日前神宮はその日像鏡を,国懸神宮は日矛鏡を御霊代(みたましろ)として奉斎すると伝える。天孫降臨にあたり,この鏡が紀伊国造(きのくにのみやつこ)の祖天道根(あめのみちね)命に授けられたことより神武天皇は天道根命を紀伊国造とし,国造はこの神を名草郡毛見の浜の宮にまつり,垂仁天皇16年に神託により現在地に奉遷,以後紀伊国造家紀氏が奉仕してきたという。686年(朱鳥1)天武天皇奉幣,692年持統天皇も奉幣のあと,806年(大同1)の牒に,神封日前神56戸,国懸神60戸とあるが,授位のことがみられないのは伊勢神宮と同様特別視されてのことであろう。…
  • 和歌山 市冬野 鎮座の名草神社の社伝によれば

    「名草比古命は 神産霊命 五世の孫の天道根命の五代の孫とされて おり,
    その妻の名草比売命は 紀國造「智名曽」の妹と説明されています。
     
    『先代旧事本紀』には
    「素盞嗚尊 六世孫の 豊御気主命(またの名を 武甕依命)が 紀伊の 名草姫(紀伊国造 智名曽の妹、中名草姫)を 妻としたとあります
    置帆負命─ 天越根命─ 比古麻命─
    ─天道根命(神武東征に 従い 畿内平定のち 紀伊の國造に 封じらる)─ 麻枳利命─ 比古麻命─ 鬼刀禰命
    ─ 久志多麻命(別名:目菅。弟:薩佐奈胡命[子: 大屋古命[石見国造]、弟:荒河戸畔命)
    ─ 大名草比古命(名草宮に日前宮を 移す。弟: 若積命[子: 穉日子命(葛津立国造。肥前藤津祖)、枳弥都弥命(肥前大村祖)])
    ─ 宇遅比古命(初: 宇豆比古、菟道彦。妹: 山下影日賣[初: 宇遅比女。屋主忍男武雄心命妻。武内宿禰命母]。宇遅比古命の娘の宇乃姫は 武内宿禰命の妻)
    ─ 舟木命(子: 夜都賀志比古命[夜都加志彦])、弟: 等与美々命(初: 豊耳命)
    ─ 紀豊布流(紀君、紀直。弟: 神奴小牟久[神奴君、丹生祝祖])

    http://gejirin.com/src/U/utimaro.html

    天道根命━ 知名曽命━ 比古麻命━ 蔭佐奈朝命━ 鬼刀弥命━ 荒川戸畔命━ 久志多麻命━ 大名草比古命━ 宇遅比古命━ 豊耳命
  • 大伴氏の本拠地は奈良盆地の東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近。神武2年条に、ミチオミが築坂邑-橿原市鳥屋町付近-を賜ったとある)というが、より古くは難波地方を本拠とし、和泉・紀伊方面まで勢力を張っていたともいわれ、そのなかの一支族として、当地の伴林氏が居たのであろう
  • 大田郷(名草郡大田村)の起源説話
    『播磨国風土記』揖保郡 渡来人の呉勝の後裔 
    大田郡には渡来人の牟佐村主、小豆首が実在している。小豆島村に星頭明神(九頭明神のこと)。
    雄略朝に大伴氏の主導で紀伊水門から上陸・定着したと考えられる。(『飛鳥時代の政治と王権』前田晴人)

    その他名草郡の大伴氏
    推古朝 大部屋栖野古連 『日本霊異記』
    724 大伴檪津連子人 名草郡少領 『続日本紀』
    750 大伴若宮連部良 名草郡忌部郷戸主 『大日本古文書』
    750 大伴若宮連真虫 名草郡忌部郷戸主 『大日本古文書』
    750 大伴若宮連大渕 名草郡忌部郷戸主 『大日本古文書』
    760 榎本連千嶋 前名草郡少領 『続日本紀』
    769 大伴部押人 本名草郡片岡里人 『続日本紀』
  • 『古屋家家譜』
    甲斐一宮浅間神社宮司家で伴氏名族とされた古屋家の家譜である。
    高皇産霊尊-安牟須比命-香都知命(紀国名草郡)-天雷命(名草郡)-天石門別安国玉主命(名草郡)-
    天押日命-天押人命-天日咋命-刺田比古命(名草郡)又名大脊脛命-道臣命(名草郡)本名日臣命-味日命-推日命-大日命-角日命-豊日命-武日命-建持連公-室屋大連公-金村大連公-狭手彦

