天武天皇と尾張。三野王、美濃王、美努王

December 2018 編集されました カテゴリ: 舒明ー聖武
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美濃王(みののおおきみ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは「みののおほきみ」。御…

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コメント

  • 倭京
    白雉4年(653年)に天智天皇が、都を倭京に戻す事を求めた。

    吹負は29日に挙兵し、敵の内応によって倭京を奪取した

    大伴連安麻呂が倭京から不破宮に使者として遣わされた

    かくして倭京の軍は大海人皇子の側に寝返った。

    壬申の年(672年)の6月下旬に大海人皇子が兵を興すと、近江宮にいた大友皇子(弘文天皇)は倭京に使者を派遣して軍を発することを命じた。

    壬申の乱
    騎馬追討作戦を採用しなかった太政大臣大友王が打った手は手持ちの兵による決戦ではなく、援軍要請で あった。四方へ使者を送った。
    東國・・・・・韋那公磐鍬・書直薬・忍坂直大倭の京・・・穂積臣百足・弟五百枝・物部首
    日向 筑紫・・・・・佐伯連男
    吉備國・・・樟使主盤磐手

    672年の壬申の乱のとき、大海人皇子に味方して倭(大和国)で挙兵した大伴吹負は、まず倭京を奪い、ついで北に軍を進めた。倭京とは、当時大津に置かれた京に対し、倭(やまと)にあった飛鳥の古い京のことである。進軍の途中、7月3日に、荒田尾赤麻呂が吹負に本営の古京(倭京)の守りを固めるべきだと進言した。そこで吹負は赤麻呂と忌部首子人を遣わして、古京を守らせた。赤麻呂らは、道路の橋板を取り壊して楯に作りかえ、交差点に立てておいた。4日に吹負の軍を破って南に進んだ大野果安は、八口に至って高所から京を遠望した。果安は街区ごとに楯か並べられているのをみて、伏兵を疑って引き上げた。『日本書紀』には他に子人の活躍は見えない。

    天武天皇9年(681年)1月8日に、忌部首首は、連の姓を与えられた。首は弟の色弗(色夫知)とともに喜んで天皇を拝した。

    天武天皇10年(682年)3月17日に、天皇は大安殿で帝紀と上古の諸事を記し定めることを命じた。6人の皇族と6人の他の官人の中に、小錦中忌部連首の名がある。忌部首と中臣大島は自ら筆をとって記録したと特に記され、中心執筆者であったことがわかる。これが『日本書紀』編纂の着手を意味すると考えられている。
  • 矢集連・矢田部造に通じるとみられる矢部(矢作部)の地名・人名は、大和国磯城郡の矢部(田原本町で、保津の南近隣に位置し、弥生・古墳期の方形周溝墓をもつ遺跡がある)のほか、美濃・尾張・三河・遠江・駿河や越中などに見えており、因幡にも『太平記』巻十四に矢部が見え、八東郡若桜などに矢部氏(鎌倉前期に駿河から遷住というが)が居り、『応仁記』巻二には乱の参加武士として因幡の「八部」をあげる。矢作部造・矢作連の祖の経津主神と伝える(『姓氏録』未定雑姓河内など)から、系譜的に同族関係がある。
     美濃郷は伯耆国日野郡の隣の会見郡の郷名として『和名抄』に見える。矢田部は美濃国本巣郡にもあったことが知られ(大宝二年の栗栖田戸籍)、大矢田神社(『武儀郡神名帳』の大矢田天神)が美濃市大矢田に鎮座する。大和でも、物部氏の初期本拠地と見られる唐古・鍵遺跡の北東近隣に八田(田原本町。同町南部には矢部もある)・稲葉(天理市)の地名があり、添下郡に矢田部造氏の本拠の矢田郷(大和郡山市矢田町)があり、近隣の生駒郡(平群郡)にも稲葉村(もと因幡で、現斑鳩町稲葉車瀬・西稲葉など)があった。摂津でも、島下郡の穂積氏本拠地・穂積の東方近隣に稲葉の地名がある(ともに茨木市域)。河内でも、守屋大連本拠の渋川郡の東隣の若江郡に稲葉の地名が残る(東大阪市西部)。
  • 「見延村は早野の北にありて、元和高帳には、美濃部村としるせり。和名類聚抄に本巣郡美濃とある舊地にて、當国の主郷なるべし。」
    『新撰美濃志』

