阿部氏と越、粛慎 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
阿部氏と越、粛慎 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

阿倍比羅夫
阿倍氏は河内の生駒山脈の麓から摂津の阿倍野に居住していた豪族の子孫といわれており、阿倍比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)の時代、一族は分立して「布施臣」と…

Read the full story here


タグ付けされた:

コメント

  • 讃岐 引田城
    城の起源は遠く、天智天皇の六年(667年)十一月、屋島築城のとき、「阿部比羅夫」率いる引田氏によって築城したものであるとも云われ、また、屋島城(軍団)との連絡のために出来た「狼煙台」として造られたのが城の始まりになったとも云われている。

     この城が、内海の要塞として、代々の城主、四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏などにより改修が加えられ、近世の城として体裁を完備していったが、元和元年(1615年)の一国一城令により、廃城となり、今は、山上に石垣・土塁、そして空掘等を残すのみで、城郭としての規模はわからない。
    しかし、引田の住民はこの城を拠点として、
    事ある時は軍船を操り、水軍の衆として大活躍をなし、平時にあたっては、内海はもとより、朝鮮・支那の遠海に運航し、特に、永正年間大内氏と結び、近くは堺・兵庫、遠くは台湾・呂宋まで渡航して貿易に従事し引田港の全盛を将来した。
  • 「阿閉」氏は、その本貫の地を大和に近い三重県の上野(伊賀国 阿拝あへ郡)におき、蘇我氏に関わる一氏族として、「日本書紀」、「新撰姓氏録」に朝臣に名をつらねる人物が輩出しており、また「元明天皇」となる「阿閉あへの皇女みこ」の乳母である人物も氏族の女性であった、ことを述べます。

    つまり、「阿閉」氏は、長きに亘る大和朝廷の地方支配の一つである所謂「日本書紀」の「崇神天皇」の条にある、「四道将軍」の一人「大彦命」に、従い主に糧食の部門を担当、北陸道に進出しその沿道に子孫を残した。

    また「阿閉」氏は、一族の出自は朝鮮と関係が深く、「日本書紀」の記述にもあるように任那との渉外に従事し使者となり、それに関連して供膳を職掌として職を与り天皇の側近で奉仕した。その出自から外交に携わり、朝廷の政治の一局面を支えるため、神がかりの託宣にも関わった。更に新嘗服属儀礼に、そして祭祀・卜占にも従った。
  • 阿倍氏

    阿倍ノ人 (*)臣・比等・毘登。阿倍の布施家。587年「丁未の乱」に物部ノ守屋を滅ぼす。

    阿倍ノ鳥 (*)臣・鳥子。阿倍の布施家。608年遣隋使の返礼使・裴世清の取次ぎ。物部依網抱とともに接待。息に倉梯麻呂(内麻呂)。

    阿倍ノ倉梯麻呂 (*~649)内麻呂・麻呂・阿倍臣・左大臣。阿倍の布施家。阿倍鳥子の息。蘇我氏と結ぶ。645年の政変後に左大臣。

    阿倍ノ御主人 (635~703)布施・普勢・右大臣・みうし。阿倍の布施家。左大臣・倉梯麻呂(内麻呂)の息。672年「壬申の乱」に軍功。息に広庭、人主。<河内の布施に通じるか。>

    阿倍ノ広庭 (659~732)中納言。御主人の息。阿倍の布施家。


    阿倍ノ比羅夫 (*~*663?)阿倍・引田臣・越国守・後将軍・筑紫太宰帥。阿倍の引田家。阿倍ノ目の息(もしくは浄足の息)。658年奥州遠征。663年唐・新羅連合軍に敗北した百済の援軍として朝鮮渡海。663年「白村江の合戦」に敗走。息に宿名麻呂、引田広目、安麻呂、船守。

    阿倍ノ宿奈麻呂 (*~720)大納言・少麻呂。阿倍の引田家。比羅夫の息。

    阿倍ノ仲麻呂 (698~770)阿倍船守の息。阿倍の引田家。比羅夫の孫。717年多治比県守に同行し唐に渡る。長安にて科挙に合格。玄宗皇帝に出仕。唐にて客死。73歳。

