因幡国の大江神社と対馬の島御子神社、八上姫

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image因幡国の大江神社と対馬の島御子神社、八上姫

八上比売神 稲羽之八上比売:いなばのやかみひめ 大穴牟遅神の妻。因幡国八上郡の豪族の娘、あるいは巫女…

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コメント

  • 志波加神社(しはかじんじゃ)

     御祭神は「月読命」
     創祀は慶雲二年(705年)と伝わっています。 延喜式内社。旧村社。
     南丹市日吉町の山間いの集落、志和賀地区に鎮座する近郷有数の古社です。車で走っていて先ず目に入るのは境内 大杉です。樹高35m、幹周り4m以上の大木です。神社は鳥居をくぐり拝殿の先の石段を登ったところに本殿が建って います。本殿の両側に境内神社が祀ってあり、こぢんまりとした美しい神社です。
     末社は本殿に向かって右側に春日神社、天照大神宮、八幡神社、金毘羅・諏訪両神社、左側に住吉神社、多賀神社、稲荷神社。そして少し離れて天川権現
  • 『日本書紀』顕宗天皇治世3年条

    春2月1日、阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)が命を受け任那に使いに出た。このとき、月の神が人に憑いて言った。「我が祖の高皇産霊(タカミムスヒノミコト)は、天地をお造りになった功がある。田地を月の神に奉れ。求めのままに献上すれば、慶福が得られるであろう」。事代は京に帰って、詳しく語った。山城国葛野郡の歌荒樔田(ウタアラスダ)を奉った。壱岐の県主の先祖の押見宿裲が、そこにお祠りして仕えた。

    夏4月5日、日の神が人に憑いて、阿閉臣事代に言った。倭(ヤマト)の磐余の田を我が祖の高皇産霊に奉れ。これを事代は奏上し、神の求めに応じて田十四町を奉った。対島の下県直が、これをお祠りして仕えた。
  • 阿陀萱神社(米子市)阿陀萱奴志多喜妓比売命

    東出雲町の阿陀加夜神社とは字は異なりますが、音は同じ。

    〔主祭神〕はアダカヤヌシ タキキヒメ(阿陀萱奴志多喜妓比売命)
    (配祀神〕にタキリヒメ(多記理比売命)・イチキシマヒメ(市寸島比売命)・タキツヒメ(多岐都比売命)の宗像三女神と産石神

    由緒記

    主祭神のタキキヒメ(多喜妓比売命)は、オオナムヂ((大己貴命~オオクニヌシ)の御子で、母は因幡国のヤガミヒメ(八迦美姫命)です。このタキキヒメは神代の昔に出雲国の直江(なおえ)でお生まれになられました。母神のヤガミヒメは父神のオオナムヂと共に出雲から因幡国に戻られる途中で、御子のタキキヒメがこの橋本村の榎の俣(また)に指を挟まれ、指が抜けなくなってしまいました。そしてしばらくの間動けずにいましたが、タキキヒメは「私は木俣神(キノマタのカミ)です」と申されてこの地に留まることを決意し、そして宝石山に鎮座されたといいます。宝石山とは阿陀萱神社の後方にある山です。

    配祀神のタキリヒメ(多記理比売命)・イチキシマヒメ(市寸島比売命)・タキツヒメ(多岐都比売命)の宗像三女神は、天平6年(735)に安芸国の厳島神社より勧請されました。

    産石神とは神代の昔に、この地に宝石が天から降ってきて、一夜の間に山が出現したので、宝石山と称します。この石の側らに小社を建てて「産石神社」として崇敬するとあります。すなわち神社入り口のところに祀られている磐座が、天から降って来た宝石であり、そしてその宝石を「産石神」として祀り、その側らに社を建てたのだと。

    タキキヒメは、出雲の直江で産まれたとし、そしてこの地の鎮守として留まることを決意された。先ず指を「木の俣」に挟んで抜けなくなったというエピソードを紹介した後に、タキキヒメに「私は木俣神である」と宣言させている点がなんとも不可解でありスッキリしません

    『古事記』

    「先の約束の通り、ヤガミヒメ(八上比売)は大国主神と結婚をなされ、そしてヤガミヒメは出雲へと連れてこられたけども、本妻のスセリビメ(須勢理毘売)を恐れて、その産んだ子は木の俣(また)に差し込んで、因幡へとお帰りになられた。それでその子を名付けて木俣神(キマタのカミ)と言い、また御井神(ミイのカミ)と言う」のだと。

    出雲市斐川町直江には、この木俣神の出生の地とされる御井(みい)神社があり、木俣神が産湯を浸かったという三つの井泉があります。

    この木俣神を以ってタキキヒメに充てる、、、、
    タキキヒメが直江の御井神社で産まれたという阿陀萱神社の伝承
    直江の御井神社で産まれた木俣神を女神として考え、タキキヒメに充てることも出来ますが、、、、、


