高良大社

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  • July 2018 編集されました


    赤い糸、高良大菩薩です。そして、神紋は木瓜(もっこう)。

    次に見えるのが黒糸、八幡大菩薩。神紋は巴(ともえ)。

    最後はえ住吉で、白い糸、神紋は「五七の桐」。これを「桐の臺(とう)」ともいいます。

    309条【訳】住吉の御紋に桐の薹を使われることは、鵜戸の岩屋でウガヤフキアワセズの命をお生みする時、御産屋に桐の葉を敷かれたことによる。ーーー>住吉はウガヤフキアエズ尊
    産屋の傍の板も桐の木である。その桐の木、桐の葉を採った所を桐嶋と名付けた。これにより、異国を攻められた時も桐の薹を御紋として御攻めになった。

    住吉と申すはヒコナギサタケの御ことである
  • 311条【訳】高良の御紋の木瓜(もっこう)のこと。

    神功皇后が筑前国四王寺の嶺で大鈴を榊の枝に掛けて七日間、異国の退治を祈られた時、東の空に白雲が現れ、四方に開けて四方に光を放ち、四王寺の嶺に降られた。

    四方に開けた白雲は四天王である。御紋の中に四本の鉾を抱えているのは四天王の鉾である。これをそのまま門光(もんこう)と名付けた。

    異国追伐の時の高良の御紋はこれである。四方に光を放っているので門の光と書く。高良、四天王に従して天下られる所を四王寺が嶺と名付けた。
  • July 2018 編集されました
    宇佐託宣集では、左善神王:阿蘇嶽権現(健磐竜命)。右善神王:高良玉垂=藤大臣=連保=月天子=ウガヤフキアエズ(ひこなぎさ)の第三子となっており、善神王は阿蘇・高良玉垂・八幡の三人を表しているようです。
     宇佐託宣集は、時代も内容も都合が良すぎるので、あまり好きではありませんが、高良玉垂神秘書と宇佐託宣、類似性が気になります

    託宣集には、
    「八幡は香椎(大帯姫)を母とし、住吉を父とする」や、「住吉の縁起にい云く、大帯姫が四王子山で祈った夜、住吉大神形を現し、夫婦となり2人の王子を産み育て、第3の王子の八幡を生み、今の宇佐宮となる」
    など出てきます

    ちなみに、善神王の下りは下記の通りです。
    八幡宇佐宮御託宣集「三所宝殿以下の事」より
    ・二階南楼左右の外の間。
    ・左善神王
    昔霊神兄弟三人、震旦に遊んで、日本に帰りたまふ時、大兄は豊後国高知尾に留る。高知尾明神是なり。次兄は肥後国阿蘇嶽に留まる。阿蘇嶽権現是なり。此の権現、最弟八幡に告げて言く。汝早く花都に至り、十善の帝王(天皇)の子と成り、百王(代々の天皇)守護の誓を遂ぐべし。我は当峯に留り、高知尾を見継ぎ奉り、亦汝が本願を助くべしと云々。
    累世の契約を改めず、当宮の守護弥(いよいよ)新なり。

    ・右善神王
    大帯姫霊行の時、異国降伏の刻、地神第5代主彦波激尊(ひこなぎさのみこと)現われ言く。
    我は即ち明星天子の垂迹なり。第三の公子有り。月天子の応作(変化)にして、これを授け奉る。大将軍と為り、敵州降伏の本意を遂げられるべきなりと云々。
    大帯姫、この公子を賞し大臣の官を授けられる。藤大臣連保是れなり。連保、乾満珠玉を垂さしめ、尊神の本願を扶け奉る。筑後国高良の玉垂大菩薩是れなり。昔は征伐の補佐を改めず、今は垂迹の助化猶新たなり。

