河内の恩智氏

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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  • 河内の二宮 恩智神社

    恩智大明神縁起には
     「神功皇后の朝鮮出兵のとき、住吉の神と恩智の神が海上に顕れ、住吉神が先鋒に、恩智神が後衛となって皇后の船を守護し、異敵征伐に功があったので、皇后凱旋後、恩智の神は高安の七郷を賜った」(大意)
    と記している。

    神祇令義解(養老令-718-の注釈書・834成立)・相嘗祭条に
    「(相嘗祭に預かる大社は)大倭・住吉・大神・穴師・恩智・意富・葛木鴨・紀伊国日前神等類是也」
    とあるように、奈良時代初期から大倭・住吉・大神といった著名な名神大社とともに相嘗祭の幣帛をうける大社(官社)として知られる

    『新撰姓氏録』には「恩智神主、高魂命児、伊久魂命之後也」とあり、 伊久魂命は高魂命児、末胤に恩智神主を持つ。

    『古事記伝』では伊久魂命は活杙神と同神とある。

    河内国高安郡 恩智神社二座 並名神大 とある式内社で、曾て“河内二之宮”と呼ばれた大社。

    「恩智神社二座・・・蓋し御食の事を知り給ひて大なる功坐す神也」(神祇志料・1871)
     「オオミケツヒコ命・オオミケツヒメ命を祀る。蓋し保食神(ウケモチ)の同霊なり」(大阪府史蹟名勝天然記念物・1928)

    祭神
     当社由緒略記には
      大御食津彦大神(オオミケツヒコ)--天児屋根命(アメノコヤネ)五世の孫
      大御食津姫大神(オオミケツヒメ)--伊勢神宮外宮の祭神豊受姫(トヨウケヒメ)大神異名同神
    とある。
     この両神について、文徳実録(876)・嘉祥3年(850)条に、
     「河内国恩智大御食津彦神・恩智大御食津姫神等並正三位」
    とあり、また三代実録(901)・貞観元年(859)条にも
     「奉授河内国正三位勲六等恩智大御食津比古神・恩智大御食津比咩神並従二位」
    とあるから、古くから、この両神が祭神とされていたことが知られる。

     ただ由緒略記には、
     「総国風土記には、『恩智神社・・・祭る所は手力雄神也、雄略天皇三年佳田を奉じ神事を行ふ』と記されている。
     奈良時代(天平宝宇・757-65)に藤原氏により再建されてより、藤原氏の祖神であるアメノコヤネを常陸国(現香取神宮)より分霊を奉還し、摂社として建立した。その後、宝亀年中(770--80)に枚岡(枚岡神社)を経て奈良(春日大社)に祀った。従って、当社は元春日と呼ばれる所以である」
    とある。
     前段の記述をみると、当社元々の祭神は手力雄命(タジカラオ)ともとれるが、総国風土記が何処の風土記を指すのか不明。下総国(or上総国)風土記かもしれないが、手持ちの上総・下総国風土記には恩智神社云々の記述はない(未知の断片か)。また、当社にかかわる諸史料にタジカラオの名は見えない。

     また、大阪府誌(明36-1903)には
     「社伝によれば、創建の年代は遠く白鳳(672--82)の昔に在りて、最初はアメノコヤネを祀りしが、景雲年中(神護景雲・767--70)に至りて之を枚岡に移し(或いは奈良春日といふ)、後オオミケツヒコ・オオミケツヒメの二座を祀るに至りしものなりといふ」
    とあり、明治まで当社の神職であった大東家では、
     「遠く白鳳の時代、春日明神が常陸国から河内国の恩智へ鎮座されたとき、先祖の左近が大東家を名乗って供奉し、神職を勤めた。景雲2年(神護景雲2年・768)の頃になって、春日明神が大和国へ移られた。この時、アメノコヤネの代わりにオオミケツヒコ・ヒメを祀るようになった」(大意)
    との伝承を伝えている(式内社調査報告・1979)。
     いずれも、元々の祭神・アメノコヤネは常陸国から勧請した神であり、これが奈良・春日(あるいは枚岡)へ移ったのちに現祭神に替わったと記している。

