日羅、三井根子、火葦北国造

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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葦北国造(肥) 葦北(葦分)国造とは葦北国(現・熊本県水俣市、八代市、葦北郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(…

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  • 6世紀半ば頃の朝鮮半島は、北部は高句麗(こうくり)が支配し、南部は任那(みまな)をはさんで百済(くだら)と新羅(しらぎ)が対立していました。宜化(せんか)天皇2年(537)に父阿利斯登が新羅に攻められた任那を助けるため百済に使わされたとき、日羅もともに百済に渡り、そこで成長しました。その後、百済の王に仕えましたが達率という高い官職を与えられるほど、百済の発展や安定に大きな功績を残しました。
    敏達天皇12年(583)に、敏達天皇の要請を受けて日羅将軍は日本に帰国し、天皇から新羅への対策と任那復興について意見を求められました。それに対して、国民の生活安定・外交政策の重要性、富国強兵の必要性が基礎であると指摘し、具体的な内容までも進言しました。ところが、百済を滅ぼすことを日本の朝廷に献策しているのではないかと、百済から同伴してきた役人に疑われ、裏切り者として同年12月に暗殺されてしまいました。しかし、日羅将軍が行った進言は、後に推古天皇の「冠位十二階の制」、聖徳太子の「十七条の憲法」、孝徳天皇の「大化の改新」などの成果となって実現されました。

    日羅将軍の遺体は詔勅(しょうちょく)によって難波の西のほとりの丘(現大阪市北区)に葬られました。翌年、遺体は故郷の芦北に運ばれ、その船が着いたといわれる海岸が「だげく塚」と呼ばれる、現在の津奈木町福浜の赤崎あたりです。ここから山の上にある将軍神社までは歩いて15分ほどです。
    将軍神社の創建などは不明ですが、日羅将軍を祭神とし、お堂に安置された日羅像には、弘化2年(1845)仏師宮地勘十郎孝之の銘があります。地域の人たちからは「将軍さん」と呼ばれ、慕われています。毎年11月3日に「将軍さんの祭り」が開かれます。自分の年齢だけお堂の周りを回ってお参りしてその年の無病息災を祈ります。
    また、日羅将軍の墓は、現在の八代市坂本町百済来(くだらぎ)にあります。その場所には百済来地蔵堂が建立され、木造座像の本尊延命地蔵菩薩は敏達天皇元年(572)、日羅将軍が百済から父に贈ったものと伝えられています。地蔵堂は今も地元の人たちによって大事に守られています。
    書き下し文は、HP「気になる!くまもと」より
  • 火葦北刑部靫部
    日本書紀の敏達12年583年、火葦北国造刑部靫部阿利斯登と言う人物が出てきます。

    日羅の父です。日ー允恭天皇の陪塚とされる長持山古墳は、阿蘇の凝灰岩が使われていたり棺の形態から九州の影響があります。
    同時期の倍塚には見られない馬具、挂甲が副葬されていて畿内の他のヤマト王権の豪族よりも進んだ軍事力を保有しています。
    火葦北国造刑部靫部阿利斯登は何か?

    大伴金村から遣わされたのは百済であった。
    筑紫君磐井が新羅から賄賂を貰っていたことが謀反に繋がった。
    新羅との親密な関係。これを切るためにも百済に遣わしたとも見れます。
    当時、百済と新羅は敵対関係です。火葦北国造刑部靫部を百済に遣わしている。


    ヤマト王権が磐井を討ち本格的に九州支配をしてから宣化天皇が那津の口に宮家を修造ってから日本書紀に記載されているのが、火葦北国造刑部靫部です。

    ?-? 6世紀中ごろの豪族。
    日羅(にちら)の父。「日本書紀」によれば,火(肥)の葦北(熊本県芦北)の国造(くにのみやつこ)で,靫部(靫負)(宮城警護者)の長。宣化(せんか)天皇のころ,大伴金村(おおともの-かなむら)の命で百済(くだら)(朝鮮)に派遣された。
  •  日羅(にちら)は、大伴金村(おおともかなむら)の命によって百済に派遣された、火葦北国造(ひのあしきたのくにのみやつこ)の刑部靱部(おさかべのゆげい)阿利斯登(ありしと)の子どもです。日羅は百済で生まれ、その才能が百済王に認められ、達率(だちそち)という位を与えられました。

     敏達天皇は、敏達12(583)年7月に、加耶(かや)復興策や国政について意見を聞くために日羅を日本に招き、それに対して日羅は、国力の充実の必要性や百済に対する外交策などについて意見を具申しました。しかし、百済の九州侵攻計画を日本に告げたことが百済への裏切りと映り、12月晦日、日羅に同行していた百済の使者によって暗殺されていまいました。天皇は、日羅の墓を小郡(大阪府)に造立しましたが、その後、八代郡坂本村久多良木(葦北郡津奈木町福浜とも)に移されたといいます。