    阿倍ノ帯麻呂 (*)意比麻呂・美作守。阿倍船守の息。阿倍の引田家。比羅夫の孫。仲麻呂の弟。殺人の罪で投獄される。

    阿倍家麻呂 (*)(安倍)・宿奈麻呂・石見守。小嶋の息。780年「宝亀の乱」に征東大使・藤原継縄に従い、出羽鎮狄将軍となり任地に赴く。781年上野守。789年石見守。息に黒人。
  • 阿倍比羅夫の遠征
     『紀』によれば、越国守阿倍比羅夫は、斉明天皇四・五・六年の三か年にわたって「蝦夷」・粛慎を討った(編七二・七四・七五)。しかし、実際は一回ないし二回であったとの説もあり(村尾次郎『律令財政史の研究』・坂本太郎『古事記と日本書紀』著作集二、など)、また遠征の到達点、粛慎の性格についても多くの説があって、明らかにされてはいない。
     まず阿倍比羅夫の出自であるが、「阿倍引田臣比羅夫」の記載から、比羅夫の本拠地を敦賀の疋田と考える説もあったが、比羅夫はのちに筑紫大宰帥になっており、これは中央豪族でなくては任じられない。「越国守」とされるが、『紀』にみえる律令制以前の国司や国守はのちの令制下の国司や国守と違い、臨時に任命された派遣官であった。大規模な「蝦夷」経略を行う場合、有為な人材であれば、北陸道総督ともいうべき越国守に任命することはありえたと考える。比羅夫の業績は、そうした意味での越国守にふさわしい。注目すべき点は、斉明天皇六年の戦いにおいて、能登臣馬身竜が従軍して戦死していることである。おそらく能登の国造であった能登臣が、比羅夫の指揮のもとに従軍していることは、比羅夫が越の総督の地位にあった証左と考えられる。
     比羅夫は水軍一八〇ないし二〇〇艘を率いて北征したが、そのための造船はもとより、兵員や食糧の調達は莫大なものであったろう。その負担に堪えたのは、おそらく能登・加賀を含む広義の越前が主だったであろう。
     比羅夫の遠征軍は、斉明天皇四年に齶田・渟代を平定、渡嶋の「蝦夷」をも綏撫して帰還した。この年にまた、比羅夫は粛慎を討って帰還した。同五年には、飽田・渟代二郡の「蝦夷」のほか、津軽郡・膽振「蝦夷」を饗応し、進んで肉入篭に至り、後方羊蹄に郡領を置いて帰った。同六年にも、渡嶋の「蝦夷」を味方として、幣賂辨島の粛慎と戦った。能登臣が戦死したのはこの時である。齶田(飽田)・渟代は秋田・能代にあたり、津軽郡は津軽半島のあたりであろう。渡嶋・粛慎・幣賂辨島については明らかでない。
  • 阿倍
    記紀伝承にはないものの、神楽の「塵輪」や「八幡宮縁起(島根県那賀郡雲城村八幡宮所蔵)」に登場する仲哀天皇の腹心、安倍高(竹)丸と助丸あたりが、この時代に当て嵌まる。この高丸、「塵輪」では英雄なのに、「諏訪大明神絵詞」などには、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ・平安初期の武人。征夷大将軍となり、蝦夷征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立。本姓・東漢氏(758~811))をてこずらせた悪者として登場している謎の人物だ。時代も全然合わないし、どうも蝦夷の王という観点から、奥州の安倍氏の人だと思われる。

    また、「吉志舞」の吉志は吉師(大和朝廷で、外交・記録などを職務とした渡来人に対する敬称。後に姓の一つとなる)で、阿倍氏は吉師部を統率していた伴部と考えられる。吉師氏は、大阪府吹田市に本拠を持つ豪族で、JR京都線の吹田駅の一つ京都よりに「岸部(きしべ)」とう地名が残っている。岸部駅北西の名神高速道路南側に紫金山という丘陵地があり、その麓に座す吉志部神社が奉斎社で、祭神は、天照大神・八幡大神・素戔嗚大神・稲荷大神・春日大神・住吉大神・蛭子大神の七神
  • September 2018 編集されました
    記紀は、難波の吉師氏の祖は、仲哀天皇の長男忍熊王(おしくまのみこ)の腹心の部下で、応神&神功の軍に攻められて一緒に入水自殺した、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)としている。この人は、天穂日命→天夷鳥命の子孫で、出雲国造(出雲大社社家、祭神:大国主命)・土師連(菅原氏・大江氏)、武蔵国造(氷川神社社家、祭神:素戔嗚尊)と同族だ。しかしながら、この阿倍氏の系図によると、大彦命の子に、波多武日子命(はたたけひこのみこと)という人がいて、この方が難波吉士(なにわきし)三宅人の祖となっている。

    阿倍氏と吉師の関係を結ぶのは「難波」の地だ。難波の住吉のすぐ側に、何故に阿倍野の地名があるのか? 古事記は五十狭茅宿禰を「難波の吉師部の祖」とハッキリ書いている。子孫には、三宅吉師の祖となった、三宅入石もいる。