    当社元々の社家は恩智神主家といわれ、中臣氏系図では、アメノコヤネ五世孫・大御食津臣命(オオミケツオミ・大御気津臣とも記す)の子・大期弊美命の後裔とするが、新撰姓氏禄(815)・河内国神別では「高魂命子伊久魂命之後」とあり、イクタマ命は鴨氏系図にタカミムスヒ命の子として出ている

  • 恩智神主
     新撰姓氏録の記述は異なり、高皇産霊命の子伊久魂命(天活玉命)の後裔としている。
     文徳実録に拠れば祭神は大御食津彦命・大御食津姫命となっている。
     後裔に楠木氏家臣恩智氏あり、建武年中、左近将監恩智満一が恩智城を居城とする。
     その後、恩智左近太郎は楠木正儀の配下として正平23年(1368)3月飯盛城に拠り北朝軍と戦う。
  • 恩智(おんぢ)神社。

    八尾市恩智中町に鎮座。
    国道170号線(外環状線)柏村交差点を東に折れ、道なりに山を登っていったところ。

    河内国二宮。
    『延喜式』神名式、河内国高安郡十座のうち、恩智神社二座。ともに名神大。
    祈年祭、月次祭、新嘗祭に加え、
    京・畿内・紀伊の特定の神社にしか班幣されない相嘗祭において幣帛を受ける七十一座のうちの二座であり、
    古来重要な神社であった。

    創祀は雄略天皇治世とも天武天皇の白鳳年間ともいわれる。
    祭神は大御食津彦大神と大御食津姫大神。
    食物を司る男神と女神で、
    大御食津彦大神は、中臣氏系図に見える天児屋根命の四世の孫・大御気津臣命で、
    大御食津姫大神は、伊勢の外宮の祭神である豊受大御神と同じとされている。
    中臣氏系図によれば大御気津臣命は恩智神主家の祖となっているが、
    『新撰姓氏録』河内国神別・天神の項では、
    「恩智神主。高魂命(たかみむすひのみこと)の児、伊久魂命(いくたまのみこと、いくむすひのみこと)の後なり」
  • イクツヒコネとは、日本神話の神である。活津日子命(『古事記』)あるいは活津彦根命(『日本書紀』)と記される。

    誓約によって生まれた五男三女の男神で、天照大神が左手に巻いていた玉から生まれたとされる。 この神の後裔氏族は見当たらないが、『新撰姓氏録』に高魂命の子の伊久魂命の後裔として恩智神社の神主が載っている。

    出口延経の死後、外宮神官の桑原弘雄、弘世父子によって整理、1733年に完成し、『延喜式神名帳』記載神社の考証を行った『神名帳考証』によると、忍坂と住吉にある生根神社の祭神(現在は少彦名命等)とされる。

    生國魂神社の祭神とも同神とされる。他に天田郡生野神社、養父郡伊久刀神社等の祭神。

    滋賀県にある彦根の地名はこの神の名に起こるという説もある

    イクツヒコネを祀る主な神社
    彦根神社(滋賀県彦根市)
    活津彦根神社(滋賀県近江八幡市安土町)