    佐伯宿禰・佐伯首 室屋大連公之後、佐伯日奉造・佐伯造 談(室屋の弟)之後
  • July 2016 編集されました
    鳴神社
    所在地 和歌山県和歌山市鳴神1089
    主祭神 速秋津彦命、速秋津姫命、天太玉命
    社格等 式内社(名神大)
    創建 (伝)第6代孝安天皇年間

    その昔は、日前国懸、伊太祁曽と並ぶ格式であったとされていたが。中臣氏と並び祭祀を司ったが藤原氏(中臣氏)の台頭とともに衰微していった。忌部氏の衰微と共に、衰退していったと言われている。

    『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「鳴神社 名神大 月次相嘗新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・相嘗祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている
    紀伊国に名神大社は多いが、三祭で奉幣を受けたのは鳴神社と日前神社、国懸神社、伊太祁曽神社の4社のみであった。この4社については『令集解』神祇令[原 1]でも「日前・国県須・伊太祁曽・鳴神」として、11月上卯の日の相嘗祭に際して奉幣社に列した旨の記載が見える。

    紀伊名所図会』の引く社伝によれば、孝安天皇(第6代)の頃、名草郡の治水のために水門神である速秋津日古命を祀るよう託宣があり、それによって祀られたのが鳴神社の創建であるという。社名「鳴」は、『紀伊続風土記』で「鳴水」「鳴滝」という谷から流れる水の意と推測されたように、川に関連した名であるとされる

    一方、承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では、名草郡の郷として「忌部(いんべ)」の記載が見える。これは鳴神社南方の和歌山市井辺(いんべ)付近に比定されており、一帯は紀伊の忌部氏(紀伊忌部)の本貫地であったとされる。また同書において「忌部」の次に「誰戸」の記載が見えるが、これは「神戸」の誤記で、「忌部神戸」すなわち忌部神の神戸(神社付属の民戸)を意味するとされる。関連して『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒では、忌部神の神戸20戸のうち紀伊国に10戸の記載が見える。鳴神社には『延喜式』四時祭相嘗祭条の「酒稲50束、神税」の記載から神戸があったことが確かであることから、これらの忌部神戸は鳴神社に付属したと見られ、鳴神社は紀伊忌部の氏神として奉斎されたと考えられている。またこれらの神戸は、鳴神社の鎮座する和歌山市鳴神周辺に分布したと推測される

    なお『古語拾遺』では、紀伊忌部は彦狭知命の後裔であり、名草郡御木郷・麁香郷(いずれも『和名抄』なし)の2郷に居住して材木の貢納、宮殿・社殿造営を担ったと記されている。
  • 豊日別宮(とよひわけぐう)は、福岡県行橋市南泉にある神社。豊日別命を祀る。近代社格では郷社。別名は豊日別神社、草場神社。御朱印の有無は不明。

    行橋市の川の上遺跡は3世紀の墳墓群であり、後漢から三国時代の道鏡、勾玉、鉄刀などが出土している。行橋市には美夜古という別称があるという。

    『豊前國風土記』にも、天孫邇邇杵命がここから出立して、日向の旧都に天降った地で、つまりは天照大神の神京であるとしている。

    当社の創建は、飛鳥時代の第29代欽明天皇2年(541年)と伝わる。

    筑紫の日別大神の神官である大伴連牟彌奈里に神託が下り、「私は佐留多毘古乃大神である。猿田彦神は天照大神の分身である」と。

    そこで、豊日別命の本宮として、伊勢の神宮(伊勢神宮)を模した神宮を創建して、猿田彦神を別宮としたという。

    ここでは、豊日別命は猿田彦神と同一神格としている。また、「天照大神の分身」というのも興味深い。

    欽明天皇28年(567年)、洪水飢饉などが各地を襲ったが、当宮に祈願し、治まったといわれ、その後代々の天皇によって大和の霊跡、西海鎮護の神として尊崇されたという。