    注) 保連が連保と引っくり返っている点など、筆者の勘違いまで表れています。保連が武内宿禰のことです。
  • July 2018 編集されました
    玉垂命が端正元年に没したという記録は、大善寺玉垂宮所蔵の掛軸(玉垂宮縁起、建徳元年銘《一三七〇》、国指定重要文化財)に記されているそうだ。いただいた由緒書によれば玉垂命は仁徳五五年(三六七)にこの地に来て、同五六年に賊徒(肥前国水上の桜桃ゆすら沈輪)を退治。同五七年にこの地(高村、大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫を治め、同七八年(三九〇)この地で没したとあり、先の端正元年に没した玉垂命とは別人のようだ(『吉山旧記』による)。とすれば、「玉垂命」とは天子の称号であり、ある時期の九州王朝の歴代倭王を意味することとなろう。その中に女性がいてもおかしくはない(『筑後国神名帳』には玉垂媛神とある)。
     大善寺から少し離れた高三瀦の廟院にも行ってみた。それは小さな塚で、おそらくは仁徳五五年に来たと言う初代玉垂命の墓ではあるまいか。この塚からは弥生時代の細型銅剣が出土しており、このことを裏づける。廟の横には月読神社があった。月読神を「たかがみ」とし、九州王朝の祖神と幻視した室伏氏の仮説(『伊勢神宮の向こう側』)は当を得ていたようである(同様の指摘は灰塚照明氏からもなされていた)。
     天孫降臨以来、糸島博多湾岸に都を置いていた九州王朝が、四世紀になって三瀦に都を移したのは、朝鮮半島の強敵高句麗との激突と無関係ではあるまい。この点、古田氏の指摘した通りだ。天然の大濠筑後川。その南岸の地、三瀦は北からの脅威には強い場所だからだ。従来、三瀦は地方豪族水沼の君の地とされていたが、どうやら水沼の君とは九州王朝王族であったようだ。
    出典
    http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html
  • 帆立貝式の前方後円墳

    大正元年に破壊された三瀦の銚子塚古墳は御塚(帆立貝式前方後円墳、全長一二三メートル以上)権現塚(円墳、全長一五〇メートル以上)の両古墳よりも大規模な前方後円墳だったが、これも九州王朝の天子にふさわしい規模だ
  • 玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳七八年(三九〇)に没しているので、倭の五王最初の讃の直前の倭王に相当するようだ。

    『宋書』によれば倭王讃の朝貢記事は永初二年(四二一)であり、『梁書』には「晋安帝の時、倭王賛有り」とあって、東晋の安帝(在位 三九六~四一八)の頃には即位していたと見られることも、この考えを支持する。
     さらに現地(高良山)記録にもこのことと一致する記事がある。『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃死して弟珍立つ」と一致する
  • 武内宿禰を祀る神社名は、高良・玉垂・賀来・武(竹)内・白髭・常盤(ときは)・黒雄(男)・大杉・善親(神)王(ぜぜのお)・古宮・翁(おう)・古一老、その他多種多様である。
    注(高原三郎著大分の神々より)(略)

    武内宿禰と関係のある有名神社
    香椎宮・宇佐神宮・織幡神社・宇美八幡宮・高良大社・玉垂宮・風浪宮・気比神宮・宇倍神社がある。
    此の内気比神宮は福井県・宇倍神社は鳥取県で、その外の神社は北部九州に在社している。
  • 加西市坂本町に王子宮

    久留米市山川町坂本に高良皇子神社(王子宮+坂本宮)があります。

    高良玉垂命の九人の皇子を祀る神社なのですが、その神社がこの高良神社のある北野と背中合わせにあるのですから、いつの時代かの特定はできませんがこの高良玉垂命の直系を奉ずる一族が入っている
  • 長野県内の高良社等の調査一覧(村田正幸さん調査)
    No. 場所        銘文等    建立年等
    1 千曲市武水別社   高良社   室町後期か?長野県宝
    2 佐久市浅科八幡神社 高良社   八幡社の旧本殿
    3 松本市入山辺大和合神社 高良大神1 不明
    4 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 不明
    5 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 明治23年2月吉日
    6 松本市島内一里塚  高良幅玉垂の水 明治8年再建
    7 松本市岡田町山中  高麗玉垂神社 不明
    8 安曇野市明科山中  高良大神   不明
    9 池田町宇佐八幡   高良神社   不明
    10 白馬村1      高良大明神  不明
    11 白馬村2      高良大明神  不明
    12 白馬村3      高良大明神  不明


     分布状況の傾向としては県の中・北部、特に松本市と白馬村の分布数が注目される。

    (古賀達也の洛中洛外日記 第1065話 2015/09/30「 高良玉垂命 」一覧より参照)


     この傾向は徳島県の高良神社分布とも何か通じるものがある。三好市山城町に4社。地名の山城の「城」は本来「白」、さらには「神代、神稲(くましろ)」に由来するのではないかと推理していたところ、有力な情報が立て続けに飛び込んできた。
    淡路の高良神社はかつての神稲(くましろ)郷に集中しているという
  • 山梨県韮崎市 若宮八幡宮
    祭神は大鷦鷯命で間違いないようです。