  • 伊予、愛比売の名は『古事記』の国生みに由来している。

    伊予国などの行政区画が定められたのは大化改新の詔(六四六)以後のことである。改新前の古墳時代の伊予には五国造に支配された五つの国があった。伊余国、怒麻国、久味国、小市国、風早国である(国造本紀)。これらの事実は首長墓ともみられる前方後円墳などの古墳や延長五年(九二七)の「延喜式」神名帳にある式内社の存在によって推定可能である。伊余国の領域に比定される伊予郡には伊予岡八幡神社前方後円墳・三角縁神獣鏡(伊予市上三谷)と伊予神社(久米郡の説もある)、怒麻国にあたる野間郡には野間神社、久味国に相当する久米郡には波賀部大塚前方後円墳・伊予豆比古命神社(延喜式には伊予郡とある)がある。また、小市国の越智郡には国分前方後円墳・相の谷一・二号前方後円墳や大山祇神社・多伎神社、風早国の後の風早郡には櫛玉比売命神社前方後円墳、国津比古命神社があり、ほかに式内社ではないが宇和郡に宇和津彦神社(三代実録)もある。このうち式内社は古代の有力豪族が中心となってその氏神や土地の守護神である産土神を奉祀した社から発展したものと考えられ、これに加えて前方後円墳など首長墓の存在から国造部落国家の系譜を推測することもできよう
  • 尾張 大隅(おわり の おおすみ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は尾治とも書く。姓は連、後に宿禰。尾張多々見の子とする系図がある。位階は贈従五位上。 672年の壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)に私宅を提供した。
  • 徳島県那賀郡の宇奈爲神社
    式内社 阿波國那賀郡 宇奈爲神社


    御祭神 豊玉彦命 豊玉姫命 玉依姫命
    徳島県那賀郡那賀町(旧木沢村)にある。県北部の吉野川市山川町から、県南部の海部町をつなぎ、徳島県中央部を南北に走る国道193号線の真中あたり、那賀川沿い、広野発電所の隣に鎮座。
    紀伊国から湯浅権守俊明が当地の領主となり、熊野十二社権現を、宇奈爲神社に勧請し、その後、十二社権現が主となった神社今も神社の中心には熊野権現がある。
    拝殿の後ろの本殿は、熊野本宮。右には熊野新宮。左には熊野那智宮が鎮座している。

    本来の宇奈爲神社
    社殿は、熊野本宮の後方の高い場所にある。

    拝殿後方には、熊野三社が並び、
    右手には、八社宮・鎮守社・水天宮・轟祠・牛王祠・王子祠、
    左手には、阿須賀社が鎮座している。

    これら社殿の並びより一段高い後方に、
    一社だけ社殿があり、それが宇奈爲神社本殿。
    奥宮的扱いとなっているようだ。

    各社の祭神は以下の通り。紀伊の熊野社とは少し違う。
    熊野本宮 伊邪那美命・木津御子命・稲飯命
    熊野新宮 速玉男命・菊理姫命
    熊野那智宮 伊邪那岐命・事解之男命
    八社宮 田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命
    天忍穂耳命・天津彦根命・天穂日命・活津彦根命・熊野櫲樟日命
    鎮守社 岩長姫命
    水天宮 安徳天皇・建礼門院
    轟祠 級長津彦命・級長津姫命
    牛王祠 須佐之男命
    王子祠 日本武尊
    阿須賀社 阿須賀明神
  • 南北朝時代には、河内国の和田正遠が楠木氏(伊予橘氏)の家系を継承したが、正成一族を除き、他の子息(正季、正家ら)の一族は和田氏に復している。正季の子息・和田高家は岸和田古城を築いたことで名高く、同じく正季の子息・和田賢秀は「歯噛様(はがみさま)」として現在もその武勇を讃えられる。
    南朝方の家臣・和田正興や正武は系譜不詳。『太平記』などは正興らを楠木氏と同族とするが、実際は和泉国の御家人・和田(みきた・にぎた)氏(大中臣姓)の出であったとも考えられる(婚姻関係などにより同族化した可能性はある)。ただし、国造和田氏の流れを汲む多くの氏族(橋本氏、神宮寺氏など)が南朝方に付いて、同族の楠木氏と共に戦った。
  • 熊野神社・鈴木姓は紀伊国名草郡藤白浦が本拠地で、諸国の鈴木氏は「この藤白・鈴木氏流より枝分かれた」と伝えられる。

