河内と筑紫の草香江、日下部氏、日奉氏

April 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image河内と筑紫の草香江、日下部氏、日奉氏

九州と大和の日下  くさか 神武天皇の上陸地が河内の「日下(くさか)の蓼津」とされ、河内の「草香江」…

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  • 高良大社

    「三種之神宝者、自草壁党司之事」「草壁者管長先駈諸式令職務也」

    とあり、稲員家が草壁を名乗っていた頃から三種の神宝を司る高良大社でも中心的な家柄であったことがわかる。

    高良大社は三種の神宝のみならず、「神功皇后の三韓征伐譚」(八幡愚童訓等)で活躍する「干珠・満珠」の二つの宝珠も神宝としている。更には七支刀も持っていたのだから、なんとも豪華絢爛、九州王朝の天子の居所にふさわしい宝物群だ。

    この地が九王都であった証拠が高良大社文書『高良記』(中世末期成立)の舞の行事に記されている。

    犬の舞 獅子舞か?

    「大并(高良大菩薩)、クタラヲ、メシクスルカウ人トウ クタラ氏ニ、犬ノ面ヲキセ、犬ノ スカタヲツクツテ、三ノカラクニノ皇ハ、日本ノ犬トナツテ、本朝ノ御門ヲ マフリタテマツルヨシ、毎年正月十五日ニ是ヲツトム、犬ノマイ 今ニタエス、年中行事六十余ケトノ其一ナリ」

    ここで記されていることは、百済からの降人の頭、百済氏が犬の面をつけて正月十五日に犬の舞を日本国の朝廷の守りとなって舞う行事が今も高良大社で続いているということ、初代高良玉 垂命がこの地に都をおいた時期、四世紀末から五世紀初頭にかけて百済王族が守りの舞を舞っている。。

    朝鮮半島側の史書『三国史記』百済本紀に見える。

    「王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(てんし)を以て質と為す。」
    (第三、阿[辛*]王六年<三九七>五月条)
    「腆支王。<或は直支と云う。>……阿の在位第三年の年に立ちて太子と為る。六年、出でて倭国に質す。」 (第三、腆支王即位前紀)
    辛*は草冠編に辛です。
  • 日本書紀:清寧天皇紀:伊予来目部小楯を明石に使わし、雄略天皇に殺害された、市辺押磐皇子の子、億計(おけ)弘計(おけ)兄弟を発見、彼等兄弟は、23顕宗天皇、24仁賢天皇となった。
    顕宗天皇紀(450-487):伊予来目部小楯はその功により山官の役を賜り、姓を山
    部連とした。
    ・弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主-吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。
    ・日本書紀顕宗天皇即位前紀:履中天皇の御子市辺押羽皇子が皇統争いから雄略天皇に殺されることになった時、弘計王(23顕宗)と億計王(24仁賢)を連れて丹波国余社郡に避難した日下部連使主と吾田彦(使主の子)の記事。(日下部氏の初見)吾田彦の名から、吾田(隼人)族と日下部氏関係あり。また、『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”とある。
  • 日下部氏(隼人族)
     火闌降命の後裔にして隼人族なり、仁徳天皇の両日下王(大日下王、若日下王)の母が諸県君牛諸井の娘髪長媛なるに拠り御名代部が日下部を称する。
  • このように日下部氏は河内王朝では嫡子となるべきが殺された分家の血筋を護る立場にいて、鹿児島県の阿多とのかかわりが深かった。というよりもそこの出身だったと見られる。それが伊予(愛媛県)の久米部ともつながりがあり、こちらは山部となった。


    「二王子を逃亡の先々で庇護した人物はすべて山部と関係があった。その最たるものが播磨国の御料地を管理する来目部小楯であったことはいうまでもない。来目部は久米部で薩摩半島の阿多隼人とふかい関わりをもつことはすでに述べた。二王子に最後まで奉仕した日下部連使主の子の吾田彦も阿多隼人を想起させる名である。

