大山咋命、鳴鏑神

December 2018 編集されました カテゴリ: 近江
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大山咋神は大年神の御子神。賀茂縁起に、大山咋神は、丹塗りの矢に化して、玉依姫と結婚し、賀茂別雷命を産んだと記さ…

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コメント

  • 『日吉社禰宜口伝抄』には、「上代の日吉神社は今の八王子社なり。この峰は比叡山の東尾にあり、一に牛尾といい、また並天塚(あまなみのつか)という。その五百津石村(いほついわむら)は山末之大主神の御陵なり。その妻玉依比売御陵は、奥の御蔭(みかげ)の大岩なり」とある。
    つまり、日枝山が神体山であると述る。
     また、『禰宜口伝抄』によると「天智天皇七年(668)三月三日、・・・大和国三輪山に坐す大己貴神(を比叡の山口において祭る」とある。
    つまり、天智天皇が近江朝を定めた翌年に、古都の守護神であった三輪明神を勧請して、新都を守護してほしいとの思惑があったと思わる。
    後年、地主神の大山咋神が二宮(東本宮)の祭神となり、勧請神の大己貴神は、大宮(西本宮)の祭神となる。
     和銅5年(712)日吉山王社が、藤原武智麻呂によって比叡山の東麓創建される。
    そのときに、日枝山(牛尾山)の山頂に八王子(牛尾宮)と三宮を建て、前者に大山咋神の荒魂が、後者に鴨玉依比売神の荒魂が祀られる。これを山宮といい、その後、日枝山麓に里宮を移し、二宮に大山咋神の和魂を祀り、樹下(このもと)神社に鴨玉依比売神の和魂を祀ることになる。こうして、二宮系の4社が成立する。
     一方、大己貴神を祀る本宮の地に、貞観6年(859)聖真子権現(しょうしんじごんげん・宇佐宮・八幡神)が建立され、同じ頃、客人(まろうど・白山宮)も建立され、ここに大宮系の3社が成立する。以上の7社を合わせて「日吉七社」とか「山王上七社」とかと呼称する。
  • 近江國滋賀郡 日吉神社 名神大
    旧官幣大社

    社名  御祭神 旧称 場所
    上七社(山王七社)
    本宮 西本宮 大己貴神 大宮 大比叡   西本宮
    本宮 東本宮 大山咋神 二宮 小比叡   東本宮
    摂社 宇佐宮 田心姫神 聖真子      宇佐宮
    摂社 牛尾神社 大山咋神荒魂 八王子      牛尾宮(八王子山)
    摂社 白山姫神社  菊理姫神     客人       白山宮
    摂社 樹下宮    鴨玉依姫神    十禅師      東本宮境内
    摂社 三宮宮    鴨玉依姫神荒魂  三宮       三宮宮(八王子山)
    中七社
    摂社 大物忌神社  大年神      大行事      東本宮境内
    末社 牛御子社   山末之大主神荒魂 牛御子      牛尾宮拝殿内
    摂社 新物忌神社  天知迦流水姫神  新行事      東本宮境内
    末社 八柱社    五男三女神    下八王子 東本宮参道
    摂社 早尾神社 素盞嗚神 早尾 境内入口そば階段上
    摂社 産屋神社 鴨別雷神 王子 境外・止観院そば
    末社 宇佐若宮 下照姫神 聖女 宇佐宮境内
    下七社
    末社 樹下若宮   玉依彦神     小禅師    東本宮境内
    末社 竈殿社   奥津彦神・奥津姫神 大宮竈殿      西本宮境内
    下七社
    末社 竈殿社   奥津彦神・奥津姫神 二宮竈殿 東本宮境内
    摂社 氏神神社 鴨建角身命・琴御館宇志麿 山末 東本宮参道
    末社 巌滝社 市杵島姫命・湍津島姫命 岩滝 東本宮参道
    末社 剣宮社 瓊々杵命 剣宮 白山宮境内
    末社 気比社 仲哀天皇 気比 宇佐宮境内
    境内は、比叡山系の最高峰・大比叡峰の東方に位置する八王子山(牛尾山)を含む山麓の13万坪であります。その大きさは、実に甲子園球場11個分と大変広いのですが、境内の入口が僅か11mということもあり、初めて訪れる参拝者からは「こんなに広いとは思いもしなかった」という感想を承ります。
    円錐形をした遠望の美しい八王子山は、神代の昔より比叡山の神(大山咋神)が降り立つ神体山として崇められ、以後歴史の変遷の中で社殿が築かれ、神輿が奉納され、更には神仏習合といった様々な信仰形態が取り込まれ、「古代信仰の博物館」とも評されております。
  • 高鴨神社
    奈良県御所市鴨神
    祭神:阿治須岐高日子根(あじすきたかひこね、迦毛之大御神) 事代主命(ことしろぬしのみこと)阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと)下照姫命(したてるひめのみこと)・天稚彦命(あめわかひこのみこと)