    御祭神:大鷦鷯命

    韮崎市(旧河原部村)の産神で、天正十三(一五八五)年の棟札(韮崎市指定文化財)によると仁和年間(八八五~八八九)の創建と伝へられ、もとは七里岩の上にあったが天正十一年七月二十日暴風雨のため山崩れがあり、社殿は悉く倒壊したので、現在地を選び天正十三年十月棟上げ再建されたことが記されてゐる。この頃は武田家が亡び徳川家が入国し、武田家の例にならって社領の安堵はなされたものの、国内はまだ混沌としてゐたので再建がおくれたといはれる。その後寛文四年、貞享三年、天文二年、文化十四年、明治四年と社殿の新改築がなされ、舞殿は元禄八年再興されてゐるが、現在の本殿は明治四十一年、拝殿は昭和十二年、神楽殿は昭和五十六年の再建である。大祭は七月三十・三十一両日にわたって行はれるが「かはらべさんのていねっこぐり」といって正面石鳥居にかけた太い茅の輪をくぐる夏越の祓ひ神事は夜神楽、露店の灯りとともに夏祭りの風景となってゐる。
  • 宮地嶽神社は高良の一族を祀るか。

    朝日豊盛命について、一説に
    藤高麿勝村大明神(宮地嶽神社)
    昭和11年に宮地嶽神社にて本当の祭神に変わった事があるというが、、、、、

    その中の一柱藤高麿勝村大明神と朝日姫は同一人物です。
    藤高麿勝村大明神が何故朝日姫????

    朝日豊明姫神(大和神社・摂社 朝日神社)
    こちらは見ての通りの女神です。朝日豊盛命は女神です。

    「高良玉垂宮神秘書」では神功皇后が9人産んで父は仲哀天皇と物部保連となっています。
    また、「古事記では竹内宿禰の9人の子供説では2人は女子で7人は男子となっています。
  • November 2018 編集されました
    『ふるさとの民話と伝説』(校区郷土研究会 会長豊福廣見編著)に
    書かれていました。

    1 高良御子神社祭神名のナゾ 井上 農夫
    (前略)
     原始時代の海ジプシイ(漂泊民族)「わだつみ族」の族長安曇氏(あづみし)の氏人が、戦国時代の末期まで、この神社を守っていた。徳川時代になって、所在地の阿志岐村が高良山の神領から分離すると、高良神社の末社の地位から独立して、阿志岐村の鎮守社となった。
     この社の古い由緒は判らなくなってしまった。(後略)

    阿志岐山城 麓
    荒船神社は阿志岐山城から見ると麓にありました。
    阿志岐山城を造ったり、維持したりする人々を乗せた船が停泊する船着場。
    荒船神社はその上にある見張り場であり、祈りの場だと考えました。
    この湊は「中つ海」を巡行する連絡船の船着場でもあったのでしょう。

    宮地岳は周囲を取り囲むようにして神社がいくつも並び、
    山中には童男丱女(どうなんかんじょ)岩という徐福伝説を持つ磐座もあります
  • November 2018 編集されました
    宗像大社の巨大な神額に残された「奉助天孫来而為天孫所祭」との十文字

    久留米高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」169pには異国征伐(神功皇后の三韓征伐のこと)時三百七十五人ノ神立が書き留められていますが、中級以下の神として大国主も書かれている。
  • November 2018 編集されました
    暦を作る真鍋家伝承、真鍋大覚氏

    真鍋大覚氏によると、
    銀河はカペラのある所で細く縊(くび)れて、漢人は上を北河、下を南河に区分する。(別名として)韓門(からと)の星、高良星の名がきかれた。

    有明海と玄界灘の潮高を見合わせて往来(やりくり)する水城(みずき)を筑紫のひとびとは「からとぼし」と言った。

    カペラは極東に来て、記紀の天の御中主の神になり、カイベラの神になり、カワベラの星になったと語られている。
    真鍋氏の文章は難しいですねえ。言い換えると、
    夜空の天の川の細くなった所にカペラ星があります。

    古代中国ではその上下を北河と南河と呼んだそうです。
    そして日本では、カペラを高良の星とも呼び、神話では天の御中主の神となったという事です。

    古代の人は、その天の川を地上に反映させました。
    福岡県の筑紫の真ん中を縦に走る水路を天の川に見立てたそうです。
    針摺瀬戸(はりずりのせと)と名付けられました。

    今ではもちろん陸地になっていますが、古代日本では玄界灘と有明海が水路でつながっていて、
    潮の高さを見合わせてやりくりした所が水城でした。
    水城にも広い湖が広がっていたそうです。