    さきの山城国の大住郷の首長であった大住忌寸も山守の名をもっていた。『古事記』の安康天皇の条に意祁・衰祁の二王子は父王が殺されたと聞いて逃げ、「山代の苅羽井に到りまして、御粮食す時、面黥ける老人来て、其の粮を奪ひつ」とある。その老人は山代の猪飼であったという。山代の苅羽井は、隼人の移住地の大住の地であった。そこからこの顔に入墨をした面黥ける老人も異族ではなかったかと想像されるのである。
  • 髪長姫
    日向国は最初、鹿児島県と宮崎県南部を指していた。
    熊本県南部の球磨郡と隣接するのは鹿児島県曽於郡の吾平(あいら)地方=霧島連山の南側一帯である。
    神武の最初の妃となった吾平津比売はここの出身であるので、その子孫であろう髪長媛も霧島に近い出身であろう。
  • 髪長姫、大草香皇子、草香幡梭姫皇女、雄略天皇の妃、日下部連、伊予来目部小楯

    仁徳天皇と日向出身の髪長姫かみながひめとの間に、大草香皇子おおくさかのみこと草香幡梭姫皇女くさかのはたびのひめみこの兄妹がいた。
    仁徳天皇の孫の安康天皇は、弟の大泊瀬皇子おおはつせのみこの皇后として、草香幡梭姫皇女を迎えたいと大草香皇子に打診した。
    安康天皇は、手違いで大草香皇子を殺害し、草香幡梭姫皇女を大泊瀬皇子の皇后にした。
    安康天皇が、大草香皇子の遺子の眉輪王まよわのおおきみに暗殺され、大泊瀬皇子は、兄弟や従兄弟を殺害し、即位して雄略天皇になった。
    父の市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこを殺された億計、弘計の兄弟の皇子は、日下部連使主くさかべのむらじおみとその息子の吾田彦あたひこに連れられて、丹波の与謝郡に逃げ、更に志染しじみの石室いわむろから、志染の天領に向かった。
    日下部連使主は、荷物を全て焼却し、綱を切って馬を逃がし、志染の石室で縊死した。
    二皇子と吾田彦は、身分を隠し、志染天領長の忍海部造細目おしぬみべのみやつこほそめの屋敷で、牛馬の世話などをしていた。
    細目の屋敷の新築祝いがあった。
    その頃、新嘗祭にいなめさいの供物を集めに来ていた播磨国司はりまのくにのみこともちの伊予来目部小楯いよのくめべおだても、この宴に招かれていた。
    小楯は、兄弟に踊れと言った。
    皇子でありながら、屈辱的な日々を送っていた2人は、これ以上、こんな生活は続けられないと決心して、弟王は、舞い歌いながら身分を明かした。
    2人が皇子である事を知り、驚いた小楯は、2人を大和に連れて行った。
    兄弟は、天皇位を譲り合っていたが、弟が即位して顕宗けんぞう天皇になり、兄もその後、即位し、仁腎にんけん天皇になった。
    小楯は、その功績により、本人の望みどおり、吉備臣きびのおみを副官とする山守部やまもりべの長官に任命され、山部連やまべのむらじを名乗った。

    この説話は、記紀と播磨風土記、先代旧事本紀せんだいくじほんぎにある。

    仁徳天皇は、日下部一族を大草香皇子と草香幡梭姫皇女の近侍に定めた。
    つまり、皇后の近侍の日下部が天皇から二皇子を逃がした事になる。
    丹後国風土記によると浦島太郎伝説が丹波与謝郡にあり、日下部はその子孫に当たる。
    日下部連使主は逃亡の際、この縁故を頼った。
    日下部は、もう一つの系譜として、開花天皇の子、彦坐命ひこいますのみことの子孫である。
  • 阿蘇外域、草部吉見神社の由緒が阿蘇祖神、草部吉見神が「筑紫」を鎮護していたと述べる。筑紫の古義とは九州島の総称。古代の或る時代、阿蘇に在った草部吉見神は九州全域をその領域としていたとする伝承があった。

