讃岐 空海、佐伯直と阿刀氏

April 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚 宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。 父…

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コメント

  • 空海の出自である讃岐の「佐伯直氏」の出自に関しては古来色々言われてきた。
    主なものは、古代豪族「大伴氏」から派生した氏族であるという説。例えば「佐伯今毛人」という有名人が、奈良時代後期から長岡京時代にかけて歴史上活躍した。これは佐伯宿禰姓である。(既稿「大伴氏考」参照)
    これと同一氏族とする系譜が残されている。
    一方12景行天皇の皇子「稲背入彦命」の流れは播磨国造になるが、その流れの分岐した讃岐国造となった佐伯氏が佐伯直姓となり、この裔に「佐伯直田公」がおり、この子供が「空海」だとする説がある。
  • 空海は四国讃岐国の佐伯直氏の出身である。母の兄とも言われている「阿刀大足」が長岡京で桓武天皇の皇子である「伊予親王」の家庭教師をしていた縁で788年(諸説ある)15才の時上京してきた。ここで大学への受験勉強をして平城京の大学に入学したが、2年間ほどでそこを出奔、謎の10年間を過ごし、804年(31才)頃東大寺で受戒して留学僧に選ばれたとされている。そう簡単に留学僧に選ばれることはない。強力な支援者がいたことは間違いないとされている。
    伯父の阿刀大足の縁で伊予親王が支援し、親王を寵愛していた桓武天皇が後押ししたという説が有力。


    空海が何故和気氏の氏寺であった高雄山寺に京都に帰京した時入った。
    これは、葛野麻呂が取り持ったものと思われる。空海ー葛野麻呂ー和気氏ー高雄山寺の関係である。

    空海は何故「乙訓寺」の別当になったのか。
    52嵯峨天皇の勅により別当になったとある。乙訓寺の寺伝によれば、創建は33推古天皇の勅により聖徳太子によって建立となっている(長岡京市教育委員会の調査では、白鳳期の瓦が発見された)。となると、上記太秦の広隆寺建立と近い関係にある。この乙訓寺付近には「乙訓社」と言われる賀茂氏に関係する古社がある。また26継体天皇の弟国宮(518年)もこの辺りだったという説も根強くある。多くの6-7世紀の古墳もある。この古墳の主は不明だが、その豪族の裔が乙訓寺を建立したとの説が通説になっている。
    この付近には、6世紀ー7世紀にかけて賀茂族がいたことは間違いない。同時に秦氏もいた。当時秦氏の方が勢力があった氏族である。同じ長岡の地に渡来系の氏族「田辺史」氏の氏寺と推定されている「鞆岡廃寺跡」が発見されている。創建は、はっきりしないが、乙訓寺とほぼ同じ頃ではなかろうか。となると、乙訓にいた秦氏勢力が乙訓寺を朝廷の支援も受けて創建したと考えても妥当性はある。乙訓という郡名を冠しているので単なる私寺ではないであろうが。(中山修一もその著書の中で、乙訓寺について、向日市の宝菩提院廃寺とともに秦氏関係寺院と推定している)
    そうなると、空海をここの別当に推薦したのは、秦氏ー和気氏ー葛野麻呂ー嵯峨天皇ー空海となったのではなかろうか。(葛野麻呂は52嵯峨天皇にも重用されている)
    52嵯峨天皇が空海と特別な関係であったことは有名である。

    空海は荒廃しかけていたこの寺の再建に取り組んだとされている。この目途がたったので
    和気氏の寺、高雄山寺に812年に帰り本格的な真言密教の布教活動を開始。824年に前述の神願寺と高雄山寺を併合した形で、ついに定額寺「神護寺(正式名:高雄山神護国祚真言寺」)」とし、初代住職となったのである。
    参考であるが太秦の「広隆寺」も空海の弟子が入り、平安時代から真言宗の寺となっている。秦氏と空海の関係はそれ以外にも伏見稲荷神社と東寺の関係からも尋常でないことが窺える。

    和気氏の元祖「鐸石別命」は、河内国の高尾山に葬られたとある。この神護寺は、山背国高雄山にある。偶然の一致であろうか。
  • 和気氏の氏寺は、京都高雄にある「神護寺」である。
    この寺の境内に清麻呂を祀った霊廟がある。これが後年になって「護王神社」となり、さらに1886年に遷座して、京都御所の蛤御門の側にある「護王神社」となったのである。

