伊曽乃神社、和気氏、武国凝別命

July 2017 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書
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伊曽乃神社(いそのじんじゃ) 愛媛県西条市中野に鎮座する神社である。「磯野」と表記されることもある(『三代実録…

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コメント

  • 有名な「倭建」の皇子「十城別」から「伊予別」が発生し、伊予国の和気氏はこの流れである。「武国凝別命」からは「御村別君」が派生している。別子銅山はこの流れが開発したとされている。
    他に「別君氏」がおり、この流れは途中「因支首」姓を名乗るが、和気公姓となり、「和気公宅成」と空海の妹または姪と言われる娘との間に「円珍僧都(智証大師)」という名僧を輩出した。円珍は唐に渡った後、延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、寺門派の拠点とした。円珍の祖父「道善(別名:道麿)」は、四国88ケ所真言霊場76番「金蔵寺」の開基者である。その弟とされる「道隆」は、同77番札所「道隆寺」の開基者である。
    空海と讃岐和気氏の深い関係が窺える。
    「神櫛命」の流れは「讃岐国造」となり、桓武天皇時代に讃岐公となり「従五位下・讃岐公永直(783-862)」という人物は、中央で活躍し、820年代に有名な「令義解」を編纂したとされている。その子供らの世代864年には、和気朝臣姓となったとされる。この流れは後世武士「寒川氏」「十河氏」などを輩出したとされる。
  • 武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)は、記紀などに伝える古墳時代の皇族。武国凝別皇子。景行天皇の第12皇子。母は阿倍氏木事の女・高田媛。伊予国平定のために派遣され、神野郡(後の新居郡、現在の愛媛県新居浜市・西条市他)に拠点を置いたと伝える。子孫も地方各地へ広がり、「別」の子孫が治めたということから別子という地名が生まれた。その御霊は拠点地付近に建立された伊曽乃神社に代々篤く奉られている。西条市朔日市に鎮座する風伯神社はその当時、命が海上守護のために、龍田の神(風神)を奉祀したことによると伝えられている(龍田神社は、のちの官幣大社であり朝廷の崇敬も深かった)。なお、飯積神社のご祭神のうちの一柱、十城別王は武国凝別命の御孫である(『和気系図』)。また、円珍(智証大師)の自筆である『円珍俗姓系図』(承和年間、園城寺蔵、国宝)は、「景行天皇─武国凝別皇子」に始まる竪系図として貴重であるが、それによれば、後裔氏族として御村別(みむらわけ、伊曽乃神社社家)・因支首(いなきのおびと)・和気公(わけのきみ)などが伝えられ、円珍自身も和気公の一族であった(俗名を和気公広雄)ことが知られる。
  • July 2017 編集されました
    讃岐の和気氏の道隆寺と空海
    天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。 そして、第3世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第4世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第5世の聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となり大いに栄えた。 しかし、貞元年間(976年から978年)の大地震による被害や、康平3年(1060年)の兵火や、天正の兵火による災難にあって興亡を繰り返した

    佐伯 田公(さえき の たぎみ)は、奈良時代から平安時代初期ごろにかけての人物。姓は直。播磨国造の一族で、多度郡擬大領・佐伯男足の子とする系図がある。官職は多度郡少領
  • 76番札所「金倉寺」

    天台寺門宗の開祖「智証大師円珍」生誕の地といわれています。
    幕末から明治期に活躍した軍人「乃木希典」が、香川県の陸軍師団に赴任した際に宿舎としても使われていたお寺です。


    善通寺市街を通って約4kmの田園地帯のお寺へ

    お大師さま生誕の地である75番札所「善通寺」参拝後、「東院」の東側にある赤門をくぐって、「赤門筋」を東に進んでいきます。
    しばらく進むと、JR土讃線の線路があり、JR善通寺駅の近くから北方向に進路を変えると、このあたりの地域には田園住宅地が広がっていて、のどかな遍路道を歩きます。

    「善通寺」から約4kmほど進むと、次の77番札所「金倉寺」に到着です。
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