大山祇神社、三島大社、越智・河野氏

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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大山祇神社 今治市大三島町宮浦にあり、日本総鎮守と呼ばれ、各地の三島神社の総本山。 大三島は古くは御島と書かれ…

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  • 伊豆國田方郡 楊原神社 名神大

    御祭神 大山祇命
    配祀 磐長姫命 木花開耶姫命

    鎮座地 沼津市下香貫宮脇335番地 往古の社地は今の字楊原で、永禄年中北条武田合戦の時兵禍に罹り社殿神宝等悉く焼失、其の後天正18年(1590年)現在の地に遷宮する。祭神は大山祇命、磐長姫命、木花開耶姫命の三座を奉斎する。主神大山祇命(おおやまずみのみこと)は伊邪那岐、伊邪那美命の御子、磐長姫命(いわながひめ)木花開耶姫命(このはなさくやひめみこと)は大山祇命の御子にして左右に配祀、御祭徳は治水産業の神、特に山の神として日本一と奉賛せられております。沿革として創立年月は不詳なれども延喜式神名帳(905年)(第60代醍醐天皇の御代有名神社書上帳)所載にして名神大とあり、大宮大明神、又香貫大明神とも称え、今は大宮様と云う。往古は神領五百石を有し、社家三十余家ありと伝えられ明治八年二月郷社に列す。上香貫、下香貫、我入道の総鎮守の神として崇敬せられている。-『平成祭データ』-
  • 香川県内に約2500ある神社のうち

    1位 214の神社が大山祇社(オオヤマズミノミコト)
    2位 190社が素戔嗚尊(スサノオノミコト)
  • 乎知の郡(愛媛県越智)、御嶋(みしま)、坐す神の御名は大山積の神。
    一名(またの名)は和多志(わたし)の大神なり。
    この神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。
    この神、百済の国より渡り来まして、津の国の御嶋に坐しき。
    御嶋と謂うは、津の御嶋の名なり。

    古事記は仁徳天皇(にんとくてんのう)の御世に『秦人を役ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また和邇池、依網池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小橋江を掘り、また墨江の津を定めたまひき』と古代王朝の公共事業に果たした秦一族の役割の大さを、固有名詞を出して正確に伝えています。(なお、ここで「茨田堤」と呼ばれている堤が丁度、三島鴨神社の東に相当する場所なのです。大雑把に言うと、摂津の御嶋は淀川の真ん中に位置し、そこに向けて安満川・芥川・女瀬川・玉川などの河川から水が流れ込み、堤の完成には大変な困難が伴ったと思われますから、多くの犠牲が出たのかも知れません。
  • 鴨族の山城進出と茨田堤造成に関連した三島鴨神社の創建は、何時の頃とは断定できないものの、いずれの言い伝えも「仁徳天皇」の時代の事として捉えていることを思えば、そして秦氏の渡来が「応神天皇」の時代の出来事だとされていることなどから類推すれば、遅くとも五世紀の中頃までには鴨・三島・秦大連合が摂津三島の地で組織化されていたに違いありません。

    茨田堤の完成に寄与した秦氏が、霊験あらたかな事を証明して見せた大山積神を、鴨氏と三島氏の了解の下に祀ったと考えるのが自然か?
  • 先に鴨(事代主命)と三島(三島溝杭耳命・溝杭姫)が結婚して娘が誕生、そして天孫の神武と結ばれたのだと言いましたが、これには別の言い伝えもあります。つまり三島の神「三島溝杭耳命」は「陶津耳命(すえつみみ)」の別名であり、三輪の大物主と夫婦の契りを結んだ姫の名は「活玉依毘売(いくたまよりひめ)」である、とするもので、この系図に従うと、鴨族は、

      大物主大神(事代主)--櫛御方命--飯肩巣見命--建甕槌命--意富多多泥子
  • 三島社は、香取志では、伊豆の国の三島社のうつしであって、大山祇の神を祀っている。又見の社の末社であるけれど、大禰宜家の先祖に、三島という人がいる。いわゆる、三島社とは、この人を祀っているのであるに違いない。この家は、神の末裔であると伝えられている。

    古くはオオヤマツミノミコト(大山祇命)なんですが、平田篤胤がコトシロヌシノカミ(事代主神)だとして、明治に変更・・・昭和には二神同座に
  • 東大社。この社の祭神は、玉依姫尊です。景行天皇の東国巡幸のときに、祀ったのが始まりです。この神社は千葉氏の東氏にかかわりがあり、東氏は・・・鹿島神宮の東宮司家とも関わ