    スセリビメは出雲の王のスサノヲの娘であり、『古事記』には「嫡妻」とあります
    実はヤガミヒメの方がオオクニヌシの最初の妻です。

    タキキヒメの母をヤガミヒメとしている点は重要です。これまで、タキキヒメが祀られている神社を数社訪ね歩きましたが、実は母神に関する伝承があるのは、この阿陀萱神社だけだそうです。

    http://ameblo.jp/goldforest33/entry-12143522881.html
  • 八上姫の地元の伝承
    犬山(いぬやま)神社(現:鳥取市用瀬町)の由緒書き
    「八上比売は八上の地で男御子を挙げられ、この地(この地というのは河原町の現在黒木神社[祭神:大巳貴神、御井神]のある場所の辺りです)の朽ちた桜の木の根もとの穴に置かれたそうです。それを見た地元の民が、畏れ多い事として御子神を大切に育て、その後 八上比売とともにお祀りしたということです。」しかも、子育て伝承は河原町だけではなく、もうひとつのゆかりの地、出雲市斐川町にも愛情深く御子神を育てた母神伝承がつたわります。最初は、八上の人たちの比売を思う気持ちという      (黒木神社)



    姥捨て山の地名が残る、斐川町直江(なおえ)
    結という地区があり、そこに伝わる伝承
    「還暦(生まれて61年目)の年を木股年(このまたどし)といい、この年になると姥捨てと云って老人を山へ捨てた(略)……、しかし結の郷では、生活にゆとりのある人は木股年になると、静かな山に入って隠居した(略)……そこは豊かで住みよい土地であり隠居所だけでなく産屋もあり、お産や子育ての世話もした。八上比売がこの地で産気づいた時、木股年の老女たちが出産を手伝い、そのことから木俣神と言われるようになったのではないか。(後略)…。」

    伝承には続きがあって、八上比売は因幡には帰らず木俣神の成長を願いこの地に留まり、御子とともに結の郷の守護神となり結神社にお祀りされています。結神社とは実巽(じっそん)神社のことで雲陽誌(享保2年[1717年]に松江藩士の黒澤長尚が編さんした出雲の地誌)にも記録がある。
  • 式内社 但馬國養父郡 御井神社
    旧村社

    御祭神
    御井神
    配祀
    脚摩乳命 天穂日命 素盞嗚命 手摩乳命 熊野櫲樟日命 田心姫命
    奇稲田命 天津彦根命 天忍穂耳命 市杵島姫命 活津彦根命 湍津姫命
    配祀(神社明細帳) 大屋彦命 大屋姫命 抓津姫命
    兵庫県の養父市にある。
  • 『先代旧事本紀』国造本紀には、
    「津島県直。橿原町、高魂尊五世孫建弥己己命改為直」と見え、この高魂尊とは対馬下県郡の式内社(名神大)高御魂に相違なく、なお『古事記』に高御産巣日、『日本書紀』には高皇産霊として、高天原の至高神とされている。また「天神本紀」には、「天日神命。対馬県主等祖」とあり、これは下県郡の式内社阿麻[氏+_]留神社の祭神である。そこで高御魂の孫裔天日神が、対馬県直となった所伝から、

     高御魂(高皇産霊)—天日神(天照神)—日子—対馬直

    という系譜が導かれ、この図式はいみじくも天皇の系譜とよく似ている。しかし卜部となってからの対馬直は、いつしかその系譜を改めている。
     『新撰姓氏録』には「津島直。天児屋根命十四世孫雷大臣命之後也」とあり、「新撰亀相記」が著された平安時代初期には、この新しい所伝が固まっていたにちがいない。卜占の起源を高天原に興るとしているのも、天児屋根命が太玉命と共に高天原で祭祀に関係した故事によるものと解される。でも近年の研究では、この神話の所伝に天児屋根命が登場するのは中臣氏の作為とする説がある。
  • 妻木晩田遺跡は鳥取県の西側すなわち伯耆国にあり、青谷上寺地遺跡は鳥取県の東側である因幡国にある。鳥取県教育委員会のサイトなどをもとに妻木晩田遺跡と青谷上寺地遺跡を確認したが、その発展と衰退を整理すると次のようになる。
     
       

     青谷上寺地遺跡は弥生前期後半に出現し、中期後半に繁栄の時期を迎えるが、後期に入ると倭国大乱に巻き込まれて多数の住民が殺傷され、その後すぐ、古墳時代前期に衰退することとなる。      
     妻木晩田は遅れて弥生中期後半に出現、後期に入って権力者が四隅突出型墳丘墓を築くようになって繁栄を始め、後期後半に青谷上寺地で多数の殺傷があった時期に呼応して最盛期を迎える。しかし集落の最盛期は長く続かず、古墳時代前半には衰退する。
     この2つの遺跡の盛衰の状況は何をあらわしているのだろうか。私は青谷上寺地を滅亡に導いたのが妻木晩田の勢力ではなかったと考えている。出雲(荒神谷や加茂岩倉)や因幡(青谷上寺地)に遅れて弥生時代中期に日本列島へ渡来してきた彼らは両者の勢力が及んでいない伯耆の地(妻木晩田)に勢力基盤を築いた。さらに彼らは渡来当初から戦闘を意識して高台に拠点を築いていったのだ。四隅突出型墳丘墓を築くリーダーは統率力に長けていた。そして弥生時代後期に入り、青谷上寺地は妻木晩田勢力の攻撃を受けて滅亡した。しかし、勝利した妻木晩田の集落がなぜ同時期に衰退することになるのか。これは村が滅亡したのではなく、集団ごと移動したのである。移動した先は出雲であった。q
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