高良大社

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  • 太宰管内志の三瀦郡に

    ○御船山玉垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉
    ○大善寺 大善寺は玉垂宮に仕る坊中一山の惣名なり、古ノ座主職東林坊絶て其跡に天皇屋敷と名付て聊残れり
     玉垂大菩薩の没年が九州年号の端正元年(『二中歴』では端政)西暦五八九年と記されていた。ここの玉垂宮とは正月の火祭(鬼夜)で有名な大善寺玉垂宮のことだ。しかも、座主がいた坊跡を天皇屋敷と言い伝えている。玉垂命とは倭国王、九州王朝の天子だったのだ。端政元年に没したとあれば、『隋書』で有名な多利思北孤の前代に当たる可能性が高い。
     
    ○高三瀦廟院 三瀦郡高三瀦ノ地に廟院あり(略)玉垂命の榮域とし石を刻て墓標とす(略)鳥居に高良廟とある
  • 大善寺から少し離れた高三瀦の廟院

    小さな塚で、おそらくは仁徳五五年に来たと言う初代玉垂命の墓ではあるまいか。この塚からは弥生時代の細型銅剣が出土しており、このことを裏づける。廟の横には月読神社があった。

    月読神を「たかがみ」とし、九州王朝の祖神と幻視した室伏氏の仮説(『伊勢神宮の向こう側』)は当を得ていたようである。

     天孫降臨以来、糸島博多湾岸に都を置いていた九州王朝が、四世紀になって三瀦に都を移したのは、朝鮮半島の強敵高句麗との激突と無関係ではあるまい。
    http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga24.html
  • 大正元年に破壊された三瀦の銚子塚古墳は御塚(帆立貝式前方後円墳、全長一二三メートル以上)権現塚(円墳、全長一五〇メートル以上)の両古墳よりも大規模な前方後円墳だったが、これも九州王朝の天子にふさわしい規模だ。



    御塚古墳(久留米市大善寺)権現塚古墳の南側にあり。いま一重の濠をのこすが、もとは三重の濠をめぐらした直径一三〇メートルの帆立貝型の前方後円墳。
     権現塚古墳(久留米市大善寺)御塚古墳北側にあり。二重の濠をめぐらす直径一五〇メートルの円墳であり、九州にはめずらしく、畿内の低地の大古墳のおもむきをもっている。幕末の矢野一定は、御塚の上に「石人の残欠と見ゆる者一つあり」と書き残す。
     銚子塚古墳(三潴町大善寺)既になし。三重の濠をめぐらした大前方後円墳が明治初年まであったと伝えられる。以上の三古墳の説明は『九州の古代文化』森貞次郎著による。
     一条石人山古墳(広川町)一三〇メートルの前方後円墳。周溝をめぐらし、円筒や形象埴輪を出土。五世紀後半。
  • 久留米市大善寺町の県道23号線沿いにある「御塚古墳」と「権現塚古墳」は、5世紀後半から6世紀前半ごろにつくられたと考えられているもので、日本書紀に登場する豪族:水沼君のお墓だと言われています。それぞれ全長約121mと約152m超の巨大な円形の古墳で、特徴として古墳の周囲は濠が二重三重に張りめぐらされています。周囲およそ5万平方mは豊かな自然が広がっており、地元では通称:御塚公園として親しまれています
  • 祇園山古墳

    高良大社の近くに、武内宿禰の終焉の地と伝わる場所が存在します。

    武内宿禰の墓は大和葛城郡室という所に在り、武内の墓の傍に一つ倍塚があり「猫塚」と言う。
    これは武内宿禰が弟の讒言(ざんげん)に遭った時、身代りに死んだ壱岐の真猫の墓であろうと思う。云々(増田于信氏説)。 真猫の墓は早良郡生松原にも在り、猫塚と称す、そこに祀ったのが猫天神である。

    大和葛城にある武内宿禰の墓は、身代わりに死んだ壱岐真根子とあります。
    では何処に武内宿禰の墓があるのかと云うと一般的にはここ高良大社奥宮が武内宿禰の墓所であると云われていますが御廟と御本体 御廟は高良神の尾靴を埋め、御本体には装束を埋めたとの説あり。又、大臣は美濃山を通行して大和に上られたとの説あり。

    『高良山雑記』とあり奥宮は靴が埋められているようです。何処にあるかと云うと

    本体所 「大祝家の宅地内に武内宿禰の霊を斉き祭る所を本体所と言う」と、高良玉垂神社々伝に在ると言う高良山毘沙門に在る古墓は宿禰の墓と伝ふ(久留米志)。
    この二つの手がかりから推測される場所は祇園山古墳

    伝承のみを繋いでいくと武内宿禰の本体所は、ここということになってしまいます。古墳の上には箱式石棺があります。
    しかし古い伝承ではこれは大祝日往子(おおはふり・ひゆきこ)の墓所であるとも云われているようです。
    ??????
  • May 2016 編集されました
    神紋
    正殿:高良玉垂命 - 神紋は「横木瓜」
    左殿:八幡大神 - 神紋は「右三巴」
    右殿:住吉大神 - 神紋は「五七桐」