    藤代鈴木氏の源流を辿ると大和国山辺郡穂積が発祥とされる天津神(アマツカミ)や饒速日命(ニイハヤヒ)の後裔が神別氏族として有力豪族の穂積氏ある。

    神別氏族・穂積氏の饒速日命(ニイハヤヒ)同祖には物部氏、熊野国造家、采女氏などが在り、源流は古代大和王朝成立に助力した部族王に一致している。


    藤白鈴木家に伝わる系図には、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)の子孫、千翁命(チオキナのミコト)が神武天皇に千束の稲を献上したので穂積の姓を賜った。

    物部氏族の穂積国興の三男基行が鈴木を称するに始まり、鈴木(苗字/名字)・穂積(ほずみ/氏)物部朝臣(もののべあそみ/姓/カバネ)・基行(もとゆき/名/名前)である。

    この時榔(ナギ)の木に鈴をつけて道案内をしたので後に穂積国興の三男・基行が鈴木を称するように成り、その鈴をつけた椰(ナギ)は御神木となった。

    鈴木姓は、紀伊国や三河国に小規模な武士団はあるものの、むしろ熊野新宮神職に鈴木氏多く、熊野三山の末社は約三千、六十余州に熊野神社の無い国は無く、「熊野神社勧請で全国に広まった」と言われている

    戦国時代、鉄砲三千丁を持って傭兵集団雑賀衆を指揮し、最後は一向宗・顕如(れんにょ)上人に味方して織田信長と石山合戦を戦った猛将・雑賀孫市(鈴木重意/しげおき)もこの白藤鈴木氏流である。

    つまり、物部朝臣(もののべあそみ・姓/カバネ)鈴木氏は、由緒正しい「もののふ=武士」の家柄と言う事に成る。
  • 物部氏と蘇我氏の争いは、敏達(びたつ)大王(おおきみ・天皇第三十代)の御世に成っても、息子達の大連(おおむらじ)・物部守屋(もりや)と大臣(おおおみ)・曽我馬子(うまこ)に引き継がれ、更に、敏達大王(おおきみ・天皇・第三十代)が崩御すると、次期天皇の「擁立合戦」に発展した。

    物部守屋に加勢した中臣勝海(なかとみのかつみ)が蘇我馬子に暗殺され、馬子の推する「用明(ようめい)大王(おおきみ・天皇第三十一代)」が即位する。

    用明天皇が崩御すると、物部守屋は、再び用明天皇のライバルだった穴穂部(あなほべ)皇子を立てようとしたが、蘇我馬子と合戦になり、大連(おおむらじ)・物部守屋は討ち取られてしまう。

    この敗戦で、加羅系・物部氏(新羅派)は衰退して行く。

    物部氏族の枝として残ったのが穂積氏で、その穂積国興の三男・穂積基行が紀伊国牟婁郡熊野の地で鈴木を称して鈴木氏が始まった。

    キーワードとして「もののふ=武士」の物部(もののべ)氏流鈴木氏は、熊野新宮神職にして修験道武術の練達者である。
  • 江戸幕府将軍家である徳川家の祖は三河松平氏を名乗り、「賀茂神社の氏子であった」と言う。

