穂積忍山宿禰、物部氏

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  • 守屋大連 (もののべのゆげのもりやのおおむらじ)

    尾輿の子。敏達、用明朝の大連。

    敏達元年四月、大連になることは元のとおりであったとある。時に大臣は蘇我馬子。
    同十四年三月朔、疫病の流行により、守屋は中臣勝海大夫とともに奏上して、蘇我氏が仏法を広めたためであるとし、これを廃止することを請い、天皇も詔して仏法を断たせた。同月三十日、守屋は自ら大野丘北の寺に赴き、床几に坐り、塔、仏殿、仏像を焼き、焼け残った仏像は難波の堀江に棄てさせた。
    同十四年八月十五日、天皇の崩御後、その殯宮を広瀬にたてたとき、馬子とお互いの姿を嘲笑しあい、これより二人の間に怨恨が生ずるようになったという。

    用明即位前紀(敏達十四年)九月、天皇の即位後、大連となることは元のとおりで、馬子もまた大臣となったが、
    用明元年五月、穴穂部皇子がひそかに天下の王たらんことを企て、口実を設けて先帝寵臣の三輪君逆を殺そうとしたとき、守屋は皇子とともに兵を率いて磐余池辺宮を囲んだ。逆はこれを聞き三輪山に逃れ、のち炊屋姫皇后(後の推古)の別業にかくれたが、皇子は守屋を遣わし、逆を殺そうとした。
    皇子自らも馬子の制止も聞かず兵を率いたが、磐余に至って、ふたたび馬子に諫言され、行動を中止した。しかし、守屋はすでに逆を殺して馬子と会ったため、馬子は嘆き「天下は程なく乱れるだろう」といったという。これに対して守屋は「きさまら小物にはわからぬことだ」と答えたとある。
    同二年四月、守屋は群臣が自分を図ると聞き、河内阿都の別業に退いて兵を集め、中臣勝海も家に人を集めてこれを助けた。そして、勝海は太子・彦人皇子と竹田皇子の像をつくって呪詛し、そのために舎人・迹見赤檮に殺されたという。
    守屋は阿都の家から物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を遣わし、群臣が自分を謀ると聞き、阿都に退いた旨を馬子に伝えさせた。
    馬子は守屋の軍に備え、槻曲の家を守らせたとある。

    用明天皇の崩御により、崇峻即位前紀(用明二年)五月、物部の軍が人々を三度驚かすとあり、また守屋は、穴穂部皇子を立てて天皇にしようとし、淡路に遊猟して事を謀ろうとして、皇子に使者を送ったが、事は漏れてしまったという。
    そして六月、馬子は炊屋姫を奉じ、佐伯連、土師連、的臣らに詔して、穴穂皇子と宅部皇子の殺害を謀り、その宮において二人の皇子を殺した。
    七月、さらに馬子は諸皇子と群臣に勧め、守屋を滅ぼすことを謀り、泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子らと、紀、巨勢、膳、葛城、大伴、阿倍、平群、坂本、春日の諸氏とともに軍を率い、河内渋川の家を襲った。守屋は自ら子弟と奴軍を率い、稲城を築いて戦った。皇子たちと群臣の軍を三度にわたり退けたものの、奮戦むなしくついに迹見赤檮に射落とされ、その子らも殺され、軍は四散した。
    この戦いにより、守屋の子と一族は逃げかくれて、姓を変えて名を変えるもの、あるいは逃げ失せて行方の分からなくなるものなどがあった。
    時の人は、馬子の妻は守屋の妹で、馬子はみだりに妻の計を用いて守屋を殺したと噂したという。
    乱後、摂津国に四天王寺をつくり、守屋の奴の半分と居宅を分けて、寺の奴と田荘にしたとある。(『紀』)

    『旧』天孫本紀に物部守屋大連公、弓削大連。宇摩志麻治命十四世の孫で、父は尾輿大連、母は弓削連の祖・倭古の娘とある。用明天皇の時代、大連になり、石上神宮を奉斎したという。
    帝皇本紀には、敏達十四年九月に大連と大臣に任じられたことがみえる。
  • 物部依網連抱 (もののべのよさみのむらじいだき)

