猿田彦、火明命と邇邇芸命、スサノオ

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
image猿田彦、火明命と邇邇芸命、スサノオ

ホツマツタヱの記事 ヒタカミの天之忍穂耳の二人の子供、火明と邇邇芸 天照(祖父)ーーー天之忍穂耳ーー火明命と邇…

Read the full story here


タグ付けされた:

コメント

  • 明神大社 阿射加神社
    由緒
    主祭神 猿田毘古大神
    松阪市大阿坂町

    由緒 第十一代垂仁天皇十八年夏四月、皇女倭姫命が天照大神の神霊を祀 る地を探し求める途中阿佐賀の地を訪れ荒ぶる神伊豆速布留大神を大 若子命をもちて鎮めさせ阿佐賀山の嶺枡形山に社殿を造り種々の幣物 をもたらし祭ったのがこの神社と言われる(神道書、倭姫世記)

    阿射 加神社は平安朝時代から社格の上からも朝廷から破格の崇敬を受け、 八三五(承和二)年従五位下、八五〇(嘉祥三)年従五位上、八五五 (斉衡二)年従四位下、八五八(貞観元)年従四位上、八六六(貞観 八)年従三位を伊勢国阿耶賀神に授け奉ると昇叙の記が見られ第六十 代醍醐天皇延長五(八九〇)年延喜式内大社の格に編入され延喜式神名帳に伊勢国阿射加神社三座並名神大なり二八五座の内となる猿田毘 古神座阿耶訶と古事記にも見られる古社である。
    伊勢国司北畠満雅應永年中阿坂山に砦を築く時に社地を山より今の地 に遷したと記されている。
    享保甲辰(一七二四)年紀州家より禁殺生の石碑建贈ざれる。
    安政丙辰十一月(一八五六)年国主紀伊御代により武運長久領内安全 の奉納が寺社奉行によって奉られている。
    明治六年三月村社に列せられ同三九年十二月三重県告示第三八〇号を もって神饌幣帛料供進指定社となる恒例世多米志祭が一月に行われ 稲作の作柄を占う粥試が行われる神社の右側には龍天大明神の起源と 言われる宮池をもつ由緒ある神社である。
    本殿 神明造一殿三座並名神大

    垣内末社 六社 攝社 三社
    主祭神 猿田毘古大神(伊豆速布留大神、龍天大明神)
    底度久御魂
    都夫多都御魂
    阿和佐久御魂 一殿三座並名神大
    猿田毘古大神は天孫降臨の時天ノ八衢に出られ、上は高天原を照ら し下は葦原の中国を光し迎になったとある。鼻の長さ七寸、背の丈七 尺目の大きさ八寸で鍾のごとくまなこの色赤酸漿である。
    神位 第五四代仁明天皇 承和二年十二月(八三五年)従五位下
    第五五代文徳天皇 嘉祥三年十月(八五〇年)従五位上
    第五五代文徳天皇 斉衡二年四月(八五五年)従四位下
    第五六代清和天皇 貞観元年正月(八五八年)従四位上
    第五六代清和天皇 貞観八年十一月(八六六年)従三位

    第六〇代醍醐天皇延長五年(八九〇年)式内大神社に編入され延喜 式神名帳に伊勢国阿耶賀神社三座並名神大とあり、臨時祭名 神祭二八五座の内となる。
    昇叙の記が日本三代実録などの国史に見られる。
    -境内由緒板を一部修正-

  • 『倭姫命世記』などによると、
    安佐賀の山の嶺に荒ぶる神がおり、宇治の五十鈴の川上の宮へ行くことが出来なかった。
    倭姫命がこの荒ぶる神の所業を天皇に申し上げるため大若子命たち三人を朝廷へ遣わされたところ、
    天皇は大若子命に命じて様々な贈り物を荒ぶる神に捧げ、ついに安らかに鎮めることができ、安佐賀に社殿を建て、荒ぶる神である伊豆速布留神を祀ったのが当社の起源。
    垂仁天皇十八年四月十六日のことであるという。
    その後、山上から現社地に遷座したとも伝えられているらしい。

