丹生都比売神社、丹生、水銀

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
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丹生都比売神社 (にぶつひめ) 伊都郡かつらぎ町上天野30 祭神 丹生都比売大神(丹生明神) 丹生大明神神告門…

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  • 丹生鉱山

    丹生(にう)という地名は、朱砂(硫化水銀でできた水銀鉱石、赤色)を産出する地名を示し、全国各地にある。特に、西南日本では、ほぼ中央構造線に沿って点在している。その水銀採鉱に携わったのが丹生氏である。三重県では多気郡勢和村にあり、今も丹生氏の守護神であるニウズヒメを祭る丹生神社が残っている。
     勢和村にある丹生鉱山の歴史は大変古く、『続日本記』に「和銅6年5月に伊勢の国が水銀を貢いだ」と書かれている。また、『東大寺造立供養記』には、「奈良大仏建造用として伊勢国の住人である大中臣が水銀2万両を献じた」と書かれている。従って、この頃には盛んに採掘されていたと考えられる。また、平安時代には、丹生千軒といわれるほど発展し、建久9年には全国唯一の水銀座ができた。この頃、京の商人が水銀を運び、鈴鹿峠で奪われて殺されたという話や、『今昔物語集』に、水銀商人の話と、坑夫が落盤事故に遭ったが、菩薩の霊験で救われるという話が載っている。

    『勢陽雑記』

    「……丹生の家一千軒計り有りて、民屋富みたる景気なり。此所より古来暦書を編出す。水銀山有り。日域他地なしと云々。然れども、近年掘り絶えけると云々。」
     水銀の製錬方法は、『丹洞夜話』によると、
    「まず鉱石を砕き、首の細い徳利に入れて生綿を□につめる。次に別の口の広い徳利を用意し土中に埋める。そして鉱石の入った徳利のロを下向きにして口の広い徳利にかぶせる。そうして地上にある鉱石の入った徳利を火で熱すると水銀蒸気が出てくる。これを土中の徳利の中で冷やして水銀を溜めて取り出した」
    と書かれている。
     水銀の利用は、メッキに使ったり、朱砂の赤色をそのまま利用して顔料に使ったほか、「射和軽粉」が鎌倉時代に松阪市射和で作られ、化粧品(顔のシミを取り色を白くする)、梅毒の薬、シラミとり、堕胎剤等に使われた。
     「射和軽粉」の製法は、釜に食塩を混ぜた赤土を入れて穴を空けて、ホツッキと呼ばれるもので蓋をして焼き上げる。次に、射和村の朱中山の赤土と食塩を混ぜて土団子にし、これに水銀を一滴落として釜の穴へ入れて、ホツッキをかぶせて焼いて冷やすと、結晶が蓋につく。(4Hg+4HCl+O2→4HgCl+2H2O)これを鳥の羽で集めて作った。
     この軽粉は「伊勢白粉」として、伊勢神宮の御師が全国に伝えたため評判となり、鉱山が衰退した後も、他から水銀を購入して生産を続け、明治まで続いた。
     鉱山については、明暦年間(1655-1658)の頃に書かれた『勢陽雑記』に「水銀山は他の地にないと伝えられているが、近年になって掘り尽くされた」と書かれている。また、『萩甫遺稿集』には、「何度か採掘されたが、続かなかった」と書かれている。したがって、江戸時代になって休山となったと考えられる。
     明治になっても休山の状態は続いた。しかし、昭和13年に北村覚蔵が試掘をはじめ、有望な鉱脈を発見して製錬を試みたが途中で病死した。その後を継いで中世古亮平が再開した。そして昭和31年には、月産340kgに達したが、なぜかその後止めてしまった。
     水銀の製錬法は、辰砂と石灰を混ぜ加熱し、発生した水銀蒸気を冷やして取り出した。(4HgS+4CaO→3CaS+4Hg+CaSO4)
     昭和43年になると、大和金属鉱業が再開し、大規模な機械化を行い、45年には日産3トンになったが、昭和48年になると、櫛田川へ水銀流出の危険性が生れたため、閉山となった。
    三重県立図書館、地域資料
  • 吉野に鎮座する丹生を称する神社は
    ①丹生川上神社中社(東吉野村小)、
    ②丹生川上神社下社(下市町長谷)、
    ③丹生川上神社上社(川上村迫)、
    ④丹生神社(下市町栃本)、
    ⑤丹生神社(西吉野村大日川)、
    ⑥丹生神社(吉野町六田)の六社である。延喜式内社の比定については、現在①②③が指定されているが、①の中社が最も有力である。その根拠は『類聚三代格』所収の寛平7年(895)六月廿六日付太政官符「応レ禁二制大和国丹生川上雨師神社界地一事」による。
  • 丹生酒殿神社 伊都郡かつらぎ町三谷