    東庄の玉子の社は香取の御子であって、祠員10名ばかりもいる。祭祀も香取に次いで多い、とりわけ、21年目には御浜下りといって、銚子外川へ神幸して、その旅所を香取台と云う。香取にちなむ事を推察せよ。そこに宮さぶと云うものがあって、神輿を降ろす事になっている。この家の苗字は山口氏であると云う。その傍らに、和名抄、海上郡の神代郷あり、今は上代と書き、10ヶ村程に分かれている。これ古昔、香取の神領の地に違いない。また、船木の郷がある。今も舟木台村、小舟木村などと云う村があるのは、その名残であるに違いない。二神海門の鎖鑰と云う内に、上古神領も、船木の地も、海夫とも、香取に付属させた。これ、香取が正当である事を推察せよ。そして、もともとは香取・鹿嶋の影祀でないわけはない。往古の様子を思いなさい。
  • 側高社の祭神は神秘として、その名を知る者はいない。意を以てこれを考えると、これも、本宮に深き所以の上であろうか。それは、側高の社は香取第一の摂社であって、香取の祠員大祭事に與すれば始めの百ヶ日、この社を拝することが昔から行われている。朔望の参拝も怠る事はない。
    常陸の国、行方の郡、小高村にも、側高の影祀がある。常陸風土記に、同郡の男高の社が栗家の池にある。北に香取の神子の社あるとある。地元の人は、今では側高と言っているというので、この側高も香取神子である事は間違いない。

    側鷹神社です。なぜか側高ではなく側鷹ですよ
  • 側鷹神社
    『香取志』には当社は香取神宮の第一摂社

    昔、側高神が香取神の命により陸奥の馬2,000疋を捕らえて霞ヶ浦の浮島まで帰ってきたところ、陸奥神が馬を惜しんで追いかけてきた。そこで側高神は霞ヶ浦を干潮にして馬を下総に渡らせ、次いで満潮にして陸奥神を渡れなくしたという。以上の伝承から、当社が古代に担った役割が推察される


    『香取郡誌』では、主祭神を高皇産霊尊・神皇産霊尊、相殿神を天日鷲命・経津主命・天児屋根命・武甕槌命・姫御神としている
    この祭神の中に忌部氏系の天日鷲命が見られることと当社の成立との関係性が指摘される。また、経津主神(香取神宮祭神)の后神が祭神であるという説もあ。

  • 明治天皇御製

    天つ神 定めたまひし 国なれば
    わがくにながら たふとかりけり

    世の中に ことある時そ しられける
    神のまもりの おろかならぬは

    千早ふる 神のひらきし 道をまた
    ひらくは人の ちからなりけり

    めにみえぬ かみの心に 通ふこそ
    ひとの心の まことなりけれ
  • 越智氏の系譜の上古の部分は、以下のようになっています。

    ①孝霊天皇(太瓊尊)-彦狭島命(孝霊第三皇子)-小千御子(天狭貫王)-天狭介-
    粟鹿-三並-熊武-伊但馬-喜多守-高縄

    彦狭島命の母は、古事記では磯城県主の一族である蠅伊呂杼命となっており、欠史の八代の時代を担った
    系譜である事が分かります。蠅伊呂杼命は和知都美命の子であり、越智(おち、おおち、おうち)の名の
    ルーツはこの和知(わち)都美命ではないかと考えられます。

    富家の認識では、磯城県主とは富家の倭の分家である磯城家のことであり、
    祖は磯城津彦玉手見尊で、その子が和知都美命ということになります。
    この磯城家の分家には、登美家があり、その分家には和仁家があります。
    和仁家の系譜は、

    ②事代主命~玉手見命-和知都美-蠅伊呂杼-彦狭島命~①越智家
    ③事代主命~阿太賀田須命-和仁古-姥津媛命-日子坐王(粟鹿神社社家)-丹波道主王-
    朝廷別王(砥鹿神社社家/草鹿砥家祖)
  • 砥鹿神は、静岡県清水市と愛知県豊川市、愛媛県今治市菊間町において祀られています。

    砥鹿神の祭祀氏族について、予章記や富家の氏族認識による解釈で共通性を調べてみました。

    予章記によると、越智氏の系譜の上古の部分は、以下のようになっています。

    ①孝霊天皇(太瓊尊)-彦狭島命(孝霊第三皇子)-小千御子(天狭貫王)-天狭介-
    粟鹿-三並-熊武-伊但馬-喜多守-高縄

    彦狭島命の母は、古事記では磯城県主の一族である蠅伊呂杼命となっており、欠史の八代の時代を担った
    系譜である事が分かります。蠅伊呂杼命は和知都美命の子であり、越智(おち、おおち、おうち)の名の
    ルーツはこの和知(わち)都美命ではないかと考えられます。

    富家の認識では、磯城県主とは富家の倭の分家である磯城家のことであり、祖は磯城津彦玉手見尊で、その子が和知都美命ということになります。
    この磯城家の分家には、登美家があり、その分家には和仁家があります。

    和仁家の系譜は、

    ②事代主命~玉手見命-和知都美-蠅伊呂杼-彦狭島命~①越智家
    ③事代主命~阿太賀田須命-和仁古-姥津媛命-日子坐王(粟鹿神社社家)-丹波道主王-
    朝廷別王(砥鹿神社社家/草鹿砥家祖)