    地蔵堂の由来

    宝亀元(770)年、肥後を治めていた桧前(ひのくま)中納言政丸は、久多良木(百済来)にいた加津羅(日羅の孫)を訪ねて土地を与えました。加津羅は、久多良木の地に地蔵菩薩像を安置しました。これが久多良木地蔵堂のはじまりと伝えられています。この地蔵菩薩像は、日羅が父親に贈ったものとされています。現存する地蔵菩薩像が造られた時期は分っていませんが、延命地蔵菩薩と呼ばれ、地域の人々に大切にされています。
  • 敏達八年(579)と申す十月に、新羅より釈迦仏が渡来したので、帝(第三十代敏達びだつ天皇)はよろこんで供養([開眼供養・鐘供養・経供養など寺院の仏教行事])を執り行ないました。山階寺(現奈良県奈良市にある興福寺)の東金堂に安置されているのはこの仏です。敏達十二年(583)の七月に百済国より日羅という僧が来日しました。聖徳太子が日羅に会われて話をすると、日羅は、身より光を放ち、聖徳太子を拝み奉り「敬礼救世観世音伝灯東方粟散王(救世観世音=観世音菩薩。より伝灯=教法の灯を伝えること。法脈を受け伝えること 。された東方大和王であられる聖徳太子に礼拝いたします)」と申しました。聖徳太子は、再び、眉間より光を放ちました。聖徳太子は人々にこう申されました。「わたしが、昔唐土にいた時、日羅は弟子でした。日々わたしを拝んでいたので、身より光を放ったのでしょう。後の世には必ず天に生まれることでしょう」と申しました。敏達十三年(584)の九月には、百済国より石造りの弥勒仏が渡来したので、蘇我馬子大臣は、堂を造り安置しました。いま元興寺(現奈良県奈良市にある寺)におられる仏です(現存しない?)。
  •  肥後国葦北郡久多良木(現:熊本県八代郡坂本村久多良木)
    上古の火葦北国の本拠地と推定される。
     村内には百済来地蔵堂があり、大伴金村が百済に派遣した達率日羅(葦北国造阿利斯登の子)が送ったとものとされる地蔵菩薩が安置されている。 葦北国造は孝霊天皇の孫三井根子命に始まる皇別の氏族である。
     日羅は百済王に重用されたが、敏達天皇は日羅を召喚して任那回復策を上奏させたが百済使に謀殺されている。
     その後、百済日羅の妻子らは河内の百済帰化族居住地の石川百済村の移住したとの記録がある。
     河内百済氏の血を引く良峯氏が地頭になるのは地縁があるからなのです。
     平家没官領となった人吉庄も新補地頭相良氏と良峯氏は、しばらくの間並立したと考えるのが順当です。
  • 555年、朝廷は、大臣稲目、穂積臣磐弓を遣わして、吉備 の五地域に屯倉(みやけ)を設けさせる。  屯倉は、ヤマト王権の支配制度の一つで、全国に設置したのは直轄地だという事を表してもいる。  後の地方の行政組織の先駆けとなっている。
      屯倉の周りの低湿地を開発して田地として、倭屯倉を造ったりした。5世紀頃よりと考えられている。


    562年1月、任那(みまな)日本府の衰退と滅亡。任那(伽耶)の宮家(日本府)が、新羅の真興王(新羅の第24代王)に滅ぼされた。
    朝鮮半島の新羅は、加羅諸国を支配下に押さえた。朝鮮半島の南東部は、すべて新羅の領域となった。
  • 583年、火葦北国造の子の日羅が、百済から来朝する。
      葦北国造(肥)、あしきたのくにのみやつこ、葦北(
     葦分)国造とは、葦北国(現・熊本県水俣市、八代市、
     葦北郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本
     紀)によると景行天皇(12代)の時代、吉備津彦命(き
     びつひこのみこと)の子である三井根子命(みいねこの
     みこと)を国造に定めたことに始まるとされる。
      国造本紀には、葦分と名が記され、また記紀では火葦
     北国造とも表されているので、火国造の支流とも見られ
     ている。
      三井根子命後、日奉(ひまつり)部・日奉直・日奉宿
     禰等を賜姓され、後裔としては達率日羅(にちら)、万
     葉歌人・日奉部与曽布などが著名である。
      三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけ
     ひありしと)は、大伴金村によって朝鮮に使わされた国造
     で、その子・日羅は、日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、
     百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として
     知られる。
      葦北郡津奈木町にある将軍神社は、日羅(将軍)を祀
     っており、逸話も多い。
      宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさ
     から葦北国造の息子と考えられている
  • 555年、朝廷は、大臣稲目、穂積臣磐弓を遣わして、吉備
     の五地域に屯倉(みやけ)を設けさせる。
      屯倉は、ヤマト王権の支配制度の一つで、全国に設置
     したのは直轄地だという事を表してもいる。
      後の地方の行政組織の先駆けとなっている。
      屯倉の周りの低湿地を開発して田地として、倭屯倉を
     造ったりした。5世紀頃よりと考えられている。
    562年1月、任那(みまな)日本府の衰退と滅亡。任那(伽
     耶)の宮家(日本府)が、新羅の真興王(新羅の第24代
     王)に滅ぼされた。
      朝鮮半島の新羅は、加羅諸国を支配下に押さえた。朝
     鮮半島の南東部は、すべて新羅の領域となった。
    570年3月、蘇我稲目(?〜570年)が死ぬ。物部氏ら、向
     原の仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に流す。
  • 512年、大伴金村は、百済の求めに応じて、任那の一部を
     割譲した。朝廷は、百済による「任那の四県」の領有を
     容認する(継体天皇の時代)