    諏訪の系譜において草部吉見命が、国譲り神話の建御名方命の後とされ、建御雷命が九州北部域の勢力と重なることで、国譲り神話が韓半島に拘わる勢力と、九州中南の狗人勢力との覇権抗争を投影している可能性があった。
  • 畿内勢力の九州への進攻は、景行12年と18年の景行天皇の九州巡幸、景行27年の日本武尊の熊襲征伐、そして、仲哀8年の仲哀天皇と神功皇后の九州遠征がある。いずれも熊襲征討が目的であった
  • 中南九州において、免田式土器の消滅の後は吉備系の特徴的な土器が造られている。景行天皇の九州巡幸において、天皇は熊襲を征伐すべく吉備氏族を率いて九州に入っている。熊襲を討った後、天皇は吉備津彦命の子、三井根子命を肥後の葦北国造に任じている
  •  阿蘇神話の系譜において、古く、阿蘇には神武天皇の御子、日子八井命(草部吉見神)が在ったとされる。のちの紀元76年に神武天皇の孫であり、日子八井命の弟、神八井耳命の御子である健磐龍命(たけいわたつ)が、九州鎮護のため阿蘇に下向する。
     そして、健磐龍命は日子八井命の女(むすめ)の阿蘇都比売命を娶って阿蘇に土着する。ゆえに日子八井命は健磐龍命の叔父であり、義父ということになる。
     健磐龍命と阿蘇都比売命の御子、速甕玉命(はやみかたま)は、崇神天皇の代に阿蘇国造となり、速甕玉命の子、日子御子命(惟人命)が阿蘇大宮司家の祖となる。阿蘇大宮司家は代々、阿蘇を支配し、健磐龍命は阿蘇神社の主祭神となる。

     先に阿蘇に在った日子八井命(草部吉見神)は不思議な存在である。その存在は古事記にしか記されず日本書紀には登場しない。阿蘇神社縁起にも「阿蘇大宮司家の祖は神武天皇の皇子、神八井耳命であり、第二代綏靖天皇の同母兄である。」とのみ記されて健磐龍命の父、神八井耳命が紹介されている。
     もうひとつ。神武天皇の御子、日子八井命と、孫の健磐龍命のふたりが二代に亘って阿蘇に派遣され、阿蘇の氏族に血縁を作ってまで土着してゆく
  •  日子八井命(草部吉見神)は阿蘇において草部吉見氏族という古族を派生させている。そして、阿蘇の系譜を見るとき阿蘇大宮司家を補佐する阿蘇権大宮司家、阿蘇祠官家、阿蘇北宮祝家などの社家はすべて草部吉見氏族である。
     また、阿蘇神社は健磐龍命を主祭神として以下の12神を祀るのであるが、その殆どは草部吉見系の神である。
    阿蘇神社の火の祭典「火振り神事」は日子八井命(草部吉見神)の結婚を祝うものといわれる。また「田作り祭」などの四季折々の農耕祭事は社家、草部吉見系の宮川(山部)一族の祭りであると伝わる。

     草部吉見系の社家には山部と宮川の姓が残る。山部が本姓であるという。普通、名字は在地名を使う。「宮川」は手野の北宮、国造神社の社地を流れる川の故名。宮川はそれに由来する名であろう。
     「山部」は古墳期以降の部民制からきた職掌名。が、部名の始まりや部民となった由縁は地族の特性に由来する可能性があるという。
     民俗学者の谷川健一は山部は応神期に組織されたが、それ以前は独立の集団で山猟に依る民であったとする。
     姓氏家系大辞典は「山部は太古の大族であり、記紀の大山祇神がその長の意、皇室の外戚たる隼人同族。」とする。即ち、隼人の祖が彦火火出見尊の兄、火闌降命であり、その母が大山祇神の女(むすめ)、阿多都比売であった。
  • 草部姓は草部吉見神(日子八井命)の地縁ともみえる阿蘇外域、草部(草壁)郷の名に纏わるともされる。

    日下部氏は各地に存在し、各地に設置された「日」を奉じる「日下(くさか)」の職務の吏役であったともされる。また、開化天皇の皇子、日子坐命の後裔とも、仁徳天皇の皇子、大草香、若草香王の御名代部ともいわれ、その系譜は極めて解りにくい。