    「平安時代の和名抄に見える本巣郡八郷の一つ「美濃郷」のあったところとされています。見延は、美濃部とともに美濃辺とも書かれてきました。」
    『ぬくもりの岐阜地名』(著:丸山幸太郎/教育出版)
  • 猿投神社。 愛知県豊田市猿投町大城。 
    祭神:大碓命、景行天皇、垂仁天皇。
      日本書紀に「大碓命が東征を欲せられなかったために、美濃國(岐阜県)へ封ぜられ、三野国造の祖神の娘二人を妃とせられ、二皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」云々とある。社蔵の縁起書 (779年 大伴家持、阿部東人による調査書) に「景行天皇52年(122年)、猿投山中にて蛇毒のため薨ず、御年42歳、即ち山上に斂葬し奉る」云々とある。現在、西宮後方に御墓所がある
  • 岐阜市岩田の「伊波乃西神社」
    祭神は開化天皇の皇子・彦坐王である。
    神社の近くに彦坐王を葬ったという墓があって、御陵として宮内庁が管理している。
    この王が、隣国近江の豪族息長氏 -後に仲哀天皇の皇后・神功皇后を出した氏族 -の水依姫をめとって、生まれたのが神大根王(神骨・八瓜入日子王)である。この王は本巣国造や長幡部連の祖といわれ、美濃国の中央部(今の岐阜市・本巣郡あたり)を支配していたとされている。つまり、現在の岐阜県の心臓部が天皇ゆかりの豪族によって治められていたというわけである。

    それから2代あとが、12代景行天皇である。天皇は皇子・日本武尊(小碓命)とともに東奔西走して、皇威を大いに広めたが、艶福家でもあった。ある年の春、天皇は美濃の国の「泳宮」(可児市久々利)に行幸したとき、この地方の豪族、祟神天皇の皇子・八坂入彦の子の姉妹が美しいと聞いて、泳宮の池に見事な鯉をたくさん放ち、その鯉をオトリに姉妹をおびき寄せて、天皇の妃になるよう説得した。
    が、弟姫は断り、姉の八坂入姫が妃になり、生まれたのが次の13代成務天皇である。この久々利の地にも八坂入彦皇子の墓があり、やはり御陵として宮内庁が管理している。真偽のほどは別として、彦坐・八坂入彦両皇子の御陵が美濃にある。
  • 21代雄略天皇時代

    吉備(現在の岡山県辺り)の豪族が謀反を企てているという噂が立ち、天皇は身毛津君大夫なる人物-大碓命の末裔にあたる-を吉備に派遣して様子を探らせた結果、謀反が発覚し、一族70人が誅殺されたと伝えている。身毛津氏もこの頃には現在の関市・美濃市あたりを本拠地として奥美濃を支配していたのではないだろうか。また、天皇のときの事として、天皇と当時の名匠・闘鶏御田や猪名部真根との逸話が記されている。この二人の名匠はいずれも伝説では飛騨の出身だと信じられている。
  • May 2016 編集されました
    美濃加茂市の鴨県主神社

    縣主神社(あがたぬしじんじゃ)は、岐阜県美濃加茂市(旧加茂郡太田町)にある神社。県主神社にも作る。加茂神社(美濃加茂市)、坂祝神社(加茂郡坂祝町)とあわせて、三加茂神社(三賀茂神社)と称する。

    彦坐王は開化天皇の皇子。律令制以前の加茂郡には朝廷の直轄地(県)が置かれ、鴨県主が治めていたと考えられるが、彦坐王(命)はその祖先に当たる。祈雨に霊験があるとされる。

    由緒

    創建時期は不明。社説に当地を治めた鴨県主が祖先の彦坐王を祀ったものといい、また彦坐王がこの地にやってきて治めていたのだが、その子孫が県主となり創建したともいうが、鎮座地付近には群集墳があり、当地を開発したであろう鴨県主一族との関連が疑われる。なお、彦坐王は美濃国本巣郡の豪族と思われる本巣国造の祖である神大根王の父王とされ、その神大根王は美濃国造ともされ、同国武芸(むげ)郡の豪族と思われる身毛津君(むげつのきみ)もその祖である大碓命が神大根王の女(むすめ)を娶るなど、本巣、武儀両郡に関係しており、そこから加茂郡とこの両郡は統治者が血縁関係にあって、それぞれが密接な関係を持ちつつ発展したものと考えられ、大宝2年(702年)の戸籍(『正倉院文書』)にも鴨県主と身毛津君との姻戚関係を窺わせる記録がある。
  • 夕田茶臼山古墳
    岐阜県|加茂郡富加町
    3世紀中頃、弥生時代と古墳時代のはざまの時代の前方後円墳 県最古級 町指定史跡
    夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書
    http://www.town.tomika.gifu.jp/tourism/syoseki/chausuyama-kohun.html
    平成21~24年度に調査を実施した「夕田茶臼山古墳」の調査報告書。調査の結果、夕田茶臼山古墳は3世紀前半に築造された前方後円墳と判明し、岐阜県最古の前方後円墳として注目されています。
  • May 2016 編集されました
    開化天皇の皇子の彦坐王
    岐阜市岩田に「伊波乃西神社」が鎮座している。古代神社のランクづけで有名な『延喜式神名帳』(延長5年・927)にあげられている神社で、祭神は開化天皇の皇子・彦坐王である。神社の近くに彦坐王を葬ったという墓があって、御陵として宮内庁が管理している。この王が、隣国近江の豪族息長氏 -後に仲哀天皇の皇后・神功皇后を出した氏族 -の水依姫をめとって、生まれたのが神大根王(神骨・八瓜入日子王)である。