    780年に清麻呂は光仁天皇に神願寺の建立を申し出ている。781年桓武天皇はこれを許可したとされている。ところがこの寺の場所は未だ不明である。諸史料から間違いなく神願寺は建立されたようである。(河内国内説がある)
    ところが802年に高雄山寺が和気氏の氏寺として、史料に出てくる。そして805年唐から帰国した最澄を和気広世がこの高雄山寺に招いて灌頂式を行っている。和気氏が最澄の強力なパトロンとなったのである。奈良仏教ではなく、全く新たな息吹のする仏教である。

    次いで遣唐使として唐に渡り、最澄より遅れて806年に帰国してきた空海は、808年まで太宰府の観世音寺におり、809年52嵯峨天皇が即位すると、和泉国槇尾寺に入り、7月になって入京し、前述の高雄山寺に入った。
    811-812年にかけて山背国乙訓郡長岡郷にあった「乙訓寺」(京都府乙訓地方で現存する最古の寺。文献上の初出は785年の藤原種継の変の時、早良親王が幽閉された寺である。)の別当をした後、812年高雄山寺に戻った。これを支援したのは、清麻呂の5男真綱・6男仲世兄弟だった。どうも長男はこのころは他界してたのではないかと思われる。空海はこの寺を拠点として真言密教の本格的な活動をした。

    824年に高雄山寺は神願寺と合併した形で「神護寺」となり定額寺となった。初代住職が空海である。要するに和気氏は平安仏教の2大教祖である「最澄」「空海」をその非凡な才を見抜き育てたのである。
    これに和気広世・真綱・仲世ら兄弟の妹が遣唐大使藤原葛野麻呂の妻となり、その縁で空海・最澄の支援に結びついたのであろう。

    空海と葛野麻呂の縁は遣唐使船が同一で中国に漂着した時、空海が素晴らしい漢文を作成して「葛野麻呂」の窮地を救ったという話は有名である。
  • 藤原葛野麻呂(755-818)
    ①父:小黒麻呂 母:太秦嶋麻呂女
    ②妻:和気清麻呂女(後妻?) 子供:氏宗 ・常嗣  妹:桓武天皇妃
    ③785年従五位下。
    ・784年藤原種継・父:小黒麻呂らが山背国乙訓郡長岡村の地を相す。
    父小黒麻呂中納言となる。
    ・793年父小黒麻呂ら山背国葛野宇多村の地を相す。父造宮使長官(造宮大夫)となる。
    葛野麻呂もこの時左少弁として造宮に関与しはじめている。
    ・794年父小黒麻呂(733-794)没。和気広世とともに造京判官となる。
    ・796年和気清麻呂造京大夫。
    ④801年遣唐大使任命される。804年渡唐。最澄・空海も一緒。
    805年帰国。従三位。
    ⑤806年参議。式部卿。
    ⑥808年中納言。809年正三位。
    ⑦「弘仁格式」編纂
     
    藤原氏宗(810-872)
    ①父:葛野麻呂 母:和気清麻呂女
    ②兄弟:常嗣(796-840)
    ③正三位右大臣。「貞観式」撰上。
  • 和気広世
    ①父:和気清麻呂 母:不明
    ②長男?子供:家麿(養子?)宗世(守世)・貞臣・豊永
    ③延暦4(785)年「事に坐して禁錮」の記事。
    ③794年造京判官となる。この前後に菅野真道・藤原葛野麻呂と一緒に平安京の「造京式」作成の記事(従五位下)。
    ④799年広世奏して亡父の志をつぎ私墾田100町をもって和気郡以下八郡百姓の賑救田にあてた。
    ⑤広世の世話で最澄はじめて高雄山寺に法華会をひらく。
    ⑥805年天台法文を写す。
    ⑦宇佐使。式部大輔。大学頭。文章博士。正五位下。弘文院(一族の大学)を建てた。
  • 1874年 神護寺の境内にあった清麻呂を祀った廟は「護王神社」と改称され別格官幣社となり
    1886年明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座した。

    猪伝説
    大隈国へ配流の際に宇佐神宮に参詣したおり、猪により難事が救われたとされている。護王神社・和気神社では狛犬ではなく狛猪がある。戦前の10円紙幣の表面に「和気清麻呂肖像」裏面に「猪」が描かれていた。
  • 554

    百済、中部木刕施徳文次、前部施徳曰佐分屋らを筑紫に遣して、内臣の佐伯連らに、救援軍の要請。佐伯連、1000人、100匹・船40隻で百済に詣る。
     

    556

    蘇我稲目、倭国の兵をつけ百済王子の恵を百済に護送

    讃岐の秦氏からは、空海の弟子で太秦広隆寺の中興となった道昌や、東寺の長者や仁和寺の別当などを歴任し空海のために弘法大師の号を奏上した観賢が出ている(観賢は大伴氏という説もある)。

     

     


