神武天皇の祖先、秀真伝と記紀、饒速日

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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神武天皇と綏靖天皇の祖先が、記紀などでどのように記されているか調べてみましょう。 大和朝廷の始祖が、どのような…

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  • 大和國城下郡 村屋坐弥富都比賣神社

    御祭神
    彌富都比賣神 大物主命

    境内社 式内社
    境内摂社服部神社 天之御中主命 天之御鉾命
    境内摂社服部神社 天之御中主命 天之御鉾命j
    境内摂社村屋神社 経津主神 室屋大連神 武甕槌神 大伴健持大連
    境内久須々美神社 天之久之比命 事代主命

    通称、「守屋の宮」「森屋の宮」「森屋明神」。

    天武天皇元年(673)。壬申の乱の時、村屋神が、神官に神懸り、
    「わが杜の中を敵が来る。社の中の道を防げ」と
    軍備に対する助言をした。
    その功績により、天皇より位階を引き上げられたと、
    日本書紀に記されている。

    式内社・村屋坐弥富都比賣神社に比定されている古社で、延喜の制では、大社であった。

    境内摂社の服部神社は、式内社・服部神社に比定されている。
    元は、大安寺の波津里神にあったが、天正の兵火にかかり焼失し、現在地に遷座。大安寺に服部氏が居住しており、その祖神を祀ったもの。

    境内摂社の村屋神社は、式内社・村屋神社に比定されている。
    元は、当社の東の宮山に鎮座していたが、天正の兵火にかかり焼失し、現在地に遷座。
    本来の祭神は、武甕槌神と経津主神の二座であったらしい。
  • 村屋坐弥冨都比売神社(守屋の宮)旧県社
    磯城郡田原本町蔵堂 近鉄線 田原本町駅より東四粁
    祭神 弥冨都比売命 大物主大神 例祭 一〇月一〇日
    神紋 五七の桐 本殿 流造 朱塗 六坪
    境内 三三八〇坪 末社 五社
    宝物 弓 一張 氏子 八〇〇戸 崇敬者 四〇〇〇人
    神事と芸能 御田植祭、綱掛行事
    由緒沿革 崇神天皇の御代七年伊香色雄命を して祭らしめ、後垂仁天皇の御宇伊色雄命の 子物部十市根命をして、大物主命を併せ祭る 延喜式内大社にて官幣に預り給えり。天武天 皇御代大友皇子と争い給いし時(壬申の乱) 天皇河内より当社の森に逃れ給いし時神主守 屋朝臣喜久麻呂天皇を守護し奉り、其神託に より大勝を得給いしより御即位御位階を贈り 給いて神恩に謝し給う。
  • 大歳は饒速日ではない。ホツマツタエ

    大歳は、大歳倉稲魂命である。
    ソサノヲとイナダ姫の第六子。 
    『水無神社の由緒』御歳神は大歳神と香用比売命の子で、大歳神は素盞鳴尊の子で別名を宇迦之御魂神という。
    現在では、大歳神(御歳神) [ヤマサ と クラムスビ] 、 歳徳神 [ヒルコ と ヱト守神]、歳徳玉女、宇迦御魂、保食神、これらすべてが混合してしまっている。これによってクラムスビの個性は消滅したようだ。名前が良くなかった。「大歳倉結び」いかにも豊穣神の名だ。宇迦御魂 を「倉稲魂」とも書くのが、クラムスビの唯一の痕跡だ


    オキツヒコの父。古事記を信じればヤマクヒの父。
    オキツヒコ夫婦の不和を嘆き、イサワ宮のセオリツ姫のもとへ相談に行く。
    セオリツ姫が、夫婦をマフツの鏡に映すと、ニステ竈とツクマ鍋が映し出された。
      

    滋賀県坂田郡米原町朝妻筑摩、筑摩 (ツクマ) 神社。 
    奈良県橿原市石川町宮ノ本、大歳 (オオトシ) 神社。
    鹿児島県霧島市国分広瀬、大穴持 (オナンジ) 神社。
    岐阜県 大野郡宮村一之宮上、水無 (ミナシ) 神社。
  • ホアカリまたは、ホアカリの系統を祖神とする氏族をあげてみると、
      朝来直(あさこのあたい)
      五百木部君(いおきべのきみ)
      大炊刑部造(おおいのさかいべのみやっこ)
      川内漢人(かわちのあやひと)
      椋連(くらのむらじ)
      児部連(こべのむらじ)
      坂合部連(さかいべのむらじ)
      蝮王部首(たじひのみぶにおびと)
      丹比連(たじひびむらじ)
      襷多治比連(たすきのたじひのむらじ)
      津守連(つもりのむらじ)
      檜前舎人造(ひのくまのとねりのみやっこ)
      六人部連(むとりべのむらじ)
      海部直(あまべのあたい)
    これらの多くが饒速日命を祖としていない。
  • 天孫「饒速日尊」は、天照大御神から十種神宝を授かり、布津御魂劔をもち、天孫のい証し「天羽々の矢」を携えて、息子の天香語山とともに「天の磐船」に乗って、地上に降りてきた。