    奈良時代の養老4年(720年)、大隅、日向の隼人が反乱したため、朝廷は大軍を派遣するとともに、宇佐八幡神に祈願してこれを討伐した。

    これによって始まった宇佐神宮の放生会で、朝廷の勅使が一旦、当宮に官幣を奉安したことから、当宮は官幣宮とも呼ばれるようになった。

    官幣奉安の間、田川郡採銅所(現 古宮八幡神社)では、宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造し、それを当宮でも奉斎し、当宮の神輿とともに陣列を組んで、宇佐への神幸が行われた。

    道案内の神から、経由地に転じたという指摘もあるが、宇佐神宮と同等の待遇を得たとも読み取れる。

    宇佐神宮に対して度々行われる官幣の奉納に際しては、その後も当宮が官幣奉安の宮居となった。

    かつては官幣宮の他、左留多比古社・官幣大神宮・豊日別国魂宮などとも呼ばれた。明治6年(1873年)、郷社に列した。

    例祭は9月1日。5月4日から2日間に渡って春季大祭が斎行され、神幸祭・汐かき神事が行われる。

    【ご利益】
    交通安全、旅行安全、人生の進路、開運招福
    豊日別宮 - 行橋、「猿田彦神は天照大神の分身」、宇佐神宮の放生会などで別格の崇敬
    【関連記事】
    ・宇佐神宮の放生会 - 隼人征伐における騙し討ちの報いが発端、傀儡相撲などは今に伝わる
  • 豊日別神社
    大伴狭手彦と松浦佐用姫の子


    朝鮮半島に渡る大伴狭手彦(さでひこ)を見送った松浦佐用姫(さよひめ)は悲しみのあまり、そのまま石になったと言う。

    ところが、佐用姫は狭手彦との間に子供を設けている。その子供の一人が豊日別宮の神官になったという。


    大伴金村と大伴狭手彦は親子に当たる。ということは、松浦佐用姫は大伴家の嫁として迎えられて、
    少なくとも三人の子を生んだということになる。

    その三男が豊日別神社の神官となった。名を大伴連神牟祢奈里(こう・むねなり)と言う。


    福岡県神社誌によると、ご祭神は豊日別命だ。


    掲示された由緒書からまとめると、
    欽明元年532年、猿田彦大神が老翁の姿で現れて神官の大伴連神牟祢奈里に託宣して、翌日降臨したとある。

    猿田彦は天照大神の分神で、豊日別大神を本宮とし、猿田彦を別宮としたという。


    大伴金村の失脚した年を調べると、540年

    欽明元年(540)、新羅がついに任那を奪ってしまった。金村は外交政策の失敗を追及されて失脚する。
    かつて512年の任那四県割譲事件の責任も問われた。これをきっかけに大伴氏は凋落していったという。

    この家系は万葉歌人の大伴旅人、家持を生み出している。また軍人だった。旅人は隼人の乱を鎮圧している将軍だ。

    大伴氏は物部氏と並ぶ武門だった。
    また、縁起には書かれていなかったが、史料には厩戸皇子が587年に社殿を造営させたとある。

    聖徳太子が社殿を建立したのだ。背景を考えると、やはり大伴氏の軍事力が物を言ったのだろう。

    朝鮮半島での戦いにおいても重要な位置をしめていたからこの宮を祀ることは格別の意味があったのではないか。

    以下、『日本書紀』などの編年

    ●宣化2年(537)大伴狭手彦は松浦佐用姫と別れて渡鮮する。
    ●欽明元年(540)父・大伴金村は失脚する。
    ●欽明2年(541)大伴狭手彦の三男・神牟祢奈里に猿田彦大神の託宣があった。
    ●欽明23年(562)大伴狭手彦は再び渡鮮して高麗に勝利。
    ●用明2年(587)厩戸皇子が豊日別宮の社殿を造営させた。

    ただし、当宮編年によると、欽明元年(532年)猿田彦大神の託宣・降臨
    となる。

    ●当宮には勅使が来ていた。
    ●宇佐宮から朝廷に奉納する鏡は田川の採銅所村で鋳造され、当宮に立ち寄り、当宮の神輿と共に中津和間の浜に向かった。

    この宮は歴史の空白を埋める重要な宮だ。
    聖徳太子(厩戸皇子)(574~662)が建立したという点でも大事な宮である。
    当地は行橋市だが、かつては京都郡だった。
    福岡県神社誌によると、京都郡祓郷村大字草賀字西の前とある。