    「新撰姓氏録」は日下部氏を阿多御手犬養同祖とし、隼人の祖とされた火闌降命後裔として隼人同族とする。確かに火闌降命の母神、「木花咲耶姫命(阿多都比売)」を奉祭する日向の都萬神社の宮司職も日下部氏であった
  • 古事記の葦原中国平定の段(国譲り神話)において、葦原中つ国の国譲りを迫る武甕槌命に、大国主の子神、健御名方命は戦いを挑む。が、健御名方命は敗れて諏訪に追いつめられる。 伝承では建御名方命が諏訪の湖まで逃れた折、大鯰が現れ、建御名方神を背に乗せて対岸まで渡したとする。

    諏訪大社上社大祝の系譜は、阿蘇の草部吉見命(日子八井命)を諏訪大社の主祭神、「建御名方命」の後とする。
     諏訪大社上社大祝の系譜では、諏訪大社の主祭神の5世孫として「会知速男命(市速男命)」が在り、その女(むすめ)の阿蘇比売命を武五百建命(たけいおたつ、科野国造)の妻とする。そして、御子の速甕玉命が阿蘇国造であるとする。
     阿蘇神話の系譜においては、阿蘇に在った「草部吉見命(日子八井命)」の女(むすめ)、阿蘇都比売命を阿蘇に下向した健磐龍命の妃として、その御子の速甕玉命が阿蘇国造であった。つまり、建御名方命の5世孫の「会知速男命(市速男命)」とは阿蘇の草部吉見命(日子八井命)であるということ。
  • *諏訪大社上社大祝の系譜
    神武天皇 ――┐
    ┌――――――┘
    |┌綏靖天皇
    └┤         (科野国造)
     └神八井耳命…武五百建命(たけいおたつ)
                |┌速甕玉命(阿蘇国造)阿蘇大宮司家祖
                ├┤
                |└健稲背命(科野国造)諏訪大祝家祖
    ┌―会知速男命―阿蘇比売命
    └―――――――――――――――┐
    建御名方命 ――…………――┘

    阿蘇の主神、健磐龍命(たけいわたつ)が別名、武五百建命(たけいおたつ)であり、科野(しなの)国造ともされる阿蘇と諏訪の拘わりがあった。
  • 王城神社 福岡県太宰府市通古賀5丁目

    祭神 武甕槌命(みかづちのみこと) 事代主命
    祭神は事代主神(ことしろぬしのみこと)。末社に早馬(はゆま)神社がある

    王城神社縁起(江戸時代寛政年間)によれば、神武天皇が四王寺山(王城山、大野山)に城を築いた際に、山中に武甕槌命(みかづちのみこと)と事代主命をまつったことに由来するとされる。その後665年、大野城築城に際し、現在の太宰府市通古賀の地に遷されたとされる
  • 天太玉命は忌部首(斎部宿祢)の祖で、阿波・安房の忌部の祖は天日鷲翔矢命で、出雲の忌部と玉作部の祖は櫛明玉命で、筑紫・伊勢の忌部の祖は天目一箇命と伝えて、それぞれ祖神の名を異なって伝えますが、いずれも天孫族の神々であり、その大半が重複します。多くの系譜史料から考えると、「天太玉命=櫛明玉命」で、天目一箇命の近親であり、天日鷲翔矢命はその兄弟で少彦名神と同体と考えられます。

    葛城国造の祖・陶津耳命は天日鷲翔矢命・少彦名神と同神と考えられ、その兄弟として葛城国造の系図に見える都留支日子命(剣彦命の意)は『出雲国風土記』島根郡山口郷条に見えますが、これが天目一箇命にあたるとみられます。『風土記』(平凡社東洋文庫145)で吉野裕氏は、「剣彦命であろう。……採鉄集団の首長の神であろう」と註をつけています。

    経津主神を物部祖神とするのは、多くの傍証事情のほか、近江国栗太郡物部村の勝部神社の祭神事情があげられます。同社は式内社ではありませんが、『文徳実録』及び『三代実録』に「物部布津神」として記載の国史見在社という古社で、物部布津神を主神とし、火明命・宇麻志間知命を祭神にあげます。この三神は