    天の川のように水路が細くなった所にあるのが高良山。

    ですから、空から写し取って高良の山にカペラ山と名付けました。
    それがなまってカウラ、コウラと変化しました。

    カペラなる高良山の北が玄界灘、南が有明海。
    そして、カペラとは天の御中主の神だと言う事になります。
  • 高良は、月読み
    月神か。
  • 赤司八幡宮は醍醐天皇延喜二年(902)、豊比咩神社に八幡大神を合祀したことが止誉
    比咩縁起に述べられている。豊比咩神社について延喜式神名帳には次のように記されてい る。「筑後国四座(大二座、小二座)御井郡大二座小一座、高良玉垂命神社(名神大)豊比 咩神社(名神大)」とあり、高良玉垂命神社と並び立つ名神大社であったことが述べられて いる。高良山文書には「嘉祥三年十二月奉授従五位下より昇進し寛平九年十二月奉授正四 位上」となっている。
    こうして平安時代には豊比咩神社は官社に列する名神となり、中央からもたびたび勅使 の差遣がなされていた。また文徳神録に「白河院応徳二年五月左弁官下筑後豊比咩大神者 九州二島惣鎮守不可混諸社者也 仍神領寄八十庄 宣祈聖廟安寧」「堀河院御宇長治二年 勅使豊比咩神社官号与正一位」の記録がある。筑後国豊姫大明神の紳託として「益人よ心 徳は神徳の守るところにして万宝のよる所なり よく思へ なべての人は直き心の底清み 誠の海の波もなく静かにあらんかしと思うなり」とあることから、筑後はおろか九州にか くれなき大神であった。
    こうも盛んな豊比咩大神も中世に至って神社も衰 微の運命にあった。近世に真鍋仲庵はその古跡すら 忘れて祭祀も中絶していることを嘆き次のように述 べている。「豊比咩神社につきて愚案するに世も移り 人信ぜざるに至る。故に其所を失ひて故跡を存せず 近国寺社の有司より人民をして此神の所在を尋ねし も其の神名を知る者なし,況んや神地に於いてをや」
    また杉山正仲は筑後志に豊比咩神社のことを述べ、
    「今按ずるにこの神社も中世退転してその事蹟詳か
    ならず。一説に御井郡上津荒木村に小祠あり乙姫社
    といふ 是即ち豊比咩なり云々。或人曰く 御井郡
    赤司の豊比咩神社
    塚島村に大石を以って造築せし大塚あり 往古より里民これを止誉比咩宮と称すと。又同 ひる お ひ る お
    郡大城村の内、蛭尾(現在の日比生)と称する処に大石二個あり里俗これを豊比咩の神と しょう
    近世に至っては神名の所在はわからなくなり、かっては高良玉垂宮と並び立った名神も 「今いずこ」の有様であった。延喜二年(902)高良山僧正寂源によって高良山内に豊 比咩神社再興の請願が藩に提出された。高良山古図に豊比咩神社の神域ありとし、また天 安年間高良玉垂宮と豊比咩神社正殿が失火にあったことは二神が同所に祀られていたこと を証明するものともなった(大城村郷土読本、止誉比咩縁起より)
  • 一) 豊比咩神社は、延喜式神名帳の頭注に「豊姫一名淀姫は八幡宗廟(応神天皇)の
    叔母、神功皇后の妹也」といい、三代実録には貞観元年(859)豊比咩社は官 社に列せられた。しかしこの神社も中世に退転しその間の実蹟は詳かではない。 現在の豊比咩神社は村民の手によって再建されたものである。
    (二) 日比生の銅鉾は豊比咩神社境内から発掘され、筑後川沿岸には珍しい文化の資料 である。
    当時博多湾沿岸に本拠を持つ部族の最大の誇りは銅剣、銅鉾を所持することであった。 大陸の文化をいち早く手にした部族や豪族の権威と地位の代名詞ともなっていた。神話に つながる由緒伝説を秘める豊比咩神社の境内から銅鉾が発掘されたことは、誠に奇縁であ る。弥生時代にこの地方では、銅鉾を部族の権威の象徴として祭事に敬い信じ祭っていた ことを想像しながら銅鉾を見るとき、懐古の情は二千有余年の昔にかえるのである。
    日比生と赤司の豊比咩神社、そして高良山の豊比咩神社
    話はややこしいが、三井郡内に三つの豊比咩神社があった。上述の通り「北野町史誌」
    に豊比咩神社と紹介されているのは、赤司八幡宮のことで日比生・豊比咩神社のことでは とよひめ
    ない。さらに高良山にももう一つ豊比咩神社がある。表示は止誉比咩神社であったり豊比 咩神社で、これも紛らわしい。
    赤司の八幡宮は西鉄甘木線大城(おおき)駅から北へ500mほど行ったところの三井 郡大城村赤司にある。この地は、日比生と同じ大城村の一集落であり、一つの村の中に二 つの豊比咩神社があることになる(今では赤司の方は八幡宮と呼ばれているが)。赤司運動 広場の隣で、子供の遊び場としては最適のところ。東西の道路の西側から幾つかの鳥居が 続き、参道を進むと、西向きの社殿がある。
    一之鳥居らしき地点から境内入口までの距離を考えると、往時の広さがうかがえる。日 比生の豊比咩神社の比ではない。現在はいずれも久留米市となっているが、もともとはこ れらの地域には大城村、金島村、弓削村などがあり北野町と合併し、さらに、久留米市と なったのであり、村名はなくなってしまったが、赤司も日比生も旧大城村の一集落だった のである。
    赤司集落には平安時代、赤司城が築かれ、その城を中心に一帯は殷賑を極めていたとい う。城主は、草野氏を祖とする赤司氏である。もしかすると、この赤司氏が距離にして3 -4キロほどしか離れていないところに古くからある(銅剣の時代)日比生の豊比咩神社

