遼河文明、龍と玉の起源

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
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遼河文明(りょうがぶんめい)とは、満州南部、中国東北の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6200年…

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コメント

  • 燕の衛氏に攻められて滅びた箕氏朝鮮(BC11世紀~BC3世紀)、その箕氏(きし)は殷の王族で、殷が周に滅ぼされた時に朝鮮に来たのだった。
    当時「朝鮮」は、半島北西部の限定的な地域を指した。「朝鮮」という言葉は、色鮮やかな岫岩玉(しゅうがんぎょく:岫巖は玉石(ヒスイ)の中国最大の産地で埋蔵量も豊富であり「玉都」と呼ばれた)を表現する言葉だったと想像されている。朝が東方を意味すれば、中華から遥か東方にある朝鮮半島の位置にふさわしい。
    岫岩玉の産地は、遼東半島の付け根で、黄海沿岸から少し山中に入った場所にある。殷王朝の墓から岫岩玉で作られた玉製品が複数発掘されているから、殷では、宮廷工房で岫岩玉を含む玉の加工をしていた。当時の威信財は青銅器と玉器だった。

    翡翠の玉は縄文時代中期(約5千年前)から奴奈川郷(糸魚川)で5世紀頃まで連綿と作り続けられてきた。また出雲国に立地する玉造温泉の玉造の那の由来は、この地の花仙山で良質の青瑪瑙が採掘されこの地の人々が玉造を生業としていたためという。三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)によってこの地で造られたと言われている。
    以上のことから、岫岩玉の原石を殷に持ち込んだのは、倭人(倭国の人という意味ではなく、後世の倭冦の倭のような意味の海上移動を主体とする縄文人に由来する移動民)の船であった可能性が指摘されている。
  • 戦国時代、燕で製鉄が始まると、燕国内では鉄製農具による生産性向上と可耕地の拡大が始まり、秦末の混乱期に燕の衛氏が現在の平譲近辺に流入し、殷の王族の末裔ながらも新石器時代人であった箕氏一族と近臣が追い出され「海路」馬韓に逃れた。
    ここでも玉加工品の交易繋がりが継続していたから船を大型化していた倭人に運ばれた公算が大きい。

    黒曜石の交易
    日本でも後期旧石器時代から使われていて、その産地と出土地をつないで交易ルートが推測されている。その出土地の中には沿海州も含まれ、渡海に限らずアムール川を利用して運んでいたことも明らかになっている。このような交易者を祖先として長い年月の間に朝鮮半島はもとより中国大陸と行き来するようになっていたのが倭人である。
  • 三代実録』貞観元年正月二十七日条に、大和国の従五位下櫛玉命神が従五位上へ昇叙したことがみえます。

    祭神は、櫛玉命、櫛玉姫命、天明玉命、豊玉命の四座。

    『大和志料』の引く『五郡神社記』には、玉造神社と呼ばれていたようです。
    玉造氏の遠祖、羽明玉命(櫛明玉命)とその子神である豊玉命(玉屋命)を祀る羽田間神社(羽玉神社)を、仲哀朝に荒木命が巨勢の地三十代を賜って創建。

    矢田坐久志玉比古神社のある曾布矢田郷から、櫛玉彦神(天明玉神)と櫛玉姫神(天太玉神)を勧請し、矢田間神社(矢玉神社)とした。
    荒木命は櫛玉彦神の三世孫で大目命ともいい、合計四座の神を祀るのが当社である、といいます。

    はやくから、玉造氏との関係が考えられてきたようです。
    社号の櫛玉は奇しき魂の意と見られますが、玉に引かれて玉造が連想されたものでしょうか。

    『姓氏録』左京神別・摂津国神別には、高御魂命(高魂命)の子の櫛玉命がみえます。
    小山連氏の祖といいます。
  • 長崎の古名の彼杵(そのき)は、古代の景行(けいこう)天皇が『この国を具足玉国(そないだまのくに)《玉が多くそろっている国》と名付けよ』ということから彼杵(そのき)になったとある。

    この玉とは真珠の事である。

    大村地方で取れたこれらの玉類を、中国大陸や熊本や鹿児島地域と交易をするのなら、長崎の港を利用しなくてはならない。

    その事で「瓊ノ浦」(たまのうら)と呼ばれていたと推測できるのだ。
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