    上記の越智氏に関連する氏族は、いずれも砥鹿神社の祭祀氏族と密接に関連しています。


    三河の砥鹿神社のルーツは
    「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて
    但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれた

    但馬の赤淵宮の祭祀氏族は、但馬国造の分家であるため、上記系譜にあるように、③の系譜
    にあたります。但馬続風土記の伝承は、祭祀氏族の移動と合致しており、偽書と言われている
    もののこの記載に関しては、信憑性があると考えられます。

    砥鹿神の祭祀氏族は、粟鹿神を祀る但馬国造の一族が三河への移住に伴って粟鹿神を
    砥鹿神として祀るようになったと言えます。

    但馬故事記には、粟鹿の事をトガの粟鹿と呼称しています。
    「彦坐命は諸将を率いて、多遅麻粟鹿県に下り、刀我.禾鹿(トカノアハカ)に宮居す。」

    和名類聚抄には、トガの地名として、但馬国朝来郡東河(とが)郷もあります。
    砥鹿(とが)の名称も、但馬の東河(とが)という地名から移ったと考えられます。

    次に、静岡県清水市の砥鹿神社ですが、砥鹿神社の鎮座地は律令制以前は、庵原国と呼ばれていました。


    庵原国造の末裔という庵原氏は、現在草ヶ谷姓を名乗っております。
    庵原国造家の古墳とも伝わる、三池平古墳の直下にある砥鹿神社は明治七年に砥神神社と名
    を改めたが、元々は庵原氏の氏神であったと言われます。
    寛永諸家系図伝によれば、庵原氏は彦狭島命を祖とする越智姓です。

    越智氏が氏神として砥鹿神を祀る事を考えるとき、系譜に現れる「粟鹿」と「伊但馬」いう名が特徴的で
    但馬の粟鹿神=砥鹿神を祀る一族であった事が系譜の名からも伺えます。

    以上から事代主神の末裔である磯城県主の一族が砥鹿神を祀ることが分かりましたが、
    彦狭島命以降は、吉備氏族の親族でもあります。

    富家の伝承では、吉備氏族は、南九州から移動した物部連の軍隊に破れ、吉備に退いた後、出雲に攻め入ったと言われており、特に飯石郡や神門郡には、その痕跡が神社や伝承として残っています。

    ヤマタノオロチの伝説は、吉備の軍と出雲の軍の衝突を現しており、後に、両者は講和して吉備氏族は
    出雲に残ったものは出雲と同化して残ります。

    砥鹿神は、出雲に同化した吉備氏族と、飯石郡の神門臣家が祀っていた大名持命と考えられます。

    参考
    http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/16317108.html
  • 粟鹿神の神名が越智氏の系譜の中の名前と合致していたことを指摘しましたが、猿投神の神名(さなげ~さなが~さぬき)も越智氏の系譜に現れています。
    小千御子(天狭貫(さぬき)王)です。越智氏の祖神として愛媛県今治市の矢矧神社で祀られています。t
  • 美濃西部の多芸郡には、式内社の御井神社(養老郡養老町金屋)、多伎神社(養老町三神町。『和名抄』の多芸郡物部郷の地)がある。美濃東部の厚見郡の隣の各務郡にも式内社の御井神社(美濃では同名式内社はこの二社だけ)、伊予国越智郡にも式内名神大社の多伎神社(今治市古谷大谷)があって越智国造の奉斎社とみられている。伊予の多伎神社は「滝の神」で奥の院の磐座(巨石)信仰に始まり、崇神朝に伊香武雄命が初代斎宮となったと伝える。

     また、各務郡式内の加佐美神社の加佐美は「風視」の意で、越前国大野郡の風速神社にも通じる(志賀剛『式内社の研究』第十巻)というから、伊予の風早国造にも通じることになる。風早郡式内の櫛玉比売神社は、矢田部氏の本拠にある矢田坐久志玉比古神社(『和名抄』の大和国添下郡矢田郷、現大和郡山市矢田町に鎮座)に対応し、合わせて櫛玉饒速日命夫妻を祭神とする。伊予には、桑村郡に式内の布都神社(西条市石延)があり、物部の祖神・布都主神(経津主神)を祀る。
  • 式内社 近江國甲賀郡 石部鹿鹽上神社

    御祭神 上鹿葺津姫神 吉比女大神
    配祀 木花開耶姫
    滋賀県湖南市にある。石部駅の南東1Kmの石部東に鎮座。
    拝殿の後方、階段上に透塀に囲まれて社殿が鎮座。
    階段上の中門をくぐると、正面に拝殿形式の幣殿があり、後方に流造の美しい本殿がある。

    創祀年代は不詳。

    元は現在の御旅所の位置、字上田に鎮座しており、上田大明神とも称された古社。天文三年(1534)、現在地に遷座したという。

    鹿鹽上社吉比女大明神とも称し、式内社・石部鹿鹽上神社の論社となっている。
    『神祇志料』には、石部鹿鹽上神社について
    「今石部駅に在り、上下両社とす。上を吉姫明神・下を吉彦明神といふ。即駅中の生土神也」
    とあり、当社の北西1Kmにある吉御子神社と一対の神社であるらしい。