  • 『以呂波字類抄』という古文献の「本朝事始」の項

    倭武皇子(やまとたけるのみこ)が宇陀の阿貴山で漆の木をみつけ、漆を管理する官吏を置いたという記述があり、また倭武皇子が宇陀の山にきて木の枝を折ったところ手が黒く染まり、その木の汁を家来たちに集めさせ持参の品に塗ったところ美しく黒光りした。そこで漆の木が自生している宇陀郡曽爾郷(今の宇陀市曽爾村)に「漆部造(ぬりべのみやつこ)」を置いたという。これが日本最初の漆塗の伝えである。
     宇陀の地には紀伊に入った秦氏が古くから移り住んでいた。右の伝承の「漆部」(ぬりべ)とは漆器製作の職掌の品部であり漆部連(ぬりべのむらじ)や漆部造(ぬりべのみやつこ)が伴造(とものみやつこ)として支配した。伴造の主なものは渡来系氏族があるが、この宇陀の地では秦氏以外に考えられない。
  • 藤原葛野麻呂(かどのまろ)
    空海と藤原氏の親和関係を語るのにこの人を落とすわけにはいかない。
     葛野麻呂の父は北家の藤原小黒麻呂(おぐろまろ)で、母は秦氏系の(太)秦嶋麻呂(はたのしままろ)。小黒麻呂は、桓武天皇の信認厚く、側近として桓武政権を支え、大納言の地位まで上った人で、かれの妻の出自の秦氏が根拠地として展開する山背国葛野郡にほど近い乙訓郡長岡への遷都(長岡京)を強く推進した。

    小黒麻呂とともに長岡京造営に奔走したのが式家一門の藤原種継(たねつぐ)であった。彼の母も、秦忌寸朝元(はたのいみきあさもと)の娘で、秦氏である。種継は、桓武から長岡京造営長官に任じられ、山背国葛野郡の秦足長(はたのたりなが)や大秦宅守(おおはたのたくもり)ら秦氏一族の協力をえて着々と遷都を進めていたが、延暦四年(七八五)、造営の監督中に矢で射られて殉死した。
     首謀者として、すでに死亡していた大伴家持が官籍から除名され、大伴氏・佐伯氏をはじめとする官人が多数斬首・配流された。しかし、それでは終わらず、南都の国家仏教勢力の力に嫌気した桓武が南都の仏教勢力から離れようと遷都を企てたのに対し、東大寺や大安寺などの仏教勢力や宮中の祭祀を司る大伴・佐伯といった遷都反対勢力に、桓武の実弟で皇太子である早良親王がそそのかされ謀反を画策したとして濡れ衣を着せられ、長岡の乙訓寺に幽閉されたのである。その乙訓寺こそ、後に空海が別当に任じられ、早良親王の怨霊が漂うまま荒廃していたのを復興した寺で、そこに比叡山の最澄がたずねてきて、(伝法)潅頂の受法を乞うた舞台である。

    葛野麻呂
    妹の上子(かみこ)が桓武の後宮に入っている。そのおかげでか栄進の道を進み、延暦23年には遣唐大使を命じられ、空海も乗った第十六次遣唐使船で唐に渡った。途中、東シナ海での遭難から長安に到着するまでの道中、かれは何度も空海に苦境をたすけてもらった。翌年無事帰国すると、参議・式部卿に任じられて天皇の近くで重用され、さらに中納言にもなった。

    彼の妻は、最澄の兼務住寺である高雄山寺を氏寺にもつ朝廷氏族和気清麻呂(わけのきよまろ)の娘である。和気清麻呂が道鏡の宇佐八幡神託事件で配流の憂き目に会ったことは先に述べたが、その後は桓武朝に復活し、とくに平安京遷都を桓武に強く進言し、遷都にあたっては造営大夫として活躍した。配流の身から天皇の側近にまで栄進したのである。しかし、桓武に取り入り平城京廃都を押し進める清麻呂に対し、南都の仏教勢力はおもしろくなかった。
     空海が、大宰府観世音寺での滞留義務を解かれて、和泉の槇尾山寺を経て高雄山寺に入る時、住持だった最澄は空海の高雄山寺入山を快く認めて引き下がった。最澄を説得したのは、最澄の天台に反対する南都仏教勢力の勤操らだったというのだが、陰の主役は葛野麻呂ではなかったか。
  •  阿刀氏は学問を以てなる家柄だったらしく、大和国高市郡出身で元正・聖武両天皇の内裏に供奉した法相宗の義淵や、義淵の弟子で入唐留学経験をもつ法相の玄昉や、玄昉の弟子(実子だという説もある)で法相宗の六祖に数えられる著述家の善珠といった学問僧のほか、空海の叔父で桓武天皇の皇子伊予親王の侍講をつとめた大足(おおたり)や、『日本紀』『続日本紀』の編纂局「撰日本紀所」に出仕をしたといわれる安都宿禰笠主(あとのすくねかさぬし)や、『万葉集』に歌がある安都宿禰年足 (あとのすくねとしたり)や、大学助(だいがくのすけ、大学寮の教授)をつとめた阿刀宿禰真足 (あとのすくねまたり)らがいる。
     また朝廷の官人として「壬申の乱」の際大海人皇子のもとで活躍した安斗連智徳(あとのむらじちとこ)と安斗連阿加布(あとのむらじあかふ)や、称徳天皇に仕えた女官といわれる安都宿禰豊嶋 (あとのすくねとよしま)らが名を残している。