    神社の解説では、『全国鴨(加茂)社の総本宮で、弥生中期前より祭祀を行う日本最古の神社の一つです。カモはカミと同源でありカモすという言葉から派生し、気が放出しているさまを表しております。当神社の神域は鉱脈の上にあることも重なり、多くの神気が出ていることでも有名です 夏場に参拝されますと涼しく感じられるのもその為です。』とあります。
     由緒では、『この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で、本社はその鴨族が守護神としていつきまつった社の一つであります。弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社を祀って水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります
  • 『安房国忌部家系』には、大麻比古命の子に、千鹿江比売命と由布津主命があります。

    『安房国忌部家系』とは、式内社、安房国朝夷郡「下立松原神社」の論社のひとつである白浜町の下立松原神社に伝わる系図で、神社は、由布津主命が祖神である天日鷲命を祀ったことに始まるとされています。
    この中に、興味深い表現の逸話が記されています。

    曰く、由布津主命、この国に至り坐す時、奇(あや)しき鳥在りて大空を翔(か)ける。
    金色(こがねいろ)の羽を日に輝らし、火電(いなびかり)のごとく光(かがや)けり。
    その聲(こえ)は、山川に鳴り響き、地も震えき。

    人々が恐れ逃げまどう中、由布津主命がその正体を知るため誓約(うけい)を行うと、祖神である天日鷲命の顕現であることが分かり、その希望通りにこの地に祀ったというのです。

    金鵄でもある天日鷲命が巧みに表現されています。
    さらに、天日鷲命は「賀茂建角身命」でもありますが、その孫は、賀茂別雷命。

    賀茂別雷命の父は、火雷神。
  • 千葉県安房郡白浜町滝口の式内社「下立松原神社」
    由緒
    「天富命が天日鷲命の孫由布津主命,その他の神々と当地方開拓に上陸し,のち由布津主命が祖神の天日鷲命を祀った社である。」
    と記されていました。

    館山市相浜にある「楫取(かんどり)神社」の祭神は「宇豆(うず)彦命」で天富命に従ってこの地に渡り,漁業を主として指導したといわれ,現在も漁業地として栄えています。この楫取(かんどり)名は徳島県の吉野川で使用された川舟である「カンドリ舟」(楫取舟)の表記と密接に関係があると思われます。
  • 小山市萓橋の「日鷲神社」の祭神は天日鷲命で阿波忌部。

    栃木県下都賀郡石橋町橋本の「鷲宮神社」で祭神は天日鷲命です。これは下野(しもつけ)国(=栃木県)を開拓した阿波忌部の存在を物語るものだろうと思いました
  • 天椹野命は、三十二人の防衛(ふさぎもり)の一柱で中跡直等の祖。 伊勢河曲郡中跡郷に関係する神かもしれない。

    天椹野命 を祀る神社

    都波岐神社・奈加等神社 三重県鈴鹿市一ノ宮町1181
    大麻神社 香川県善通寺市大麻町上ノ村山241
    日前國懸神宮 境内 日前宮末社 和歌山県和歌山市秋月365
    荒船神社 里宮 群馬県甘楽郡下仁田町南野牧8786
  • 都波岐神社と奈加等神社
    三重県鈴鹿市一宮町