    三河の国加茂郡松平郷が、郷士として発祥した徳川家の故郷である。

    また、近世大名本多氏(徳川・三河松平傍流の家臣)も「賀茂神社の神官と関係があった」と伝え、いずれも葵紋を用いている。

    修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」と三河松平家は祖先を同じくしているのだ。

    岡崎市に伊賀町と言う地名がある。その東郷中(ひがしごうなか)に三河松平氏の祈願神社、伊賀八幡宮がある。


    家康公の事績

    戦乱の世が続くなか、天文11年(1543)、伊賀八幡宮を氏神・守護神とまつる松平家の九代目当主として、徳川家康公がご生誕されました。
    祖父も、そして父も家臣に暗殺されるという、まだまだ弱小の武門であった時期の公のご誕生とそのご生涯は、艱難辛苦の連続でした。
    譜代の家来とともに、まさに堪忍に次ぐ堪忍の道を歩みます。
    この時代が生んだ傑出の人物の一人である家康公は、伊賀八幡宮の御加護と御導きにより、折々の好機を確実につかみ、征夷大将軍にまで登りつめます。
    家康公の偉業は、徳川家の無事安泰に意を注ぐことにとどまらず、
    広く日本の、応仁の乱以来の130年の戦乱の世を平定し、
    260年におよぶ太平の世を開く、その大きな礎を築かれたことです。
    これは、伊賀八幡宮を創建なされた松平四代親忠公の大願でもありました。
    古今東西を通じて、世界的に比類のないこの大偉業は、
    真に神業と呼ぶにふさわしい事蹟でしょう。
  • 徳川家康公遠祖にあたる新田始祖義重公の子義季公が徳川・世良田郷を領し、徳川・世良田氏を称したことから当地は徳川氏発祥の地として周知の通りであります。
    また、松平泰親公は「世良田三河守」、松平信光公は「世良田二郎三郎」、松平清康公は「世良田次郎三郎」、家康公第四子忠吉公は「世良田下野守」、尾張家三代綱誠公は元服時に「世良田」、徳川家継公は御幼名時に「世良田鍋松」と先祖の名字である世良田姓を称されています。

    家康公による『御遺状御宝蔵入百箇條』によれば、「我、清和源氏の苗流れに生まれるといえども参州松平の姓、敵国の為に侵されて永いこと固められていた。今かたじけなくも天恩に俗し、世良田・徳川・新田の先祖の偉業と同じように回復できた。こりより代々この四姓をもって互いに称すべし。慎終追遠の教えの裏にでるようなことがあってはならない。」ともいわれている
  • 新田義重の子に徳川義季がおり、その子に徳川(得川)頼有と世良田頼氏がいた。頼有・頼氏兄弟の時代、新田氏の惣領は新田義兼の孫、新田政義であった。しかし政義は、寛元二年(1244)、京都で大番役勤仕中、許可無く出家して京都を引き払い、それをとがめられて所領を没収されてしまった。それ以後、幕府への出仕は世良田頼氏が勤めている。吾妻鏡に新田三河前司、三河前司頼氏とみえ、長楽寺文書に前三河守源朝臣頼氏とみえるのが世良田頼氏である。しかし、この世良田頼氏も、文永九年(1272)、二月騒動に連座して佐渡に流されてしまい、それ以後、惣領権は新田政義の孫、新田基氏に戻る。新田基氏の孫が新田義貞である。

     世良田氏は、一時的にしろ新田氏の惣領を勤めたこともある新田氏の有力な一族であった。
  • May 2016 編集されました
    家康が系図を整えた経緯を明らかにした渡邊世祐の論文が大正時代に出版されてから、家康が自分の家が新田源氏であると主張していたのは官位を受けるための方便であり、松平氏と世良田氏は実際は無関係であるということがほぼ定説になった。

    しかし、論文が出た当時は、家康の祖父の清康が世良田清康と称していたことは知られていなかった。のちにその事実が明らかになったことで、松平氏の世良田氏へのこだわりは、単に任官に際しての便宜のためという以上の、根の深いものだったことが明らかになっている。