    527年、磐井の乱(いわいのらん)。
      磐井の乱は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出
     兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を、
      筑紫君磐井がはばみ、
      翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧
     された反乱、または王権間の戦争。
      この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利
     権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導
     権争いがあったと見られている。
  • 葦北の君みずからが刑部靱部を名のり、中央の軍事体制の体現者となった。恐らく球磨川以南にみられる古墳群は、大小を問わず葦北の国造に関係ある墓であることが考えられる。しかし「県」の設置があったのかは確証がつかめない。「県」というのは豪族が服属した証として白分の領域の一部を朝延領として 献上した土地をいうのである。
    肥後には、当時、八代県(八代郡・肥伊郡.豊福郷).閥宗県(阿蘇郷)・球磨(熊)県(球磨郡・球磨郷)があった。県は豪族またはその一族が代々県主として管理支配し た。県主の下の役職に村主や直などがいた。

    最近の学術調査の結果、球磨川以南の地は古 代葦北(葦分)の国、以北の地を古代火の国と考えられた一時期もあった。城南町塚原古墳群や宇土半島の国越古墳・宇土市の向野田古墳などその古墳の性格や規模より考え方も変わり、火の国の中心が宇土や城南町一帯にあったことが定説化してきた古代葦北の国球磨川以南で水俣・天草の一部を統一し、その中心は八代市敷川内町と目奈久校区の小川内・田の川内を含めた山麓下の低地一帯であったと想定された。

  • 三井根子命は、目古伊佐勢理毘古命(別名、大吉備津彦命)の子であり、景行天皇の御代に国造になっている(『国造本紀』)。その子、刑部靱部阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)が継体天皇のころに葦北国造になり、その子、刑部日羅(おさかべにちら)は宣化天皇のころに百済の国の達率という高い位に就いた。その後は、穴目・丘斯登・米斯登・加津羅と続き、称徳天皇のころ刑部広瀬女(おさかべひろせめ)が支配した。更に仁明天皇のころには他田継道が芦北郡少領に任命されている『日羅公伝』矢野盛経著によれぱ「所請、『日本府』は、恰かも日韓併合前に韓国に於かれたる統監の如きものにて、加羅(任那)諸国の従来の政治組織を認めて、諸国の早岐(かむぎ)(王の義)中有力たるものを中心として統率せしめたるものである。併し或る地方は之れを朝廷の直轄地として、それには国守を置いて支配した。
    後に日羅の父葦北国造刑部靱都阿利斯登(等)が任那王を兼ねたるも、是くの如き事情からである。吉田東伍氏も謂はるる通り、日羅は葦北国造刑部靱負の子なり、靱負、宣化天皇の時、大伴金村の命を以て韓に在き。阿利斯登(安羅臣智)となる。日羅百済に事之達率官名)たり。云々。この阿利斯登は任那に於ける朝廷の直轄の一国王にて、金海の加羅王即ち仇衡が、新羅王の女を要りて、其従者の王女をして新羅の服を著せしめたしかるに因り、加羅国の服を着せしめざるを噴りて、加羅王妃の従者を徴し還へしたる為め、新羅は大いに差じて、女を還へさむとして、仇衡王に抗議を申したるものにして、『汝』とあるは加羅王に対して云ひしものと解す可きであろう。云々
  • 日羅公伝によれば
    「刑部靱部阿利斯登(等)は、其の後、本国の葦北(今の熊本県葦北郡)に還りしや、将た任那にて薨ぜられしや、史に明詳なげれば、知ること能はざるを遺憾とする。」と記されている。

    葦北国造の阿利斯登は、葦北国造とともに任那王を兼ねて支配しており、葦北国造が朝廷軍の中心である大伴氏の統率下にお置かれ、靱負部となったことが知られる。

    刑部の性格について園田香融氏は「皇祖大兄御名入部について-大化前代におげる皇室私有民の存在形態」に次のように記している。
    「大化二年三月皇太子奏にみえる皇祖大兄御名入部の所有者であった彦人大兄が押坂の名をもつことから、皇祖大兄御名入部は刑部であるとする。そして刑部は允恭天皇の皇妃である忍坂中姫の名代であったと考えられることから、刑部は忍坂中姫の外戚の息長氏を通じて伝領されて彦人大兄皇子にうけつがれたと考え、さらに刑部は彦人大兄皇子から皇妃の糠手姫の息子の箭明天皇を経て中大兄皇子にうげつがれ、反蘇我系の皇室勢カの経済的基盤になったとする。」

    刑部の勢力は、中大兄皇子が受け継いだという。

  • 「域南町史』によれぼ国造の阿利斯等や子の日羅は、任那や百済で活動している。阿利斯等は人名よりむしろ任那での地位をあらわし、垂仁紀二年の註の阿羅斯等、阿利叱智と同語で、叱智は崇神紀六十五年に蘇那曷叱知、神功紀三年に毛麻利叱知、『魏志』韓伝に臣智とみえている。おそらく池内宏の、「阿利斯等は当時(継体朝)日本派遣の有力な官人として任那に居り、加羅(任那の一国)が通婚によって新羅の属国化せんとしたのを引きはなそうと計った」というのは正しいであろう、(池内宏『日本上代史の一研究』一九四八年一津田左右吉『日本古典の研究』、一九五∩)年、末松保和『任那興亡史』一九四九年、参照)。百済に使していた日羅は、敏達一二年(五八三)七月に帰国し、半島の経営にっいて献策した。そのとき日羅が武人の姿で描かれるのは、彼が大伴氏に率いられる靱部であるからである