  • 聖徳太子、御名は厩戸皇子、また豊聡耳皇子、上宮皇子といふ、世に上宮法王、法主王とも称し、後その徳行を尊び聖徳太子といふ、用明天皇第二の皇子で御母は穴穂部間人皇后、はじめ皇后御懐妊の時、偶々出でて宮省を巡視し、馬官厩戸に至り太子を産み給ふ、因つて厩戸皇子といふ、長ずるに及び好みて書を読む、性最聡敏にして一時に能く十人の訴を聴き殆んど違ふ処がなかつたといふ。用明天皇いたく愛し給ひ宮南上殿に居らしめた、因てまた上宮厩戸豊聡皇子と称せらる、ある時、天皇瘡を患ひ給ふ、太子昼夜側に侍し三宝に祈誓し日響を絶たず、天皇因て仏に帰依せんとし給ふたが、まだ天皇にして仏を礼した例がなかつたので、群臣を召してその可否を議せしめられた、大連物部守屋、中臣勝海は之を不可とし、蘇我馬子は之を可とす、乃て豊国法師を宮中に延く、太子馬子の手を握り、三宝の妙理人之れを知らず妄りに異議を生ず、いま大臣心を福田に帰す、何の喜びかこれに若かむと宣はせられた、人之を守屋に告げたので守屋は兵を備へて自ら護つた。既にして天皇崩御せられ、嗣未だ定まらず、守屋ひそかに穴穂部皇子を立てやうとしたので、馬子は兵を派して皇子を弑し、太子と謀つて守屋を討たんとし給うた、時に太子は髪を額に束ね自ら軍後に従ふ、守屋の勢ひ極めて猛、太子乃て白膠木を以て四天王の像を作り、頂髪の中に置き、今放つ矢は四天王の放ち給ふ所と宣ひ舎人をして射さしめ給ふ、守屋その矢に中つて命を落した、後、推古天皇即位せらるゝに及び、太子を以て皇太子となし、万機の政を摂せしめ給ふ、高麗の僧慧慈の来朝するや、太子之れに師事し五戒を受け給ひ、自ら勝鬘と号し給ふ、十一年には冠位十二階を制し、明年また憲法十七条を定め給ふ、十三年、移つて斑鳩宮に在し、十四年には播磨に水田百町を賜ひ、二十五年更に湯沐邑を益し、東宮の俸常の二倍となつたが、太子これを悉くその創むる所の寺に施入せられた、二十八年には馬子と共に天皇記、国記及び臣連伴造百八十部公民の本記を撰せられ、翌二十九年病のため斑鳩宮に薨じ給ふ、御年四十九、磯長陵に葬り奉る。  (水鏡・大日本史其他)
  •  伝記(「豊日別宮伝記」)


    豊日別系……豊日別宮・豊日別荒魂宮・豊日別龍太王神宮・豊日別龍王宮
    太神龍系……龍王宮・龍王社・太神龍宮・伊曽良龍王宮
    姫太神系……太神宮・神宮

    天智と、それにつづく天武時代の伝記の記述を読んでみます。

    天智天皇七年〔戊戌〕九月、栗前王[くるくまのおほきみ]命令[みことのり]して、神官に当宮を祭らしむ。九州平安の願心なり。自ら願文[ぐわんもん]を書し神剣を奉納す。
    天武天皇元〔壬申〕年、大宰師[だざいのそち]栗隈王年々幣使を当宮に立て、天下国家の平安を祈らしむ。同六年〔丁丑〕八月、明鏡一面・牛王[ごわう]一・匕首刀[びしゆたう]一柄[いちへい]を神庫に納めて神宝と為す。同七年〔戊寅〕当宮の神前に於て、天神地祗を祭らしむ。九州[きうしう]の諸家に命じ祓禊[みそぎはらへ]せしむ。同年十月、大地震度々[たびたび]なり。当宮に祈る。同十一月、下毛郡中三十戸を以て神供の料に封ず。