    推古十六年八月、隋の使い・斐世清が入京し、朝廷に召された時、阿倍鳥臣とともに客の案内役となった。(『紀』)
    大夫の地位にあったものと見られる。

    物部依網連乙等 (もののべのよさみのむらじおと)

    推古三十一年、征新羅の副将軍のひとりとなった。位は小徳。(紀)
  •  矢田坐久志玉比古神社
    (やたにますくしたまひこ)
    大和郡山市矢田町東良

    一の鳥居と山門鳥居の前にも勧請縄があり、饒速日尊の蛇神性を伝えると言う。


     この地の古称は鳥見であったのが、仁徳天皇の矢田皇女の御名代になり、矢田部がおかれて、後世矢田郷となった。

     物部守屋公が蘇我氏に滅ぼされて後、一族は名を隠し離散したが、石上神宮の司祭を努めていた物部氏は、守屋に荷担をしなかった事もあり健在であった。後に石上麻臣と改名し、石上神宮を物部氏の氏神としたので、次第に本来の物部氏の神社であるこの神社は忘れ去られていったと言う。

     しかし、氏子さんの中に宮座が残っており、饒速日尊、降臨の際に防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉った三十二の供奉衆の子孫であるとの強い伝承が残っているようで、神社境内に「舟人神」と称する天磐船の石(磐船の欠片、または天磐船の降りた際地下から盛り上がってきた磐とも)とされる場所があり、宮座の人々は毎年この磐に縄を巻き付けて互いの出自を確かめ合うとの事。
  • 矢田坐久志比古神社

    櫛玉饒速日命は御別名を、天照国照彦火明櫛玉饒速日命と称し奉ります。
     御父神は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(天之忍穂耳命・天照坐皇大神の御子)、御母神は萬幡豊秋津師比売命(栲幡千千媛)であられます。御父神が天津神の命により、天孫降臨に先立ち豊葦原中津国仮平定のために天降ろうとされたときにお生まれになりました。御父神は天津神に御子神を御自分の代わりに天降らせ給えとお願いになりました。
     天津神は命を御召しになり天璽の十種の神宝を御授けになり、『若し痛むところがあれば此の十種の神宝を使って、一二三四五六七八九十と唱えて打ち振りなさい。そうすれば死者も甦ります』と申され、あわせて天羽羽矢・天羽羽弓(天歩靫)をも授けられました。三十二従神を率連れ天磐船に御乗りになり、初めに河内国の河上の哮峯に天降られ、その後大和の鳥見の白庭山(現在地にして御終焉の地)に遷り住まわれます。
     命は天磐船に御乗りになり、天空を翔け巡りながら三本の天羽羽矢を射放たれ、矢の落ちたところを宮居と定め天降られました。一の矢は神社南方約五百メートルに、二の矢は神社境内に、三の矢は神社北方約五百メートルに落ちました。このことから御社号を『矢落神社・矢落大明神』とも申し上げ、この地を『矢田』と呼ぶようになりました。土豪の長髄彦(登美能那賀須泥毘古)の妹の御炊屋姫(登美依毘売)を娶り妃とし、宇摩志麻遅命(宇美真手命・建国時の近衛長官)をお生みになります。
     神武天皇が東征されると、命は既に平定を済まされていた畿内一円を御渡しになられます。天皇は東征出発の前、天璽を授かった日の御子が、天磐船に乗られ、東の四方を青山に囲まれた美地に天降られていることを塩土老翁(塩椎神)から御聞きでしたので、命の忠節を殊の外喜ばれ、神剣を御授けになり大勲に報い給われました。御神裔の物部氏の崇敬篤く、御創建当初より六世紀前半期に至る間は畿内随一の名社として栄え、御社殿は宏壮美麗を極めた当地方最大の古社でありました。
     命と共に降臨した一族はこの地に定住し、命没後、御魂を安めるため社を建て祭祀を執り行っています。毎年一月八日に御神域前面に大綱を掛ける『綱掛祭』は、雄龍雌龍になぞらえた二本の太い綱を用意し、御神前にて更に一本の大しめ縄にないます。水神としての龍の力を仰ぎ、適度な降水による農作物の豊かな恵みと水運の安全を祈願し、雄龍雌龍が結ばれることによる子孫の繁栄を祈ります。天磐船の降りた処に守護神の龍神を示す縄を幾重にも巻き、命への永遠の側近警護をお誓いします。
     天璽の十種の神宝の御神徳から治病息災健康長寿の神・医術の祖神『医療祖神』と共に、近年は天磐船の故事から飛行の祖神『航空祖神』として、航空関係者・旅行者の崇敬が寄せられています。楼門のプロペラは昭和十八年、大日本飛行協会大阪支部から奉納された中島飛行機製の陸軍九一戦闘機のもので、堀丈夫陸軍中尉より『神威赫奕』と揮毫されています。
    由緒書
  • 崇神紀の出雲神宝事件