  • 暗殺された日羅

    芦北国造刑部靱部阿利斯等は、継体天皇のころに任那王を兼ねていたが、その子日羅は、大伴狭手彦らとともに松浦(佐賀県)より発船し、任那に渡って統治した。その後、日羅は百済を救い、達率の位に就いた。敏達天皇のころ任那復興問題についての対策を講じられるために、百済にいる刑都日羅を召還されるために勅使として紀国造押勝と吉備海部直羽島(日羅の同族)を百済へ派遣させられた。しかし百済の威徳王は曰羅を帰国させず、このため天皇は再び海部直羽島を派遣し、奇計をもって百済王を説得したため、日羅の帰国も許された。しかし日羅帰朝に対しては、恩率・徳爾・余怒・冊奴知・参官・権師・徳率・次千徳・水手等若干人を伴って朝鮮海峡から瀬戸内海に入り、吉備の児島の屯倉に到着した。朝廷からは大伴糠手子連を派遣して労をねぎらった。更に難波の館に入り、天皇から派遣された蘇我馬子大臣・物部守屋大連等の訪問を受けた。このとき、日羅は甲胃を身につけ馬にまたがっていたが、禁門のほとりで馬より下り、天皇を跪拝し、涙を流して叡慮の賢さに謹んで今日百済から帰朝したことを報告し、身につけてきた甲胃を天皇に捧呈した。天皇は呵斗桑市という所に館を新築して日羅を住まわせた。そして諸大臣を遣わして国策を諮詢させられた。日羅の館を訪間した天皇の使者には、阿倍目臣・物部贅子連・大伴糠手子連等であった。日羅は、国民の生活安定と外交政策の重要性と国強兵の計を進言した 日羅の帰朝は、蘇我・物部・大伴その他諸氏が歓迎し、また期待もかげられた。

    ところが、日羅が同伴してきた百済の恩率・参官等を中心にした徳爾などという者どもは、日羅が百済を減ほそうという密計を朝廷に奏上していることと疑い、ひそかに日羅を殺害する機会をうかがっていた。

    日羅は阿斗桑市の館より難波館へ移り住んだ。徳爾等は、昼夜日羅を襲う機会をねらったが、日羅の身から火焔のような光りが出るので恐れて中々思うように殺すことができたかった。しかし敏達天皇十一年一二月晦目、火炎の消えるのを待って日羅を暗殺した。
  • 「日羅公伝」によれぱ、墓は現在の坂本村久多良木字馬場の地蔵堂前にあることが記されている吉田東伍著『大目本地名辞書』の「百済来」の項には「今百済来村と云ふ、又久多良木に作る、二見の東なる山村にして、其渓潤は皆東流」て球磨川に入る。八代郡松求麻の西南に連接す。土俗相伝へ、百済僧日羅の帰葬する所と日へり。按に本郡に百済来、新羅来の二村名あるは偶然にあらじ、葦北国造阿利斯登の子目羅、百済国に赴き、達率の官を得て後帰朝し、事を以て百済国使の害する所と為る。詔して日羅の屍を葦北に移葬せしめ給ふ、又推古帝の朝に百済の僧道欣、道俗八十余人を率て葦北に入津したり、是等の事国史に録して昭乎とす。されぼ百済、新羅二国人の本邦に投帰し、此地方に村里を建てしと云事、箱信拠に可なり、但し百済・新羅の下に来字を付着せしむるは、古語百済人をクタラキ、新羅人をシラキと唱へしに由る敷、国志には久多良木村馬場地蔵堂は、日羅墓と録し、津奈木村赤崎にも日羅墓と説く者ありと注す。」と記されている。百済来について『新羅国志』に、「久多良木村の馬場に地蔵堂あり。是は日羅を葬れる所と云伝ふ。書紀も参考するに、日羅の屍を葦北に移葬する事見ゆ。」と記されている。

    『肥後国志』の久多良木村の項によれば、「俗馬場村ト云、上久多良木村・下久多良木村アリ。久多良木旧百済来ト書ト云リ。里俗久多良木ノ七秋ト云ハ、稲秋・麦秋・蚕秋・麻秋・漆秋・茶秋・楮秋ナリ。土地山渓ニテ太タ広シ。一説二目羅カ故事アル故、久多良木ハ古ハ百済来(一書二未ヲ帰ト書)ト書シト云。」と紀されている。
  • 『百済来村久多良木地蔵堂文書』によれぱ、久多良木字馬場の地蔵堂は、目羅墓所の印として建立したと記されている。光仁天皇(七七〇-七八一)の宝亀元年(七七○)、桧前中糟言政丸が肥後を治めたときに芦北の尼か丘の館に滞在し、日羅の英名を慕って、日羅の孫に当たる加津羅が百済来にいるのを尋ねて来て、釆地を与えた。
    加津羅が、宝亀の頃の人であるとすれば、刑部広瀬女のころであり、広瀬女は、称徳天皇の神護景雲二年(七六八)白亀を献上し、天皇は『神亀は天下の宝たり』と大変喜ぱれ従八位下を授げ、絢十匹・綿廿屯・布柑端(布三十反)・正税一千束を与えられ、この年、肥後の庸を免ぜられ、特に芦北郡は調・庸を免ぜられている。この加津羅が家に伝わった地蔵菩薩を安置して墓印にしたことが記されている。
    百済来(一書二未ヲ帰ト書)ト書シト云。」と紀されている。