     六七二年、乱の勃発時、近江朝(大友皇子)は、筑紫の栗前王=栗隈王に援軍の要請をおこないますが、栗隈王は「筑紫国は、元より辺賊[ほか]の難[わざはひ]を戍[まも]る、其れ城[き]を峻[たか]くし溝を深くして、海に臨みて守らするは、豈[あに]内賊[うちのあた]の為ならむや。今命を畏[かしこ]みて軍を発[おこ]さば、国空しけむ。若[も]し不意之外[おもひのほか]に、倉卒[にはか]なる事有らば、頓[ひたぶる]に社禝[くに]傾[かたぶ]きなむ」云々と、筑紫で自分は外敵の防御の任に就いてることを理由に援軍を送れないと応えています。
     栗隈王の中立・静観の選択が天武方に有利に働いたことは明らかですが、天智七年のときは「九州平安の願心」から豊日別宮に祈願させていたのが、壬申の乱の最中には、同じ祈願でも「天下国家の平安」となるのも、この国内の大乱が影響しています。

     近江朝が滅んで、天武天皇による国内再統治の施策が打ち出されますが、
    伝記は、天武七年(六七八)の条に「当宮の神前に於て、天神地祗を祭らしむ。九州[きうしう]の諸家に命じ祓禊[みそぎはらへ]せしむ」とあるのも、その一つです。書紀は、同年「是の春に、天神地祗[あまつかみくにつかみ]を祠[まつ]らむとして、天下悉[ことごとく]に祓禊[おほみはらへ]す」と記録しています。
     九州で内乱に加わらなかった栗隈王(橘諸兄の祖父)が亡くなるのは天武五年(六七六)六月ですが、同年八月十六日に、天武は「四方[よも]に大解除[おほはらへ]せむ」と、大解除(大祓)執行の命を出します。これは天武紀に記される初の大祓の記事で、それが「八月十六日」とされていますので、このときは、「六月晦大祓〔十二月[しはす]はこれに准[なら]へ。〕」にみられる六月・十二月の大祓が、まだ定式行事化されていなかったことがわかります。

    土御門院元久元〔甲子〕年六月晦日[つごもり]、茅輪[ちのわ]の祭始めてこれを行ふ(名越祓[なごしのはらへ]、又は六月[みなづき]祓共云ふ)。神輿北御崎の海浜に渡御し、五十串[いぐし]を立て神壇を構へ、神官遠近の衆人をして、茅輪を越えしむなり。七月朔日[ついたち]還御、此の時より毎歳これを行ふ。郡吏諸民の願心に因[よ]るなり(六月に閏月[うるふづき]これ有る年は、閏月を用ふる社例なり。然[さ]れども、時に依りて前月を用ふる事これ有り)。

     豊日別宮においては、元久元年(一二〇四)に茅輪祭(名越祓・六月祓)がはじまったとのことです。
    この祭の開始は「郡吏諸民の願心に因るなり」とあり、豊日別宮神官の積極的な意志ではじめられたものではなかったようです。


    同(聖武天皇)御宇、行基法師中津に来り、豊日別宮瑞垣[みづがき]の辺[あたり]に一七日[いちしちにち]参籠して、誦経[ずきやう]持念[ぢねん]す。或る夜、太神神主冨麻呂に託して曰く、大法器[みのりのし]吾が前に来る、久しく法味[ほふみ]を受く。吾れ、加護す。汝告げて帝都に帰へす可し。大なる賜[たまもの]を得むと。冨麿[ママ]神託を以て行基に告ぐ。益[ますます]神宮を拝し帰洛す。是より先、行基国中遠近の古跡に居るとき、仏像を刻みて所々に安置す。亦、御長[おんたけ]三寸の薬師神像を当宮に奉納す。神主曰く、古[いにしへ]従り仏像を宮中に納め奉る先例無し、因りて衆議して神官の私蔵にこれを納む。

     ここには、天平の名僧・行基(の法徳)を一旦受け容れ、しかしそれをも包む太神(姫太神)の懐の広さが描かれていて出色です。とともに、神仏混淆を受け容れなかった豊日別宮(神主・冨麻呂)の見事な応対ぶりまで記録されています。
    伝記は、不徳の仏徒をたしなめ恐縮・再拝させる太神(姫太神)の逸話をほかにも記していますが、太神(姫太神)に崇敬の念を抱いていたのは、行基以前に限定しても、役小角や泰澄がすでにいました。
  • 貴祢谷社(三重県南牟婁郡紀宝町鵜殿)

