継体天皇と百済

December 2018 編集されました カテゴリ: 継体ー推古
image継体天皇と百済

継体2年 508年 ・武烈天皇を片岡磐杯丘陵に葬る。12月、耽羅人が初めて百済国に通交する 3年 509年 ・…

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  • 飛鳥戸神社

    大阪府羽曳野市飛鳥
    祭神--琨伎王
    飛鳥上の段の一角に鎮座する延喜式内の名神大社
    雄略朝に渡来伝承をもつ百済系飛鳥戸造一族の祖神である飛鳥大神(百済の琨伎王-コンキオウ)を祭っている。
     平安時代初期には、百済琨伎王の子孫にあたる百済宿禰や御春朝臣たちの働きかけにより、貞観元年(859)8月に無位から正四位下を授けられ、翌2年10月に官社に列し、・・・」
    とある。

     飛鳥戸造(アスカベノミヤツコ)について、新撰姓氏禄には
     ・右京諸蕃(百済)   飛鳥戸造 百済国比有王より出る也
     ・河内国諸蕃(百済) 飛鳥戸造 百済国主比有王男琨伎王より出る也
     ・河内国諸蕃(百済) 飛鳥戸造 百済国末多王之後也
    の3系統がみえるが、これらは同じ一族で、百済王統譜によれば、当社の祭神・琨伎王(コンキオウ)は比有王(ヒユウオウ=琨有王・8代)の子で、末多王(マタオウ=東城王・12代)は琨伎王の子という。

     琨伎王の来朝について、書紀・雄略5年条によれば
     「夏四月、百済の加須利君(カスリノキミ=蓋歯王・9代)が、弟の軍君(コニキシ=琨伎王)に『日本に行って天皇に仕えよ』といった。軍君は『君命には背けません。願わくば君の婦を賜って出立したい』と答えた。加須利君は妊娠していた妃を与え、『わが孕める婦は臨月になっている。もし途中で出産したら、母子ともに同じ船に乗せて国に送るように』といって、共に日本に遣わされた。
     6月1日、身ごもっていた妃が筑紫の加羅島で出産したので、軍君は母子を船に乗せて国に送った。この子・嶋君(シマノキミ)が武寧王(13代)である。秋7月、軍君は京に入った。すでに5人の子があった。
     (注記--百済新撰::6世紀頃の百済史書-には、「辛丑年(461か)に蓋歯王が弟の琨伎君を遣わし、大倭に参向させ、天皇にお仕えさせた」とある)」(大意)
    との伝承があり、また同23年条には
     「夏四月、百済の文斤王(モクコンオウ・11代)が亡くなった。天皇は琨伎王の五人の子の中で末多王が若いのに聡明なので、これに兵器と筑紫国の兵士五百人を与えて国に送り届け、百済の王とされた。これが東城王(トウセイオウ)である」(大意)
    とある。

     この軍君(琨伎王)の一族で当地に土着したのが飛鳥戸造氏で、正倉院文書・写経所解・天平20年(748)4月条にある、
     「無身安宿戸造(飛鳥戸造)黒万呂 年三十 河内国安宿郡奈加郷・・・」
    を初見とし、続日本紀(797)にも“外従五位下飛鳥戸造弟見”(延歴2年-783条)の名が見えることから(三代実録-901-にも散見するという)、安宿郡内に飛鳥戸造一族が居たことが確認されるという。
  • 黒岩重吾の「昆伎王=石川宿彌=蘇我氏」説

    黒岩重吾著『古代史への旅』

    蘇我氏が興った頃に百済の王族で誰が倭国に来てるかとなると、蓋鹵王(かふろおう)の弟の昆伎王(こにきおう)というのが来てるわけです。昆伎王が461年に来たわけですが、筑紫の各羅嶋(かからのしま)で自分の連れて来た妻の一人が子供を産んでいる。それが武寧王(ぶねいおう)です。
     昆伎王が来て、高句麗の南下政策で倭国に同盟関係を求めた。これはなぜかというと、478年の倭王武の宋王朝への上表文にはっきり出ている。武というのは雄略ですね。それによると、いままでわが国は道を百済にとり、百済において船を整えて朝貢のために出かけていったのに、高句麗が非常に無謀で周辺を侵してくるので行けなくなった。だからご威光をもって高句麗を亡ぼしてくれ、といっているわけですね。
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