    、自分の城の近くに招聘したのかもしれない。
    その赤司神社の社伝によると、延長2年(924)11月の鎮座。配祀として、高良大 神、『福岡県神社誌』では武内宿禰となっている。当時は同一神と考えられていた。赤司城 主の崇敬篤かった神社だが、度々の災禍にあったと社伝にある。明治6年、村社となって いる。 『赤司八幡宮縁起』には、元は豊比咩神社だったが、延長2年に八幡宮を合祀し、戦国時 代の終わりに社名を八幡と変えたと記された。境内の右手から社殿の後方に境内社がいく つかある。天満神社、大三輪神社、水神社、少彦名神社、祇園社などなど。 境内の中央、参道の横に、猿田彦大神の石碑や、恵比須像がある。
    草野氏というのは、出自まちまちで、始祖を奥州の安倍氏とするもの、あるいは藤原氏 とするものの二者がある。後者によると藤原鎌足15世の孫、文時が大宰府にくだり、そ の子文貞は肥前守となり高木に居住して高木氏と称し、文時の子貞宗は筑後川北之荘(北 野町)にあって北野次郎兵衛尉を名乗り、永経は山本郡草野 にあって草野氏と称し、二条天皇長寛二年(1164)山本 郡吉木に竹井城を築きそこに移った。
    赤司八幡宮の豊比咩神社縁起によれば、草野守永の二男赤 司新蔵人藤原永真が赤司姓を名乗り、赤司城を築いてここに 拠し、赤司氏の祖となり七代赤司城を相続し、永明に至り天 正年中大友宗麟のために敗北し、肥前に移ったとある。
    戦国時代になると、大友氏の制圧するところとなったが、 竜造寺氏が力をつけ、反大友の行動を起こすと、地元の小豪 族の間にも影響して、所領の奪い合いが続き、その後の赤司 城も赤司・高橋・戸次・筑紫・竜造寺・秋月氏と、領主がめ まぐるしく交替した。
    赤司の豊比咩神社は武士の信仰の厚いところで、草野氏は 勿論、豊後(大分)の大守である大友氏の崇拝するところで もあった。大友氏はこの地の利、すなわち、豊後・筑前・筑 後・肥前を見守る地として重視していた。豊比咩神社に戦勝 祈願はもとより、境内に城郭を構え、堀を設け、鎮衛所とし て将を駐留させていたという。
  • December 2018 編集されました
    甘木線「大城駅」から南に歩くと筑後川に至る。
    その筑後川にかかる「大城橋」を南 へ渡った後すぐに左折れし、堤防上の道を東へ約2キロ行った地点にある。この堤防は筑 後川の南岸にそっているが、この堤防に沿った部分の筑後川は 戦後、新たに掘削して作られた近道の流れである。土手の上を 走る道は81号線で2キロ歩いた地点から南へ曲がり100メ ートルほどのところに目指す豊比咩神社が鎮座している。曲が り角には「宮地嶽神社」も鎮座している。駅から約30分とい ったところであろうか。太古の筑後川は後述するように「宮地 嶽神社」のところから南へ大きく蛇行し半円を描いたあと大城 橋の少し下流のところに戻ってきていたものを、戦後その半円 の両端を直線で結ぶ付け替え工事を行ったのである。