     秦氏の根拠地となった太秦を含む山背国葛野の地に、阿刀氏の祖神饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀る阿刀神社がある。平安京遷都にともない本拠地河内国渋川郡跡部郷から遷されたものである。秦氏と阿刀氏、同じ渡来系の氏族が、山背国葛野の地で共存することになったのである。
  • 高野山造営にあたって、空海が協力要請の手紙を送った土地の有力者というのも、この紀伊丹生氏の当時の当主だったということが、最近研究者によって明らかにされた。その手紙とは、

    古人の説によると、私の先祖太遣馬宿禰は、あなたの国(紀伊国)の祖である大名草彦の分かれであります。一度訪ねたいと久しく考えていますが、あれこれ妨げがあってなかなか志を遂げられず、申し訳なく思っています。今、密教の教えに基づいて修禅の一院を建立したいと考えてきました。その建立の場所として、あなたの国の高野の原が最適と考えます。そのようなわけで上表文をしたため、天皇に高野の地の下賜をお願い致しましたところ、早速慈悲の心をもって裁可の太政官符を下されました。そこでまず一・二の草庵を造立するため弟子の泰範・実恵らを高野に派遣いたします。ついては仏法の護持のために僧俗相共に高野山の開創に助力賜りたく存じます。私は来年の秋には必ず高野に参りたく考えています。
    (『高野雑筆集』)

     ときに、空海が高野山に入山する時に、二匹の犬を連れ狩人の姿をした南山の犬飼いに出合ったという話があり、その犬飼いが狩場明神(高野明神・高野御子大神)だったという伝えもよく知られている

    狩場明神とは、実際は空海と同じ時代の紀伊丹生氏の当主丹生家信という人で、家信の死後、空海が狩場明神として、今の伊都郡かつらぎ町宮本に祀った(丹生狩場神社)という説がある。
  • 欽明十五年(554年)春正月、
    皇子渟中倉太珠敷尊(後の敏達帝)立太子。

    正月九日、百済、筑紫に遣使し、
    内臣の佐伯連に対して、
    「昨年11月百済からの使者に対して、
    『来年の正月には援軍を派遣する』と言ったはずです。
    いったいどうなっているのですか。
    援軍は来るのですか、来ないのですか。
    来るとしたら、兵の数は何名ですか。
    その規模を聞いて予め軍の施設を準備させなくてはなりません。」
    と言った。
    更に改めて、
    「私は天皇の詔によって、
    内臣が筑紫に来て百済に賜う兵を見送る予定だと聞いています。
    このことを聞いて喜んでいました。
    今年の戦いは以前より厳しい状況です。
    できれば正月中に派遣していただきたい。」
    その要請を聞いて、
    内臣(佐伯連)は天皇の勅を受けて返答した。
    「援軍の兵数は1000人、馬を100匹、船を40艘送りましょう。」

    この緊急時に天皇に約束の履行を迫るために、
    百済は筑紫に遣使している。
    内臣(佐伯連)は筑紫に滞在している。
  • 587年6月  蘇我馬子宿禰らは炊屋姫尊を奉じて、詔を出し、佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真噛に命じ 穴穂部皇子と宅部皇子の誅殺させた (用明2年6月8日
  • 景行天皇の皇子、稲背入彦皇子の後裔氏族で、成務天皇の時代に同皇子の子である御諸別命(みもろわけのみこと)が播磨国に封ぜられて以来、氏名を「針間別(はりまわけ)」とし、応神天皇が播磨国に行幸した時に、同国の佐伯部を御諸別命の子である伊許自別(いこじわけ)に伴造として管掌させるとともに、「針間別佐伯直」と改賜姓したが、天智天皇9年(670年)の庚午年籍作成に際して、「針間別」の3字を除いて「佐伯直」と称するようになったという
  • 延暦7年(788年)、平城京に上る。上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在した。(真魚は讃岐佐伯氏)