    『日本書紀』によると、推古天皇一七年(六〇九)に筑紫大宰の名が初めて登場し、肥後国の葦北津に百済僧道欣・恵弥ら僧俗八五人が来舶していることを奏上している。筑紫太宰の奏上にこたえて朝廷は、難波吉士徳摩呂と船史竜を遺わし、葦北に来た百済の人々について事情を聴取した。それによると、百済の人々は王命により隋へ行ったが、乱が起っていたので入国できず百済に帰る途中、暴風にあって漂流し、薩摩沖から長島と天草との問より、この葦北津に漂着した。これら百済の人々は約二箇月滞在したようで、この事情を徳摩呂らは朝廷に報告し、朝廷はこれに基いて百済の人々を本国へ送還することを決定し、徳摩呂と竜らを遣わして百済の人々を送り届げることを命じた。
    このようた百済人の本国送還の決定をしたのは、筑紫太宰の判断でなく、朝廷の判断であった。おそらく意識的に葦北津に来たのは、日羅との関係ある場所であるところから選んだものと考えられる。これら百済人の中で帰国を拒否した僧は、大和の元興寺に連れていかれ葦北に留まることは朝廷が認めなかった。

    出典 http://www.eonet.ne.jp/~hj-bros/nitira1.htm
  • 古代芦北の古墳芦北郡には、葦北、桑原、伴、野行、巨野、川田、水俣の七郷があるが、水俣市が水俣郷、芦北町の旧湯浦町が川田郷、同町の旧佐敷町桑原、大野が巨野郷、田浦町が野行郷に比定される。芦北郷は、目奈久付近が比定される。
    大和朝廷の支配下に入ったのは、刑都(允恭后妃の都民)から考えて五世紀中ごろと思われる。芦北郡に刑部が分布していることは、『肥後国芦北郡人刑部広瀬女』(神護景雲二年九月条などの史料)にも由来する。この刑部は六世紀になって靱負軍に編入され、大伴氏の統属化に入った証は日下部と大体同じようである。また『和名抄』に芦北郡に伴郷がみられるが、これは芦北郡に大伴部の集団が置かれたことを物語るものである。『火の国』井上辰雄著によれぱ、伴郷はどこに当たるかは不明であるが、あるいはこの芦北郷の付近にあったのかも知れない
  • 日羅
    敏達12年(583)7月、任那再興を願う敏達天皇の命によって、日羅を百済から召還すべく紀国造押勝、吉備海部直羽島らを派遣す。
    同年10月、羽島ら帰国し、百済の威徳王が日羅を惜しみ、召還に応じさせぬことを復命。
    同年、再度羽島らを派遣す。日羅は羽島を密かに屋内に引き入れ、百済王は天皇を疑い、日羅を留めて還さぬことを恐れて出国させないことを告げ、策を授ける。これにより、羽島は日羅と恩率・ 徳爾とくに、余怒よぬ、奇奴知がぬち、参官、 梶師徳率次干徳かぢとりとくそちしかんとく、水子らを連れ帰る。
    帰路、吉備児島屯倉で大伴糠手子連おおとものあらてこのむらじの出迎えを受ける。
    難波に到着し、難波館に逗留。大夫たちの訪問を受ける。このとき、日羅は甲冑をまとい、馬に乗り門のもとに至り、庁前に進み、跪拝して来朝の旨をのべ、甲冑を脱いで天皇に進上する。天皇により阿斗桑市(八尾市植松付近?)の館に住せしむ。阿部目臣、物部贄子にえこ連、大伴糠手子連らから国勢についての質問を受け、富国強兵策を説く。
    同年12月晦日、徳爾や参官ら、日羅を殺す。
  • 大伴氏が河内王朝前後に熊本有明一帯の海人族をたばねていたと思われるのは、火の芦北国造から「我が君」と君主の呼び名で呼ばれていたからである。
    芦北は不知火伝説のある海人族の本拠地で、のちのちも不知火海は遣唐船の出発港である。
    景行天皇の熊襲征伐譚の時、ここに不知火が燃える海として記述がある。
    景行天皇を大伴大連氏の象徴と考えてみると、熊襲の製鉄、弓矢、騎馬技術を奪いに行くヤマトタケルの神話が簡単に理解できる。

    雄略天皇の時、大伴氏は「靫負部」の管理を任されているはずである。
    ゆげい。
    「靫を負う」と書いて「ゆげい」である。
    これは弓矢の管理者を意味するのだろう。
    靫(ゆき)とは矢を入れる籠のこと。