    日本書紀崇神六十年条の出雲神宝事件である。

     大和は矢田部造の武諸隅(たけもろずみ)(矢田部は物部氏)を出雲に遣わして、その神宝の奉献を求める。この時、神宝を管理していた出雲振根(いずもふるね)は筑紫に出掛けて留守だったので、弟の飯入根(いいいりね)が神宝を奉献する。筑紫から帰ってこれを知った出雲振根は怒って飯入根を殺す。飯入根の弟や子らが、このことを大和に訴えたので、大和は吉備津彦と武渟河別(たけぬなかわわけ)を派遣して出雲振根を誅殺する。更に、出雲の神宝については、垂仁二十六年条にも、物部十千根(もののべのとうちね)に、神宝を調査させる話が出てくる。

    吉備の中にも物部氏

    吉備における郡別部民分布表を見ると、和気、磐梨、邑久、御野、窪屋、賀夜、神石の7郡に分布している。(ただし、和気郡では矢田部、邑久郡では石上と称している) 吉井町の石上神社が鎮座する山の麓の石上の集落は御津郡である。(ただし、古くは赤坂郡に属した)
     このことは、出雲に進攻したのは、吉備国の物部部族の軍団、なかんずく、御野郡の物部を中心とした軍団であったとも思うことができる。
  • 吉備の笠臣
    日本書紀(応神天皇条)には、備前から備中の範囲の諸部族(上道臣、香屋臣、三野臣、下道臣、苑臣、笠臣)を、すべて御友別の兄弟子供として同族と記しているが、古事記(孝霊天皇段)の方は、これに反して、もと備前に居た上道臣は大吉備津彦(紀は吉備津彦)の末、備中に居た下道臣、笠臣は若彦建吉備津彦(紀は稚武彦)の末として、両者は別系統であるとしている

    応神天皇の時代
    庚寅(09.10)に、亦葉田【葉田 此云簸娜】葦守宮に移り居します。時に、御友別參赴り。則ち其の兄弟子孫を以て膳夫として饗奉る。天皇、是に、御友別が謹惶り侍奉る状を看して、悦びたまふ情有します。因りて吉備國を割きて、其の子等に封さす。則ち川嶋縣を分ちて、長子稻速別に封さす。是、下道臣の始祖なり。次に上道縣を以て、中子仲彦に封さす。是、上道臣、香屋臣の始祖なり。次に三野縣を以て、弟彦に封さす。是、三野臣の始祖なり。復、波區藝縣を以て、御友別が弟鴨別に封さす。是笠臣の祖なり。即ち苑縣を以て、兄浦凝別に封さす。是、苑臣の始祖なり。即ち織部を以て、兄媛に賜ふ。是を以て、其の子孫、今に吉備國に在り。是、其の縁なり。