    紫香楽宮造営司に主典として出向したのを皮切りに以後東大寺や西大寺の造営、長岡京遷都の任に当たるなど主に建築や造営の面で活躍した。特に東大寺造営における天皇の評価は高く、異例の七階の特進をしている。

    天平宝字7年(763年)今毛人は藤原良継、石上宅嗣、大伴家持らと、当時、太師(太政大臣)となり専横を極めていた恵美押勝(藤原仲麻呂)の暗殺を謀議するが、密告により露見。藤原良継が罪を一人で被ったため、今毛人は解官のみで助けられる。恵美押勝は翌天平宝字8年(764年)に乱を起こして滅びている(藤原仲麻呂の乱)。
  • 「空海は天才的な思想家であると同時に、天才的な布教者だと。そして彼はいろんなことが出来た。このいろんなことが出来たというのが、現代人にはちょっと抵抗があるんです。だから、昔はそういうある意味でいうと、万能の天才、ルネッサンス的というのは、空海を神として崇拝する理由になっていたんですけど、明治以後、そういうのはちょっといかがわしいんじゃないかというので、一つの、一筋に繋がる道元や親鸞の方がどうも本当の聖者じゃないかという風潮がある。だけど、私は、空海はやっぱり「密」という、やっぱり「事の中心」ですね。この世界の中心の理を把握して、把握すればいろんなことが可能になってくる。みんなその中心から、全部彼の仕事は出ているような気がしますね。だから片一方で、土木の監督が出来た。」梅原猛
  • 佐伯ノ丹経手 (*)連・にふて。蘇我馬子の将。蘇我馬子の命で宅部皇子を襲撃。息に子麻呂。<孫・大目は天武天皇派。>

    佐伯ノ東人 (*)山背大兄の側近。628年蘇我蝦夷と対立し、巨勢(許勢)大麻呂、紀塩手とともに山背大兄を擁立。

    ⇔佐伯ノ子麻呂 (*~666)連。佐伯丹経手の息。中大兄皇子に協力し殿中にて蘇我蝦夷を殺害する。息に大目。

    ⇔▽佐伯ノ大目 (*)連。蘇我入鹿を殺害した佐伯子麻呂の息。大海人皇子を擁立。

    佐伯ノ石湯 (*)いわゆ。征越後蝦夷将軍。709年任官。出羽(荘内)柵築城。息に伊多智。

    佐伯ノ児屋麻呂 (*~724)陸奥大掾。陸奥「蝦夷の反乱」により殺害される。

    佐伯ノ全成 (*~757)宿禰・陸奥国介・陸奥守・陸奥鎮守副将軍・またなり。東大寺大仏製造用の黄金を献上。749年陸奥介に就任。752年百済王敬福の跡職を継承。753年大伴伯麻呂とともに久米舞の奉納。陸奥守就任。757年陸奥鎮守府将軍就任。橘ノ奈良麻呂から天皇廃位の計画に勧誘される。藤原仲麻呂を排斥する為の「橘ノ奈良麻呂の乱」に連座し失脚。<佐伯一門。>

    佐伯ノ伊多智 (*)衛門少尉・宿禰・伊太智・イタチ。石湯の息。越前に入国し藤原ノ辛加知を討つ。越前入りする恵美軍を撃退。息に佐伯葛城。

    佐伯ノ今毛人 (719~790)参議。佐伯人足の息。兄に真守。763年藤原良継、大伴家持、石上宅嗣とともに仲麻呂暗殺計画。発覚し失脚する。764年仲麻呂失脚により復帰。775年遣唐使。息に金山、三野。

    佐伯ノ三野 (*~779)陸奥守・美濃・鎮守将軍(鎮守府将軍)・佐伯美濃。。764年「藤原仲麻呂」討伐に軍功。771年任官。鎮守将軍。

    佐伯ノ久良麻呂 (*)宿禰・近江介・中衛中将・衛門督・久良万侶。鎮守権副将軍。紀ノ広純の援軍として派遣される。776年任官・陸奥鎮守権副将軍。777年出羽遠征。777年「志波邑の俘囚討伐」に軍功。

    佐伯ノ人麻呂 (*)祖父は尾張守・佐伯大麻呂。息に清岑。

    佐伯ノ清岑 (763~827)きよみね・常陸守・陸奥守。佐伯人麻呂の息。嵯峨天皇・淳和天皇に出仕。811年陸奥守。陸奥出羽按察使・文室綿麻呂と共に蝦夷の爾薩体、幣伊邑の攻略を上申。上野守、常陸守。国司の反感を買い、失政により召喚される。826年「親王任国」が開始される。息に鳥麻呂、鹿継。<皇子を東北に派遣するために、邪魔な貴族は左遷されたのでしょうか。>