    弓矢と騎馬は、古来セットである。
  • 国前国造の祖は、景行紀十二年九月条に見える国前臣祖菟名手で、景行天皇に仕え熊襲親征の時に随行して功績があり、その子の乎左自命(一に午左自命)が志賀高穴穂朝(景行の子の成務天皇の時代)に国前国造を賜ったとされます。菟名手は吉備氏族日子刺肩別命の子とされております。

    この辺の系譜的記述は『古事記』孝霊段、「国造本紀」に見えます。ところが、「日子姓系図」には日子刺肩別命も乎左自命も見えない状況にあります。
       
    また、『豊後国風土記』総記の部分には、景行天皇は豊国直の祖菟名手を派遣して豊前国仲津郡中臣村で起きた慶事を報告して豊国直の姓を賜ったという説話が記されており、「国造本紀」豊国国造条には志賀高穴穂朝に宇那足尼(菟名手と同人)が国造を賜ったと記載されています。
       
    以上のことから、国前国造・豊国国造は同族だと伝えたことが知られます

    九州には同じ吉備氏族という葦北国造(肥後国葦北郡)がおり、三井根子命の後裔とされます。
    ところが、豊国国造は尾張氏族ともされ、また、国前国造、葦北国造も吉備一族とされますが、この二国造は吉備氏族として疑問も多分にあり、様々な見地から十分な検討を要します。

    結論的にいえば、
    これら国造家は豊前宇佐の宇佐国造や火(肥)国造・大分国造の支流同族とみられます。

    九州では、神武天皇の長子神八井耳命の後裔、多氏族と称する国造・諸氏が多く見られますが、これらは皆系譜仮冒で、実際には天孫系で天津彦根命後裔、宇佐国造の支流とみられます。
     
    古代史から、
    豊国国造の領域に豊前の日名子があり、葦北国造の領域に肥後の日奈久があって、両地ともに日名子氏が起こり、また大分国造の領域の別府辺りに紀姓とも称する日名子氏が居住したことが理解されます。


    「日子姓系図」

    菟名手命の後裔の黒麻呂は難波朝廷(仁徳朝)に仕えて日子臣姓を賜り、その玄孫長谷部彦(泊瀬部彦)は継体天皇朝に奉仕して日子直姓を賜った。
    この長谷部彦には、叔父の砥並仙人に依り仙方を伝え、豊州の処々に温泉を創るという所伝も別書にあり、肥後の日奈久温泉も想起されて興味深いものがある。

    長谷部彦の子孫は日子県主・日子郡領を世襲し、初め日子、後に日名子を苗字とした。すなわち、日子太郎次郎清国は鎌倉将軍家に仕え、その子小次郎清治は大友氏に仕えて豊後別府に住み、その子の日名子太郎左衛門尉清元は国東臣と号し大友大炊助頼泰を主として温泉奉行となり弘安年中に死去した。清元の後は、その子の「清輔(勘兵衛)-清豊(太郎左衛門)-清成(勘兵衛)-清三(勘助)-清船(官三)」と室町前期の人々まで見えており、清輔の弟又八郎清行の孫の太郎清秀は菊池氏に仕えた。

    その白鳳頃に分かれた支族の流れに国前大夫背楯があり、嘉祥元年従七位下に叙し八幡宮社務職に任じたが、その子孫には八幡宮社務職に任じた国前のほか、天慶年間に一族の律師慈興に随って播州明石郡忍海荘に移遷した右近太郎浄兼があって、平安中期には播磨の竹川(武川)氏系統と近江の柏木氏系統に分かれ、本系図は播磨の系統に伝えられたもので、江戸前期までの人々に及んでいる。
  • 国造本紀によると吉備津彦命の子、「三井根子命」
    景行天皇の九州巡幸に吉備より随行、その功により葦北国造に任じられる。三井根子命は葦北君を賜り、継体期にはその子、「阿利斯等(ありしと)」が葦北国造になる。

     阿利斯等は、大連の「大伴金村」の命により、軍勢を率いて韓半島に渡る。
     そして阿利斯等は任那王を兼ねたといわれる。6世紀の初めのことである。阿利斯等の子、「日羅」は百済王に仕え、二位達率の高い官位を与えられている。「阿利斯等」の名も、朝鮮王から与えられた称号であったという。
     そして大伴金村の子の「大伴狭手彦」も筑紫に下り、任那に侵攻した新羅を誅している。

     何よりも「大伴金村」を武内宿禰のモデルとするに相応しいと思えたのは、金村が火の葦北国造「阿利斯等」らを差配して半島の新羅と戦った点にある。

     阿蘇津彦が「御手長」として武内宿禰に従い、狗呉の兵が国の大儀にあって神功皇后に従ったとされた。同じ時代、半島神を祀る香春でも「阿蘇神」が姿を見せていた。
     火の葦北国造は肥後南部、宇土半島から八代海沿いに威勢を誇った。阿蘇の母神「蒲池比JIS+7957」は宇土半島の郡浦に在った。
     蒲池比JIS+7957を祀り、阿蘇の祖族とされる「日下部氏」は、吉備より景行天皇に随行し、葦北国造に任じられた「三井根子命」の弟、「大屋田根子命」の後とされる。阿蘇の祖族は火の葦北国造の一族でもあった。
  • 数次の叛乱などで分割されたのではないかとみられる。盧原・角鹿・伊弥頭の諸国造など東国の吉備一族は、日本武尊の東国遠征に随従した吉備武彦の子弟が遠征路上に置かれて始められたと伝える。
     九州の国前国造(豊後国国埼郡)、葦分国造(肥後国葦北郡)も吉備一族とされる