    社記によれば、大和国丹生川上に天降った丹生都比売尊及び一族は崇神天皇の時代、その第一御子高野明神はじめ十二王子、百二十の眷属を従えて三谷の榊山と地に天降ったとある。 古文書には榊を手にして石口の御榊山の御瀧の地であったと記されている。
     丹生都比売大神(左坐)は、天照大御神の御妹であらせられ稚日女命とも申し上げ、御子高野御子と共に御巡歴遊ばし、民人の為に農耕、糸つむぎ、機織り、煮炊きのことなどを教え、特に木の川(紀ノ川)の水を以て酒を醸し奉りてより丹生酒殿と称えられる。
    高野御子神(中坐)は丹生都比売大神の御子神で、高野山の名前もこの神の御名より出たと伝わり、別名狩場明神とも称えられます。

    誉田別命(左坐)は鎌八幡とも称し、讃岐から弘法大師の産土神として高野山に勧請したものを明治の神仏分離などで当神社へ合祀したものである。

     明治6年4月村社に列し、昭和0年6月18日官弊大社丹生都比売神社摂社として合併され、戦後独立現在に至る。
  • 丹生酒殿神社
    1)丹生都姫が最初に鎮座した土地、丹生祝氏の本拠地である
    2)丹生都姫が榊を手にして天下った所から名付けられた榊山(酒殿神社社殿裏山)
    3)鎌八幡神社(酒殿神社社殿裏)
    4)巡寺八幡講の絵(五来重著「空海の足跡」(角川選書)に一部写真が載っています)
    5)竃門神社(天野丹生神主、丹生惣神主とも代替わりにはここで昇進の儀式を行った;竃門氏の敷地内;入り口すぐ近くなので見ることは可能)
    6)薬師堂(丹生祝氏屋敷(現竃門氏屋敷)が未申に長かったので空海が立てたとの伝承あり。竃門氏の屋敷と道を挟んで反対側にあり。戦後竃門氏の所有から三谷地区の所有に変わっています

    讃岐の多度津には神功皇后の三韓征伐にまつわる伝承と神社があります。
    榜立(かいたて)八幡神社と熊手八幡宮(MAP)です。

    和歌山県伊都郡かつらぎ町の三谷というところにある「丹生酒殿神社」には興味深い伝承が残っています。この神社の境内社である「鎌八宮」は、かつて熊手八幡宮とも称され、その御神体は神功皇后が三韓出兵のとき用いたという幟と熊手で、それは讃岐国屏風浦の熊手八幡宮に祀られていたものだといいます。

    空海が高野山を開いた時、そのご神体が空海の後をついてきたので、櫟(イチイ)の木をその証の代わりとして祀ったということです。

    高野御子神は、狩場明神であり、丹生酒殿神社に祀られている。空海を高野山に案内したのは狩場明神といわれている。

    丹生都比売神社は、高野山北西にある。空海が金剛峯寺を建立するにあたっては当社が神領を寄進したという言い伝えがあり、古くより高野山と深い関係にある神社である。
    『紀伊国神名帳』には天神として「正一位勲八等 丹生津比咩大神」の記載があり、同じく天神として「正一位 丹生高野御子神」の記載もある。