     この王は本巣国造や長幡部連の祖といわれ、美濃国の中央部(今の岐阜市・本巣郡あたり)を支配していたとされている。つまり、現在の岐阜県の心臓部が天皇ゆかりの豪族によって治められていたというわけである。

     それから2代あとが、12代景行天皇である。天皇は皇子・日本武尊(小碓命)とともに東奔西走して、皇威を大いに広めたが、艶福家でもあった。ある年の春、天皇は美濃の国の「泳宮」(可児市久々利)に行幸したとき、この地方の豪族、祟神天皇の皇子・八坂入彦の子の姉妹が美しいと聞いて、泳宮の池に見事な鯉をたくさん放ち、その鯉をオトリに姉妹をおびき寄せて、天皇の妃になるよう説得した。が、弟姫は断り、姉の八坂入姫が妃になり、生まれたのが次の13代成務天皇である。この久々利の地にも八坂入彦皇子の墓があり、やはり御陵として宮内庁が管理している。真偽のほどは別として、彦坐・八坂入彦両皇子の御陵が美濃にあるということは、美濃の国と天皇一族が深い関係にあったことをうかがわせるのである。

    日本武尊すなわち小碓命には兄の大碓命がいて、二人は双子だったという説がある。もともと弟の小碓命は剛胆で武勇に優れていたが、兄の大碓命は軟弱であった。あるとき、景行天皇は前述の美濃の豪族・神大根王の子の姉妹を妃に迎えたいと思い、大碓命にその使いを命じたところ、彼は使いにいったがその姉妹が大変美しかったので、天皇に内緒で二人とも自分の妃にし、かわりの姉妹をたてて知らん顔をしていたが、間もなくそのことがバレてしまった。それにあれこれと事情が重なったため、天皇は怒って大碓命を美濃の国に追放した。つまり、天皇一族から勘当されて、美濃の豪族になったというわけである。それで、大碓命と姉・兄遠子の間に生まれたのが、「押黒之兄日子王」といい、美濃の国の「宇泥須和気」の祖になり、妹・弟遠子との間に生まれたのが「押黒之弟日子王」といい、身毛津君や守君の祖になったという。

     また、日本武尊が東征のとき、美濃の国の善く弓を射る弟彦公が召されて参加しているが、その人物は「押黒之兄日子王」ではという説もある。しかし、この辺りの記録には、『古事記』『日本書紀』両書に違いがあって、よく分からない。いずれにしても、景行天皇とその息子たちは、美濃・尾張・伊勢すなわち美濃平野の国々と深くかかわっていたことは確かである。
  • 関市の北方の山中に

    太刀矢神社 (たちやじんじゃ)
    主祭神
    立野明神(たてのみょうじん)
    天照大御神(あまてらすおおみかみ)
    大山祇神(おおやまずみのかみ)
    〒501-2251 岐阜県山県市柿野1342番地
    由緒由来
    日本武尊・大碓命御在世の時常に持給ひし弓矢剱などを納め、此処に一社を建立して太刀矢社と云ふと伝へり。又本村は大碓命御住居もありし知にて、倭建命の御由緒も有り。且つ又、乙洞などと云う字もあれば、美濃弟彦の出所にて、弓矢の由縁もあれば、弟彦を祀れるかと云へども確証なし。本社号「太刀矢」は立野にて、本国神名帳内「立野明神」なるべしと云ひ、又太刀矢社は同帳剱之明神かとも云へり。
  • May 2016 編集されました
    南宮大社 美濃国一宮