    「物部布津神-火明命(饒速日命を指すものと解される)-宇麻志間知命」

    という物部祖神の歴代をあらわすように受け取られます。
  • 経津主神は、『書紀』に磐筒男神・磐筒女神の子とありますが、「五百箇磐石」が経津主神の祖であるという所伝に関係しそうです。
    経津主神は高天原の使者として葦原中国へ派遣されたとされます。『書紀』では正使が経津主神、副使が武甕槌神とし、『古事記』では正使が建御雷神(=武甕槌神で、中臣連の遠祖)で副使が天鳥船神とされ、両書で所伝が異なりますが、天鳥船神は出雲国造の祖・天夷鳥命(武日照神)と同神とみられますので、出雲国造と物部連とは別の事情(『季刊/古代史の海』誌第22号(2000/12)に掲載の「出雲国造家の起源-天穂日命は出雲国造の祖か?-」を参照)から同祖と考えられますので、「経津主神=天鳥船神」となります。
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/mononobe1.htm
  • 阿波にある大杉神社は、関東・東北地方に分布する大杉神社の総本社であり、祭神は倭大物主神で水上交通の神とされるが、祭神のほうはおそらく訛伝であろう。この神社名に通じる杉山神社が、式内社をはじめとして武蔵の南西部に多く分布し、杉などの木種をわが国に伝えた五十猛神(天孫族の始祖)を主祭神として安房忌部の支族が奉斎した事情があるからである。水上交通の神とは舵取りすなわち香取に通じ、鳥船神に通じる点に留意される。
  • 井上辰雄氏の「大化前代の肥後-部民制を中心として-」(法文論業第一四号、一九六二年)によれば、五世紀中葉には靱負は天皇の部としての性格を有したが、六世紀には九州の后妃の部民の一部が靱負とされることがあったとすべきではなかろうか。」と記されている。

    芦北には、これ以外に日奉部・家部・他田部・真髪部・大伴部があった。
    目奉部(続紀・宝亀元年一〇月)は敏達朝におかれたもので中央の日奉部に属したもので宗教的な貢納に従う部民である。
    他田部(続日本後紀・天長一〇年三月、他田継道)は敏達天皇の他田宮に由来している。家部(続紀・宝亀三年一○月)は、天智三年に置かれたもので、真髪部はもと白髪部で、溝寧朝に置かれたのであるが、延暦四年五月(続紀)に光仁天皇の名の白壁を避けて、真髪に改められた。更に『和名抄』に伴郷と出ているのは、大伴部のことと考えられ、敏達朝に置かれたもので前述の靱負と関係深いものと考えられている。また八代地方には高分部(続紀・宝亀三年一〇月)がみえるが、その詳細は明らかでない。
  • 日下部首とは、神饌姓氏禄(815)に
     「和泉国皇別 日下部首 日下部宿禰同祖 彦坐命之跡也」
    とある氏族で、昔の日下部郷(旧鶴田村・取石村・直石村の範囲という)に居住していたという。なお同族として、山城国・摂津国に日下部宿禰、河内国に日下部連などが見える。
     しかし日下部氏の出自については、
     ・仁徳天皇の御子、大草部王・若草部王の御名代部(皇后・皇子・皇女の名を残すために天皇が定めた直属の部民)・大日下部の後裔
     ・雄略天皇の皇后・草幡梭皇女の御名代・大草香部(大日下部)の後裔
     ・大吉備津彦(吉備氏)の子・大屋田根子の後裔 
     ・孝謙天皇の皇子、表米親王の後裔(但馬の日下部氏のことで当地の日下部氏とは無関係らしい)
    などの諸説があり、出自・事蹟とも謎の多い氏族という。
  • 草部(草香部の略語)と日下部は同意語で、神武天皇東征の故事「孔舎衛坂(くさかえのさか)の戦い」の地「河内国・草香村」の名に由来する。「草香」は古代に「日下」とも表記され、古事記序文には、「日下」を「くさか」と読む旨の注記がある。草香を日下とも記述する理由については、草香の地が難波から見て日が最初に照らすところ(日の下)であるとの説や、大和朝廷成立前の物部王国が草香周辺にあったためとの説がある
  • 「二〇〇九年」に韓国の古代の「百済」である「扶余」の遺跡から「ナ尓波連公(なにわのむらじきみ)」(ナは那の異体字)と書かれた「木簡」が出土しています。この遺跡の年代としては「七世紀中頃」と考えられていますし、そもそも「百済」は「六六〇年八月」に「滅亡」しますから、これ以前の遺跡と考えるられる。