    合殿社。
    創祀年代は不詳。

    都波岐神社に関する由緒は不詳。
    伊勢国一宮と称されている。(疑問とする説もあるが)
    祭神は、猿田彦大神で、伊勢の地主神。

    奈加等神社に関しても由緒は不詳。
    一説には、雄略天皇23年に伊勢国造高雄束命が造営とする。
    山部直広幡の女・多加屋姫に中筒男命が神懸り、託宣し、
    都波岐神社・奈加等神社の二社を同時に造営。
    祭神は中筒男命と天椹野命。
    従来は、中筒男命一柱と考えられていたが、
    現在は、中跡直の祖である天椹野命も祀られている。
  • 鈴鹿一宮

    社伝や一説によれば創建は雄略天皇23年(479年)で、山部直広幡の女・多加屋姫に中筒男命が神懸りして託宣し、伊勢国造の高雄束命(猿田彦の八世の孫という)がこの2つの神社を同時に造営したが始まりだそうです

     また、何故、わざわざ別々に建設したのかは不明ですが、合併前の位置が分かれば、何か特別な位置関係が分かるかも知れません。

     さらに、何故、突然、 中筒之男なかつつのおの命の託宣が降り、自分の神社だけならともかく、猿田彦大神の神社も同時に造営させたのか、『古事記』や『日本書紀』の記述だけからは、よく理解できません。

     しかし、(その4)で記載した通り、猿田毘古神の死亡時に生じた、「底そこどく御魂みたま」、「つぶたつ御魂みたま」、「あわさく御魂みたま」と、イザナギが禊ぎをした時に生じた「底筒之男そこつつのをの命みこと」、「中筒之男なかつつのをの命みこと」、「上筒之男うはつつのをの命みこと」が、同じ男性版三位一体を表す神々であると捉えれば、関連が見えてきます。

     さらに、三柱の祭神の名前を見てみれば、天椹野あまのくのの命が天なので上、中筒之男なかつつおの命が中、そして、猿田彦大神は海底で死亡したので下となり、やはり、これら三柱でも「底そこどく御魂みたま」や「底筒之男そこつつのをの命みこと」と同じく三位一体の関係になっていることが分かります。
  • 仁徳天皇の時代に祀られた三嶋大社の大山祗命と、鴨の縁起の玉依姫と結婚し賀茂別雷神を生んだ大山咋命は、時代が同じか?

    時代が異なれば別の神であろう。

    山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。

    『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した。 『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。
    賀茂建角身命には建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の2柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主となる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと、上賀茂神社の祭神)を懐妊し出産した。

    この文中に大山祗命は、現れない。
  • 大歳の子の大山咋命

    『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。なお、大山咋神は里山に鎮まるとされることから、『古事記』の「日枝山」とは、比叡山全体というより、里山である八王子山(比叡山の一部)を指すとする説もある

    大年神とアメノチカルミヅヒメの間の子である。

    「日枝山」には日吉大社が、松尾には松尾大社があり、ともに大山咋神を祀っている。日枝山と松尾については、共通の祭神を祀る社の存在だけではなく、八王子山と松尾山の両方に巨大な磐座と、古墳群(日吉社東本宮古墳群、松尾山古墳群)が存在し、ともに漢人系氏族(三津首(みつのおびと)氏、秦氏)に祀られるなど、共通点が多いことが指摘されている
  • 比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。日吉大社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。山王は二神の総称である。大物主神は西本宮に、大山咋神は東本宮に祀られている。

    『秦氏本系帳』に記載がある丹塗矢の神話によると、賀茂神社(賀茂別雷神社)の賀茂別雷大神は松尾大社の祭神、すなわち、大山咋神とされるという。
  • 『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
    奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)。
    これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々だと思う。

    御子神がハッキリしない。

    若山咋神を祀る神社
    大年神の子で山裾の肥沃な土地の神である羽山戸神と穀物神である大気都比売神が結婚して若山咋以下8人の子が生まれた。
    狹岡神社 奈良県奈良市法蓮町604
    宗像大社 辺津宮 境内 松尾神社 福岡県宗像市田島2331

    讃岐の神谷神社
    「讃岐國官社考證』によれば、天神立命だが、神社明細帳では、火結命・奧津彦命・奧津姫命の竈三神。春日四柱神を相殿に祀った以後は、「五社明神」と呼ばれていたから、本来は一柱だったはずだが。