    佐伯ノ葛城 (*~789)陸奥介・鎮守副将軍・征東副使。787年任官。

    ⇔佐伯ノ耳麻呂 (*)宿禰・鎮守府将軍・征夷副将軍・陸奥守。809年鎮守府将軍。811年文室綿麻呂の補佐として征夷副将軍。812年陸奥守就任。
  • 空海が紀伊国の有力者に宛てた手紙

    「昔から胡の馬は北風の吹く方に向かって故国をしのび、越(えつ)から飛来してきた鳥は南の故郷をおもって、南の方角へ突き出た枝に巣をかまえるといわれえている。西に沈んだ太陽はふたたび東の空にかえって昇り、東に行ける雲はまた西にかえって空をゆく。ものにおいてもこのようであるのに、どうして人の心にもそうした道理がないといえましょう。
     昔の人から聞き及んでいるのに、私の先祖は太遣馬宿禰(たけまのすくね)はあなたの国の祖である大名草彦(おおなぐさのひこ)の末裔であるとのこと。この故に一度お目にかかりたいものだと、かねがね思っておりました。しかし、いろいろとさしつかえができて、その心の願を果たすことかなわず、残念です。
     
    このたび、教えにもとずいて修禅の一院を建立しようと思います。あなたの国の高野というところが、その教えの趣旨に最もよくかなったところでございます。だから、上奏文を草してその旨を願い出ましたところ、早速に聖帝は慈恩をたれたまい、勅許の官符を下されました。そこで、まず一、二の草庵を造るために、弟子の僧俗あい助けて、開創に力をお貸しいただければ、幸でございます。私は来年の秋には必ず参上いたします。いまだ拝謁のいとまがありませんが、なにとぞ自重自愛されますように。」

    この手紙で佐伯氏の遠祖の太遣馬宿禰が紀伊の国の祖、大名草彦の末裔である事を述べて、同族の故に高野山開創の支援を請うています。
  • 空海が求聞持法の修行時代に
    訪れた紀伊の国の高野山

    弘仁七年(八一六)六月十九日に空海が嵯峨天皇に提出された上表文


    空海、少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地あり。名付けて高野と曰う。計るに紀伊国伊都郡の南に当たれり。四面高嶺にして、人蹤、蹊道絶えたり。今思わく、上は国家の奉為に、下は諸々の修行者の為に、荒藪をかり夷げて、聊か修禅の一院を建立せん。
  •  『今昔物語集』によれば、

    弘仁七年(八一六)六月ごろ、
    適地を求めて遍歴中の空海は、大和国宇智郡で、南山(高野山)の犬飼と名乗る猟師から高野のことを聞き、その猟師の二匹の犬に導かれて高野山へと向かわれる。そしてこの猟師は、高野山の地主神、狩場明神だったという。

     次に空海は、紀伊国との境で出会った一人の山人に伴われ、高野の地に到着されたとき、その山人から高野の領地を譲り受けられた。この山人は高野の地主山王(丹生明神)の化身であったという
  • 阿刀家は、司馬遼太郎が想像をするように、土着の家系ではなく讃岐国多度郡きっての長者であった佐伯家が学問の師家として奈良の都から招聘してまもない家だったかと思われる。その阿刀家の阿古屋と佐伯家の善通が結婚し、阿古屋の妹と善通の弟も結婚して重縁の関係にあった。両家がよほどの信頼で結ばれていたことを物語っている。
     真魚は、そうした環境のなかで両親や阿刀家の期待通りに育った。真魚がまだ幼少の頃から長じて都の大学寮で天才ぶりを発揮する時期まで、真魚の学力や言語力に指導的な役割を担ったのは父の実弟阿刀大足である。彼は中央の高級官僚であり漢学者だった。

     貧道、幼ニシテ、表舅ニ就ヒテ頗ル藻麗ヲ学ブ(『文鏡秘府論』)

     後年空海は、叔父の大足について文章と詩を勉強したと述懐している。15才で奈良の都に上り大学寮に入学するまでの3年間、真魚は大足の館や中央佐伯氏の氏寺佐伯院などに止宿しながら大足に漢籍・詩文を徹底して仕込まれた。