    「ナ尓波連公」というのは「難波連」のことと考えられますが、「書紀」には「難波連」という人物については、「天武十年」(六八一年)年正月に、「草香部吉士大形」に「難波連」という「姓」(かばね)を授けた、という記事があります。

    「天武十年」(六八一年)「春正月(中略)丁丑。是日。親王。諸王引入内安殿。諸臣皆侍于外安殿。共置酒以賜樂。『則大山上草香部吉士大形授小錦下位。仍賜姓曰難波連。』」

     この記事は不明な部分が多い。「賜姓」の理由が不明です。この「草香部吉士大形」に何らかの「功」があったものと考えられますが、「書紀」中には何も書かれていません。また、「賜姓」とありますが実際には「難波」という「氏」も与えられているようです。「姓」は「連」部分だけをいうものであり「難波」というのは「氏族名」です。本来「氏」を新たに与える場合はすでに存在している「氏」名は避けるものです。でなければ「同族関係」が混乱するからです。

     しかし、ここでは、「草香部氏」である「大形」を「難波氏」に変更しているわけですが、これが「昇格」を意味していると言う事から、「草香部氏」は「難波氏」に仕えるような「一支族」であったのかもしれません。
     そして「吉士」に変え「連」を与えているわけですが、「吉士」が渡来系氏族に特有の「姓」であるところから考えて、より「倭国王権」中枢に近い立場(「譜代」的立場)に変更する、という「優遇策」を与えたものと思料します。

    「難波連」という「存在」は「書紀」による限り「六八一年」以前には存在しない「はず」のものであることは確かですから、その「存在しないはず」の「難波連」という名前が書かれた木簡が「六六〇年以前」と考えられる遺跡から出土している。
  • 草野も北野も筑後国御井郡の地名であり、とくに草野氏は筑後の在庁官人で在国司・押領使職を世襲した有力な武家であって、系図に宗家の従兄弟と見える草野次郎大夫永平は、『東鑑』文治二年閏七月条にも見える。草野氏はその先祖を天智天皇御宇の草野常門と伝えるから(「草野系図」)、古代から草野を氏としていたことが知られる。他の地の例から見ると、草野は草壁すなわち日下部に通じることが多く、例えば豊前国仲津郡の蒭野(くさの)郷が平安期には草野荘(福岡県行橋市の草野一帯)となり、この地に日下部氏の有力者が居住していた。このことは『本朝世紀』長保元年(999)三月七日条に見えており、記事には蒭野荘の前検校と見える早部信理(法名寂性)は「日下部信理」の誤記と分かる。筑紫では、筑前国には嘉麻郡に草壁郷、筑後国にも山門郡に草壁郷があって、ともに日下部の居住地であったとみられる。
    このように、筑後にも筑紫国造一族の日下部君が居たから、草野氏の本姓は日下部(姓は君か宿祢)だったと推せられる。日下部氏は筑紫の有力氏族であったから、大宰府の官人にも見える。寛弘八年(1011)十二月の根岸文書に「権少監日下部」、長和三年(1014)の尊勝院文書に「権掾日下部」、永承七年(1052)の大宰府官連署に「大監日下部」と見えるほか、大宰府の観音寺の牒には、寛弘三年(1006)に「検校少弐藤原、別当大監藤原、少典日下部」とあり、長和元年(1012)八月の文書にも「権少監日下部是高」と見える(『観世音寺古文書』)。こうした事情だから、藤原隆家が権帥として在任した時代の大宰府の官人として日下部氏がおり、それが後に筑後や肥前の在国司職を世襲するなかで、藤原隆家の後裔と称するようになったと推される。
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/takagi.htm
  • 日下部の祖