    多賀神社 (瀬戸内市)
    御祭神 伊邪那岐命
    配祀 素盞嗚命 大山津見命 奧津彦命 奧津姫命 保食神
    境内 式内社 備前國邑久郡 美和神社 美和神社

    足羽神社由緒
    御創立 福井市足羽山鎮座、式内・足羽神社は人皇二十六代継体天皇と大宮地之霊又は坐摩神(生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、 波比岐神)五座を祭祀る神社です。天皇御自創の特徴と御創立以来実 に千五百有余年という越前最古の歴史を有する神社です。
    継体天皇と社歴 継体天皇は、応神天皇六世の皇孫で、御名を 男大迹王といわれ御母の里高向で育つ。
  • 出自不明
    『古事記』によると、大年神と香用比売が婚姻して、 大香山戸臣神と御年神の二人の御子神が生まれた。香用比売の出自や字義は不明。「香」は輝くの意味か。
  • 古事記では、大国御魂神は大年神の御子神とされています。
    大年神と伊怒比売との間に生まれたのが大国御魂神とあるのですが、大年神は他にも
    香用比売という妻がおり、この香用比売との間に生まれた神が、葛城の「鴨中社」である
    御歳神社の祭神である御歳神、そして、大香山戸臣神(オオカガヤマトオミ神)なのです。

    大香山戸臣神とは???
    1つ目は同じく「香山」をその名に含む神、天香山命(天香語山命)が『先代旧辞本紀』
    では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の御子神とされており、かつ尾張氏や津守氏らの始祖である、とされている。


    八十島祭は、平安時代には、津守氏が祭祀氏族である住吉大社によって行われるようになりますが、その住吉大社の「埴使」の神事に天の香久山が関係します。埴使の神事は畝傍山の土を採り、それで八十平甕(やそひらか)を作って奉納するというものですが、『住吉大社神代記』によれば、その起源は、住吉大神が神功皇后に神託をくだし、

    「我をば天香山の社の中の埴土を取り、天平瓫を作って奉斎すれば、謀反を企てる者が
    おっても必ず屈服させよう」

    と、告げたことにあるといいます。元は天の香久山の土を採るものだったのです。
  • 住吉区は摂津国の南端である。
    古代の難波は東は上町台地東を北流する平野川と玉造江付近の低湿地帯、西は大阪湾岸、南は阿倍野から杭全(くまた)付近までの地域であり、住吉は難波の南に位置し、旧攝津国・住吉郡域である。
    十一世紀の『浪華古図』には、淀川河口部から拡がる茅渟海(ちぬのうみ)(大阪湾)に存在する八十島(やそしま)の南に住吉津(墨江之津(すみのえのつ))と住吉大社が描かれている。難波津は難波堀江の開削により出来た港であり住吉津の方が歴史は古い。古墳時代前後頃の難波には淀川と大川(天満川)が形成した数多くの砂洲があった。この難波の八十島で行われた八十島祭(やそしままつり)が神話化され、応神天皇とこの祭りが神話に取り込まれ、八十島祭の儀式が天皇の即位の儀式に付着させる事になったといわれている
  • 『古事記』・神代の条に記載の大年神の系譜


    故、其の大年神、神活須毘神の女、伊怒比売を娶して生める子は、大国御魂神。次に韓神。次に曽富理神、次に白日神。次に聖神。

    又、香用比売(かよひめ)を娶して生める子は、大香山戸臣神。次に御年神。

    又、天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)を娶して生める子は、奥津日子神。次に奥津比売命、亦の名は大戸比売神。此は諸人の以ち拝く竃神ぞ。
    次に大山咋神、亦の名は山末之大主神。此の神は近つ淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ。次に庭津日(ひわつひの)神。次に阿須波(あすはの)神。次に波比岐(はひきの)神。次に香山戸臣(かがやまとおみの)神。次に羽山戸神。次に庭高津日神。次に大土(おほつちの)神。亦の名は土之御祖(つちのみおやの)神。九神。