    大分の国造
    国造本紀:豊国造、宇佐国造、国前国造、比多国造、大分国造の名が見られる。

    ■豊国造
     1)安康天皇の御代、宇那足尼(うなでのすくね)が国造を賜った。
     2)豊国:豊前国京都郡、仲津郡。
     3)旧仲津郡草葉村付近に万歳山という小霊山があり、そこに豊比別(とよひわけ)神社があった らしい。
     4)豊国造の祭っていた神社はこの神社ではないかと言われている。
     5)後に草葉村に移され、豊日別社と称されている。

    ■宇佐国造
     1)「旧事記」:宇佐都彦命(うさつひこのみこと)が国造になったとある。
     2)天照大神の三女神が宇佐川上に住んでいて宇佐明神としてお祭りしたという。
     3)この神社は豊前宇佐郡安心院町下市の三柱社であった。

    ■国前国造
     1)国埼郡内に国前国造に関係を持ったと思われる神社は今のところ見当たらない。

    ■比多国造
     1)日田市石井町に石井神社がある。
     2)この神社が国造に関係のあった古社であった可能性が強い。

    ■大分国造
     1)豊後国風土記:碩田(おおきた)国があり、今は大分と言う、と書かれている。
     2)津守郷羽田村字宮田に大分社があったという。


  • 「聖徳太子伝暦」(『続群書類従』巻第一八九)

    敏達十二年の秋七月の項に、さきの「常楽寺幹縁文」とほぼ同様な文書がのせられている。聖徳太子(五七四年生、六二二年没)は、周知の様に、用明天皇の第二皇子で、幼少よりその俊英ぶりほ伝説化されているほどで、のち推古女帝の摂政となり、冠位十二階、十七条の憲法を制定するとともに、仏教の興隆につとめ、「三経義疏」を著し、法隆寺や四天王寺を建立した人物である。仏教が日本国中に伝播していく基礎は太子によるものであったことは、いまさら申すまでもない。その聖徳太子の伝承と事蹟を記したのが、この「聖徳太子伝暦」であるが、その敏達十二年(五入三)七月の項に、次のような趣旨を記している。百済の賢者で芦北出身の連率日羅が、使の吉備海部羽嶋に従って釆た。この日羅は非常に勇気があって、計策にたけている。身からは光明を放ち、それは火の焔のようである。天皇は使を派遣して任那の国政を日羅に尋ねることとした。聖徳太子は日羅が異相であることを聞いて、天皇に請願して使臣らを従えて難波の館に行き、日羅の人となりを視る。天皇はこれを許さなかったので、太子は密かに皇子と計らって館に入って日羅をみたところ、日羅はすぐさま太子を指さして、神人であると言った。そして太子の身なりが非常に粗末であったにもかかわらず、日羅は遥拝した。諸大夫らは大変な奇瑞であると門を出てみると、太子は衣服を変えて坐し、日羅を迎拝していた。そして日羅の房に入ると、目羅は地に伏して合掌して自ら申した。敬禮救世観音菩薩、傅燈東方粟散王と。太子はこれに感謝すると、日羅大師は身から光を放す、それほ焔のような火であった。太子もまた眉間から光を放ち、太陽の光の如くであった。暫くしてのち、太子は日羅に、自分の命が蓋き果てて害なわれて惜むことがあることがあるかも知れないが、聖人がこれを許しては呉れないであろう。自分はどうしたらよいか、と日羅に語られた。そのような話しが夕方に及んだ。人々はそれを解しえなかった。太子は翌日太子官に帰られた。
  • 阿蘇の山部

     山部は海部、鵜飼部などとともに朝廷の御贄を貢進するためにもうけられた最も古いタイプの郡民と一般的には説明されるが、そう簡単なものではないらしい。
    太田亮氏の『姓氏家系大辞典』には「太古以来の大民族、否、氏族と云ふよりは寧種族と云ふ方、穏当ならんか」とあり、「されど此の部は早く散乱して、諸豪族私有の民となりて、其の名に隠れしも多く、(略)これを研究する事甚だ難し」と言っている。

     肥後国の山部に関しては、『日本続記』に「益城郡人山稲主白亀を献ず」(宝亀元年=七七〇年)とみえ、益城郡に山部が置かれていたことが分かる、と井上辰雄筑波大教授は著書『火の国』に書いている。また『景行紀』には、景行天皇が葦北の小嶋に泊まったとき、山部阿弭古の祖少左が冷水をすすめようとしたが、島に水がなく、神に祈ったところ、崖から水がわいたといういわゆる「水島」伝説がある。しかし、この芦北・水俣地方にも現在、山部姓を名乗る家はない。

