三輪氏、大神神社、大物主

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  • 出雲大神宮は京都府亀岡市の北東部に位置し、大国主命(オオクニヌシノミコト)と后神である三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を奉斎し(明治の制による)、特にこの二柱を合わせて出雲大神、出雲大神宮(日本書紀)、出雲神社などと称へ奉ります。

    社伝では逆に、出雲大社の方が出雲大神宮より勧請を受けたとし、「元出雲」の通称がある。社伝では、『丹波国風土記』逸文として「元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるとする
    社伝では、和銅2年(709年)10月21日に社殿が建てられたとする[

  • (高皇産霊尊が大物主神にみことのりされるのに、お前がもし国つ神を妻とするなら、私はお前がなお心を許していないと考える。それで今わが娘の三穂津姫をお前に娶(め)あわせて妻とさせたい。八十万の神たちをひきつれて、永く皇孫のために守ってほしい)


     国つ神の大物主命(大国主命)と、天つ神の娘三穂津姫の婚姻が、両勢力の融和の証であったことが語られている。書紀の国譲りの記述を見る限り、両勢力間には戦闘があったようではない。


     次に古事記のほうの国譲りの場面をみてみよう。古事記には、大国主と三穂津姫の婚姻の記述はみられず、また平和的に事が運んだようではない

    大己貴神(大国主命)は、やって来た天つ神の建御雷神(たけみかずち)に国譲りの諾否を迫られたとき、息子八重言代主(やえことしろぬし)に相談する。海上にいた言代主は国譲りを承諾したあと、呪いと思われる所作を行って水死をとげてしまう。もう一人の息子建御名方(たけみなかた)は、武力で建御雷に抵抗するものの、諏訪に追い詰められ、以後諏訪の地を出ないことを約束させられたうえ降伏した。頼みとする二人の子を失ってしまった大己貴命は仕方なく壮大な宮殿を建ててもらい、そこに退くことと引き換えに、自分の国を譲り渡すのである。


    …僕(あ)が子ども二神の白せるまにまに、僕(あ)も違はじ。この葦原の中つ国は、命のまにまに既に献(たてまつ)らむ。 (古事記)


    …吾は退(さ)りて幽事(かくれたること)を治めむ。…身に瑞(みず)の八坂邇(に)を被ひてとこしへに隠れましき。 (日本書紀)
  • 『播磨国風土記』の託賀郡黒田の里の条には、奥津嶋比賣が袁布山で伊和の大神の子を産んだという記事がある。ここで伊和の大神と言っているのは、大己貴神に違いない。奥津嶋比賣は田心姫のことだろう。この託賀郡黒田の里には、現在「古奈為(こない)神社」があり、一部では奥津嶋比賣を祭るのではないかと言う人もあるが、社伝では木花佐久夜比賣だと言っている。

    奥津嶋比賣は市杵嶋姫と同じ神だと言われることもある。奥津嶋比賣は三姉妹神の長女である。書紀本文は市杵嶋姫を三女、古事記は次女としているので、奥津嶋比賣は別の神である。ところが日本書紀の「一書」の第一から第三までは、すべて市杵嶋姫を長女としているので、同神となる。当の宗像神社でも幾度か変遷したらしいが、現在は書紀本文に合わせて祭っているという。
  • 高鴨神社を訪れた時に…
    ひとつだけポツンと…
    市杵島姫命が祀られている。



    何故か

    高鴨神社(上鴨神社)

    祭神 味治須岐高彦根命
    配祀 下照比売命、天稚彦命  

    境内に摂社 市杵嶋姫命神社「市杵嶋姫命」

    下照姫が立派な社なのに、、、、

    下照姫は
    『古事記』では、高比売命(たかひめのみこと)の亦の名が、下光比売命・下照比売命
    『日本書紀』では、下照姫。亦の名は高姫、稚国玉。
    『先代旧事本紀』地神本紀では、下照姫命。
    両親 は
    『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅金且高日子根神の妹。
    『日本書紀』では、顕国玉(大国主)の娘。
    『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神(大国主)と田心姫命の娘で、味金且高彦根神の同母妹。