    宇佐の地で、天香語山命に布津御魂劔を預けたのち、東に向かい、河内国の河上哮峰に降臨した。

    その後、大和の鳥見の豪族である「ナガスネヒコ」の妹「登美夜須毘売」(日本書紀では「三炊屋姫」)を妻として、大和に入った。「登美夜須毘売」との間に「宇摩志摩遅命」をもうけた。

    その後、神武東征の際には、最終的に同じ天孫の証し「天羽々の矢」を持っていることがわかり、神武に投降。投降に抵抗していた義理の兄「ナガスネヒコ」を、頭の固いヤツといって殺してしまう。
  • 饒速日命

    母親は
    萬幡豊秋津師比売命「古事記」、栲幡千千姫命「日本書紀」
    ・・・高皇産霊神の娘とされている。天火明命と、ニニギ命の母親。

    妻は
    天道日女命「先代旧事本紀」
    ・・・大己貴神の娘で。天香語山の母親
    登美夜須毘売「古事記」(三炊屋媛命「日本書紀」)
    ・・・長髄彦の妹。宇摩志摩遅命の母親
    市杵嶋媛命「籠神社伝」
    ・・・須佐之男尊の娘で宗像三神のひとり。穂屋姫命の母親。

    御子は

    御子
    天香語山命「先代旧事本紀など」
    ・・・宇摩志摩遅命(可美真手命)の異母兄で、尾張氏の祖とされる
    宇摩志摩遅命「古事記」(可美真手命「日本書紀」、味間見命「先代旧事本紀」)
    ・・・物部氏、穂積氏の祖とされる。神武天皇に仕えた。
    穂屋姫命「籠神社伝」
    ・・・天香語山命と結婚して、天村雲命を生んだ。異母姉妹と結婚したことになる。
  • 饒速日尊は、須佐之男尊の御子である「大歳」であるという説があります。神社伝承の研究により結論付けた説です。その説によると、下記の神も饒速日尊の亦の名となります。

    大物主     大神神社の主祭神
    事解之男尊   熊野本宮 本社に鎮座
    日本大国魂大神 大和神社の主祭神
    布留御魂    石上神宮の主祭神
    「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」は、「天照国照彦」「天火明命」「櫛玉命」「饒速日尊」という別々の神の名前をつっくけて、系統の本質が見えないようにした、という
  • 日本書紀の神代には、饒速日命の事は一切書かれていない。『先代旧事本紀』では、饒速日命を天照大神の孫の火明命と同一神として扱つかい、名前を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」とし、河内国の河上の哮峯に天降りされたとしている。先代旧事本紀では尾張氏と物部氏が共通の先祖を持っていた事になっているが、日本書紀では火明命は尾張連らの遠祖、饒速日命は物部氏の先祖としている。
  • 饒速日命を始祖とする、物部氏に繋がる氏族は「天神」とされ103氏族ある。火明命を始祖とする、尾張氏に繋がる氏族は「天孫」とされ53氏族ある。饒速日命と火明命は明確に区別されており、先代旧事本紀に示す同一神ということにはなっていない。本件に関して先代旧事本紀は信用できない。

    新撰姓氏録の天神の中で、高魂命を先祖に持つ氏族に小山連がいる。この備考には「高魂命の子、櫛玉命の後なり」とある。高魂命は高皇産霊尊のことであるとされており、また饒速日命は櫛玉饒速日命とも書紀に書かれてあり、櫛玉命とも呼ばれるようだ。これらより、饒速日命は高皇産霊尊の子であることになる。
  • 物部を率いて、道臣命の来目部とならんで禁衛守護の任にあたり、大臣として奉仕する。