      上(かみ)の件(くだり)の大年神の子、大国御魂神以下(よりしも)、大土神以前(よりさき)は、并せて十六神。

    羽山戸神、大気都比売(おほけつひめの)神を娶して生める子は、若山咋神。次に若年神。次に妹若沙那売(わかさなめの)神。次に彌豆麻岐神。次に夏高津日神、亦の名は夏之売神。次に秋毘売神。次に久々年神。次に久々紀若室葛根(くくきわかむろつなねの)神。
      上の件の羽山の子以下、若室葛根以前は、并せて八神。

  • 大山祇神と似た神に大山咋神がいる。大山咋神は日吉系・松尾系神社の主祭神で三島系の大山祇神とは系統の違う山の神。 大山咋神は山王とも称されるので、そちらも山の王なのだろう。

    大山津見神の娘姉妹、石長媛と木花開耶媛を、天孫瓊々杵尊に奉ったが、瓊々杵尊は美女の木花開耶媛を妃にして、 醜い石長媛を嫌って戻したために天皇家の寿命が花のように短いのだという。
  • 瓊々杵尊の妻となった木花咲耶姫の父や、素盞嗚尊の妻の神大市姫の父ともいうので、???
  • 大山祗の系譜が大山祗神社の由緒沿革中に「当社は大山祗の子孫の小千命( お ちのみこと)が鎮祭したのが始まり」とされていることである。ここで、小千命の先祖をたどれば大山祗に行き着くはずで、その片鱗が近隣二箇所の神社にあって、松山市の勝岡八幡神社には、「ニギハヤヒの末裔小千御子を祭る」とあって、先祖はニギハヤヒ。さらに、今治市の大浜八幡神社には乎致命( お ちのみこと)と共にニギハヤヒ、天道(あまのみち)姫が一緒に祭られており、由緒にも乎致命の後裔が当社を創建したとあってやはり、小千(おち)の遠祖がニギハヤヒとわかる。すると大山祗はニギハヤヒあるいはその父スサノオであっておかしくないか?

    大山咋命とは別の神
  • 大山祗神社を勧請した全国ほとんどの三島神社が、大山祗と共に「タカオカミ」、「イカヅチノカミ」という正体不明の二神を合祀している謎を探るうちに見つかった。
     まず、この正体不明の二神の合祀が和銅五年(712)の詔勅によっていることを『愛姫県神社誌』から見出された小椋氏は、その八年後に完成した『書紀』の中に「伊弉諾尊( い ざ なぎのみこと)、剣を抜きてカグツチを斬りて、三段になす、その一段はこれ雷 神(いかづちのかみ)となる。一段はこれ大山祗神となる。一段はこれタカオカミとなる」といった、まか不思議な話が載っていることに注目された。そして「記紀の成立前後には神社に対していろいろの勅命が出されているが、このタカオカミ、イカヅチの合祀も、正史編纂に合わせてなされた策動の一つであろう」と推定し、タカオカミの正体から大山祗の正体を探るべく各地の神社を調査の結果、詳細は省くがタカオカミの名のもとで実際に祭祀されていたのはスサノオであり、大山祗であったことを見つけられた。
  • 松尾大社は、日枝神社(日吉大社)から大山咋神を招いて祀られた神社である。

    市杵島姫神の姉妹神である多紀理毘売命(たぎりひめのみこと・田心姫神・奥津島比売命)は現在でも女人禁制の沖ノ島、沖津宮に祀られるが、大国主神の妃で、賀茂大神の阿治志貴高日子根命(あじしきたかひこねのみこと)と、高比売命(たかひめのみこと・下照比売)を産んでいる(参考)。すなわち、松尾大社、日吉大社、賀茂神社の神は同一神となる。

    神功皇后の時代に、大山咋命に大山祗神に習合したか?

