景行天皇、日向襲津彦、豊戸別皇子、庵治石

April 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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『日本書紀』 景行天皇は、 播磨稲日大郎姫を皇后として、大碓皇子、小碓尊(日本童男、日本武尊)の双子を生んだ。…

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コメント

  • 日向国造は日向国(宮崎県東諸県郡国富町周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代、景行天皇の子とも言われる豊国別皇子(とよくにわけのみこ)の3世孫である老男命(おいおのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。古事記には豊国別王が日向国造の祖とも記されるが、その子・国富彦(くにとみひこ)、孫の老男と3代のうちに国造が成立したことは間違いなさそうである。更に老男の子・牛諸井(うしもろい)は諸県君(もろかたのきみ)を命ぜられ国富町へ移ったという。日向国造氏族は諸県氏・宮永氏が世襲したとされ、宮崎県宮崎市にある宮崎神宮は大和朝廷以前から存在し、老男が修繕して祀ったという。
    宮崎県西都市にある西都原古墳群は日向国造系、東諸県郡国富町にある本庄古墳群は諸県君家の系統と言われ、いずれにしても宮崎平野の古墳群は髪長媛(かみながひめ)と関連しているらしい。髪長媛は景行天皇を祖にもつ皇統の筋・牛諸井の娘で美人の誉れ高く、仁徳天皇妃となった女性である。
    西都原古墳群の男狭穂塚は日本神話によると瓊々杵尊(ににぎのみこと)の墓、女狭穂塚はその妻・木花之開耶姫(このはなさくやひめ)の墓と伝承されているが、豊国別王の墓とする説もある。
  • 九州最大の古墳群で、特別史跡の「西都原(さいとばる)古墳群」(宮崎県西都市)から、国内最古級とみられる前方後円墳が確認された。宮崎大学などの発掘調査でわかった。出土した土器から、築造は3世紀中ごろと考えられ、南九州では最古。大和政権があった畿内でも、このころ古墳が造られ始めており、本土の南端でも同じ動きがあったことになる。これまで、大和政権が主導したとされてきた古墳文化成立に、再考を迫ることになりそうだ。
     確認されたのは西都原81号墳。長さ52メートルで、卵形の後円部と短いバチ状の前方部を持つ「纒向(まきむく)型前方後円墳」と呼ばれるタイプだ。本格的な巨大古墳の登場に先立つもので、3世紀中ごろまでに造られたとされる奈良県桜井市の纒向石塚などと同じ形。後円部からは、弥生時代と古墳時代の過渡期にあたる土器が出土した。このため、4世紀とされてきた西都原古墳群の築造開始も、半世紀前後さかのぼることになる。
     纒向型は全国で30例を超えるともいわれるが、南九州での発掘は初めて。南九州は「地下式横穴」など独自の埋葬文化を持ち、のちに「隼人(はやと)」と呼ばれる人々が中央政府に反乱を起こすなど、長く中央とは一線を画してきた土地柄だ。
     近年、大和政権は全国の有力豪族の連合体だったとの見方もあり、発掘責任者の柳沢一男・宮崎大教授(考古学)は「南九州の勢力も、古墳文化の成立に参画していた可能性を考えなくてはならなくなったのではないか」と話している。
     宮崎大では夏にも発掘を再開する予定
  • 信濃の阿智氏

    阿智神社 長野県下伊那郡阿智村智里489 天八意思兼命、天表春命 阿智神社は上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂高神社を中心とする安曇族とともに国の南端に位置して開拓にあたった阿智族の中心をなす神社としてその祖先を祭り、「先代旧事本紀」に八意思兼命その児 表春命と共に信濃国に天降り阿智祝部(はふりべ)の祖となる。

    安布知神社 長野県下伊那郡阿智村駒場 2079 天思兼命 天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが 、平安時代の史書「先代旧事本紀」に、天思兼命とその子天表春命は共に信濃國に天降り、阿智祝部等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部
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