    「太古以来の大民族」である山部姓はなぜか今日、古代阿蘇君の故地にのみ集中しているというわけだが、阿蘇神社の禰宜、宮川正也さんは「実は社家の宮川一族も本当の姓は山部なんですよ。宮川は神官としての姓です」と驚くべきことを打ち明けた。宮川さんによれば、神武天皇の第一皇子日子八井命が九州へ派遣されるまで住んでいたところが、大和国の山辺郷で「山部姓もそこからきていると私たちは聞いていました」と言う。

     神話では、この日子八井命は、阿蘇都媛の父である草部吉見神(国龍神) のことであり、甥で婿でもある健磐龍命とともに九州平定に尽くしたとなっている。阿蘇家を補佐する社家集団である宮川一族が祖神としてあがめているのも実はこの草部吉見神で、阿蘇神社の「田作り祭」など一貫した農耕祭事も本来は社家の祭りといわれる。
  • 熊本市の中央区、南区など
    託麻郡(たくまぐん)は、熊本県(肥後国)にあった郡。

    春日屯倉もあった
  • April 2016 編集されました
    健軍神社

    健磐龍命、天御中主神、仲津彦神、仲津姫神、神渟名川耳命(綏靖天皇)、阿蘇津姫命、草部吉見神、速甕玉命、彦御子命、比咩御子命、新彦命、若比咩命、若比古命、新比売命、弥比咩命等を祀るが(天御中主神、仲津彦神、仲津姫神の3柱以外は全て阿蘇神社祭神)、もともとは境内にある国造社の神、火(肥)国造 の祖である健緒組(たけおくみ。健緒純にも作る)と見る説もある

    健緒組は『肥前国風土記』や『肥後国風土記』逸文によれば景行天皇の時代に肥(火)君(ひのきみ)の姓を賜ったといい、『国造本紀』によれば崇神天皇朝に火国造に定められたという

    由緒

    熊本市内で最古の神社と言われている。社伝によれば欽明天皇19年(558年)に阿蘇神社の大宮司が同神社を勧請して創祀し、異賊征伐の為に社号を「健軍」と称したといい、後に阿蘇四社の一として阿蘇神社の別宮とされた。

    初め「健軍宮(たけみやぐう)」や健軍村竹宮(たけみや)と呼ばれ、または十二社大明神とも称せられて、健軍荘(たけみやしょう)(現在の日赤病院周辺や小峰や新外、江津湖周辺の広い地域)の産土神社であった。
  • 肥後国府は3回遷ったらしい。最初、託麻郡たくまぐんに置かれ、次に益城郡ますきぐんに遷り、さらに飽田郡あきたぐんに遷されたという。国庁の跡はまだ見つかっていない。

    最初に国府が置かれた託麻郡は、現在の熊本市国府地区で水前寺公園の西側一帯であると思われる。国府本町に三宝大高神という宮がある。「高」が「国府」につながるのではないかと思うが、この宮を中心にして、白山神社を東南の端にした国庁官衙域が想定される

  • 笠臣国造 ( 吉備 )
    かさのおみのみやつこ・かさのみやつこ【国造】
    [笠臣国造 ( 吉備 )]

    笠臣国造(笠国造)とは笠臣国(現・岡山県西部~広島県東部、笠岡市中心)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代、元より笠臣国の領主をしていた鴨別命(かもわけのみこと)の8世孫である笠三枚臣(かさみひらのおみ)を国造に定めたことに始まるとされる。鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命を祀ったと言われている。新撰姓氏録の笠朝臣(かさのあそみ)の項では、孝霊天皇の皇子・稚武彦命(わかたけひこのみこと)の後裔氏族であり、笠臣は鴨別命の後裔氏族として書かれている。また日本書紀には鴨別命が熊襲征伐の勲功により応神天皇より波区芸県主に封じられたとされているが、波区芸(はくぎ)がどこかは不明である。
    http://www.nihonjiten.com/data/263286.html
  • 日羅は「敏達天皇紀」に登場する人物で、「百済の達率(タッソツ)・日羅」として記される場合が多い。

     「敏達紀」の12年条によると、日羅は父が「火葦北国造・アリシト」の息子で、百済王に仕えており、その時の位は「達率(タッソツ)」といい、王族が任命される6人の一品官「佐平(サヘイ)」に次ぐ二品官という高官になっていた(全部で16品官がある)。残念ながら就任に至るまでの事情は記されていないが、百済王からは重く用いられていた。(注:率官は上位から達率・恩率・徳率・干率・奈率がある。その下には徳官が続く)

     この日羅が敏達天皇(第30代。在位571年~585年。父は欽明天皇)の命令で、百済から召還されることになったのが、同天皇の12年のことであった。
     そのわけは、先代の欽明天皇23年に任那が滅ぼされたのを復興するため、百済に日羅という賢人がいるから呼び寄せて、一緒に策を練ろう――ということである。

     百済王は返還を拒んだが、使節の吉備海部直・羽嶋(きびのあまべのあたい・はしま)の恫喝で何とか連れて帰ることができた。
     しかし、日羅に付いて来た百済の使い人の手により、日羅は落命する。
     
     敏達天皇12年条は、かなり長文だがそのほとんどが「日羅の事績」で埋め尽くされている。
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