    『播磨国風土記』逸文には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される。同文によれば、神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造・石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。その場所は現在の高野町上筒香の東の峰(位置)に比定され、丹生川の水源地にあたる。また同地は当社の旧鎮座地と見られているが、そこから天野への移転の経緯は明らかではなく、高野山への土地譲りに際して遷ったとする説がある。

  • 〜丹生神社〜

    佐賀県は嬉野町の『丹生神社』に行ってまいりました。

    佐賀県と長崎県の境に聳える虚空蔵山に源を発する丹生川は、嬉野町を経て嬉野川となり、塩田町を経て塩田川となって、有明海へとたどりつきます。この川筋に何社かの丹生神社が鎮座

    嬉野町 丹生川 144
       丹生(たんじょう)神社  御祭神 丹生都比売命

    嬉野町 丹生川 下野 3220
       丹生(たんじょう)神社  御祭神 罔象女命

    嬉野町 不動山 丙1312
       川上丹生(かわかみたんじょう)神社  御祭神 丹生都比女命

    嬉野町 不動山 甲328
       丹生(たんじょう)神社  御祭神 丹生都比女

    嬉野町 下宿 丙 288(湯野田)
       丹生(たんじょう)神社  御祭神 罔象女命



    丹生都比売(ニュウツヒメ)伝承

    朱丹製造に従事した丹生氏が持っている丹生都比売伝承によると、中国の古代、春秋戦国時代のBC473年に長江の河口にあった呉は隣国の越によって滅ぼされ、その後のBC334年、越は長江中流域の楚に滅ぼされました。なおその後に秦の始皇帝によって楚もまた滅ぼされました。
    呉越の遺民は長江以南の海岸沿いに国を構えていたが、秦の氏皇帝による追求によって危険が迫り、金属採取に長けた越人を交えた一族たちは呉の美人で評判の高い皇女姉妹を奉載し、まさに“呉越同舟”で船出し、新天地倭国へ向かいました。
    姉の大日女姫(オオヒルメ)は南九州に上陸して伴侶を得て、この地にとどまり、後に天照大御神の原型となりました。
    妹の雅日女姫(ワカヒルメ)は金属採取を行う越人一行をしたがえて北九州の前原(マエバル)に上陸し伊都国を建国しました。かれらは丹生氏(ニウウジ)を名乗り、朱丹の製造を生業として、その原料である水銀の鉱床を採掘するため列島を縦断する中央構造線の周辺を探査して九州、四国、中国地方、近畿地方、北陸、東海、関東地方などの山野にその足跡を残しています。雅日女姫は後にミズガネの神として讃えられました。
  • 丹生氏一族が紀伊半島の伊都郡かつらぎ町の紀ノ川南岸に集団移住して朱丹の製造を始めたのは今から1700年前のことだったといいますから、3世紀中旬~下旬の頃です。 伝承によれば、当時かつらぎの周辺にはすでに道臣命(ミチオミノミコト)の後裔である大伴氏が他の神を祭って住んでいたが丹生都比売の一行を大伴氏は快く受け入れたといいます。
  • 神功皇后の三韓外征の帰途、難波へ向おうとしたが船が真直に進めなくなったため、武庫の港(神戸港)に還って占いを行った。そこで稚日女尊が現れられ「私は活田長峡国にいたい」と神宣があったので、海上五十狭茅に祭らせたとある。これが今日の生田神社である。