     司馬遼太郎は、阿刀家の屋敷跡の伝承が讃岐にはないというが、多度津町の仏母院を知らなかったのであろうか。この寺は今に残る立派な空海伝承の旧跡である。
     多度津町の市街地から西に約2.5㎞、県道21号線から(海岸寺)郵便局のところを左折して南に入り、細い道を少し行くと左にお寺らしいお堂の屋根と隣接する保育園の園舎が見えてくる。仏母院をめざしていくのでなければうっかり通り過ぎてしまいそうな、失礼ながら、閑寂なお寺である。
     車を止めて道の反対側に目を転ずると、小さな不動堂を中心に空海の母の史跡のそれらしい遺物や説明版や石碑がいくつか建っている。ここが阿刀家の屋敷跡で、空海の母阿古屋はこの土地の産土神である熊手八幡神社に子宝授与を祈願して「神の御子」空海を身ごもったという。ここでは、空海は母の実家であるこの場所で産まれたことになっている。
  •  仏母院は八幡山仏母院屏風ヶ浦三角寺と号す。八幡山とは童塚の近くにある山で、産土神の熊手八幡神社の分社を祀る山である。その草創は弘仁年間以後だといわれ、空海と親交のあった嵯峨天皇が空海の母の屋敷跡と聞き、自筆して贈ったという扁額が残っている。

     またここからずっと海べりに鎮座する熊手八幡神社本社のご神体である長鈎(熊手)が伝わっている。仏母院はもともと熊手八幡神社の別当寺であったという。

     『紀伊続風土記』の「熊手八幡縁起」に、

    巡寺八幡宮ト奉ルハ、旧讃岐国多度郡屏風浦ニ御鎮座アリテ、弘法大師ノ産土神ナ    リ。
    御神体ハ神功皇后征韓ノ日、用ヒ給フ所ノ御旗、長鈎ニシテ、皇后凱旋ノ時屏風浦ニ   
    至リ、
    殿ヲ造リテ是ヲ蔵メ・・・・
  • 阿刀家
     空海の父は佐伯直田公善通、母は玉依姫(阿刀氏)。父の弟、大足(おお
    たり)は玉依姫の妹と結婚し、阿刀家の養子となり家を継いだ。阿刀氏は代
    々学者の家系で、幼い真魚(まお)-空海の幼名-は大足から教育を受けた。
    大足は桓武天皇の第三皇子伊予親王の侍講をしており、空海の大学入学や
    入唐に際し、大きな助力をしたことだろう。こうした大恩に対し、後に大足が失
    脚した際、保護し、死ぬまで身辺におき、報いたのです。しかも、その子孫は
    明治初年まで京都東寺の俗別当を代々つとめ、家系は現当主:阿刀弘文氏
    に至っている。空海が阿刀家を千二百余年にわたり、庇護してきたといえない
    だろうか。
  •  四国霊場八十八ヵ所の謎
     四国霊場八十八ヵ所巡拝がいつ頃始まったか、高弟の真済が空海入定後、
    遺跡を慕って歩いたのが始まりといわれ、西行の《山家集》などにもみえ、古く
    からおこなわれたことがわかる。

    四国霊場をお参りする人を遍路という。何故人はお遍路さんになるのか・・・。

    空海入定の時、

        『居ヲ高野ノ樹下二トシ  神ヲ兜率ノ雲上二遊ス 
         身ヲ百億二ワカチテ   諸所ノ遺跡二分身散影ス』

    と述べている。
  • 物部氏系の史書である『先代旧事本紀』では、饒速日命(物部氏祖神)の孫・味饒田命(うましにぎたのみこと)を祖とすると伝える。

    『太子伝玉林抄』所引の『新撰姓氏録』左京神別阿刀宿禰条逸文によれば、大和国城上郡椿市村(奈良県桜井市金屋)にも阿刀連があったという。

    このように阿刀氏は物部氏(のち石上氏)と同祖伝承を有している。その氏名は物部守屋の別業があったと伝えられる阿都(のちの河内国渋川郡跡部郷、現在の大阪府八尾市跡部周辺)の地名に基づくとされる。

    また、人物の初見が天武天皇元年(672年)であることから、その頃に物部氏から分派したという説がある。

    居住地としては山背国愛宕郡(京都市東北部)、山背国相楽郡(京都府相楽郡)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市・池田市・箕面市周辺)が知られ、上記の様に『新撰姓氏録』には左京、山城国、摂津国、和泉国に居住が見られる。
  • July 2016 編集されました
    阿刀神社
    右京区の丸太町通り広沢南野町交差点東の住宅街の中にあります。ご祭神は、天照皇大神、味饒田命(うましにぎたのみこと)。見落としてしまいそうな小さな神社ですが、式内社であり、明治初期までは大神宮社でした。味饒田命は、物部の祖とされる宇摩志麻遅命の息子です。つまり、饒速日命(天照国照彦天火明饒速日命)の孫にあたります。


    阿刀氏の史書上の初見は天武元年、壬申の乱の時です。 大海人皇子(のちの天武天皇)が吉野に脱出した際につき従った舎人の一人。このときの功績で宿禰の姓となりました。また、物部守屋の別邸があったとされる地が河内の阿都です。


