英彦山、高木神、邇邇藝尊、栲幡千千姫

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image英彦山、高木神、邇邇藝尊、栲幡千千姫

「鷹」の神祇域にみえるものは、遠賀川流域から英彦山南麓の戦闘集団、高木神氏族の痕跡。  高木神(高御産巣日神、…

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コメント

  • 媛社神(ひめこそのかみ)は高木の神の娘?
    珂是古を招いた媛社神は女神でした。
    娘たちはこの女神に感謝して祈っていたのが、時代とともに
    七夕さまの織姫さまにすり替わって行きました。

    そして、この女神の名は万幡豊秋津師姫(よろずはたとよあきつし姫

  • 隼鷹神社 はやたかじんじゃ
    福岡県小郡市横隈
    鷹になった高木の神

    仲哀天皇が熊襲征伐の時、大保の仮宮で天神地祇を祀った時に、高皇産巣日神が鷹の姿をとって現れ、北を指して飛び去り、松の梢に止まって姿が見えなくなった。
    その後、神功皇后の勅命で高皇産霊尊の神霊を祭り、鷹の姿で現れた事からこの神の名前を隼鷹天神と称して、御神体の鷹を安置した。この当時の松は朽ちてしまい、その後には楠があり、それが今の御神木である。
  • 社伝では天照大神の御子、天忍穂耳尊を祀ることから「日子山(ひこさん)」とされたとする。中世以降、日本有数の修験道場「英彦山権現」として栄え、明治の神仏分離により神社となる。山頂に上宮があり、山体全域に摂末社が点在する。
    伝承では祭神、天忍穂耳尊が降臨した山上に一祠を建てたものを起源とする。延喜式神名帳には忍骨命神社の名で記される。別の伝承では、継体天皇25年(531年)、北魏の僧、善正と弟子の忍辱による開基とされる。

    高住神社
    福岡県田川郡添田町英彦山豊前坊
    主祭神 豊日別命(豊日別国魂神)
    英彦山北東域の北岳登山口に鎮座、社殿は天狗岩の岩壁に建つ。九州の天狗の頭領、大天狗、英彦山豊前坊が棲むとされる。天狗伝説にふさわしく神寂びた神域。また、古く、豊日別命は豊の守護神として鷹巣山に祀られていた神ともされる。
  • 豊前國風土記には、行橋市一帯を「宮処の郡 子え、天孫ここより発ちて、日向の旧都に天降りましき。蓋し、天照大神の神京なり」としている。 行橋市の川の上遺跡は三世紀の墳墓群であり、後漢から三国時代の道鏡、勾玉、鉄刀などが出土していると云う。

    豊日別宮(草場神社)
    豊前 仲津 福岡県行橋市南泉

    この社に伝わる古文書では、人皇三十代欽明天皇、(附記欽明天皇は人皇二十九代なり)即位二年秋九月十八日神化老翁之相而現矣託于筑紫日別大神神官大伴連牟彌奈里曰吾和是佐留多毘古乃大神奈利云々(中略)夫猿田彦者天照大神之分神也因之日別大神宮以猿田彦為別宮云々(下略) 即ち、筑紫の日別大神の神官である大伴連牟彌奈里に吾は佐留多毘古乃大神なりと神託があり、豊日別の本宮の為に伊勢神宮並の神宮を建て、猿田彦は別宮としたとある。

    猿田彦神を天照大神の分身としてある
    豊日別と猿田彦は同一神格と考えられる
  • 行橋は古来は都だったと云う。美夜古と云う美しい名を持っている

    宇佐神宮の放生会で、香春からここを経由して宇佐へ銅鏡が運ばれる

    官幣大神宮である豊日別宮が福岡県行橋市南泉7丁目の平野の中心に嘗て豊国一宮が偲ばれ堂々と鎮座しております。

    古文書中、黄金の鉢に清水を盛り真坂木を立て白和幣を取添、天照大神を申し降し奉り天照大神の黄金の神鏡御神体鋳造を行い、先の「今川休憩所」長者原遺跡に運ばれ夕方まで祭典を行い、豊日別宮に帰還して神殿奥深くへ進み官幣と鏡を合わせて官幣大神宮となり宇佐八幡大神宮となる。
    その後400人を超える神鏡大行列は宇佐和間の大海原の海上放生会に向かうのである。
    この様に清水と鏡と海は御神体であり、その水面は空を照らし、天を照らし、天照大神であるのです。そしてヒメコ塚古墳の石室は全国に例がない巨大な鏡岩で横にある丸山も鏡山の様な形をしており、肥前の鏡山の伝説の長者の娘オトヒヒメコが海に身を投げた話は作り話であるのです。