    日比生豊比咩神社本殿
    おおき 住所が大城となっているのは、太古の昔この場所に、有明海へ船出する一大軍港があっ
    たからで、匈奴国つまり熊本県のクマソとの長い長い戦いに、多くの兵士がこの船着場か ら船で出発し筑後川を下っていった。その拠点がここに置かれていたといい、それは甘木 にあった邪馬台国本部の重要軍事拠点の一つだったのである。夜須(甘木)から流れ下っ てくる小石原川は筑後川に合流するが、その合流点は日比生の豊比咩神社上流わずか1キ ロほどの地点である。兵士は小石原川を利用して大城に集合していたのであろう。豊比咩 神社はその頃から軍事拠点の横に祀られていたのかもしれない。
    神社の地下に埋まっていた銅鉾はそれらのことを象徴する一つの証拠品である。また、 神功皇后が立ち寄られたとする「蚊田宮」跡記念碑は、先ほどの「ひろんまえ」にあるこ とも気にかかるところである。「蚊田宮」跡記念碑は豊比咩神社から直線距離にして約50 0メートルの位置にあった。
    豊比咩神社は、それほど広くない境内に添付したような社殿が建っているが、境内横が 土手となっているため、遠くからは見えにくい微妙な位置にある。昔は宝満宮と称してい たらしい。天平時代の鎮座とする説もある。明治六年村社に指定されている。
    鳥居の額に菊紋があり、拝殿の横に古い鬼瓦が置かれていたが、それにも菊紋がついて いた、ということで、神紋は菊紋である。
    なぜこんな低地に軍事拠点が置かれたか以前から不思議に思っていたが、それはここが 低地であるが故に、船着場として絶好の場所だったからであろう。筑後川が山中の日田方 面から急流として流れてきた後、この付近で急に速度を落とすのは、太古の昔、ここ一帯 は低地で大きな湖があったところだからである。その後湖は堆積物で埋め尽くされ陸化する

    古代の湖は次第に砂利・土砂で埋められ陸化がすすみ、川はその周囲を回る形で形成さ れていった。上流からの急流が宮地嶽神社・日比生の豊比咩神社のあるこの辺で急に蛇行 を始めるので、急流の水は川岸に激しく衝突することになる。そして上流から運ばれてき た砂礫は永い間に大量に置き去りにされ、豊比咩神社の地にうずたかく積みあがり、天然 の堤防と化していったと思われる。つまり微高地が形作られた場所である。
    そうなると、この地は半円を描く筑後川に抱きこめられた自然の要塞にもなるし、有明 海に出航する船着場として絶好の場所であったのだろう。そしてなんといってもここは甘 木の高天原から近い。そのような理由から軍事拠点が設けられることになったのであろう。 その軍事拠点の跡が豊比咩神社であり、近くの神功皇后の蚊田宮である。
    江戸時代になり、この地域は久留米有馬藩の領土となる。年貢米が毎年豊比咩神社下の 筑後川から舟で積み出されていたという。
  • 天の真名井=古事記の中で、アマテラスとスサノオとが清く明るい心を示しあうた うけい
    めの誓約をしたとき、アマテラスがスサノオの持つ十拳剣を三段に折り、「天の真名 井」の水を吹き注いだ息吹の狭霧の中から三人の姫が生れる。それが宗像三神で玄 海町にある辺津宮のタギツ姫、大島の中津宮のイチキシマ姫、そして沖の島の沖津 宮のタギリ姫であるが、そこに出てくるのが「真名井」である。また、アマテラス がその子オシホミミを産まれた時にも使われた水で、高天原(甘木)にその「真名 井」はあったとされている。
    * 真名井伝説は「益影の井」伝説となって、筑前宇美に残り、また筑後・大城小学校 の「益影の井」として残った。これらは応神天皇誕生のみに関係し、宗像三神の生 誕には触れていない。
    一方、「真名井」は、豊後日出地方に「日出の真那井」として、また、丹後比治地 方に「比治の真奈井」として残り、高天原の場所の移動を示すもととして注目され ている。それには、羽衣伝説が付随していて、その中に出てくる姫の名も無視でき ない。「丹後国風土記」によると「比治の真奈井」の池に舞い降りてきた七人の天女 のうちの一人の羽衣を、土地の翁が隠した。そして、その女を養女として酒を作ら せて稼いでいたが、ある日、老夫婦は女を家から追放した。という話であり、その 女は泣く泣く丹後の哭木村に留まることになったとし、女の名は、トヨウカノメ(豊 宇賀能売)であったとしている。豊受姫である。伊勢神宮の外宮には「豊受大神」 が祀られている。
    * 真名井の滝が宮崎県高千穂町の高千穂峡にある。神話上、ここはニニギ尊が降臨さ れた高千穂の地で、真名井伝説はここにもつながっている。高千穂の谷は深く、切 り立った断崖のあちこちから、豊富な湧水が滝となって流れ落ちている。
    * 「蚊田宮」=神功皇后が出産されたところは、日本書紀は「筑紫の蚊田邑」として いる。伝説上、現在では次の三つの場所がその「蚊田宮」があったところという。 糟屋郡宇美町、糸島郡前原町長野、それに三井郡北野町大城である。
  • December 2018 編集されました
    蚊田宮跡の縁起
    赤司八幡宮縁起によると、神功皇后が西征の途に於て中ツ海(有明海~当時の筑紫平野) を渡られるに際しては、水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮を建ててこれ に迎えたという。皇后三韓退治後ふたたび蚊田行宮に入らるるや水沼君はこれを迎え、軍 船の名残をとどめてその記念とした。遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれな のです、と。
    つづけて、応神天皇の出産に関しても、「蚊田宮」と「止誉比咩神社」についても次のよ うに記述している。
    皇后が蚊田宮で応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原(甘木)よりうつし ぬない
    たという潟の渟名井の霊水を産湯として奉った(真名井のことと思われる)。