    阿刀氏は、弘法大師=空海の母(阿古屋=玉依姫)の氏族でもあります。 空海の俗名は佐伯真魚(まお)です。父は佐伯善通。母は阿刀氏の出の阿古屋。空海の語学(漢詩・漢文)の師匠でもあった叔父の阿刀大足は佐伯善通の実弟で、阿古屋の妹と結婚して阿刀を継ぎました。阿刀大足は長岡京で桓武天皇の第三皇子伊予親王の侍講でした。
  • 東寺の境内北の住宅地に小社の石上神社(いそのかみじんじゃ)があります。正式には石上布留社(いそのかみふるしゃ)というそうです。 祭神は本社に石上布留御魂(いそのかみふるのみたま)、相殿に阿刀大神(あとおおかみ)を祀っています。東寺の石上布留社の創建の詳細は不明。宰主は、阿刀家が務め、ここに祀るのは、空海の母の実弟、初代執行の阿刀大足以来の慣例によるものだということです。 末社に三輪、伊勢、賀茂、岩清水、二天夜刃、役小角、稲荷、弄鈴(なるこ)、王仁(わに)、空海大神が祀られています。
  • 空海、故伊予親王追善供養の願文を草する

    桓武天皇の皇子伊予親王は、大同2(807)年に母藤原吉子と共に大和飛鳥の川原寺(弘福寺)に謂れのない謀反の首謀者に仕立てられて幽閉され、毒を仰いで死んでしまいました。

    伊予親王は嵯峨天皇の異母弟であり、空海の叔父の阿刀大足は伊予親王の家庭教師でもありました。
    この非命に倒れた二人の幽魂を弔うための法会を営んだ時、空海は願文を草しました。

    槇尾山寺に入った空海は、唐から持ち帰った経巻等を整理しつつ、金剛頂経系密教(金剛界)と大日経系密教(胎蔵界)の二つの密教思想を一つの体系に創り上げる(「両部不二」)という教義を発展させる作業をしていたと考えられています。

    また、この時期、大学入学前の空海の家庭教師を勤めた叔父阿刀大足が空海の元に身を寄せることとなっていました。
    藤原家の内紛に発する事件で、伊予親王が謀反人とされてしまい、伊予親王の侍講(家庭教師)であった阿刀大足も都を脱出したのでした。
    とばっちりを受けた上に、政治犯に近い立場となった阿刀大足は行き場を失い、槇尾山寺の空海を訪ね、庇護されることとなったのです。

    阿刀大足は830年(天長7年)に87歳で亡くなるまで、空海の側で俗別当(事務長)のような仕事をしていました。
    その後、阿刀家は京都の東寺の俗別当を代々務めて、それは明治時代にまで到ったそうです。
  • 阿刀氏は仏教界の指導者を輩出、
    法相宗、善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄昉も「玄昉姓阿刀氏」と書いているこ
    空海の活躍と同時期、奈良時代後期から平安初期にかけて法相宗を隆盛に導いた法相六祖の僧侶の一人、大和国出身の善珠に注目です。八世紀の終わり、南都六宗では経典暗誦よりもその解釈を極めることが重要視され、その結果、経典の釈義に長けていた法相宗が他宗を圧倒するようになりました。当時、法相宗のリーダー格であった善珠は、朝廷とも深い関わりを持ち、皇太子安殿親王の厚い信頼を受けていただけでなく、殉死した早良親王とも交流がありました。また、秋篠寺を開基し、そこでは後世において法相宗と真言宗が兼学されることになります。
    この善珠こそ、法相宗法脈の頂点に立った玄昉の愛弟子であり、しかも玄昉が護身を勤めた藤原宮子との間にできた子とも言われています。そして善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄昉も「玄昉姓阿刀氏」と書いていることから、ともに阿刀氏の出であることが伺えます。さらに「東大寺要録」を参照すると、玄昉の師である義淵(ぎえん)も阿刀氏なのです。つまり義淵から玄昉、そして善珠と引き継がれてきた法相宗の法脈は、まぎれもなく阿刀氏によって継承され、奈良から平安時代初期にかけて、その宗教政治力は頂点を極めました。
  • 法相宗の流れをくむ学者の一人が、空海の母方の伯父である、阿刀大足です。彼は朝廷において桓武天皇の子である伊予親王の侍講を勤めただけでなく、空海にも教えていました。つまり伊予親王だけでなく、空海も阿刀大足を通じて法相宗の僧侶らと親交を深める機会があったと考えられます。それゆえ、空海は南都六宗のありかたを批判することはあっても、友好的な関係を保ち続け、後に高野山を開いた際も、穏やかに聖地を構えることができたのです。
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