    なぜなら渡海した大伴狭手彦が戦死したわけでもないのに、それだけ恋いこがれていたのであれば帰りを待つはずです。大勝利をおさめて凱旋すれば皆で赤飯炊いて祝いを行なう、人生でもっとも大事な時期に海に身を投げる筈がありません。


  • 松浦佐依姫「豊日別宮の初代神官の母オトヒヒメコ」
  • 大伴金村は子の狭手彦(さてひこ)を任那(みまな)に派遣して新羅と戦わせている。しかし、筑紫王朝の大臣としての大伴金村の失策は明らかで、責任を追及され失脚することとなった。

    佐用姫伝説
     海原の 沖行く船を 帰れとか
      領巾振らしけむ 松浦佐用姫
          山上憶良(万葉集巻五874)
     任那に派遣される狭手彦(さてひこ)との別れを惜しむ佐用姫(さよひめ)は、玄界灘を見渡す領巾振山(ひれふりやま・鏡山)から、この岩に飛び移った。

    佐比古命(狭手彦命)は百済救済の武功により、道臣命の出身地たる岡の里の地を授かったという。

    遠つ人松浦佐用比賣夫恋いに領巾振りしより負へる山の名(万葉集巻五871)
    海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫 (万葉集巻五874)
    宣化天皇二年(537年)、朝廷の命を受け、隣国の新羅に侵略されていた朝鮮半島 の任那、百済を救援するための兵を率いて唐津へとやってきた大伴狭手彦(おおとも のさでひこ)は、出陣のための軍船の建造や準備の為にしばらくここ唐津に留まり、 その際、篠原長者の館に滞在することにしました。篠原長者には、佐用姫というとて も美しい娘がおり、佐用姫が挟手彦の身の回りの世話をするうち、二人はお互い惹か れ合って恋仲となり、やがては夫婦の契りを結びました。
  • 山崎神社

    福岡県遠賀郡岡垣町三吉735
    【祭神】大山祇神 天照皇大神 (合祀)豐玉姫命熊鰐命 伊賀彦宿禰

    三吉は、仲哀天皇と神功皇后が熊襲征討のため九州に来られたとき、船を仕立てて防府まで出迎え岡湊(芦屋)まで案内した「県主熊鰐」ゆかりの地といわれ、熊山の中腹には墓があります。
    この祭神「伊賀彦宿禰」は、岡湊で天皇の船が立ち往生したとき祈祷をした神様です。三吉は讃岐の古語です。倭宿禰ゆかりの人物か
  • April 2016 編集されました
    堺市の日下と東大阪市の日下
     『古事記』には、雄略天皇が皇后若日下部王のところを訪ねる場面が登場しますが、
    ここでは、はっきりと、

     「初め大后、日下に坐しし時に」

    と、記しており、若日下部王が日下にいたことが分かるのです。

     この日下は東大阪市の日下であるとする説が大勢のようですが、堺市の日下である
    可能性も捨てきれません。
     『古事記』にある上の一文は、雄略天皇が日下にいる若日下部王を訪ねようと生駒山
    の南方にある直越(ただごえ)道を通っていた時に、山上から見た志幾大県主(しきの
    おおあがたぬし)の家が天皇の宮に似せて造られていることに怒るというエピソードの
    中に登場します。
     ただし、河内国の志紀大県主(志幾大県主)の拠点は志紀郡(現在の大阪府藤井寺市
    を中心とした地域)ですので、生駒山からはっきりと志幾大県主の邸宅が見えたのかと
    いう疑問があり、そうすると、日下は堺市の日下の可能性も考えられるのです。
     すると、この場合、天皇が志幾大県主の邸宅を目にしたのは志紀郡に入ってからか、
    もしくはその近くまで来た時ということになります。
     志紀郡から大鳥郡の日下に向かうと仮定すれば、こちらの方が生駒山の上から見た、
    というよりは理にかなっているように思えますが。
     ちなみに、藤井寺市の旧道明寺村は昔の交通の要所でもありましたが、現在ここには
    近鉄土師ノ里駅があります。
     志幾大県主の祭祀する志紀県主神社が鎮座する藤井寺市惣社もこのすぐ近くで、土師ノ
    里駅にそばには雄略天皇の父、允恭天皇の陵墓とされる市野山古墳もあります。