    宮地嶽神社(福岡県福津市)の神紋が「三階松(右三階松)」

     三つ巴を神紋とする神社は、宇佐神宮をはじめとする八幡宮、住吉神社系、志賀海神社などの綿津見系神社、大神神社、籠神社、豊受大神社、西宮えびす神社、鹿島神宮、香取神宮系など、全国の神社の半数近いといわれる

    住吉大社 花菱、三つ巴
    博多 住吉神社 三つ巴

    巴は橘とともに石清水八幡宮の御神紋であり、御本殿の彫刻を始め軒瓦など各所に見られます。当宮の巴は「流れ左三つ巴」であり、
  • 現地伝承に見える「高良の神は玉垂姫」という記録の存在も無視できない。
    『筑後国神名帳』の「玉垂姫神」以外にも、太宰管内志に紹介された『袖下抄』に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」という記事もあるからだ。
    一方、糸島博多湾岸での新羅との戦いに活躍する「大帯比賣(おおたらしひめ)」伝承(神功皇后<おきながたらしひめ>のこととして記録されているものが多い)も、この玉垂命(倭王旨)の事績としての再検討が必要のように思われる。
  • 高良大社文書『高良記』(中世末期成立)に記されていた。
    「大并(高良大菩薩)、クタラヲ、メシクスルカウ人トウクタラ氏ニ、犬ノ面ヲキセ、犬ノ スカタヲツクツテ、三ノカラクニノ皇ハ、日本ノ犬トナツテ、本朝ノ御門ヲ マフリタテマツルヨシ、毎年正月十五日ニ是ヲツトム、犬ノマイ 今ニタエス、年中行事六十余ケトノ其一ナリ」
     ここで記されていることは、百済からの降人の頭、百済氏が犬の面をつけて正月十五日に犬の舞を日本国の朝廷の守りとなって舞う行事が今も高良大社で続いているということだが、初代高良玉垂命がこの地に都をおいた時期、四世紀末から五世紀初頭にかけて百済王族が捕虜となっていることを示している。これに対応する記事が朝鮮半島側の史書『三国史記』百済本紀に見える。

    「王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(てんし)を以て質と為す。」
    (第三、阿辛*王六年<三九七>五月条)
    「腆支王。<或は直支と云う。>・・・・阿辛*の在位第三年の年に立ちて太子と為る。六年、出でて倭国に質す。」  (第三、腆支王即位前紀)
         辛*は草冠編に辛。38398

      『三国史記』のこの記事によれば、三九七年に百済の太子で後に百済王となった腆支が倭国へ人質となって来ていたのだ。この三九七年という年は、初代玉垂命が没した三九〇年の後であることから、倭王讃の時代となろう。『日本書紀』応神八年三月条に百済記からの引用として、百済王子直支の来朝のことが見えるが、書紀本文には『高良記』のような具体的な記事はない。すなわち、百済王子が人質として来た倭国とは、近畿天皇家ではなく、九州王朝の都、三瀦あるいは高良山だったのである。
    高良大社発行『高良玉垂宮神秘書同紙背』所収の大善寺玉垂宮の解説に次の通り記されていた。
    「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」
     玉垂命の長男、斯礼賀志命の末裔が、三瀦の大善寺玉垂宮大祝職であった隈氏ということであれば、斯礼賀志命が行った朝廷とは当時の王都、三瀦だったのだ。すなわち、長男は都の三瀦で政治を行い、次男の家系は上宮(高良山)で神事を司ったのではあるまいか。
    出典: 玉垂命と九州王朝の都
    http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html
  • 高良皇子神社
     この皇子たちの名が書かれていた境内の由緒書

    「起建」高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412~453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿) 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。(後略) 平成八年春弥生 山川区郷土研究会
  • December 2016 編集されました
    「高良記」末尾に、「異国征伐之時三百七十五人ノ神立」という、ことごとしい表題がつい不思議な「系譜」があるという。その系図は各種の神系図が〝合成″された形をしていて、その末尾に天照大神にはじまる系譜が書き留められている。

    天照大神(  神)…天忍穂耳尊…神皇彦帝(カンスベタマノミコト、ニニギニミコトに相当)…(三十数代)…天日神命(アマノヒノクマノミコト)〈巳上三十九命。下文略〉

    右は、〝天照大神より、代々継承して、天日神命(現在)に至る″の意をしめした系図である。「天」は「アマ」。隋書タイ国伝にタイ王の姓が「阿毎(アマ)」である、といわれているのと一致する。「高良記」では、「神代」は「クマシロ」と読むべきを指示しているから、「日神」は「ヒノクマ」であるかもしれぬ。(佐賀県、吉野ヶ里の北方に「日隅(ヒノクマ)神社」がある)

    問題は次の点だ。右の歴代中、五櫛彦命から次のように系図が分岐している。

    五櫛彦命-湯津彦命…(中略)…天日神命 〔本流〕

    五櫛彦命…………
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            |
    鸕鷀草葺不合尊……彦五瀬命…稲飯姫命…三毛入野命…磐余(いはれ)彦尊(神武) 〔分流〕
    注(鸕鷀草葺不合=ウガヤフキアエズ)