    つまり、石部の鹿鹽谷に鎮座している上下社のうち上社である当社が式内社・石部 鹿鹽 上神社ということになるのだろう。

    また、『倭姫命世記』に
    「倭姫命度坐時尓、阿佐加潟尓多気連等祖、宇加乃彦之子、吉比女、次吉彦二人参相支、爾時吉姫、地口御田、并麻園進」とあり、吉姫・吉彦の後裔である多気連が祀った神社であるという。
    社殿背後の小山の山頂には、六世紀頃の古墳があるらしい。

    祭神の上鹿葺津姫神に関しては詳細はわからないが、
    吉御子神社に祀られている鹿葦津姫神は木花開耶姫の別名と考えられており、その上社の神という意味だろうか。

    透塀の中門に、巴紋と八つ藤紋が染められていた。この二紋が、当社の神紋。
    透塀内の本殿の左右に境内社が鎮座。左手には出世天満宮(菅原道真公)、右手には世継神社(天忍穂耳命)。
  • 三嶋大明神

    三嶋大社(静岡県三島市大宮町二丁目)
    祭神は大山祇命・積羽八重事代主神で、阿波神・伊古奈比咩命・楊原神を配祀。
    式内社(伊豆国賀茂郡 伊豆三嶋神社名神大 月次新嘗)。 伊豆国一宮。 伊豆国総社。 旧・官幣大社。
    史料上の初見は『新抄格勅符抄』大同元年[806]牒の「伊豆三島神 十三戸 伊豆国 宝字二年[758]十月二日九戸 同十二月四戸」。

    三嶋大社の創建に関しては、三宅島からの遷座説と伊予国からの勧請説がある。
    前者は『三宅記』[LINK]に基づくものである。 同書によると、天竺の帝王に光生徳女という后が有ったが、子宝に恵まれなかった。 后は薬師如来に祈願して懐妊し、王子を産んだが、その子が七歳になる頃に亡くなった。 王子は継母の讒言により父王の不興を蒙り、孝安天皇元年[B.C.392]に日本に到着した。
    王子は富士山頂で神明に安住の地を求め、神明は王子に伊豆半島を与えた。 王子がより広い土地を求めると、神明は海中の土地を焼き出して住むように云い、その前に天竺に戻って父王に勘当を解いて貰うよう勧めた。 王子は天竺に帰国して父王に無実を訴え、父王は勘気を解いた。 王子は再び日本に戻り、宿を求めて一つの庵を訪れた。 そこには年老いた媼翁が住んでいた。 翁は媼にこの人は只者ではなく薬師如来の化身であると告げ、王子を歓待した。 翁は王子に伊豆の海を焼き出して住むよう勧め、三島大明神と名乗るよう申し上げた。
    三島大明神は媼翁の息子の若宮(普賢菩薩)・剣の御子(不動明王)と娘の見目(弁財天)の三名を伴って伊豆に着いた。 若宮は火の雷・水の雷、剣の御子は高根大頭龍など大小の神々、見目は白龍王・青龍王など多くの龍たちを集め、同二十一年[B.C.372]に七日七夜で初島・神集島(神津島)・大島・新島・三宅島など十の島々を焼き出した。 三島大明神は三宅島に宮居し、五人の后を大島・新島・神津島・三宅島・沖ノ島(八丈島)に住まわせた。
    その後、箱根の湖辺に住む老夫婦の三人の娘を大蛇から救い出し、新たな后として三宅島に住まわせた。
    ある時、三島大明神は東遊・駿河舞の伎芸を習得した壬生御舘(壬生氏の始祖)と出会った。 壬生御舘は三宅島に渡来し、戸田の地に石で築地を造った。 推古天皇二年[594]正月三日、三島大明神は壬生御舘に三宅島の祭政を託し、五百年後に日本の守護神となる事を宣言した。 そして、同八日午之時に凡夫の姿を石に写して垂迹した。 その後、三島大明神は白浜(下田市白浜の伊古奈比咩命神社)に遷座した。

    一方、伊予国からの勧請説は、例えば『東関紀行』に「伊豆の国府にいたりぬれば、三島の社のみしめ、うちをがみ奉るに松の嵐、木ぐらくおとづれて庭の気色も神さびわたれり。此の社は、伊予の国三島大明神を遷し奉ると聞く」と記されている。

    また、『予章記』によると、諸山積大明神は大山積大明神の第一王子で、伊豆三島の事であり、本地は薬師仏である。 同書によると、伊予皇子(孝霊天皇の皇子・彦狭島命)と和気姫の間に三つ子が生まれた時、それを恥じて棚無小船三艘に乗せて海に放った。 長子の船は伊豆国に着いて諸山積大明神(本地は阿閦如来)と成った。
    (大山祇神社の本地仏である大通智勝仏の十六王子の第一は阿閦如来であるが、この仏はしばしば薬師如来と同一視される)
  • 大山祗神社
    天孫瓊々杵尊降臨の際、大山積大神、またの名吾田国主事勝国勝長狭命(大山積神の擬神体)は女木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に和多志大神と称せられ地神・海神兼備の霊神であるので日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。