  • 天香山命(あまのかぐやまのみこと; 天香具山,天香語山,天香久山,天香児山など いろいろの表記法があるがここでは天香山とす る)が弥彦山付近に上陸し,辺りを平定,民に 製塩,農耕,漁労を教えたとされる。天香山命 は『日本書紀』の神武東征の記事にも出ている 高倉下(たかくらじ)であり,実在の人物であ る。新潟県では古来弥彦一族の祖として崇敬さ れている
  • 鈴木真年編纂の「物部大連系図」には金連が「刈田首祖」とも見え、伊予国宇摩郡の従七位上苅田首倉継・同姓浄根が物部連を賜姓した記事(貞観十二年〔八七〇〕十二月紀)もある(近隣の讃岐国苅田郡に起る刈田首は紀臣氏一族とされるから、「田」は「間」の誤記か別族の可能性もあるか)。
     老古連(麁鹿火の弟の位置にあるが、軽馬連・野間連の祖とされる金の直前におかれるのを重視すべきか)を祖とする神野入州連も、伊予国神野郡(後に新居郡)か讃岐国那珂郡神野に居たものか。駿河や美濃東北部(武儀郡神野邑)にも神野の地名がある。そうすると、これらと近い同族関係にある野間連も伊予国野間郡、同郡式内名神大社の野間神社(今治市神宮。その東隣に矢田の地名がある)に因るものか。摂津にも式内の野間神社(能勢郡にあって「布留社」ともいい、大阪府豊能郡能勢町地黄に鎮座)があり、物部との関連を伝えるが、伊予の色彩も感じる。ただ、史料に見えないほどの中小豪族のようなので、判断が難しいところであるが。
  • May 2016 編集されました
    大水口宿禰
    系譜に関して『日本書紀』『古事記』に記載はない。穂積鈴木氏系図による。
    『新撰姓氏録』では、伊香賀色雄の子とも、神饒速日命の六世孫とも伝える
    一方、『先代旧事本紀』「天孫本紀」では出石心大臣命(いずしこころのおおおみのみこと、饒速日尊三世孫)の子と記され、系譜に異同がある。なお、同書では伊香色雄命(伊香賀色雄)は饒速日尊六世孫とされる。
    子に関して史書では明らかでないが、穂積氏系譜では『古事記』に穂積氏祖として見える建忍山垂根を子に挙げる。

    橘モトヒコ(オトタチバナ姫の祖父)
    ヤマトタケのヱミシ征伐のとき、タチバナモトヒコはサカムのオノに城を構えており、ヒタカミ軍の攻撃に備えて、ホツミテシ・サクラネマシ等と共にこの城の守りを固めて、ヤマトタケの軍が到着するのを待っていた。 東国平定後にミサシ(武蔵国) とサガム(相模国) を賜る。

    建忍山垂根(たけおしやまたりね)は、『古事記』等に伝わる古代日本の人物。『日本書紀』に記される穂積忍山宿禰と同一人物とされる。
    『旧事』相模国造穂積忍山宿禰。日本武尊の妻、弟橘媛の父。 

    饒速日命-宇麻志麻治命-彦湯支命-意富禰命-出石心大臣命-鬱色雄命-大水口宿禰-建忍山宿禰命-大木別垂根命-【穂積】真津-阿米-十能寸-鎌子-押山。
    弟橘姫の兄の名前は穂積忍山彦根と言う名前で、香川県善通寺市大麻町の大麻神社は、その一族が代々祭主をしているそうです。
    穂積忍山宿禰は相模の国の西側の磯長の国の領主になった。磯長の国は小田原市国府津町から中郡大磯町にかけての海岸地域

    穂積真津とは
    伝承では、饒速日命の後裔・大木別垂根の子で、穂積臣の姓を賜って穂積氏の始祖になったとされる。長男の阿米の子孫は有力豪族・穂積氏として続き、次男の采女宮手は采女氏の祖となった。弟の加尼古は美濃穂積部の祖となったと伝わり、大宝2年(702年)の美濃国の戸籍には「穂積部安部」、「穂積部弥奈売」等の名がみえる。

    1.饒速日命ー宇麻志麻治命ー 彦湯支命 ー 意富祢命 ー出石心大臣命ー 鬱色雄命 ー大水口宿禰命 と続いた。

    7.大水口宿禰(穂積氏遠祖)、妻:葛城宇那昆姫

    8.建忍山垂根、妻は放橘姫(タチバナモトヒコの娘)