     若日下部王の兄、大日下王は安康天皇に殺されてしまいます。

     根臣が討たれた後、一族を2つに分けられ、一方を大草香部民(おおくさかべのたみ)
    として皇后に与えられ、もう一方を負嚢者(ふくろかつぎびと)にして茅渟県主に与えら
    れた、と『日本書紀』は伝えます。
     根臣の子、小根使主は許されましたが、人に、
     「天皇の城は堅固にあらず。わが父の城は堅固なり」
    と、語ったのが天皇の知るところとなり、家臣に根使主の邸宅を見に行かせたところ、本当に
    立派過ぎる邸宅であったために、結局処刑されてしまいました。
     『日本書紀』は、この後、根使主(根臣)の本宗は坂本臣となった、と伝えます。
  • 鎌倉時代に記された『彦山流記』によれば、「権現は天竺の摩訶提国(まがだ)から五剣を投じ、唐の天台山を経て日本に渡来、彦山の般若窟で第一の剣を発見し、そこに八角三尺六寸の水精石となって垂迹した。その後、次々と残りの四剣を求めて熊野に移り、のち再び彦山に戻った。」と、はっきり彦山・熊野同体をうたっている。内容は『熊野権現垂迹縁起』との一致している。しかも熊野と同じく三所権現を唱えて山頂の三岳をそれにあて、南俗躰岳を釈迦垂迹、北法躰岳を阿弥陀垂迹、中央女躰岳を千手(観音)垂迹としている。それぞれの山は東西南北の四至を定め、要所要所には鎮守神大行事社が点在している。現在での福岡県嘉穂郡・京都郡、大分県大野郡・日田市などに九社を数える。
  • 「姓氏録」に日下部は開化天皇9皇子彦坐命ノ子狭穂彦命後(☆「開化記」サホ彦とサホ姫は日子坐王とサホノオオクラミトメ【その母は春日建国勝戸売】の間に生まれたとしている。)に出ず。
    日田郡石井郷に昔、日下部春里という富豪の者あるは、蓋し、その後かとあり《※ 『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”との記載もある》。「姓氏録」に天孫ににぎの命が日向高千穂峯に降臨する際、天押日命、大来目部が背に天磐靫を負い手に天杷弓・天羽羽矢をとり、天孫の前に立って降りていった。以、大来目部を靫負部となす云々。

    豊日別神社
    神社の創建はこの社に伝わる古文書では、人皇三十代欽明天皇、(附記欽明天皇は人皇二十九代なり)即位二年秋九月十八日神化老翁之相而現矣託于筑紫日別大神神官大伴連牟彌奈里曰吾和是佐留多毘古乃大神奈利云々(中略)夫猿田彦者天照大神之分神也因之日別大神宮以猿田彦為別宮云々(下略) 即ち、筑紫の日別大神の神官である大伴連牟彌奈里に吾は佐留多毘古乃大神なりと神託があり、豊日別の本宮の為に伊勢神宮並の神宮を建て、猿田彦は別宮としたとある。
     元より頭から信じる必要はないが、猿田彦神を天照大神の分身としてある事は面白い。
     どの様な渡来系の権力者が到来しても、喜んで出迎え、道案内を勤める、通過点の旅籠のおやじ見たいな存在であったのだろう。これから見ると豊日別と猿田彦は同一神格と考えられる。 それがこの世を生き抜く術だったと云う事だろう。
     ここから3km西の天生田の清地神社の由緒に素盞嗚尊と五十猛命が豊前国を経由した時、豊日別が嚮導したとある。 この説がいつ頃出来たのか、創建由来に筑紫の日別大神の神官である大伴氏がからんでいる。この神官の来訪を白日別の神が来たととれる。神社建立の為なら豊日別も嚮導すると記されてもしかたはない。
  • 筑紫の日別大神の神官
    大伴連牟彌奈里の祖父は大伴金村大連で父は大伴狭手彦、母は松浦佐用媛との事である。