    「日吉大社・東本宮」
    祭神:大山咋神
    由緒
    古事記に「此の神は近淡海国の日枝の山に坐す」とあり、神代期より比叡山に鎮座する地主神。大山咋神をまつった古代祭祀が当社の起源とされる。
    神体山である牛尾山(小比叡山・八王子山)の山頂近くには祭祀遺跡ともいうべき磐境(金大巖・こがねのおおいわ)があり、それを取り巻き「牛尾宮」「三宮宮」がある。
    のちに牛尾宮の祭神が山麓に祀られ、これが東本宮となり、三宮宮の祭神が山麓で摂社樹下宮となった。この山麓二宮の成立は崇神七年とされる。山上には荒魂を祀り、山麓には和魂をまつる形態。

    摂社 唐崎神社
    日吉大社で代々神職を務められた家の先祖である、琴御館宇志丸という方がこの地に居住され、「唐崎」と名付けられました。
    この頃、天智天皇が奈良の三輪山から大己貴神を大津にご勧請された際に、琵琶湖を渡り、この唐崎の地に降り立ったとされており、日吉大社西本宮のご鎮座に大変縁のある場所です。ご祭神女別当命は琴御館宇志の御妻君であり、持統天皇の御代697年に創建されたと伝えられています
  • May 2016 編集されました
    石川県野々市の日吉神社
    「雄略帝時代」名此地大桑邑東接医王西隣布市邑
    雄略天皇時代には、この村は大桑村と言い東は医王山に接し西隣は野々市村であった。

    大桑の起源について、日吉神社の石碑「大桑地名誌」よれば古墳時代後期の21代天皇の雄略帝(在位 456~479)時代には、「大桑の東は医王山に接し西隣は、野々市であった」としている。このように、すでにこの時代に成立していたものと思われる。今から、1500年前以上前で仏教が伝来する前のことである。

    また、日吉神社の創建についても、白山修験道を開いた泰澄大師(682~767)が社を設けて、その祭神に山の神と言われる「大山祇神」(おおやまつみのかみ)を迎え祭ったとしている。和同開珎が鋳造されたのはこの頃である。日吉神社の祭神は1200年余にわたり守り継がれていることになる。

    泰澄大師の近辺における伝承として、湯涌温泉の開湯、波着寺(石引2)、雨宝院(野町2)、黒壁山九万坊権現(三子牛町)、夕日寺観音堂(夕日寺町)等それぞれ開山に関わる言い伝えがある。

    その後、養老2年(718)には五戸の先人たちが西隣の地を開墾したのが、後の野田村の始まりとしている。(野田村沿革史)

    日吉神社由緒
    この神社は、奈良時代に白山修験道を開いた泰澄大師(682~766)が創建されたと伝えられています。神様は、いざなぎの神といざなみの神の神子で「大山祇神(おおやまつみのかみ)」です。
    その後、平安時代の嘉応三年(1170)林 光家の二男利光が、滋賀県大津市坂本の日吉大社の西本宮から「大巳貴神(おおなむちのかみ)」、東本宮から「大山咋神(おおやまくいのかみ)」を迎え、大桑三郎利光を名のりこの地に祀りました。 
    鎌倉時代の嘉禄三年(1227)には、本社殿を造営し新田を奉献した記録が残っています。
    江戸時代の天明年間(1781~1788)に本社殿を改築し、さらに昭和二十八年十月一日(1953)にも同じく改築しました。
    明治初年に村社に列せられ、同三十九年十二月二十九日神餞帛供進神社に指定されました。昭和七年五月十二日に現在の日吉神社に改称され、三体の御神体を祀り惣社として仰がれています。

    *いざなぎの神[伊邪那岐神(伊弉諾尊)]
    *いざなみの神[伊邪那美神(伊弉冉尊)]
    *大巳貴神は、別名を大国主神
    *神饌帛(米、稲、酒、蔬菜、しお、水、絹、錦、などの供物)
    *惣社(二体以上のご神体を祀る神社)
  • May 2016 編集されました
    比叡山の麓に日吉大社があります。崇神天皇7年に創祀されたと言われ、全国の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。日枝(ひえ)というのが、比叡(ひえい)山の元の呼び名なのでしょう。Wikipediaによると『社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている』ということです。
    祭神は、西本宮が大己貴神(オオナムチ、大国主神に同じとされます)で、東本宮は、大山咋神(オオヤマクイ)です。大己貴神については、近江京遷都の翌年、天智天皇の時代に勧請されたといいます。

    全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。猿を神の使いとする。西本宮と東本宮を中心とする400,000m²の境内は国の史跡に指定される。


    日吉山王権現とは? 山王権現(さんのうごんげん)は日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である 。