    大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮祭したことに始まる。
  • 出典
    http://teamtamayura.blog87.fc2.com/blog-entry-17.html

    三島鴨神社史に
    次のように書いています。

     さらに又、御島の神に毎日、ご奉仕する人たちがいたはずです。それは、朝廷に命じられて、大山祇神にご奉仕する神人[じにん]の役割りをもたされていた「玉江の主」ともいうべき一族です。三島神に奉仕していた「玉江の主」でもあった一族とは「三島王族」と呼ばれる人たちで、この一族については、次のように書かれています。

    玉江、玉川湖沼、安威川の流域は三島王族の根拠地でした。朝廷から山背川の中州の大山祇神のおやしろを護持せよと命じられた三島王族は、当時の都や河内の朝廷をはじめとする大勢力が無視できないような大きな勢力をもっていました。それは「鴨族」とも呼ばれていました。

    玉川・安威川は淀川の神島=中州のところに北から注ぐ支流ですが、それらの流域一帯(溝杙のあたり)に三島王族なる一族がいたとのことです。
     三島鴨神社の主祭神は大山祇神と事代主神の二柱で、これは伊豆の三嶋大社と同様です。三島=御島神はオオヤマツミ神であるのに、どうしてここに事代主神が一緒にまつられているのか、また、社号になぜ「鴨」がついているのかは大きな謎なのですが、『三島鴨神社史』によれば、三島=御島神、つまりオオヤマツミ神の祭祀に奉仕するのは三島王族=鴨一族が朝廷から命じられたもので(「朝廷から山背川の中州の大山祇神のおやしろを護持せよと命じられた三島王族」)、三島王族=鴨族の祖神はオオヤマツミ神ではなく事代主神(言代主神)だったからだと説明しています。『神社史』は、「大山祇神につかえる神主でもあった三島王が、みずからが尊崇していた言代主神を、御島の大山祇神のおやしろにともにお祀りしたのは、自然なことだった」と結んでいます。
     淀川河口流域の鴨族と、淀川上流部支流の賀茂川流域に祭祀を展開する鴨族とがどういう関係にあるのかがいまひとつはっきりしませんが、淀川河口の御島神=オオヤマツミ神が、勅命祭祀によるものだということに端的に表れているように、三島王族によって親しく祭祀される神でなかったらしいことは伝わってきます。
  • 伊豆山神社の龍神
    伊豆山には、龍神の伝承があります。伊豆山から芦ノ湖にかけて龍がいらっしゃる、というもの。神社のご祭神は火の神様なのですが、龍神の影響が色濃い土地です。
    ちなみにここ伊豆山は、伊豆という名称のルーツになった場所。また、平治の乱で敗れて伊豆に流された源頼朝が、一時期身を潜めた場所であり、そして北条政子と人目を偲んで逢瀬を重ねて縁を結んだ場所として有名です。
    伊豆山神社の本殿右手奥には、なぜか石川県&岐阜県の境にある白山の神様も祀られています。
  •  三島神に奉仕していた「玉江の主」でもあった一族とは「三島王族」と呼ばれる人たちで、この一族については、次のように書かれています。

    三島鴨神社史

     玉江、玉川湖沼、安威川の流域は三島王族の根拠地でした。朝廷から山背川の中州の大山祇神のおやしろを護持せよと命じられた三島王族は、当時の都や河内の朝廷をはじめとする大勢力が無視できないような大きな勢力をもっていました。それは「鴨族」とも呼ばれていました。
    ーー中略ーー
    社号になぜ「鴨」がついているのかは大きな謎なのですが、『三島鴨神社史』によれば、三島=御島神、つまりオオヤマツミ神の祭祀に奉仕するのは三島王族=鴨一族が朝廷から命じられたもので(「朝廷から山背川の中州の大山祇神のおやしろを護持せよと命じられた三島王族」)、三島王族=鴨族の祖神はオオヤマツミ神ではなく事代主神(言代主神)だったからだと説明しています。『神社史』は、「大山祇神につかえる神主でもあった三島王が、みずからが尊崇していた言代主神を、御島の大山祇神のおやしろにともにお祀りしたのは、自然なことだった」と結んでいます
    ーー
    淀川河口の御島神=オオヤマツミ神が、勅命祭祀によるものだということに端的に表れているように、三島王族によって親しく祭祀される神でなかったらしい
  • 瀬織津姫

     オオヤマツミ神と瀬織津姫神が二重化された至近の関係にあるのは、三島鴨神社にもいえるのかどうかということですが、現在、三島鴨神社に瀬織津姫神の名をそのままに確認することはできません。しかし、「三島鴨神社由緒略記」には、末社の項に、次のように書かれています。