  • 『古事記』の大国主神の系譜においては、アヂスキタカヒコネの同母妹と記されている。そのため、高比売(高姫)はシタテルヒメの別名とされるが、姉妹の別神とする解釈もある。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神と高津姫神の子、都味齒八重事代主神の同母妹に高照光姫大神命がおり、これと混同された可能性もある。

    『古事記』および『日本書紀』本文によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされたアメノワカヒコと結婚した。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、シタテルヒメの泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いたアメノワカヒコの父の天津国玉神は葦原中国に降りてアメノワカヒコの喪屋を建て殯‎を行った。それにアヂスキタカヒコネが訪れたが、その姿がアメノワカヒコにそっくりであったため、天津国玉神らはアメノワカヒコが生き返ったと喜んだ。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と間違えるなと怒り、喪屋を蹴り飛ばして去って行った。シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』本文にはない)。『日本書紀』の第一の一書では、アメノワカヒコの妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみシタテルヒメの名が登場し、アヂスキタカヒコネの妹であるとしている。
  • March 2016 編集されました
    式内社 出雲國出雲郡 同社神大穴持御子神社
    出雲大社境外攝社

    御祭神 事代主神 配祀 御年神 高比賣命

    通称、三歳社。
    大社荒垣と神楽殿の間の道路を北上、八雲の滝を通過し歩いて10分。
    非常に分かりにくい所にある。

    式内社・同社神大穴持御子神社に比定されている古社。
    出雲国風土記の「企豆伎社」の「同社」の中の一社。
  • 『先代旧事本紀』巻第四「地祇本紀」は、「(大己貴神が)先(に)宗像の奥都嶋に坐す神田心姫[たこりひめ]命(多紀理毘売命と同神…引用者)を娶りて一男一女を生む」、その子神を、『古事記』と同じく「味鉏高彦根神」と「下照姫命」とするも、つづけて、「高照光姫[たかてるひめ]大神」に関わる神統譜を記しています。曰く、「次に辺都宮に坐す高津姫神を娶りて一男一女を生む」というものですが、こちらの「一男一女」の一男は「都味歯八重事代主[つみはやへことしろぬし]神」、そして、その妹神(一女)が「高照光姫大神命」とされます。
     高照光姫大神の母神とされる「辺都宮に坐す高津姫神」なのですが、この神の異称は、次のように列記されてもいます(大野七三編・訓註『先代舊事本紀』)。

    次に湍津姫[せつひめ]命亦の名は多岐都姫[たきつひめ]命亦の名は遺津嶋姫[をきつしまひめ]命。宗像の辺都宮に坐す。是海浜[わたつはま]に居所[ましませる]者[かみ]なり。

     辺都宮(=辺津宮)にいるとされる高津姫神です。この神名にみられる「津[つ]」は「~の」と同意の助詞で、タカツヒメ(タキツヒメ)はタカノヒメ(タキノヒメ)の意です。それが、「湍津姫命亦の名は多岐都姫命亦の名は遺津嶋姫命」の異称をもっているとのことです。
     辺津宮はもともと高宮のことで、この高宮の姫神の意で「高津姫神」の表記はあったはずです。
    『記紀』はいうまでもなく、宗像祭祀側の根本縁起書(『宗像大菩薩御縁起』)も記さなかった、タキツヒメ(タギツヒメ)の異称「高津姫神」の名を、物部文書といってよい『先代旧事本紀』一書のみが記した。
  • 播磨国風土記の中には、伊和大神(いわのおおかみ)という播磨の国土経営の神の記述がいくつかあります。宍禾の郡中、伊和の村の記述には、元々の伊和村の名は「神酒(みき)」といい、伊和大神が酒をこの村で作ったために神酒の村になったといった事が書かれています。
    そして、兵庫県宍粟市にある伊和神社(いわじんじゃ)では、祭神は大己貴神(オオナムチノカミ)となっています。元は伊和大神だったのでしょうが、伊和大神は通常、大国主命と同一と考えられているようです。
    ある本には、「伊和大神」は、「三輪大神」の事を言っていると書いてありました。「酒造り」という共通点からも同じという事は肯けます。ただ、伊和大神は、大国主とは違いアメノヒボコと国占め争いをするのです。そうなると伊和大神は、 大国主より少し後の時代の話になります。
  • 弥和の御室嶺上宮と比定される一社は神坐日向神社である。