    潟の渟名井は道中の神井として神聖を保った霊泉でした。また、皇后は縁故ふかい道中の当神社に妹豊 姫命(止誉比咩)を道主貴としてとどめられ、長く西海の鎮護として重要視されました。 そのために当社を豊姫之宮と稱するようになったが、神名帳には止誉比咩神社とあります、 と。(ここでトヨ姫は神功皇后の妹となっている。つまり卑弥呼を神功皇后に台与は妹とし たのである)
    少し横道にそれます。日比生の「蚊田宮」跡の石碑が立っていたところのすぐ後ろには、 現在、古い墓地が残っていいますが、その墓地と道一つ隔てて一軒の農家の屋敷がありま す。この屋敷一帯もほんのすこし微高地をなしている。「蚊田宮」はこの微高地の上に建て られていたのであろうと推測しています。そして同じ場所には江戸末期から明治にかけて この微高地のところに「柳園塾」が置かれていた。井上知愚・昆江父子二代の私塾である。
    井上氏は赤司城に居をおいた赤司氏の末裔で、永く日比生に住し久留米藩に致仕した藩 士である。文政十年、日田の師、広瀬淡窓の許可を得て、この地に漢学の私塾を開く。苔 むしたたくさんの墓は、その私塾の先生方のものだと聞いている。
    日田は言わずと知れた江戸幕府天領の地、儒学者広瀬淡窓によってそこに開かれた私塾 「威宜園」には約四千六百人の門下生が集まったといい、日本最大の私塾であった。その 塾生の中には、明治新政府で活躍する大村益次郎の名もある。
  • 武内宿禰は日下部氏系図では物部保連(やすつら)となっています。一般には応神天皇の父は武内宿禰だと印象操作されました。

    高良の神秘抄、第1条では応神天皇の父は底筒男だと主張したため、物部氏=住吉族という変な話になりました。
    こうして玉垂命は一体誰なのか分からなくなったのです。

    玉垂命は江戸時代の御殿様が武内宿禰に決めた、と高良大社で伺いました。

    高良下宮社の古い祭神を見ると、「高良玉垂命」と「武内宿禰命」が並んでいるので、やはり別人だということが分かります。
  • 玉垂命は、安曇イソラ

    志賀海神社の三宮があり、綿津見三神がそれぞれの宮に祀られている。
    沖津宮
    仲津宮
    表津宮
    これらに祀られている三神はこの海から生まれた神々だった。

    その三つの宮に囲まれた海域にはいくつもの名前がついている。

    三瀬 神遊の瀬 大戸小戸 舞能ケ浜 御手洗

    ここは伊邪那岐が禊をした海だった。

    これは糸島の神職、宮崎大門が記録に残してくれていた話だ。
    その記録を『志賀嶋所聞録』という。
    次にその記録を要約してみよう。

    【御手洗】
    伊邪那岐大神が与美国の穢れを洗い清め給いしところ。

    ―イザナギは黄泉の国から戻ると海で禊をした。
    衣服を脱ぎながら神々が生まれた。
    海に潜ると綿津見の神々と筒男の神々が生まれた。
    海と星の神々だ。
    そして、最後にアマテラスとスサノオとツクヨミが生まれた。
    そのうちの綿津見の三神がここに祀られている。
    これを志賀皇神とか志賀大神という。

    【神遊の瀬】しんゆうのせ
    志賀皇神たちはこの三瀬で遊居されたことからここを「神遊の瀬」ともいう。

    【大戸小戸】
    神遊の瀬から入海に入ると奥に穴があった。
    志賀皇神は神遊の瀬からこの穴に出入りされた。ゆえに「大戸小戸」という。

    【舞能ケ浜】まひわざ
    息長足姫(神功皇后)は諸臣を連れて志賀大神を招いたが、神は来られなかった。
    諸臣は変だと思ったが、かがり火を焚いて天岩戸の神楽を奏すると、
    志賀大神は金色の亀に乗って来られた。
    ゆえにこの時の様子を9月8日の神幸の神輿の前で奏する。

    ―亀に乗って現れたのは安曇磯良で、神幸の夜は鞨鼓の舞が奏される
  • 01/07編集されました
    志賀島
    小戸大神宮
    おど
    福岡市西区小戸
    筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐が原の候補地