    唐崎神社 大山祇神(三島鴨神社若宮)

     本社に大山祇神をまつり、若宮にも同じ神をまつるという表示は奇異というべきで、しかも、その若宮を「唐崎神社」と呼んでいます。社号の字面とは反対に、本社祭祀に対するに、その地の先住神を若宮や客人[まろうど]社などにまつる例はいくつもあり、ここもそうだとしますと、それがさらに唐崎神社と呼ばれていることはなにごとかです。
     京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)の境内社・井上社(御手洗社)の神は、唐崎神の異称をもっていて、これは瀬織津姫神のことですし、淀川の水源である琵琶湖沿岸においても、この神を唐崎神としてまつる例は複数あります(高島市マキノ町の唐崎神社ほか)。
     三「三島」の一つ、大三島の大山祇神社においては、その境内合祭社(十七神社)のなかに「早瀬神社」の名でかろうじて瀬織津姫神の祭祀を残していましたが、三島鴨神社においては、現在、本殿に向かって右横に、「末社」レベル以上の社殿で唐崎神社をまつっています。
  • May 2016 編集されました
    黄泉平坂があった場所にあるのが出雲の揖屋神社。意宇の神社で熊野大社など意宇六社と呼ばれている神社の一つです。揖屋神社の神様が事代主で波切神社に祀られている多岐都比売命の子供になります。この熊野大社が波切神社では韋夜権現になります。揖屋神社で喪がりの宮を蹴飛ばしてしまったのが阿遅志貴高日子根神(迦毛大御神)で、波切の九鬼氏が信仰していた賀茂氏の神様。波切神社に祀られている田切姫命の子供になります。
    志摩では黄泉平坂の信仰が補堕落渡海に変わります。


    出雲大社
    「龍蛇神講のおすすめ」というパンフレットには

    「水に住む”龍”の信仰からは火難、水難の守護神と仰ぎ、地に住む”蛇”の信仰からは土地の禍事、災事を除かれる大地主神とあがめ、この二つの信仰が融合し一体となって、各々の家庭の開運、繁栄をお導きいただく”縁結びの神””福を授ける神”として慕われていらっしゃいます。」

    とありますが、この出雲の龍蛇さまの信仰は、大国主大神のご神徳とともに、全国に広がり、火災、水害から家を守る神様、豊作、豊漁をもたらす神様、そして開運の神様と崇められてきました。また特に関西では商売繁盛の神様としても熱心に信仰されています。

     この「龍蛇神講」に加入すると、龍蛇神の掛軸と龍蛇神守護のお札が授与されます。
    また、神迎祭でのご神幸の際には金色の神迎御幣が頂けますので、この特別の御幣をもって、神迎神事に参列し、出雲大社まで進まれる八百万の神さまのお供をすることができます。そして、翌日の神在祭の後に「龍蛇神講大祭」が行われますので、これに参列することができます。龍蛇神講大祭では講員のますますの開運、繁栄が祈念されます。神迎祭、龍蛇神講大祭に参列できなかった方には御幣と龍蛇神守護のお札が送られます。
     龍蛇神講加入の際のお初穂料は5千円、毎年お納めする謝恩金は3千円となっています。毎年納めることになりますので、とりあえず入ってみようかなという人よりは、強く龍蛇神を信仰される方に向いています。
  • 讃岐 滝宮神社
    綾川。府中ダムができるまで、この付近は急流だったそうです。オミタライといわれる淵には龍が棲み、阿波の鳴門まで龍の通り道があると信じられていたそうです。


    多岐都比売

    天照大御神、先ず建速須佐之男命の命の佩かせる十拳剱を乞ひ渡して、 三段に打ち折りて、ぬなとももゆらに天の真名井に振り漱きて、さがみ にかみて、吹き棄つる伊吹の狭霧に成りませる神の御名は、多紀理毘売 の命。亦の御名は奥津島比売の命といふ。次に、市寸島比売の命。亦の 御名は狭依毘売の命といふ。次に、多岐都比売の命。

    京都の櫟谷宗像神社

    ここの祭神は、奥津島姫命と市杵島姫命。つまり宗像三女神のうちの多紀理毘売命と狭依毘売でもある市寸島比売命の二柱が祀られている。そしてこの神社には、とある伝承がある。それは「ここ地元では、櫟谷・宗像両神社と渡月橋をはさんだ対岸の大井神社を合はせて宗像三神すべて揃ふと伝へられ…」という由緒

    現在の大井神社の祭神は、宇賀霊神になっているが、本来の祭神は「大綾津日神、大直日神、神直日神」大直日神は、八十禍津日神の分割された神であろう。

    ただ「大綾津日神」は馴染みの薄い神だが、近江国蒲生郡の八千鉾神社の祭神は大屋彦神(大綾津日神)八千鉾神」となっている。また大和国宇智郡山陰の大屋比古神社の祭神は「大屋比古神(大綾津日神)」だ。