    山王信仰とは、最澄が比叡山に天台宗を開いた折、唐の天台山の守護神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座されていた日吉大神を「山王権現」と称する、神仏習合の信仰です

    山王鳥居の立つ「総合の坂」の参道脇に、「猿塚」と呼ばれる大きな石組がございます。これは古墳の石室の蓋が露出したもので、境内には約70基もの古墳が確認されており、「日吉古墳群」として遺跡に指定されています。出土品から6世紀中頃から後半と推定されます。この古墳の穴は唐崎(日吉大社ゆかりの湖岸)まで通じていることや神様のお使いの神猿さんが年老いて自身の死期を悟ったときに、自ら猿塚の中へ入っていくという伝説がございます。

    「日吉山王垂迹神曼荼羅(すいじゃくしんまんだら)」の神猿(非公開)
    3匹の猿でした。見ざる言わざる聞かざるの図では無い。
  • May 2016 編集されました
    滋賀県神社庁のホームページにあるこの神社の由緒書きに、
     「当社には東西両本宮があり、東本宮の御祭神大山咋神は、古事記神代の巻に『大山咋神亦名山未之大主神此神者生近淡海国之日枝山……』と記されている。日枝山頂から今の地に移し祀られたのは、崇神天皇七年と禰宜口伝抄にある。又西本宮の御祭神大己貴神は『天智天皇七年戊辰三月三日詔鴨賀嶌八世孫宇志麿祭大和国三輪坐大己貴神於比叡山口日大比比叡宮』と禰宜口伝抄にある。」とかかれています。
    また、禰宜口伝抄(1047年写本)は「上代の日吉神社は今の八王子社なり。この峰は比叡山の東尾にあり、一に牛尾といい、また並天塚(あまなみのつか)という。その五百津石村(いほついわむら)は山末之大主神の御陵なり。その妻玉依比売(たまよりひめ)の御陵は、奥の御蔭(みかげ)の大岩なり」と伝え、はっきりと日枝山が神体山であると述べています。

     したがって、もともとの神は、八王子山に坐した大山咋で、この神社は八王子山を信仰の対象とするものです。そして、後に天智天皇が近江朝を定めた翌年に、古都の守護神であった三輪明神をここに勧請しています。新都を守護してほしいとの思惑があったのでしょう、「故郷忘じがたく候」の古代版でしょう。

    (880)に「奉レ授二正二位勲一等大比叡神正一位。従五位上小比叡神従四位上一。」とあり、後発の西本宮が、朝廷に威を借りて主要位置を占めるようになりました。
     延暦寺は最澄が延暦7年(788年)に一乗止観院という庵を立てたことから始まるということから、延暦寺の影響が強かったことと思われます。出世するのは、いつも権力者側です。
     慶応四年の神仏分離令により、延暦寺からの分離が命ぜられ、延暦寺側からの応対が遅いと社司が仏具などの償却する事件があり貴重な文化財が失われました。
  • 網野善彦氏が「中世から見た古代の海人」のなかで、琵琶湖での日吉社大津神人など中世の「職人」的海人の活躍を述べ、これらの「職人」は、古代の海民の後裔であることは、木簡などの資料からもわかるとしています。さらに、各地の海辺、湖辺に簇生した港町は、そのほとんどがこれら「職人」的海民の根拠地を核として形成されていったのである、とかいています。
     有名な「琵琶湖周航の歌」の歌詞に「われは湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと 昇る狭霧や さざなみの 志賀の都よ いざさらば」とあります。永留 久恵 (著)海神と天神―対馬の風土と神々 1988に、「志賀という地名は、全国にあるが、磯良という名とともに伝搬したと思われる。磯良を祖とする安曇氏の本拠は通説では筑前安曇郷といわれ、志賀海神社の祠官が阿曇姓であることはよく知られているが、対馬の和多都美の宮司も本姓は阿曇氏(現姓長岡氏)で、志賀という地名および祭祀名が多くその祭神は磯良である」と書いています
  • 山王祭の中でのハイライト、宵宮落とし神事
    「大山咋神・鴨玉依姫神による出産、御子神誕生の儀式。
    山王祭の神事中、最も勇壮な神事です。
    前夜婚儀を挙げられたご夫婦の神様からお子様が誕生する様子を再現しています。
    大政所と呼ばれる場所に神輿が4基(同じ神様が2組いらっしゃいます)並べられ、生源寺にて読み上げ式(点呼)を済ませた駕輿丁達が神輿の到着するや、一斉に神輿を揺さぶり始めます。
    坂本中に大きな音が響き渡りますが、それは神様の陣痛を表すともいわれており、4基揃った中での神輿振りは圧巻です。
    やがて、儀式が執り行われ、結びの祝詞奏上と共に4基の神輿は一斉に1メートル以上ある高さから地面に落とされ(この瞬間が御子神誕生の瞬間です)、近くの鼠社まで到着を競い、その後は行列を整えて西本宮拝殿に進みます。
    この日の朝、他の3基の神輿はすでに西本宮拝殿に納められており、ここで初めて山王神輿7基が揃います。」
  • May 2016 編集されました
    大山祗(ツミ)命と大山咋(クイ)命を混同していたり、親子神のように理解されている方も散見されるのですが、世代も系統も異なる神様です。