    神功皇后の伝承のある小戸の浜に小戸大神宮があるので出かけました。
    祝詞(のりと)に出て来るイザナギの禊(みそぎ)の場所とも言われる所です。

    ーーー
    国生みと神生みがなされたオノゴロシマ,すなわち日本神話の故郷は,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」近辺だったことになる。

     そして,この一連の地名は,筑紫 → 日向 → 小戸 → 橘 → 檍原と,大きい地名から小さい地名の順序で並んでいるようだ。

     「筑紫」を北九州の筑紫ととることもできる。

     しかし,日本書紀第4段の国生みでは,九州を「筑紫洲」と呼んでいる。ここでは,九州全体を筑紫と呼んでいると考えてよい。

    第5段第6の一書。これに続く第7以下の一書は,第6の一書に関する補足ないし異伝だ。

     第11の一書は別にして,第6以下,第10の一書までは,第6の一書を補足するものとして編纂されている。

     そこで,第5段第10の一書を読んでみよう。

     黄泉国から戻ったイザナキは,禊の場所として「粟門(あわのみと)」と「速吸名門(はやすいなと)」を見るが,潮が速いのであきらめ,「橘小門(たちばなのおど)」に「還向り(かえり)たまひて」,禊を行う。

     この異伝によると,当初は,粟あたりで禊ぎをやってしまおうと考えていたようだ。

     他の場所で禊ぎをしようとしたが,潮が速いのであきらめて,「橘小門」に「還向りたまひ」たというのだ。

     その「橘小門」は,もちろん,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」にいう「小戸の橘」だ。


    第5段第6の一書と神功皇后摂政前紀も証明する

     第5段第6の一書によれば,イザナキは,アマテラスら3神を生むに先立って,禊ぎの過程で,住吉大神(すみのえのおおかみ),すなわち底筒男命(そこつつのお),中筒男命(なかつつのお),表筒男命(うわつつのお)の3神を生む。

     これは,禊の場所で生まれた神々だ。

     そして一方,神功皇后摂政前紀では,この3神が,「日向国の橘の小戸(たちばなのおど)の水底に所居(い)て,水葉も稚(わかやか)に出で居る神」とされている。

     この神功皇后摂政前紀の「橘の小戸」は,確かに「日向国」にある。

     したがって,「筑紫」を北九州の筑紫ととる見解は,誤りだということになる。


    日向はどこにあるのか

     行政区画としての「日向国」がいつできたかは,確かに問題だろう。

     しかし,日本書紀編纂の時点で,日本書紀編纂者が「日向国」と呼んでいた地方であることは確かだ。

     そして「日向国」は,「広義で大隅国・薩摩国を含む」(小学館・新編日本古典文学全集・日本書紀1,193頁)。

     要するに,日本書紀の「叙述と文言」からすれば,イザナキとイザナミの神話の故郷,アマテラスが生まれた故郷が,「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」とか「橘小門(たちばなのおど)」だったことは間違いない。

     日本書紀第9段第4の一書を読んでみよう。

     天孫降臨したニニギ(天津彦彦火瓊瓊杵尊=あまつひこひこほのににぎのみこと)は,「吾田(あた)の長屋の笠狭の御碕(かささのみさき)」にやって来る。
     そして,そこで出会った事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)から,国を献上される。

     ここまでは,別段どうということもない。

     問題は,「其の事勝国勝神は,是(これ)イザナキの子(みこ)なり。亦の名は塩土老翁(しおつつのおぢ)」という点にある。

     事勝国勝長狭は,降臨後の天孫が初めて出会った人間だ。「吾田の長屋の笠狭の御碕」あたりを支配していたことになっている。だから,国を献上したのだ。

     その事勝国勝長狭が,じつはイザナキの子であり,またの名をシオツツノオヂ(塩土老翁)というのだ。

     シオツツノオヂは,ニニギの子であるヒコホホデミを,海神(わたつみ)の宮に案内する老人だった。すなわち,海のことをよく知っている海人系統の人だった。

    海幸彦と山幸彦の物語を展開する,日本書紀第10段第4の一書にある。

     天孫降臨して「吾田の長屋の笠狭の御碕」あたりにあった国を献上されたニニギは,そこに「就(ゆ)きて留住り(とどまり)」,その国の鹿葦津姫(かしつひめ)と結婚する。

    そして,ヒコホホデミ(いわゆる山幸彦)らをもうけて,「筑紫日向可愛(つくしのひむかのえ)」にある墓に葬られる(第9段本文)。

     結局,「吾田の長屋の笠狭の御碕」近くにある,「筑紫日向可愛」に,骨を埋めたのだ。

    兄の釣り針を無くしたヒコホホデミ(即ち山幸彦)は,海浜をさまよう。もちろん,「吾田の長屋の笠狭の御碕」近辺の海辺に違いない。

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