    9.大木別垂根(弟橘媛と弟財郎女と兄弟)

    10.穂積真津(穂積氏祖)、母は不詳ーー弟:加尼古(美濃穂積部の祖)

    11.穂積阿米ー弟:采女宮手(采女氏祖)弟:穂積田狭 弟:穂積小夫知

    12.穂積十能寸

    13.穂積鎌子、妻:阪尾姫(尾治臣勝雄の娘)

    14.穂積 押山、妻は弟名子媛(蘇我韓子の娘)ーーータリ国守

    15.穂積 磐弓、妻は笠味夫の娘・黒斗売(くろとめ)

    16.穂積祖足、妻は不詳ーー推古天皇8 年(600年)に初の征新羅副将軍に

    17.穂積 咋(兄弟に人足、乙咩、古閉)、妻は不詳 ーー大化元年(645年)に初の東国国司

    18.穂積百足(穂積五百枝の兄)、妻は不詳


    穂積 虫麻呂

    虫麻呂は天武13年(684年)11月に、一族の稲足、濃美麻呂らとともに八色の姓制定に伴い新たに穂積朝臣姓。
    672年の壬申の乱で、大友皇子(弘文天皇)のために倭京で兵を集めているとき、敵兵に殺された。。朱鳥元年(686年)正月には新羅使・金智祥を饗するため筑紫国に遣わされた。このときの冠位は直広肆であった。同年9月29日には、天武天皇の殯庭に諸国司の事を奏上した。
  • 白河本旧事紀 古代史
    日本古代史最前線
    古事記、日本書紀にない記述がある
    日本武尊
    妃3人に15人の御子
    垂仁天皇の皇女、両道入姫命を娶り元妃と為して四王子を生む。
    男稲依別王 此の王は、乃ち犬上君、武部君の祖なり。
    男足仲彦天皇
    女布忍入姫命
    男稚武王 此の王は、乃ち近江君、宮道君の祖なり。
    次の妃、吉備武彦の女、吉備穴戸武媛、二王子を生む。
    男武卵王 此の王は、乃ち讃岐綾君、伊勢別、登遠別、麻佐首、官首別等の祖なり。
    男十城別王 此の王は、乃ち伊予別君の祖なり。
    次の妃、穂積忍山宿祢の女、弟橘媛、九王子を生む。
    男稚武彦王 此の王は、乃ち津揮田君、武部君の祖なり。
    男稲入別王
    男武養蚕王 此の王は、乃ち波多臣等の祖なり。
    男葦@竈見別王 此の王は、乃ち竈口君等の祖なり。
    男息長田別王 此の王は、乃ち淡粟君等の祖なり。
    男五十日彦王 此の王は、乃ち讃岐君等の祖なり。
    男五上彦王
    男武田王 此の王は、乃ち尾張国丹羽建部君等の祖なり。
    男寒木王 此の王は、乃ち三川御使連等の祖なり。》
  • 饒速日命の子孫つながり
    藤白鈴木氏の本姓は穂積氏。

    穂積姓鈴木氏の本宗家。藤代王子(熊野権現の御子神の一体)の旧址・藤白神社(紀伊国海草郡)の社家であり、紀伊国の国人領主。熊野速玉大社一禰宜・穂積国興の子・基行が鈴木姓を称したことにはじまる。熊野地方で勢力を誇った熊野三党のひとつ、または熊野八庄司として当主は代々「鈴木庄司」を称した。家紋は穂積氏に由来する「稲穂丸」、替紋は熊野別当・藤原氏に由来するとされる「藤の丸」。幕紋は「八咫烏」。

    穂積氏は大和国山辺郡穂積邑および十市郡保津邑を本拠地とした豪族で、神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命が祖先と伝わる神別氏族。崇神天皇の外伯父・伊香色雄命の子・大水口宿禰を遠祖とする。