    大神神社の拝殿からかつて大神神社の神宮寺であった平等寺への道を辿って行き、更に細い道をはいった樹木が繁る小高い処に在る。小祠ではあるが延喜の制の大社である。社は北を向いて鎮座している。山頂の高宮神社は朝日を、この日向神社は日中の太陽を拝することで北向きとも謂う。森は大物主神の子等を祀ることで“御子の森”と称される。

     祭神は古事記に謂う大物主大神の子の櫛御方命(くしみかたみこと)、その子の飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)、さらにその子の建甕槌命(たけみかづちのみこと)の、大物主大神の子・孫・曾孫の三柱を祀る。この建甕槌命の子が意富多多泥古(おおたたねこ)(紀・大田田根子)で、先の賀茂(鴨)氏や三輪(神)氏はその子孫となる。しかし書紀では、大田田根子は天皇の問いに自らを大物主大神の子だと答え、此処の祭神の三代を省いた系譜を伝えている。その大田田根子が大物主神を祀ることで、疫病が止み五穀が稔り世の中は平穏となる。
  • 記紀は長髄彦の出自についてなんら記述しないが、鈴木真年翁は、「醜類ニ非ス」として、「大和国城上郡登美ノ人、長髄モ同所ノ邑名、飛鳥事代主神ノ子」と記される(『史略名称訓義』)。丹後宮津藩主本荘氏の系譜『本荘家譜』には、物部の祖・饒速日命の子の麻斯麻尼足尼命(ウマシマチのこと)の右註に「母飛鳥大神之女登美夜毘売」と記される。

    長髄彦は事代主神(飛鳥大神)の子で、磯城の三輪氏一族の族長だったということであり、早くに太田亮博士も、「磯城彦は即ち三輪氏に外ならず」と指摘した。
  • 三輪氏については用明期に次のような記述がある。
    日本書紀 巻第二十一 用明天皇~崇峻天皇?皇后、而自?入於殯宮。寵臣三輪君逆、乃
    喚兵衞、重?宮門、拒而勿入。穴穗部皇子問曰、何人在此。兵衞答曰、三輪君逆在焉。 七呼開門。遂不聽入。於是、穴穗部皇子、謂大臣與大連曰、逆頻無禮矣。 また、宇佐八幡由緒記、三輪系譜などには、571年に大三輪の比義(大神比義)豊 後の宇佐に行き、八幡神を祀ったとある。 この時代は、朝鮮三国問題や、崇仏、廃仏両者の争いなどのあった時期である。
  • 江戸時代の地理書『大和志』及び『大和名所図曾』によると
    「 磯城厳橿の本は白川(しらが)・出雲二村の旧号なり」とあり、
    出雲は垂仁天皇の時代に野見宿禰が出雲国から土師部を呼び寄せて埴輪製作を当たらせた所と言い伝えられる村落です。
    桜井市出雲にある十二柱神社の境内には、野見宿禰の墓と伝えられる五輪塔が立っている。

    『延喜式』では、大神大物主神社で記されている。記紀には、次の記述がある。

    大国主神(大己貴神)は少彦名神とともに国造りをしていたが、大国主が、「お前は小さな神だな」と愚弄したために国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らして神が出現した。その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。

    大神(三輪)氏は、大物主神の子である大田田根子を祖とする
  • 奈良県人は県内にある神武天皇の橿原神宮よりも三輪山の大神神社を尊崇して毎日ツイタチ参りという物があり、彼らは「オオミヤはんは、ジンムさんより先や」という、かつての先住民族の信仰の記憶を現在の奈良県人も心の底であたため続けているのかも知れません。

    三輪山は、山全体を神体としていますので、神道において最古の形式を遺しているといえますね。
    つまり、自然崇拝が祈りの初めと私の史観でもあります。

    このような形を甘南備山(かんなびやま)というそうです。
    出雲にも甘南備山が多く、「出雲国造神賀詞」にはカンナビの話がやたらと出ているそうです。

    出雲民族の信仰の特徴といえるでしょう。
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