    神代の頃に新宮の神倉山にお降りになった熊野神が約2500年前にここにお移りになり始めは速玉大神、夫須美大神、家津御子大神の三柱の神を二つの社殿に祀り約2000年前に石渕の祭神の内 家津御子大神が本宮へ移られ約1900年前に石渕の熊野神が新宮へお移りになった。この時に鵜殿諸手船(もろたぶね)神船を先導し奉ったことが伝えられている(熊野権現御垂迹縁起、帝王編年記、扶桑略記)

     新宮を拠点として周辺を周辺を統一し、最後は熊野川を遡り、湯河原の地にたどり着いた。この地に宮を作り暫らく滞在したものであろう。ここが後の熊野本宮大社となるのである。

     伊弉諾尊・伊弉冉尊は三重県熊野市まで行き、周辺を統一しそこで暫らく滞在したようである。この間に二人の間に子供が生まれている。丹生都比売である。誕生地は三重県熊野市産田の産田神社の地であろう。

     丹生都比売神社 和歌山県伊都郡かつらぎ町大字上天野230 略記

    丹生都比売大神は日本の国をお作りになった伊井諾・伊井冊の神様の御子で伊勢皇大神宮にお祀りしてあります。日本の祖神天照皇大神の御妹神であらせられ稚日女尊(あかひるめのみこと)とも申し上げました。大神は機を織ること織物の祖神でもありまして、丹生都比売大神のお子様に当る高野御子大神と共に紀伊・大和地方を御巡歴になり人々のために農耕殖産(衣食の道・織物の道)を教え導かれまして最後にこの天野の地にお住い遊ばされました。
  • December 2017 編集されました
    磐余
    肥前にもある。 阿知使主が喚んで渡来した漢人の中に「石寸 (いわれ)村主」がいる。「石寸 (いわれ)」 は「磐余 (いわれ)」 である。石寸村主は肥前に住んでいる。
    また身狭村主青が呉から帰国したときにも「磐余」が出てくる。
    (雄略)十年 (466年)九月、身狭村主青等、呉の献じた二つの鶴 (がちょう)をもって筑紫に到る。是の鶴は水間君の大に噛まれて死 ぬ。 (別本に云う、是の鶴は筑紫の嶺縣主泥麻呂の大の為に噛まれて
    死ぬという。)是により水間君、恐怖し、憂愁して自ら黙するこ とあたわず。鴻十隻と養鳥人を献じ、以て罪を贖うことを請う。天 皇、許したまう。
    冬十月、水間君が献 じた養鳥人等を以て軽村 。磐余村の二所に安置 す。 『日本書紀』
    466年であるか ら倭王興の時代である。倭王興は筑紫君である。身狭村主 青等は呉が献じた二羽の鶴 (がちょう)をもって筑紫君の待つ筑後に帰ってく る。筑後川に上陸すると水間君 (筑後の三瀦)の大に鶴は噛まれて死ぬ。水間 君は罪を贖うために鴻十隻と養鳥人を献じる。「養鳥人等を以て軽村・磐余村 の二所に安置す」とある。軽村と磐余村に養鳥人を安置 している。筑紫君王朝 の出来事である。軽村と磐余村は筑後か肥前にある。
    軽 村 は 肥 前 の 養 父 郡 で あ る 。大 将 軍 大 伴 連 狭 手 彦 が 高 句 麗 を 伐 っ た と き 戦 利 品を蘇我稲目に贈る。そのときの美女を「軽の曲殿に居らしむ」とある
  • 磐井と新羅が手を組み、反乱を起こします。これが磐井の乱です。半島南部を支配しようとしていた新羅と日本は仲が良くありませんでしたし、百済とヤマト政権自体が通じていたのもあり、お互いの利害が一致したのでしょう。

    大伴金村はこのとき部下の近江毛野を送り込んで物事の沈静化を計ったのですが、結果、磐井の乱を鎮圧したのは物部麁鹿火という人物で、失敗した大伴氏はこれをきっかけに信頼性を失うことになりました。時を同じく、磐井の乱が起こったのは地方に対して締め付けがゆるすぎたためだ、もっと締め上げようという動きが政権内で起こったため、監視を強めるために屯倉を増やすことになりました。

    屯倉というのは、朝廷の直轄地である土地のことです。建物ではなく、財産そのものです。これを取り締まっていたのが蘇我氏でしたので、大伴氏の勢力は弱り、物部氏と蘇我氏が台頭することになったのです。
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