    大綾津日神は大禍津日神や枉津日神とも記され、筑前国遠賀郡では疫神社の祭神に禍津日神がある。またこの神はしばしば「大直日神」「神直日神」と供に祀られる。
  • コマス姫ハヤコ。ハヤ大蛇 (ハヤ愚霊)。
    クラキネの娘で、モチコの妹。 
    アマテルの北局の内侍。 タケコ・タキコ・タナコの母。 
    ソサノヲとの不倫事件で解任され、コクミ・シラヒトのいる斐川へ出奔。
    ヤマタノオロチ(ハヤオロチ) と化して、ソサノヲに斬られる。
    ソサノヲは、これを「連り天引」のヤスカタ神として祭ったため、後にイハナガとして転生する。

    磐長姫尊。石長比売。巖永姫命。 
    オオヤマスミ (マウラ) の娘で、アシツ姫の姉。醜女。
    ソサノヲに斬られた八岐のオロチ (ハヤコ) の転生だという。 
    アシツ姫にあやかって自分もニニキネに取り入ろうとするが、失敗したためアシツを妬み、アシツ姫の身籠っている子はニニキネの子ではないとの、風聞を流してアシツを陥れようとする。
      
  • 愛媛県の「調査」にみられる、越智郡渦浦村津島字向山(当時)に鎮座する「大山積神社」の項は貴重な歴史的証言をなしています。この大山積神社の祭神欄には「大山積神∴(瀬織津比売命、来名戸祖命)」とあり、次に「(合祀)津島神社─天照大神、饒速日命、天道日女命∴」とあります。合祀された津島神社の問題も大きいですが、大山積神と瀬織津比売命・来名戸祖命が無縁どころではないという証言記録は重要です。祭神欄に付された「∴」の記号は意味深長といわねばなりません。
  • 伊豆の三島大社と矢田部氏

    三島大社のHPによると、「矢田部盛治(やたべもりはる):江戸時代末から明治時代はじめの三嶋大社神主(宮司)。社殿再興の他、大場川の治水工事、祇園原水路の開削など三島地域の開発に尽力した人物。境内には彫刻家澤田晴廣制作による盛治の銅像がある。」とあり、矢田部氏は、三島神宮と関係の深い氏族です。

     ウィキペディア「三島大社」によると「その(天御桙命)後裔の伊豆貫盛(第30代)が三嶋神主となって以降、代々三嶋社の祭祀に携わったという。伊豆久恒(第33代)の時には久恒に子が無かったため、弟の国盛(第34代)が『東神主五郎大夫』を、末弟の貞盛が『西神主四郎大夫』を称して後を継いだ[。康和5年(1103年)の国盛の宮司補任を示す文書は現在にも残っている(ただし検討余地のある史料とされる)。その後は東大夫・西大夫が並び立って三嶋社の社務を分担し、西大夫は二宮八幡宮の神主も兼務したという。東大夫と西大夫は代々継承されたが、南北朝期以降は西大夫は没落して東大夫のみとなった。以降の神主職は東大夫の世襲となり、一族は元禄年間(1688年-1704年)に姓を「矢田部」に改めた上で、現在の宮司(第70代)に至っている。」となっていますので、矢田部氏を名乗ったのは、元禄年間以降の事のようです。そこにはまた、伊豆の三島神社の神主は、伊豆国造の後裔を称する矢田部氏が代々世襲する事が書かれています。
  • June 2016 編集されました
    矢田部氏は添下郡矢田郷を中心に大和郡山市・奈良市辺りに勢力をもつ

    伊豆国造

     伊豆氏は、続日本紀の天平十四年(742)に「賜外従七位下日下部直益人伊豆国造伊豆直姓」、宝亀二年(771)に「授外従五位下伊豆国造伊豆直乎美奈従五位下」とあります。また、平野 邦雄 (監修), 坂本 太郎「日本古代氏族人名辞典」吉川弘文館; 普及版 (2010/11)によると、「『伊豆国造伊豆宿禰系図』では乎美奈を益人の子としており、また同系図や代旧事本紀の国造本記では、神功皇后の時代に若多祁(若建)命を伊豆国造に定めたとす」とあります。
     先代旧事本紀の国造本記の伊豆國造の記事は.「神功皇后御代,物部連祖-天蕤杵命八世孫-若建命,定賜國造.難波朝御世,隸駿河國.飛鳥朝御世,分置如故.」となっています。

    先代旧事本紀の神皇本紀の(仁徳天皇)八十二年春二月,乙巳朔,詔侍臣-物部大別連公曰「皇后久經數年不生皇子.以爾大別定皇子代.后號為氏,以為氏造,改賜矢田部連公姓.を引いて、「物部大別が、矢田部連公の祖であるといっている。『古事記』『日本書紀』においては、矢田部について特に記されていない。『新撰姓氏録』左京神別上には、矢田部連は伊香我色乎の子孫と記されている。伊香我色乎は、『日本書紀』崇神天皇八年七月(筆者注:崇神天皇七年八月か)の条に『物部連祖が伊香色雄』とある。『先代旧事本紀』には、物部氏出身の妃が生んだ仁徳天皇皇后矢田皇女の皇子代として、物部氏系の氏族である矢田部が置かれたことが記されているのである。」