    神名の「稚日女」は若く瑞々しい日の女神という意味である。天照大神の別名が大日女(おおひるめ。大日孁とも)であり、稚日女は天照大神自身のこととも、幼名であるとも言われ(生田神社では幼名と説明している)、妹神や御子神であるとも言われる。丹生都比賣神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)では、祭神で、水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が稚日女尊であり、天照大神の妹神であるとしている。
    兵庫県西宮市の越木岩神社には稚比売命の磐座がある。
  • 『ホツマツタヱ』によると、天照大神の諺名ワカヒトにちなんで名付けられた妹神、和歌の女神和歌姫(諺名は日霊子 ヒルコ 姫)の結婚前までの名前と記されている。また、スサノオがしでかした、屋根を破って斑駒(ぶちごま)を投げ込む暴挙によって、落下して来た馬に動転して、不運にも手に持つ梭(ひ)で身を突いて死んでしまったと伝えられているワカヒメは、天照カミ(天照大神)の中宮セオリツ姫(瀬織津姫)ホノコの妹ワカ姫ハナコであり、玉津島神社に祀られている稚日女(ヒルコ姫)とは別人ということになっている。

  • • 丹生都比売神社は和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野(旧天野村)にある。天野大社ともい われて、紀伊の国一の宮である。海抜500mの山上とは思えない朱に塗られた雅な神社が 森に囲まれた静謐の中にあった。この地は盆地で田圃は青々として、小鳥のさえずりが聞こ え、時間がゆったり流れている、ここは将に桃源郷である。天野米産地として有名。

    西行法師の時代(1100年代)三谷→天野→高野山は表街道だった。
  • 神宝の多さが語る祭神・由来について
    ・ 「播磨風土記」によれば、神功皇后三韓征伐の折り、丹生大神の神霊が軍鉾・軍衣・軍船を赤く塗り染める啓示を与え、大勝を得たという伝承がある。 ・ 蒙古襲来の折り、神霊大いに働く。
    ・ 皇室・公家・武家の御崇敬を受けた。

    神社のある天野は、高野山の西北10キロ、盆地の 地形に開けた静かな山里である。天照大神の妹(わか ひるめ)とされる丹生都比売神が祀られ、天野大社とも いわれている。わかひるめは和歌山の名の由来

    浜降りの神事
    「浜降り」とは紀の川を下り、和歌 浦の玉津島神社に1泊、翌朝、 日前宮の草庵に入り天野へ帰って 来る行事。高野御子がひそかに衣 通姫に通った故事による

    弘法大師は高野山開創にあたり、仏教の諸尊と日 本在来の神祇との融和に意を用いられ、高野山の地主神として丹生明神と 高野明神(狩場明神)を勧請された。その本社は山麓天野にある。大師以後 今日に至るまで山内の住侶はこの両明神を厚く尊崇してきた

    徳島の若杉山遺跡

    弥生時代の終末から古墳時代前期にかけて 墳墓や古墳に埋葬した人に多量の 水銀朱がふりかけられるようになった。この時期の水銀朱の採掘・精製は阿南市 水井町の若杉山遺跡で盛んに行われていた。精製には石臼・石杵が使われ、石 杵の形態からすりつぶしの行程までがここで行われていたことがわかる。
  • 丹生都比売大神は、天照大御神の御妹神で稚日女尊とも云い、紀ノ川流域の三谷(現・かつらぎ町三谷)に降臨、紀州・大和を巡られて農耕を里人に教え、この地に鎮座せられたとある。また、『播磨国風土記』によれば、「神功皇后が遠征する際、大神の託宣により赤土を賜り、これを天逆鉾に塗り船に立てたところ、戦勝することが出来たため、これに感謝した応神天皇が社殿を造営し、紀伊山地の北西部一帯を神領として寄進された」とある。さらに、『日本書紀』に神功皇后が新羅より帰還された後の記事として天野の祝(神職の意)が登場することから、神社の奉斎が古くから行われていたことを示すものとされている。式内社としては、名神大社に列し、月次、新嘗の幣帛に預る。
  • 大仁保神社
    鎮座地 奈良県高市郡高取町丹生谷小字大入

    ご祭神 岡象女神 丹生谷集落の北辺に鎮座する。古代より霊徳の高い社としのばれる。明治四十四年(1922)に飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社に合祀されたが、合祀後も、旧地に社殿は残されている。同社は仁徳天 皇を祭神とし、元慶二年(878)二月二十七日に従五位下を授けられた大仁保神(三代実録)にあてる説がある(大和志)。