    宇麻志麻遅命 を祀る神社

    物部神社 島根県大田市川合町川合1545
    石上神宮 奈良県天理市布留町384
    物部神社 富山県高岡市東海老坂字川田1068
    物部神社 新潟県柏崎市西山町二田602
    物部神社 新潟県上越市清里区南田中564,565
    物部神社 山梨県笛吹市石和町松本615
    物部神社 新潟県佐渡市小倉乙618
    能理刀神社 長崎県対馬市上対馬町大字西泊字横道218
    天諸羽神社 長崎県対馬市上県町佐護恵古
    小内神社 長野県長野市若穂綿内字森5908
    國津比古命神社 愛媛県松山市八反地106・高田702
    大石神社 山梨県甲州市塩山赤尾982
    畠田神社 三重県多気郡明和町中村1029
    佐伎栗栖神社跡地 三重県多気郡明和町志貴
    羽浦神社 徳島県阿南市羽ノ浦町中庄千田池32
    須倍神社 内宮 静岡県浜松市北区都田町6284
  • 物部神社の社伝によれば、美濃国・越国を平定した後に石見国で没し、現在の社殿の裏に埋葬されたという。越国の平定は、異母兄の天香山命の事績として知られる(彌彦神社を参照)。これら物部神社や彌彦神社では、宮中でも行われる鎮魂祭が行われていることでも知られる(石上神宮も同様)。

    鈴木眞年の『史略名称訓義』では、ウマシマジは大和国十市郡に居て天皇に天瑞宝を献じ、この正統は同郡穂積里に居て穂積の姓を負いそれより物部氏などが分かれたとし、ウマシマジの正統は穂積氏としている。

    彦湯支命の父がウマシマチ

    湯支命(比古由支命・ひこゆきのみこと)は、『旧事本紀』天孫本紀によると宇摩志麻治命の子(饒速日尊の孫)で、綏靖朝にのちの大臣・大連にあたる申食国政大夫に任じられたといいます。
    また、日下部馬津氏らのむすめを娶ったとされ、『姓氏録』では彼自身が河内の日下部氏の祖であるともいいます。
  • 八坂神社の川枯神社
    淡海川枯姫とその夫神、彦湯支命の夫婦です。
    そして熊野神が合祀されています。穂積氏と熊野権現は密接な関係があり、熊野は穂積氏の本拠地の一つだとされています。

    川枯姫の夫、彦湯支命はニギハヤヒのお孫さんです。
    お父さんは、宇麻志摩治(ウマシマジ)。
    ニギハヤヒとウマシマジはビッグネームですが、その子の彦湯支命について語る人は少ないように思います。
  • 饒速日 ー 宇摩志麻治命 ー 彦湯支命 ー 出石心命 ー 大水口宿禰 ー 穂積

    饒速日 ー 宇摩志麻治命 ー 彦湯支命 ー 出石心命 ー 大矢口宿禰 ー 大綜杵命 ー 伊香色雄 ー 十千根 (十市主)

    越智氏族略系図
    饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕
  • 宇摩志麻治命

    橿原宮で統治された天皇[神武天皇]の御世に初めて足尼になり、次に食国政申大夫となり、大神を斎奉る。活目邑の五十呉桃の娘の師長姫を娶り二児が誕生した。

    孫の味饒田命[阿刀連等の先祖]
    弟の彦湯支命[亦の名は木開足尼]この命は、葛城の高丘宮で統治された天皇[綏靖天皇]の御世に初めは足尼になり、次に食国政申大夫と成って大神を斎奉る。日下部馬津、名は久流久美の娘の阿野姫を娶り、一男を生む。出雲の色多利姫を妾とし、一男を生む。淡海の川枯姫を妾とし、一男を生む。

    三世の孫の大禰命[彦湯支命の子供]この命は、片塩の浮穴宮で統治された天皇[安寧天皇]の御世に、侍臣となって大神を斎奉る。
    弟の出雲醜大臣命[彦湯支命の子供]この命は、軽地の曲峡宮で統治された天皇[懿徳天皇]の御世に初め食国政申大夫となり、次に大臣となって大神を斎奉る。その大臣の名はこの時より始まった。倭の志紀彦の妹の真鳥姫を娶って、三児を生む。
    弟の出石心大臣命。この命は、腋上の池心宮で統治された天皇[孝昭天皇]の御世に大臣となって大神を斎奉る。新河の小楯姫を娶り、二児を生む。

    四世の孫の大木食命[三河国造等の先祖。出雲醜大臣命の子供]
    弟の六見宿禰命[小治田連等の先祖]
    弟の三見宿禰命[漆部連等の先祖]この命は、秋津島宮で統治された天皇[孝安天皇]の御世に近くに宿直する縁で初めに足尼になる。次に宿禰となり大神を斎奉る。その宿禰はこの時が最初で有る。