    丹波道主命と川上摩須郎女の間には「日本書記」によれば五人の娘がいた。順に日葉酢媛(ひばすひめ)・渟葉田瓊入媛(たかのひめ)・真砥野媛(まとのひめ)・薊瓊入媛(あざみにいりびめ)・竹野媛(たかのひめ)である。このうち長女にあたる日葉酢媛が11代垂仁天皇の皇后となって三男二女を生んだ。次男大足彦(おおたらしひこ)が12代景行天皇になる。また、四女薊瓊入媛と垂仁天皇の間に生まれた五十日足彦命(いかがたるひこのみこと)が13代成務天皇となっている。この景行天皇の息子が伝説上の英雄日本武尊(やまとたけるのみこと)である。日本武尊は、「記紀」をはじめとして各地の「風土記」にも登場するほど著名であった。なお、丹波道主命と川上摩須郎女の間に生まれた朝廷別命(みかどわけのみこと)は、父道主命とともに比治の真名井原にいて、丹後・但馬に勢力を張った日下部氏の祖をなったと言われている。
  • 朝廷別王」を祭神とする神社は三河宝飯(小坂井町)の多美河津神社、「朝廷別王命」を祭神とする神社は三河宝飯(形原町)の形原神社、それぞれ一社づつの様である。

    『日本の神々10』
    「社伝によると、当社の世襲神主家草鹿砥氏は穂別命の後裔であるという。この一族は穂別命と同族の日下部連の後裔と考えられており、当社は穂国造が奉祭したものと推定されている。」 としている。

    草鹿砥氏は三川の穂別の祖である穂別命(=朝廷別王)の後裔。草鹿砥氏は日下部氏で日下部氏は草壁皇子の養育氏族



    9代・開化天皇―彦坐王―丹波道主命―朝廷別王(三川穂別の祖)
  • 断夫山古墳

    5-6世紀に周辺の海人(当時、伊勢湾は現在より北まで入り込んでいた)に影響力を持っていた尾張氏の首長墓と考えられている。特に、娘である目子媛(めのこひめ)をオホド王(後の継体天皇)に嫁がせた事で天皇の外戚となった尾張連草香(おわりのむらじくさか)が有力視されている。


    高倉明神
    熱田神宮の高倉明神を祀る熱田高蔵宮の奥の宮だったため、
    この一帯を高倉地と呼んでいたらしい。
     祭神が尾張氏の祖神
  • October 2016 編集されました
    橘はおのが枝々なれれども玉に貫く時同じ緒に貫く

    別々のところに生った橘の種で一つのビーズの飾りを作るが如く、橘という氏族が一続きになっているというのがこのワザ歌の意味するところだが、さてここで「橘」として表されている氏族とはどういう氏族なのか。次のように「橘」を名に持つ一群の人物がある。
      允恭皇后忍坂大中姫の娘 但馬橘大娘皇女 
      雄略皇后 草香幡梭姫皇女(またの名橘姫)
      宣化天皇皇后 橘仲皇女 
      天智天皇妃 橘娘(たちばなのいらつめ)阿倍倉梯麻呂       大臣の女
      また用明天皇は橘豊日尊であるが、この名も橘勢力の擁立であることを示している。橘寺などもこの勢力の建立によるものであろう。
      「橘」というのはもともとが但馬守がトキジクノカクノミ、つまり橘を持ち帰ったという伝承に基づくもので、これは難波吉士といわれる人たちが、以来自らの象徴としてきた名である。百済人を引き立てているのは、この橘勢力、つまり難波吉士だと考えられるのである。

    (履中)草香幡梭皇女
    (允恭)忍坂大中姫
    (安康)中蒂皇女(長田大娘皇女)=大草香皇子の妻
    (雄略)草香幡梭姫皇女

    忍坂大中姫は、その皇女に但馬橘大娘皇女、名形(長田)大娘皇女の名があることからして、大中姫の背後に、但馬氏や長田(現在の神戸市長田区)と関係を持つ草香部氏などの難波吉士の存在が認められる。少なくとも履中→允恭→雄略の間の皇妃擁立勢力は、一貫して草香部氏を中核とする難波吉士であり、難波吉士が近江に入って(あるいは近江勢力と関係を結んで)立てたのが大中姫と解される。