    大水口宿禰の子・建忍山垂根は、穂積忍山垂禰とも記され、娘・弟橘姫は日本武尊の妃となり、また、娘・弟財郎女は成務天皇の妃となり、 和謌奴気王を生んだとされる。建忍山垂根の孫・真津の代に穂積姓を賜ったという伝承がある。

    鈴木眞年『史略名称訓義』では、饒速日命の子・宇麻志麻治は大和国十市郡に居て天皇に天瑞宝を献じ、穂積の姓を賜り、その子孫から物部氏などが分かれたとしている。姓は臣。飛鳥時代の天武13(684)年、八色の姓制定に伴い穂積朝臣姓を賜った。
  • 末羅国    武雄市史上巻 昭和56年   もどる

    末羅国は松浦国と同じで、魏志倭人伝にでる末慮国の地域で、この時代の豪族の墳墓である古墳の分布から考えて、現在の唐津市の鏡地区と浜崎玉島町とを中心として伊万里・平戸方面にも及んだ範域であろう。対外関係の要地として大和朝廷が重視した地域である。その国造には成務天皇の時に、有力な軍事団の長の一つでもある物部氏の祖の伊香賀色雄の子の大水口宿禰(足尼)の孫の矢田稲吉を任命したと記されている。この矢田稲吉は肥前風土記に出る同じ唐津地方の土蜘妹を討滅した大屋田子(風土記では日下部君らの祖とある)と同一人物ではないかと思う、大をとった場合にそう考えられる。


    日下部氏は大伴氏を統率者とする朝廷の軍事団である靭負部に属するものといわれるが、靭負部は大伴氏だけが終始統率者でなかったと思う。矢田稲吉にせよ、大屋田子にせよその祖先は武人として物部氏の配下であったときもあれば、大伴氏の配下であったときもあったと考えたい。その時代と系譜には問題が存するが、稲吉を稲置と同一と見た場合には重要な問題となる。稲置は県主に比べて極端に少なく、畿内・東海の両地方に出雲・讃岐を加えて九か国に十四例しかなく、九州には全くないといわれてきた。稲置は屯倉に関する税長のような職名の性格が強いものである。そうすると松浦国造や松浦の県主と稲置との関係をどう解釈するかが問題である。ここでは問題提起にとどめておく。


    肥前風土記には唐津地方には日下部君らの祖の弟日姫子(松浦佐用姫)と五三七年に新羅を討って任那、百済を救援した大伴狭手彦との悲恋伝説が記されている。また松浦郡賀周の里に土蜘妹の海松橿媛というものがいたのを、景行天皇御巡幸の際に陪従の大屋田子(日下部の君らの祖)が討滅したという話が記されている。討滅の地は現在の唐津市の見借附近であろう。この二つの説話によって、唐津地方に豪族日下部氏のいたことと、日下部氏が大伴氏と関係があったこと、朝廷に忠節をつくしてきたことを主張することによって、有利な地位の保持をはかっていることがうかがわれる。
  •  式内社「忍山神社」白鬚大明神
     一、神紋   花菱
     一、鎮座地  亀山市野村四―四―六五(大字一一〇九番地字忍山)
     一、主祭神  猿田彦命(本宮)、天照皇大神(別宮)
       祭神   天児屋根命、 天布刀玉命、
            素盞鳴尊(天王社)、大穴牟遅神(和賀社)
     一、皇大神宮遷幸地跡
     一、弟橘媛命生誕地