    児の大水口宿禰命[穂積臣・釆女臣等の先祖。出石心大臣命の子供]
    弟の大矢口宿禰命。この命は、廬戸宮で統治された天皇[孝霊天皇]の御世に宿禰となり大神を斎奉る。坂戸の由良都姫を娶り、四児を生む。

    五世の孫の鬱色雄命。この命は、軽境原宮で統治された天皇[孝元天皇]の御世に大臣となり大神を斎奉る。活馬の長沙彦の妹の芹田真稚姫を娶り、一児を生む。
    妹 鬱色謎命。この命は、軽境原宮で統治された天皇が立てて皇后とし、三皇子を生む。大彦命、次に春日宮で統治された天皇[開化天皇]、次に倭跡命である。春日宮で統治された天皇は皇后を尊んで皇太后とされた。また、磯城瑞籬宮で統治された天皇[崇神天皇]が尊んでは太皇太后とされた。
    弟 大綜杵命。この命は、軽境原宮で統治された天皇の御世に大禰となり、春日率河宮で統治された天皇の御世に大臣となり、皇后・大臣は大神を斎奉った。高屋の阿波良姫を娶り、二児を生む。
    弟 大峰大尼命。この命は、春日宮で統治された天皇の御世に大尼となって仕えた。大尼の起こりは是より始まる。

    六世の孫の武建大尼命[鬱色雄大臣の子供]この御子は同天皇の御世に大尼となって仕えた。

    孫妹 伊香色謎命。この命は、軽境原宮で統治された天皇が立てて妃とし、彦太忍信命を生まれた。天皇が崩御され、春日宮で統治された天皇が庶母を立てて皇后とし、皇子を生まれた。磯城の瑞籬宮で統治された天皇である。この天皇は皇太后とされた。纏向天皇[垂仁天皇]の御世に太皇太后を追贈された。
    弟 伊香色雄命。この命は、春日宮で統治された天皇の御世に大臣となり、磯城の瑞籬宮で統治された天皇から大臣の詔を受け、神の種類を分け、天社(天津神の神社)と国社(国津神の神社)を定めた。物部八十手が作った、神祭りの方法で、八十萬の神を拝んで祭った。この時、建夫都大神の社を大倭の国の山邊の郡の石上邑に遷した。饒速日尊が天祖から授かり、天より持ってきた天璽瑞宝も同じく収めて祭った。石上大神と名付けた。国家の為また氏神として崇め祀り鎮めた。皇后・大臣は神宮を斎仕えた。山代県主の先祖の長溝の娘の眞木姫を娶って、二児を生む。山代県主の先祖の長溝の娘の荒姫と妹の玉手姫を妾とした。それぞれ二男を生む。倭の志紀彦の娘の眞鳥姫を妾とし、一男を生む。
  • 神日本磐余彦天皇第3皇子子神は井耳命訓見國に宮造りして徳威県にまし給うて政治を司る。伊予皇子と号す。この時神饒速日命の御子天山命子宇摩志摩治命子饒田命の女弥井媛を娶り給うて伊豫の國造を継ぎ給う。是れ小千姓河野氏の祖なり。勅を奉じて皇子神地所を撰み宗廟を斎き祀るに神籬を建て給う。

    「神代古考記(源寛著)」「大内裏記」

    瀛州オオノシマ小千国徳威県古矢野神山神の神田神戸となる。

    神武天皇御子神八耳命、伊豫國造の大祖神饒速日命の曾孫饒田命の女を妃とし伊豫國造家を継がせ給う。勅を受け伊豫訓見國徳威県神戸邑に下向あり、饒田命迎え奉りて家に伝わる天道鉾を奉りて命の補佐となりて天下を始め給う。この命の御孫建石龍命神野國造となり給う。

    「伊予温古録」

    ※建石龍命(阿蘇津彦神)とは冒頭紹介した阿蘇國造の祖神である。阿蘇山の火口にはもと火山湖として水があふれていたが、この命が蹴破って草原を開き、米作りが始まったという。

    神日本磐余彦天皇御宇勅命にて皇子神八井耳命を伊豫二名州に下し給うて伊豫の國造の元、天照国照火明櫛玉神饒速日尊の子天香山命の子宇摩志摩治命の子味饒田命の女御井津美弥比売を妃に娶りて國造家を嗣ぎ給う。