    飯塚市筒野の日吉神社
    飯塚市、田川市、旧山田市の間に挟まれた比較的平坦な盆地
    この一帯には非常に多くの日吉神社が鎮座しています。
     この日吉神社の神様こそ大山咋命であり、お妃のヤタガラスの娘である鴨玉依姫と間に産まれた人物こそ、藤原によって格上げされた第10代贈)崇神天皇となるのです。

    日吉神社、日枝神社、山王神社、松尾神社、佐田神社(断じて猿田彦ではありえない)は全てこの海幸彦(草部吉見)と市杵島姫との間に産まれた大山咋命(実は阿蘇国造神社の主祭神 速瓶玉命=ハヤミカタマ)という。
    http://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-12133527015.html

    市杵島姫ー大山咋大直日ー鴨玉依姫ー崇神天皇(賀茂別雷)
    鴨玉依姫は、ヤタガラス(建筒耳、豊玉彦)とアカル姫(埴安姫と金山彦の子)としているが、、、

    大和の上賀茂と鴨三島の伝承と二重写しになるが、時代が前者は、神武天皇の頃、後者は崇神天皇の頃でしょうか?
    それとも記紀が事実と違うのでしょうか?


    「日本書記」には、垂仁天皇3年春3月に昔に新羅王子・アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参した事への言及があり、その渡来の記述がある。
  • May 2016 編集されました
    皇産霊尊━━天神玉命━━天櫛玉命━━鴨建角身命━┳━鴨建玉依彦命
                     (八咫烏)  ┃
                    (三島溝杭耳命)┗━玉依姫命━━━賀茂別雷命

          高魂命━━伊久魂命━━天押立命━━陶津耳命━━━━玉依彦命
               (生魂命) (神櫛玉命)(建角身命)        
                           (三島溝杭耳命)

    @三島鴨神社
    大山祇神━━三島溝咋耳命━━三島溝杙姫┓
                       ┣━姫鞴五十鈴姫
                   事代主神┛


    @ 溝咋神社

    溝咋耳命━━玉櫛媛命━┳━天日方奇日方命
               ┃
               ┗━媛蹈鞴五十鈴媛命
  • 大山守、大山祗命と秦氏の祀る大山咋神は、異なる。

    松尾大社の大山咋神について
    松尾の神はひと柱は宗像の市杵島姫であるが、いまひと柱があって大山咋神とされている。

    宗像の女神は海上交通の守護神だから、秦氏が最初倭国へ来るときの水先案内、先導者が安曇・宗像・壱岐などの海人族だったことから祭っていると考えられる。すると大山咋とはどういう性格の神だろうか?

    この神は近江の比叡山と山背葛野の松尾山の神とされて各地に分祀されており、「咋」とは、ほかの摂津三島の地主神である三島溝咋という、摂津開闢の土地神があることから、大山=松尾山を杭を打って開墾した祖神という意味であろう。つまり葛野秦氏、松尾秦氏の祖の名前である「酒公 さけのきみ」が葛野開闢の祖人であるなら、それを神格化したのが大山咋ということになる。
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