    古事記の八田
    ・應神天皇 又、娶丸邇之比布禮能意富美之女自比至美以音名宮主矢河枝比賣、生御子、宇遲能和紀郎子、次妹八田若郎女、次女鳥王。三柱。

    應神天皇×丸邇之比布禮能意富美之女=宇遲能和紀郎子+八田若郎女+女鳥王

    ・仁德天皇 又娶庶妹八田若郎女、又娶庶妹宇遲能若郎女、此之二柱、無御子也。

    仁德天皇×八田若郎女=「無御子」

    (・仁德天皇 自此後時、大后、爲將豐樂而、於採御綱柏、幸行木國之間、天皇婚八田若郎女。
    ・仁德天皇 天皇戀八田若郎女、賜遣御歌。
    ・仁德天皇 爾八田若郎女、答歌曰、
    ・仁德天皇 故、爲八田若郎女之御名代、定八田部也。
    ・仁德天皇 天皇、以其弟速總別王爲媒而、乞庶妹女鳥王。爾女鳥王、語速總別王曰「因大后之強、不治賜八田若郎女、故思不仕奉。吾爲汝命之妻。」卽相婚。是以、速總別王不復奏。爾天皇、直幸女鳥王之所坐而、坐其殿戸之閾上。
  • 奈良県明日香村にある石神遺跡からは「辛巳年鴨評加毛五十戸・矢田部米都御調卅五斤」と記載のあるものがあります。その木簡データベースの「カード」では、辛巳年を天武10年(西暦681年)、鴨評加毛五十戸を伊豆国賀茂郡加茂郷〈伊豆国鴨評加毛五十戸〉、人名を矢田部米都としています。

    伊豆国に関する出土木簡で、矢田以外の氏族には、
     那賀郡:宍人部・物部・丈部・宇遅部・白髪部・日下部・志斐連
     賀茂郡:占部・平群・生部・伊福部・多治比部・丈部
     田方郡:津守部・日下部・神人部・大伴部・大生部・生部・春日・若桜部・茜部・宍人部・桧前舎人部
    などがみえます。出土地は何れも平城京跡です
  • June 2016 編集されました
    伊豆の賀茂郡三島郷とは、大島、三宅島、八丈など島嶼部か。
    伊古奈比咩命神社は大社と呼ばれていた。大社郷の地名ある。

    和妙類聚抄(承平年間⦅931 - 938⦆)には、伊豆国に田方郡、那賀郡、賀茂郡の三郡がある。
    その伊豆国賀茂郡には、賀茂(加毛 加茂)・月間(竹麻)・川津・三島・大社の五郷があります。
     この神社のある「賀茂郡」の」「賀茂」についてみていきます。伊豆国の賀茂郡は、ウィキペディアの「伊豆国」に、「伊豆国の記載は「記紀」や「六国史」には見られず、『扶桑略記』に「天武天皇9年(680年)7月に、駿河国から田方郡と賀茂郡の二郡を分割して設けられた」とある。現在のような伊豆国の成立は、大宝元年(701年)から和銅3年(710年)にかけて、仲郡(後の那賀郡)と、八邦郡(『和名類聚抄』、不詳)が加えられて以降のことである。」とあります。

    伊豆国は、神功皇后の時代、物部の一族である若建命が国造とさだめられ、孝徳天皇(596-654年)の時代、駿河国に合併され、天武の時代、ふたたび伊豆国として分離されたようです

    この大社郷は伊古奈比咩神社があるあたりという。

    何故なら、賀茂郡の賀茂郷は、南伊豆町上・下賀茂町のあるあたりで、月間郷は南伊豆町竹麻、川津郷は河津町としてその名をとどめていますし。そして、三嶋郷は、現在の伊豆諸島であろう。稲梓郷については、明治二十二年、賀茂郡の箕作村、須原村、落合村、宇土金村、椎原村、加増野村、横川村、相玉村、北湯ヶ野村、堀之内村、荒増村が合併して、稲梓村ができました。それらの村の名は、下田市白浜に隣接する地域にすべて大字として残されていますし「稲梓」は、稲梓駅(下田市落合)として残されています。これらの地域は、伊古奈比咩命神社のあるところに隣接した地域であり、稲梓郷=大社郷と考えてもよい。
  • 下田市白浜にある通称伊古奈比咩神社
    『延喜式』神名帳に、賀茂郡 46座(大4座・小44座)の中に、「伊古奈比咩命神社 - 名神大」に比定されます。御祭神は、
        伊古奈比命(いこなひめのみこと)
        三嶋大明神(みしまだいみょうじん)
        見目(みめ)、若宮(わかみや)、剣の御子(つるぎのみこ) です。
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