    「二名州大鑑」

    神武天皇第二皇子神八井耳命は神饒速日命の曾孫饒田命の女御井姫を妃とし、伊予の國造家を継ぎ給う。

    「伊予旧蹟抄」
  • 新居郡と神野郡
    現在の旧西条市と新居浜市の地域は、おおむね大正時代以前は新居郡(にいぐん)と呼ばれていた。新居郡の郡名だけは平安時代からずっと続いてきた。
    この地域が新居郡と呼ばれるようになったのは、平安京の嵯峨天皇の時代である。それまでの西条・新居浜の地域は神野郡(かんののこおり、かんのぐん)と呼ばれていたのだが、嵯峨天皇の諱(いみな)「加美野」に触れるため、大同4年(809年)9月に新居郡に郡名変更されたようだ。それまでは神野郡であった。


    神野郡の郡名が史料上に最初に認められるのは、法隆寺資材帳天平十年(738年)条のようで、「伊豫国神野郡在一所天平十年納賜」とある。もしくは平城京跡で発見された木簡の「伊與國神野郡驛家●除和尓志白米五」なども確認されている。これらは大宝元年(701年)の大宝律令で、地方の行政区画を国郡里制(こくぐんりせい)にすることが定められたからで、この時に当地も神野郡に定まったといわれている。
    しかし、それ以前にも郡は評と称されていて、いずれも「こおり」と読んだものであろう。この評は大化の改新以後に設けられた地方の行政区画の一で、従って、大宝律令以前にも神野評というものが存在したのであろう。滋賀県大津市園城寺(おんじょうじ、三井寺)所蔵の『円珍俗姓系図(和気系図)』には評督、評造等の官職名が見え、これを研究された大倉粂馬氏は、系図の人名と当地の地名から神野の首長だと述べておられる。このように文書に見えるだけでも、大化の改新頃から神野の名はすでに歴史上に現れている。

    香川県丸亀市神野神社正八幡宮の由緒には昔、伊予国神野郡の人(和気氏の一族)が丸亀に来て伊曽乃神社を創祀し、神野神社と奉称したことが伝えられている。この一族は初めは満濃町(神野)の地に移住していたが、後に丸亀に移動したとのことであり、当時は「郡」の名称が存在しなかったとしても、この神野から、伊予国にも本貫の神野の地名があったことは知られる。
    丸亀の神野神社を創始したのは「和気系図」に従えば、おそらく孝徳天皇の時代(異説もある)であり、満濃町に移住したのはそれよりも4代前であるから、たとえ異説のほうに従って丸亀移住が8世紀初めごろだと仮定しても、満濃町に移住したのは遅くても600年頃にはなるだろう。つまり、これは聖德太子の時代か、それ以前ということになる。そして、この和気氏の移住地が出身地に因んで神野と称されたのなら、伊予にも、すでに神野の地名が存在したことは自明であろう
  • 崇神天皇8年12月の条には、やはり天皇家よりも三輪が先であったことが暴露されている。大物主神を祀る三輪の地から神酒が天皇に献上されたときの歌として、次の一首がある。

    此の神酒は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久 幾久
  • 神武天皇即位に際し、ニギハヤヒの子ウマシマチは、ニギハヤヒから伝わる神宝を献上し、神楯(かむたて)を立てて祝い、さらに、新木(あらき)なども立て、“大神”を宮中に崇め祀ったとある。そして、即位、賀正、建都、踐祚(せんそ)などといった宮中の重要な儀式は、このときに定まった、というのである
  • 能・謡曲に「三輪」というのがあり、そのキリ(謡いの最後)の一節に、「思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一體分身乃御事、今更何と磐座や・・」とある。この一節は、「三輪」のなかでも小謡と云って聞かせどころである。作者は世阿弥(1363~1443)で、室町前期の能役者、謡曲作者16)である。

     つまり、「天皇家の祖神で太陽神の伊勢の天照大神と三輪山の大物主神は、実は同体であったことなど、なぜ今更あらたまって云う必要があるのか。分かりきったことではないか。三輪山には磐座が在るではないか」と云うのです。こうした伝承を、能楽者たちは当時から大まじめに語り継いでいたことになる。
  • September 2016 編集されました
    大国主命──味鉏高彦根命──┬──────────五十鈴依媛命────┐
    └─媛蹈鞴五十鈴媛命─┐
    ├─安寧天皇( C )

    ├─綏靖天皇( B )─┘ 神武天皇( A )───────────┘
  • ニギハヤヒ尊 -宇摩志麻冶尊(物部祖)大和統治者
    ―――――――――天香山尊(高倉下尊)
    三炊屋姫(みかしきや)-伊須気依姫
    ――綵靖(すいぜい)二代目天皇
    神武天皇(婿養子)
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