    『三つ葉葵』の家紋と言うのは、新田義貞へ足利尊氏追討令の際、後醍醐天皇から拝領したモノと言われています。
    つまり、新田義貞を大将とした足利尊氏追討軍の為に用意された家紋なんですね。新田氏の早い時期に分かれた世良田氏も、本来は新田源氏の『丸に一つ引両』な筈ですが、朝臣として参加した足利尊氏追討軍の一員と言う世良田氏にとって一番名誉な時期でもあり、世良田氏は その後は『三つ葉葵』を使い続けたんだと思います。だから世良田政義を含んで残された世良田系図には『三つ葉葵』が載せられており、それを家康は あまり経緯を知らずに使ったか、知ってて使ったか、どっちとも取れると思いますが、朝廷に提出する為の系図の家紋に、そのまま使ったのが『三つ葉葵』であり、この時期に改紋したと見るのが合理的だと思います
  • 熊野連(クマノノムラジ)とは
     ・先代旧事本紀(国造本記、9世紀前半、物部氏系史書)に、
      「熊野国造 成務朝の御世、ニギハヤヒ五世孫・大河斗足尼(オオアトノスクネ)を国造に定む」
     ・新撰姓氏録(815)に
      「山城国神別(天神) 熊野連 饒速日命孫味饒田命之後也」
    とある氏族で、熊野国造家系譜(ネット資料・真偽不問)によれば、
     ・大河斗足尼の子・稲比に熊野直(クマノアタヒ)の姓が与えられ
     ・その9世の孫・伍百足が熊野本宮禰宜に任じられ、
     ・その子・蝶に熊野連の姓を賜った(その後、南北朝時代に和田と改姓したという)
  • June 2016 編集されました
    居住地としては山背国愛宕郡(京都市東北部)、山背国相楽郡(京都府相楽郡)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市・池田市・箕面市周辺)が知られ、上記の様に『新撰姓氏録』には左京、山城国、摂津国、和泉国に居住が見られる

    阿刀神社 (京都府京都市右京区) - 山城国葛野郡の式内社。阿刀氏の氏神社
    阿久刀神社 (大阪府高槻市) - 摂津国の阿刀連との関係を指摘する説がある。
  • 稲爪神社 兵庫県明石市大蔵本町

    稲爪神社は『延喜式神名帳』にある播磨国の明石郡と赤穂郡の「伊和都比売神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

    第33代推古天皇の時代、不死身と言われた鉄人を大将とした三韓の軍勢が日本に攻めてきたが、九州では退治できなかった。

    四国の伊予の役人、小千益躬が退治せよという命令を受け、一族の守り神「三嶋大明神」に祈ると、神が現れ、「鉄人の弱みは、鎧兜で守られていない足の裏だから、これを矢で射よ」と言われた。

    益躬は、鉄人に降参したふりをして、京へ向かう先導役となった。明石の浜で鉄人たちが休息をした時、空が突然曇り、稲妻がとどろき、驚いた馬から鉄人が落ち、足の裏を見せたので、益躬は弓矢で足裏を射て、鉄人を殺し、軍勢を撃退した。

    この矢を「鬼ざしの矢」という。益躬は、神の現れたこの地に社を建て、三嶋大明神、つまり伊予大三島の大山祇神社を勧請して、稲妻神社と名付け、後に社号は現在のものに変わった。

    御祭神は、大山祇命・面足命・惶根命・伊和都比売命(伊和都比売神)・奥津比古命・奥津比売命・宇留命。

    当社から東に800メートルの大蔵八幡町の八幡神社は、もとは小千神社、あるいは越智神社といい、当社創建者の益射が祀られている。益射の子である武男による創建と伝わる。
  • 阿刀氏の祖神は河内国渋川群(今日の東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られました。明治3年に完成した神社覈録(かくろく)によると、その祖神とは阿刀宿禰祖神(あとのすくねおやがみ)であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)から神宝を授かり、神武東征に先立って河内国に天下った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の孫、味饒田命(アジニギタノミコト)の子孫にあたります。平安初期に編纂(へんさん)された新撰姓氏録にも阿刀宿禰は饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記述があり、同時期に書かれた「先代旧事本紀」第10巻、「国造本紀」にも饒速日命の五世孫にあたる大阿斗足尼(おおあとのすくね、阿刀宿禰)が国造を賜ったと書かれています。古文書の解釈は不透明な部分も多く、「先代旧事本紀」などは、その序文の内容からして偽書とみなされることもありますが、物部氏の祖神である饒速日命に関する記述については信憑性が高いと考えられます。その結果、明治15年ごろ、京都府により編纂された神社明細帳には、阿刀宿禰祖味饒田命が阿刀神社の祭神であると記載されることになりました。阿刀氏の出自が、国生みに直接深くかかわった饒速日命の直系であることは、大変重要な意味を持ちます。
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