    この伊豆速布留神が当社の祭神・猿田彦大神のことであるという。

    三棟の中央の祠が龍天大明神、北(右)が神明社、南(左)が熊野社(あるいは春日)とする資料もあり、
    さらに猿田彦大神・伊豆速布留神・龍天大神とする説、
    猿田彦大神の三妃を祀るとする説や、伊豆速布留神・大国主命・天日別命とする説など。
    いずれにしろ、延喜式に阿射加神社三座とあり、三座の神を祀っていると思われる。

    ただし、阿射加神社三座に関しても諸説あり、
    当社に三座とする説の他に、阿佐加山上の社が分離して、
    大阿坂町に鎮座の同名社と他の一社の三箇所を合わせて三座とする説もある。
  • 祭神は、天之細女命で天の岩戸開きの神話の中で活躍された神様

    都波岐神社は、延喜式内の古社で伊勢国一之宮
    創立は、雄略天皇二十三年三月で、猿田彦大神八世の孫、伊勢国造高雄柬命が勅を奉じて伊勢国河曲県中跡里(現鈴鹿市一ノ宮町)に二社を造営し、その一社を「都波岐神社」、また他の一社を「奈加等神社」と称したのが初まりであります。
     その際、天椹野命十五世の孫中跡直広幡が宣旨を受け初代の祭主を務め、その子孫が代々神主を継承し、当代で第五十八代であります。
     平安時代の初めには、弘法大師空海が本社を参籠し獅子頭二口を奉納したと伝えています
  • 猿田彦とは

    富家では稲田宮主大麻比古の事と言われている。それならば、大麻比古神社の祭神が猿田彦から大麻比古に変わったことの説明がつきます。
  • 大麻毘古神社

    神武天皇の御代、天太玉命の御孫 天富命 勅命を奉じて 洽く肥沃の地を求め 阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して 殖産興業の基を開き 国利民福を進め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。
    猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り本社に合せ祀ると伝えられる。
    延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。
    清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給ふ。斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って、社殿の造営を行ひ、年々祭費を奉らる。明治六年国幣中社に列す。
  • 白方という地名

    出雲と讃岐にある

    売布神社 はらい ど
    水戸の神・祓戸の神 「出雲風土記」に名のみられる古代からのお社 で、白潟全域の氏神様です。人々は、「白潟大明神」 や「橋姫さん」と親しみを込めて呼んでいます
  • 弘仁四年(813年)十月廿七日の太政官符には、「猿女の興ること、国史に詳かなり。其の後絶えず今猶ほ見在す。又猿女の養田、近江国和邇村・山城国小野郷に在り。今小野臣和邇部臣等、既に其の氏に非ずして猿女に供せらる。熟(つらつら)事緒を捜るに、上件の両氏、人を貪り田を利し、恥辱を顧みずして拙吏相容れ、督察を加ふる無く、神事を先代に乱り、氏族を後裔に穢す。日を積み年を経て、恐らくは旧貫(きうくゎん)と成らん。望み請ふらくは、所司をして厳かに捉搦(そくじゃく)を加へ、氏に非ざるを用ひることを断たしめん。然るときは則ち祭礼濫り無く、家門正しきを得ん」とあり、小野氏が猿女に成りすましていたことを断じている
  • 大和郡山にある賣太(めた)神社は稗田阿礼・天鈿女命・猿田彦を祭神とする神社である。 稗田阿礼はこの二人の子孫で、猿女の同族といわれている。 猿女君は巫女なので女性である。そこで稗田阿礼も女性説が唱えられている。

    「内宮の瑞籬の外、乾の方に石段ありて古より祠なく興玉(おきたま)とて崇め奉るは猿田彦なり。宇治の郷の地主なり。」という。 倭姫が天照大御神を巡幸し、伊勢にたどり着いた時土地を提供したのが宇治土公(うじのつちぎみ)という猿田彦の後裔である
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。