    忍坂大中姫の皇子皇女に木梨軽皇子・軽大娘皇女がおり、軽皇子は王位を望んだが失脚している。また弟姫(衣通郎姫)のために茅渟に宮を作ったと『書紀』は書いているが、このことは実際に宮の造営があったというよりは、オシサカの姫と茅渟という地域に一定の繋がりがあることを示すものと解される。
  • October 2016 編集されました
    摂津国菟原郡(西宮市)に河内国国魂神社があり、雄伴郡(神戸市長田区)に凡河内寺山がありこれが氏寺だという。

    この氏の出自については、菟原郡・雄伴郡を本拠としたが、河内へ進出したものとする論者もあるが、直木孝次郎氏は、本来は河内を拠点とした氏族であろうとしている。継体天皇が淀川右岸までヤマト政権の勢力下においたのを契機に、淀川左岸の河内に勢力を有していた河内直が淀川右岸にまで進出した。河内の拡大したものとして凡河内国と称され、河内直は凡河内直の氏姓を得たのであろうという。

      大河内氏の勢力圏が本来、河内~淀川左岸だとすると、これは草香部氏の所在地域と重なっている。草香部氏は古くからの勢力で長田との関係も履中朝からが現れるが、大河内氏は、雄略紀に凡河内直香賜の名が始めて現れる氏族である。草香部氏のいる長田に河内直が入ったのではなく、草香部氏が大河内氏を名乗ったものと見てよいだろう。
      安康紀と雄略紀に次のような話がある。大泊瀬皇子(雄略)の妃に草香幡梭皇女を乞うたが、使いをした根使主が草香部皇子が承諾の徴として差し出した押木珠蔓を横取りした上、草香部氏は皇妃を出すつもりはないと言っていると讒言した。この根使主(坂本臣の祖)の悪事は、後に露顕し、根使主は殺される。そして、根使主の子孫を二分し、一方は大草香部民として皇后に封じ、もう一方は茅渟県主に与え、また難波吉士日香蚊の子孫を探して大草香部吉士にしたというのである。
  • 日下部系氏族は「書紀」編纂の史局員となりました。かつて藤間生大氏はその論考の中で、『日本書紀』の天武天皇十年の条にみえる「帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ」という、いわゆる『日本書紀』編纂の発足に際して、史局員に任ぜられた難波連大形(元草香部吉士大形)が果たした役割について論及されました。さらに、中村恵司氏も、藤間氏の論拠に立って、その論証を広げられました。
    「雄略紀」二十二年にみえる浦島子説話が日下部氏の伝承に基づくものであることを論述し、しかもその氏族のもつ海洋性がこの説話を生んだものとされましたが、さらに、「応神紀」十三年の日向諸県君牛諸井の播磨灘説話も日下部氏に関連する伝承であり、ともに『日本書紀』の編纂員であった日下部氏系の難波連大形の努力によって、『日本書紀』の中に盛り込まれたものと思われると説かれています。また藤間生大氏も、前にふれた論考の中で、「安康天皇紀」元年の難波吉師日香蚊父子が日向出自の髪長媛の御子である大草香皇子の最後の時に、父子とも殉死したこと、それに、「顕宗天皇紀」にみえる日下部使主父子の忠勤ぶりなどは、やはり、日下部氏系で、「書紀」の編纂にあたった草壁連大形の収り組みであったとされています。
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  • 天武天皇

    9年2月23日 菟田の吾城(壬申の乱のときの故地)に行幸された。
    10年1月7日 親王・諸王を内安殿へお召しになった。諸臣はみな小安殿に侍り、酒を振舞われ舞楽を見せられた。
            大山上草香部吉士大形に、小錦下の位を授けられた。姓を賜って難波連といった。
    10年1月11日 堺部連石積に勅して、六十戸の食封を与えられ、絁三十匹、綿百五十斤、布百五十端、钁(くわ) 一百口を賜った。
    10年1月19日 畿内および諸国に詔して、諸の神社の社殿の修理をさせた。
    10年3月17日 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた
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