    祭神は金山彦(かなやまひこ)命。その名が示すように鉱山、金属の神である。
    この神の誕生のいきさつは母親の死と結びついている。母神の伊邪那美命は多くの国や神々を産んだ後、火の神迦具土(かぐつち)神を産んで火傷を負い死去するが、その病臥の折の嘔吐物から化生した神が、金山彦と金山姫であった。死の苦しみの中で生まれたのである。金山姫命のほうは元宮とされる南宮御旅神社に祀られており、金山彦命とは姉妹神とも夫婦神の間柄ともいわれている。
     南宮大社の創始起源は古く、神武天皇の御代までさかのぼるそうだが(ここではなく別地に祀られたとされる)、崇神天皇のときに、現在の美濃仲山山麓に祀られるようになったという。南宮大社の社号は、往時の国府からみて南に位置していたためとされる。社殿は関が原の兵火で焼失してしまったので、現在の立派な社殿は徳川家光による再建という。

    南宮の本山は 諏訪の国とぞうけたばる さぞ申す
    美濃の国には中の宮 伊賀の国にはおさなき児(ちご)の宮 (梁塵秘抄)


     呪的な響きも感じられて、歌の奧にはなにかが隠されているような気がする。表面的には南宮のお社が三社挙げられていて、その中で一番霊威が高いのは諏訪大社(延喜式では南方刀美神社)で、次が美濃南宮大社で、その次が伊賀の敢国神社と歌っているようである
  • 伊奈波神社 美濃国三宮
    主祭神は五十瓊敷入彦(いにしきのいりひこ)命。配祀には妃の渟熨斗(ぬのし)媛命、母の日葉酢(ひばす)媛命、臣下の物部十千根(とおちね)命などの名が並んでいる。
    五十瓊敷入彦命は垂仁天皇皇子で、景行天皇の兄。妹には倭姫がいる。倭建(やまとたける)命の伯父に当たる人といったほうがわかりやすいだろうか。

     社伝によれば、五十瓊敷入彦命は勅命を受けて奥州を平定するが、遠征に同行していた中臣豊益連がその成功を妬み、先に大和へ帰って皇子には謀反の心があると讒言、皇子は朝敵とされ、兵を差し向けられて嫡子とともに当地で討たれた。その死を悼んだ妃の渟熨斗媛は大和を離れ、皇子終焉の地で生涯を過ごしたとされる。
     伊奈波神社の創建は古く、社伝では皇子薨去の翌年の景行天皇十四年、夢見によって皇子の無実を知った天皇は、武内宿禰を派遣して稲葉山(金華山)山麓椿原(現在の岐阜公園丸山)に五十瓊敷入彦命の霊を祀ったという。
  • 『夕田茶臼山古墳』 岐阜県指定史跡

     富加町夕田地区に所在します。丘陵の尾根の上に築かれた前方後円墳です。全長は39.5mで、出土土器や炭化物のAMS年代測定により築造年代が3世紀前半と判明しました。埋葬主体部の調査は行っていませんが、木棺直葬で保存状況は良好であると確認しました。築造方法は弥生時代の墳丘墓の伝統を引き継いでおり、美濃の前方後円墳の誕生を知る上で、非常に貴重な資料であるといえます。夕田地区には他に2基の前方後円墳(蓮野古墳、杉洞1号墳)があり、町内でも早くから開かれた地域であると考えられます

    富加町では、現在51基(岐阜県遺跡地図より)の古墳が確認されており、主に町内の丘陵地に、前方後円墳・円墳・方墳・群集墳など、様々な古墳が点在しています。確認されている古墳の数で言えば、美濃地方でも有数の古墳密集地であるといえます。近年には平成21~24年度に夕田茶臼山古墳の確認調査が実施され、岐阜県最古の前方後円墳であることが判明しました。また、町内大平賀地区に所在する「後平茶臼古墳」発掘調査では、朝顔型埴輪や円筒埴輪、馬具などが出土し、当地の古墳時代の解明に大きな前進がありました。

    縣主神社 (美濃加茂市) - Wikipedia

    創建時期は不明。社説に当地を治めた鴨県主が祖先の彦坐王を祀ったものといい、また彦坐王がこの地にやってきて治めていたのだが、その子孫が県主となり創建したともいう[要出典]が、鎮座地付近には群集墳があり、当地を開発したであろう鴨県主一族との関連が疑われる。なお、彦坐王は美濃国本巣郡の豪族と思われる本巣国造の祖である神大根王の父王とされ、その神大根王は美濃国造ともされ、同国武芸(むげ)郡の豪族と思われる身毛津君(むげつのきみ)もその祖である大碓命が神大根王の女(むすめ)を娶るなど、本巣、武儀両郡に関係しており、そこから加茂郡とこの両郡は統治者が血縁関係にあって、それぞれが密接な関係を持ちつつ発展したものと考えられ、大宝2年(702年)の戸籍(『正倉院文書』)にも鴨県主と身毛津君との姻戚関係を窺わせる記録がある。
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