    豊前國風土記には、行橋市一帯を「宮処の郡 子え、天孫ここより発ちて、日向の旧都に天降りましき。蓋し、天照大神の神京なり」としている。

    筑紫の日別大神の神官である大伴連牟彌奈里に吾は佐留多毘古乃大神なりと神託があり、豊日別の本宮の為に伊勢神宮並の神宮を建て、猿田彦は別宮としたとある。猿田彦神を天照大神の分身としてある。

    豊日別神を祀る豊日別宮(福岡県行橋市)の社伝では、欽明天皇2年、筑紫の日別大神の神官・大伴連牟彌奈里に「吾は猿田彦神なり」と神託があり、猿田彦は天照大神の分神であり、 豊日別大神を本宮とし、猿田彦を別宮とするとの記述がある
  • 大伴氏

    『古屋家家譜』甲斐一宮浅間神社宮司家で伴氏名族とされた古屋家の家譜である。
    高皇産霊尊-安牟須比命-香都知命(紀国名草郡)-天雷命(名草郡)-天石門別安国玉主命(名草郡)-
    天押日命-天押人命-天日咋命-刺田比古命(名草郡)又名大脊脛命-道臣命(名草郡)本名日臣命-味日命-推日命-大日命-角日命-豊日命-武日命-建持連公-室屋大連公-金村大連公-狭手彦
  • 筑紫とは

    『釈日本紀』所引『筑後国風土記』逸文では、筑後国は元は筑前国と合わせて1つの国(筑紫国)だったと記している。また「筑紫」の由来として、2国の間の坂が険しく鞍が擦り切れるため「鞍尽くし」といった説、2国の境に荒ぶる神が居て往来の人が命を落とす「命尽くし」の神といったが筑紫君・肥君の祭祀で治まったという説、前説における多数の死者の弔いのため棺を作ったところ山の木々が無くなったという「木尽くし」による説の3説を載せるが、第2説と筑紫神社祭神の筑紫神との関連が指摘される。

    なお本居宣長は、『古事記伝』において「命尽くし」の由来説を有力視する。これらの伝説が筑紫神社の成立に直接関わるかは明らかでないが、中でも筑紫君・肥君が祀ったという所伝が特に注目されている。

    当地は筑紫君の勢力圏内であるが、肥君が本拠地の九州中央部から北九州に進出したのは6世紀中頃の磐井の乱が契機で、この所伝にはその進出以後の祭祀関係の反映が指摘される。
  • 『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面として筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の記載があり、「筑紫国を白日別という」とあることによる。

    式内社 筑前國御笠郡 筑紫神社(名神大)

    御祭神
    筑紫大明神(白日別神・五十猛尊)
    配祀 宝満大神(玉依姫命) 田村大神(坂上田村麿)

    筑紫神(筑紫国魂・白日別・鸕鷀草葺不合尊) 『筑後神社縁起』
    五十猛命 『筑前國続風土記』
    麁猛命 『筑前國続風土記拾遺』
    大彦命(筑後國造の祖) 『筑前國風土記考証』

    『筑後國風土記』に、「筑紫」の語源として以下の話がある。
    昔、筑前と筑後の境の鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)に、
    麁猛神(荒ぶる神)がおり、往来の人々の半数を殺してしまう。
    筑紫の君と肥の君らが占いによって、甕依姫を巫女として、その神を祀らせた。
    それ以後、人々が殺されることはなくなった。

    当社は、その麁猛神を祀った社ではないだろうか


    福岡県筑紫野市原田。旧県社。祭神は白日別神・五十猛尊。
    『三代実録』に貞観元年「従四位上」、元慶三年「従四位上」の神階昇格をうけたことがみえる。『延喜式』には「名神大」とあり、古くよりこの地「筑紫」の名を冠する古社。初めは城山の頂上にあったが崇敬篤く麓に遷座。たびたび兵火にかかったが歴代領主の寄進、造営あり。神殿は寛文二年(一六六二)、拝殿・神門は正徳二年(一七一二)の造営という。大正四年(一九一五)県社に列格。特殊神事に粥ト祭がある。例祭一〇月二〇日。
    -『神社辞典』-
  • 『日本書紀』によれば、宣化天皇2年(537年?)10月、新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救った。また同書によると、欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したという(一本には欽明天皇11年(550年?)とする)。
    そのほか、『肥前国風土記』松浦郡条、『万葉集』巻5には、狭手彦と弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話が載せられている