    出雲国造と同祖の五十狭茅宿禰は名族の出過ぎる。それに、この阿倍氏の波多武日子命の妹、御間城姫命が産んだ11代垂仁天皇の和風謚号は、なんと「活目入彦五十狭茅命」という。当時の皇子は、母方の乳部の名をもらうことが多く、垂仁天皇は「五十狭茅」という名を阿倍氏から貰った可能性が高い。とすると、吉師氏の五十狭茅宿禰と阿倍氏の波多武日子命は同一人物なのだろうか? そうでないとしても、かなり近い間柄だと言えるのではないだろうか
  • 穂高神社で行われる御舟祭は、百済のために白村江の戦いで戦死した安曇比羅夫の命日であり穂高神社若宮に安曇連比羅夫命として祀らていれる。
  • October 2018 編集されました
    668年の高句麗滅亡後、高句麗に与して唐に反抗した靺鞨の一部などとともに営州(遼寧省)に移させられた。

    靺鞨は、高句麗に服属し、後に高句麗遺民と共に渤海を建国した南の粟末靺鞨と、後に女真族となり金国、清国を建国した北の黒水靺鞨とに二分される。多賀城碑でいう靺鞨は、黒水靺鞨の支流で、樺太経由で氷上を渡るか、直接舟による北海道への渡海と考えられる。
    靺鞨にとって松花江は、母なる大地を養う重要な大河で、源は長白山に発し、嫩江(ノンチャン)・牡丹江(タンチャン)を併せて臨江(リンチアン)で黒龍江に合流する。その流域は東北平原の北部をなし、狩猟・農耕に適したため古くからツングース系民族の居住地となっていた。またその川は、唐代には粟末水、遼代には黒水と呼ばれ、女真族が松花江と呼んだ。

    690年に唐で武則天が即位すると、内政が混乱を始める。696年、この動揺を突いて、同じく強制移住させられていた契丹の酋長松漠都督李尽忠が唐に叛旗をひるがえすと、それに乗じて高句麗遺民らは、部衆を率いる粟末靺鞨人指導者乞乞仲象(コルゴルジュンサン;きつきつ ちゅうしょう)の指揮の下に営州を脱出した。その後、乞乞仲象の息子大祚栄(テ・ジョヨン;だい そえい)が指導者となる。則天武后は、将軍李楷固((チョン・ボソク))をして大祚栄討伐軍を派遣するが、大祚栄は高句麗・靺鞨の部衆を合せて迎え撃ち、これを大破する。大祚栄は高句麗の故地に帰還、東牟山(トンモサン;吉林省延辺朝鮮族自治州【ヨンビョン・ジョソンジョク・チャチジュ】敦化市)に都城を築いた。渤海の都が後に上京竜泉府(現・黒竜江省牡丹江市)に移ると、東牟山の地は「旧国」と呼ばれるようになる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、満州東部に一大勢力を確立し、698年には自立して震国王と称す。


    『日本書紀』によれば、658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに粛慎(あしはせ、しゅくしん、みしはせ)を平らげたとする。
    それは、粛慎の前衛基地の攻略に成功したに過ぎない。粛慎(しゅくしん)について、「転じて其民族の住したる地方の国名となる。 また『アシハセ』とも訓す。 支那には其の名、古くより聞え、按ずるに,比羅夫の征討せしは、大陸にあらずして、 樺太方面に居住する通古斯民族なりしなるべし。 當時唐の勢力強大にして、遠く北方満州地方に及び、 同地方の通古斯民族が、唐人より得たる貿易品の転じて樺太に入り、 更に蝦夷を経て我が国に傳はりしより、蝦夷の北方に別種の民族あること知られ、 かくして比羅夫の遠征を誘致せしものと見るべし。」

    政治の実権を握っていた藤原仲麻呂の子・藤原恵美朝臣朝?(ふじわらのえみのあそんあさかり)が、大陸の渤海国に属していた靺鞨を、ことさら意識しているのはなぜか?比羅夫が接触した粛慎に、他の蝦夷とは違う文化と習俗が見られ、その特異性があった。黒竜江沿岸部の靺鞨・女真文化と深い関わりを予想させる、オホーツク文化の香りがあった。しかし、靺鞨国と渤海国を混同してはいない。神亀4年(727)以降、渤海国は来朝している。しかも多賀城碑が建てられる天平宝字年間(757~765)に来朝していた使節を「高麗使」と呼んでいた。当時の日本は渤海国を高麗国の後裔と理解していた。

コメントするにはサインインまたは登録して下さい。