     境内には多くの石神が祀られており、弁財天、富士権現、康申、山神等が祭られている。

     忍山神社の由緒について

     忍山神社の由緒については諸説ある。「社記」には崇神天皇(四世紀初)の七年秋九月、饒速日尊五世の孫伊香我色雄命が勅を奉じて猿田彦大神を祀り、伊香我色雄命の子・大水口宿禰の子孫相次ぎ神職となる。猿田彦の一族と伊香色雄命一族(後の忍山氏)とが何らかの因縁で結ばれていたのかも知れない。さらに、垂仁天皇(四世紀)の二十五年、皇女である倭姫命が、天照大神を祭るのに最も適した場所を求めて大和(現奈良県)から近江(現滋賀県)、美濃(現岐阜県)を経て伊勢国に入り、忍山の地に至った時に大彦命が「ここは味酒の鈴鹿国奈具波志忍山」と姫に答えたことにより、六ケ月間、皇大神宮の鎮座地となった。その跡が忍山宮または、小山宮といわれた。その間に神戸及び神田が寄進され、之が本となって後世に鈴鹿神戸郷といわれるようになった、その中心人物が忍山宿禰であった(皇大神宮はその後、磯宮、宇治家田田上宮などを経て五十鈴川上に鎮座となった)といわれる。忍山神宮の祠官である忍山宿禰(「紀」の景行天皇の条に穂積氏忍山宿禰とある)については社記に「地主祖神と申事。饒速日尊五世の孫、伊香我色雄命の子大水口の宿禰と相次いで神主となり同社に奉仕した」とある。「新撰姓氏録」によると、穂積の忍山氏は左京神別上・天神の部に属し「穂積朝臣、石上同祖、神饒速日命速日命六世の孫・伊香色雄の後」とある。また、大水口宿禰も同録に、左京神別・上に穂積朝臣は「伊香賀色男、大水口宿禰之後也」とある。饒速日命は物部氏の祖であるので、この神社の祭神は忍山宿禰の祖・饒速日命ということになる
  • 継体天皇23年(529年?)3月条によると、下哆唎国守の押山は、百済が朝貢の津路を加羅の多沙津に変更したがっている旨を奏上した。このときに朝廷は加羅王の反対を押して多沙を与えたため、加羅は新羅と結び日本を恨むこととなったという。

    系図によると、穂積押山の妻は蘇我韓子の娘の弟名子媛で、子に穂積磐弓・穂積巴提がいるという。系図によると穂積押山の父は穂積鎌子、母は阪尾姫(尾治臣勝雄の娘)とされる。

    穂積押山は物部の宗家であり、韓半島の任那の幾つかの国の国守であった。その縁から、蘇我韓子は韓半島に渡り、韓子と名づけられ、任那の妻を娶ったのであろうか。(記録はないが)
  • 大麻神社(善通寺市大麻町上ノ村山:祭神 天太玉命)丸亀京極家編纂の「西讃府誌」に「相伝ふ弟橘姫(おとたちばなひめ)は讃岐人穂積氏忍山宿弥(おしやますくね)の娘なり」という記述があり、弟橘媛の父忍山宿弥は大麻神社の神官を務めたとされる。
  • 内色男命系(穂積系)の関係系譜は次のように推定される。
     饒速日命の第五世孫(以下、⑤のように表現する)の内色男命-その子の⑥大水口宿祢(崇神朝。穂積臣・釆女臣、末盧国国造祖)、その同母弟の⑥大矢口宿祢(崇神朝。大新河命、武諸隅命、大毋隅連、武牟口命と同人)-⑦大売布命(景行朝の東国遠征に供奉したと『高橋氏文』に見)-⑧大小木宿祢(成務朝に遠江国造になった印岐美。豊日連、同上遠征に供奉)-その子の⑨樫石宿祢(志紀県主)、その兄弟の⑨舩瀬宿祢(成務朝に久自国造)、同じく⑨印播足尼(仲哀朝に久奴国造)。大小木宿祢の兄弟の⑧大小市宿祢(成務朝に駿河国造になった片堅石命のことで、大新川命の子と「国造本紀」に見える)-その子の⑨阿佐利連(応神朝に風早国造)、その兄弟の⑨子致命(応神朝に小市国造。大新川命の孫と「国造本紀」に見える)。大売布命の兄弟の⑦意布美命(建新川命に当たるか。春道宿祢の祖の布都弖は、その子か同人か)-⑧伊其和斯彦宿祢(伊福部氏系譜に成務朝に稲葉国造。伊福部臣祖)、その兄弟の⑧臣賀夫良命(成務朝に三野後国造。景行朝に見える美濃県主角鏑)。
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