    刺田比古神社
    延喜式内社、和歌山城の氏神、吉宗公拾い親の神社である。
    岡(現在の和歌山市広瀬、大新、城北、吹上、芦原、新南地区)の産土神として、「岡の宮」の名で知られている。
    神武御東征に御活躍の道臣命(大伴氏の祖先神)、百済救済の御武功で知られる大伴佐比古命をお祀りしている。
    佐比古命(狭手彦命)は百済救済の武功により、道臣命の出身地たる岡の里の地を授かったという
  • 宣長は「刺田」を「刺国」の誤りだとして大国主命の父にあたる刺国彦命を祀る神社と捉えている。

    刺国は、筑紫のことか
  • 筑紫とは

    日本書紀 神代 皇孫降臨より
    猿田彦大神> 皇孫は筑紫の日向の高千穂の峰においでになるであろう。私は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に参る。 中略 この後しばらく経って瓊瓊杵尊は死んで、筑紫の日向の可愛の山の陵に葬られた。
    日本書紀 神武天皇紀より
    磐余彦尊は珍彦を舟に招き入れ水先案内を命じた。そこで椎根津彦の名を与えた。筑紫国の宇佐に着いたとき宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれた。 中略 筑紫の国の岡水門に着いた

    刺国大神と筑紫の大国主

    古事記 上巻 天照大神条より

    そこで(スサノオ尊が)、その櫛名田比売と寝所で交わって生んだ神の名は八島士奴美神と言う。また、大山津見の娘、名は神大市比売を娶って生んだ子は大年神。
                   中略
    この神(八島士奴美神)が刺国大神の娘、名は刺国若比売を娶って生んだ子は大国主神。

    八島ジヌミ神の母は櫛名田姫です。櫛名田姫は高志(博多香椎)の人です。スサノオがヤマタのオロチと闘って、手に入れた姫です。櫛名田姫の香椎と刺国の津屋崎はすぐ近くです。20kmも離れていません。
    八島ジヌミ神とその子孫が刺国にいても何の不自然もありません。

    また、八島ジヌミ神の子が大国主ですから、大国主が遠賀川の河口で稲葉の素兎を助けたり、少彦名と岩屋海岸で政治談議をしたりして、活躍しても不自然ではありません。


    刺国
    日本書紀の一書には「空国」の別の表現として、「そししの空国をひたおから国真北通って」とありますから、そしし=蘇氏国=刺国とすると「そししの空国」とは「刺の空国」かも知れません。「刺の国」は「空国」も含んだ大国だった可能性もあります。

    津屋崎の付近を「刺国」といったのは、神功皇后の伝説で神功皇后がこの地で杖をついて休まれたことから「杖刺し→津屋崎」となったという伝説や、胸刺国(宗像と刺国)から武蔵国が由来したという説から
     
  • 熊野権現は中国天台山から飛来し、英彦山、石槌山、諭鶴羽山という修験の霊山を経て東に進み、熊野に垂迹したとされますが、実際のところは、熊野から西へ西へと、九州の英彦山まで熊野修験の勢力が広まっていったということなのでしょう。

     英彦山は福岡と大分の県境にそびえる北九州の最高峰(1200m)で、大峰山・羽黒山と並ぶ日本三大修験道場の霊山です。
     後白河院が養和元年(1181)に新熊野社(いまくまのしゃ。後白河院自らが京都東山に勧請した熊野神社)に寄進した荘園のひとつに彦山があり、また、『彦山流記』によると、彦山にある49の霊地・行場である「彦山四十九窟」の第八に熊野十二所権現と若王子を祀る今熊野窟が挙げられています。
     『神道集』所収の「熊野権現の事」でも、インドから飛来した熊野権現が降臨した5ケ所のうちのひとつされています。

     石槌山は四国の最高峰(1982m)で、西日本でも最高峰。修験の霊山として知られました。

     諭鶴羽山は淡路島最高峰(608m)。やはり修験の霊山で、古くから熊野十二所権現が祀られており、創建の由緒譚も「熊野権現垂迹縁起」によく似ています。

     狩人が鶴の舞い遊ぶのを見て、矢を放つ。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んでかくれた。狩人、その跡を追って頂上に至ると榧の大樹があり、その梢にかたじけなくも日光月光と示現し給い「われはいざなぎ、いざなみである。国家安全、五穀成就を守るため、この山に留るなり、これよりは諭鶴羽権現と号す」と唱え給うた。
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