    地名の丹生谷というのは、紀伊国丹生都姫神社の祭文によると、丹生姫神は大和国川上水分神(丹生川上社)から十市郡巨勢丹生、宇智郡布々岐丹生経て、紀州天野山に鎮座したと記し、巨勢丹生を当社にあてて考えられ、丹生の神の留まられた地としてこの地を丹生と唱え、後丹生谷と改めたとされている。
     しかもこの聖地へ丹生神(岡象女神)を祀る祠を建てたと考えられ、付近の山を大丹穂山と呼ばれることになった。

    「日本書紀」皇極天皇三年十一月条に、蘇我蝦夷が人を派して大丹穂山に桙削寺を造立したことがみえる。
     桙削寺跡については、子島寺説、入谷説、丹生谷説(大和志)などがあり「大和志料」は、この丹生谷の大仁保神社をもって、国史見在社とする。
  • 社伝(白鬚神社HPの「御縁起」)によれば、
    例の倭姫(ヤマトヒメ:アマテラスを伊勢に遷宮した姫)が伊勢でサルタヒコに出会い、サルタヒコは五十鈴川川上の地(おそらく現在の内宮)を薦め、自分はこの湖西の地に住居を移した、とある。それがそもそもこの神社の創建の元になったと。
  • *丹生とは丹(に)が生じるところ。
    *丹とは丹砂、すなわち朱の原料。
    *そして水銀(みずがね)の原料。
    *水銀は鏡の研磨剤。
    *神社の池に鏡が多数投げ込まれていたのが発見された。
    *朱や水銀は防腐剤、転じて?不老不死の妙薬。
    *八百(白)比丘尼の伝説との関連。
    *その比丘尼は若狭の生まれ。
    *主祭神の一柱は大食都比売大神 (おおげつひめのおおかみ)すなわち若狭の気比明神だ。
    *若狭の遠敷(おにゅう=お丹生?)はお水送りの地。「龍の道」の重要ポイント。
    *全国の丹生神社はまた水の神でもある。龍だ。
    *この神社は全国の丹生神社の総本山というが、丹生都比賣を主祭神とするところは僅少。
    *なぜ丹生都比賣は記紀から削除されたか。
    *丹生都比賣が(祝詞によると)各地に足跡を残しているのはなぜ。
    *朱や水銀の神よりも開拓神の色彩の強い神社が多いのはなぜ。
    *丹生都比賣は海(あま)の神とも思える(稚日女=日の出の太陽?永遠の太陽?)が、山の神と思える地に丹生神社が多いのはなぜ。
    *姉の天照大神と違って、丹砂を堀り、狩りをする山の民の神なのか。
    *神武東征との関わりは?(名草、五瀬命との関連)
    *白山比咩(しらやまひめ)との関連は?白山神社は天台宗の僧により広められたが。
  • 「陰陽師」では、この神社に伝わる「丹生大明神告門(にうだいみょうじんのっと=祝詞)」を、『本気で詠んだら天変地異も起こしかねん代物だぜ』と安倍晴明に言わせている。事実、その内容は凄まじい。一部を引用すると、

    『皇御孫(すめみま)の命(みこと)の宇閇湛(うこへ)の任(まにま)に於土(うへつち)をば下に掘り返し、下土(したつち)をば於(うへ)に掘り返し、大宮柱(おおみやばしら)太知(ふとし)り立て奉り給ひ、高天(たかま)の原に知木(ちぎ)高知り奉り、
    朝日なす輝く宮、夕日なす光る宮に、世の長杵(ながき)に常世の宮に静まり坐(ま)せと申す。』

    また、この「祝詞」では、丹生都比賣は天照大神の妹神であるとされていて、祝詞の内容にふさわしい超大物の神であることがわかる。
    ところが困ったことに、この神は記紀にいっさい記載されていないのだ。
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