    〝われは天照大神の本流。神武たちの近畿天皇家は、わが五櫛彦命からの分流に当る。″

     これが、この系図の「主張」である。
  • <九躰皇子>                <建内宿禰の九人の子(古事記)>
    1 斯礼賀志ノ命神(シレガシ)       1 波多の八代の宿禰
    2 朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)   2 許勢の小柄(おから)の宿禰 
    3 暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)   3 蘇賀の石河の宿禰
    4 渕志ノ命神(フチシ)          4 平群の都久の宿禰
    5 谿上ノ命神(タニガミ)、         5 木の角(つぬ)の宿禰
    6 那男美ノ命神(ナオミ)         6 久米のマイト姫
    7 坂本ノ命神(サカモト)         7 ノノイロ姫
    8 安志奇ノ命神(アシキ)         8 葛城の長江のソツビコ
    9 安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)     9 若子(わくご)の宿禰
  • June 2017 編集されました
    久留米の祇園山古墳は『高良玉垂宮神秘書』などには、 物部日往子(ひゆきこ)の墓と書かれています。

    五十迹手(いそとて)は高麗国意呂山より天降って来た日拝の苗裔であると筑前風土記に書いてある。
    五十迹手は高句麗のウルソンから天下って来た日拝の末裔だそうです。

    「高雜国」。この文にはかうあるが、記、紀、古語拾遣等には「新羅国」と見えて居る。「意呂山」は今の「蔚山」麗国意呂山自レ天降来日梓之苗裔五十跡手是也」

    祇園山古墳
    方墳の周りには合計62基の墓がありました。 この数字が魏志倭人伝の「卑弥呼の殉葬者の100」という数字に近い事から、卑弥呼の墓だと言う人がいるようです。
    その62基の埋葬法を調べると、 甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基、箱式石棺墓7基、竪穴式石室3基、不明墓7基 となっていました。ずいぶん多彩です。 殉葬なら同じ様式で埋葬するほうが合理的じゃないかな、 と現代人はついつい考えるのですが。 殉葬が0だとはもちろん言えないのですが、 ペアを意識した埋葬もあって、一族の墓の可能性も考えていいなと思いました。 1号甕棺墓 その中でも1号甕棺墓には副葬品が残っていましたよ。それは 半分に割った後漢の鏡、5センチほどの勾玉、二個の管玉、刀子です。 この半分の鏡には紐が通せる穴が開けられていたので、ペンダントにした可能性があります。 この甕棺の内側には朱が塗られていました。 興味深いのは、この甕棺が「糸島地区の甕棺の末期と系譜的に繋がっている」点です。 甕棺なら古い時代に見えるのですが、そうではなくて同時期のものらしいです。

    祇園山古墳は、古墳時代前期に築かれたとみられる九州で最も古い段階に築かれた首長墓で、方墳(平面形が方形の古墳)の規模は東西約23.7m、南北約22.9m、高さ約6mと推定される。
    各辺とも直線でなく、中央部がやや膨らむ弧を描いている。墳丘は本来の地形を整形した上部に盛り土がされ、葺き石は2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)墳丘の周囲には60基以上の石蓋土壙等の棺が発見され、多くの市民による保存運動で、かろうじて約80%が遺跡として保存された。
     出土したものとして中国製画文帯神獣鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、鎌、錐、ヤリガンナ、鍬先、刀子、鉄鎌、鉄剣などが知られています。
  • June 2017 編集されました
    祇園山古墳から出土したとされる高良大社所蔵鏡との同型鏡. を含む3面の三角縁神獣鏡を副葬する二日市地峡部の原ロ古墳(縞向型前方後円墳)

    原口古墳は、交通量の多い県道福岡・筑紫野線(通称5号線)沿いの筑紫野市大字武蔵字原口にあります。
    1932年(昭和7)、開墾(かいこん)によって鏡などが発見され、はじめて古墳とわかりました。当時、鏡(三角縁神獣鏡とともにカメ棺が出土したので「異例の古墳」として注目を集めましたが、これは古墳の下にあった弥生時代のカメ棺墓まで一気に掘り下げたため、鏡とカメ棺がいっしょに出土したと思われたようです。遺物は後円部のほぼ中央から出土しており、粘土や朱が多量に見つかったことから、埋葬主体部は粘土槨(ねんどかく)と推定されます。出土遺物は、三角縁神獣鏡3面、直刀3振、鉄斧4個、管玉・丸玉5個でした。
    1971年(昭和46)、原口古墳の横に県道が建設されることになったため、発掘調査が行われました。その結果、原口古墳のすぐ横から新たに2基の古墳とカメ棺墓が見つかりました。また、原口古墳は長いあいだ円墳と考えられてきましたが、改めて墳丘を測量したところ全長約80m、後円部径約56m、前方部幅約25mの自然地形を利用した前方後円墳とわかりました。古墳の形は西側に崩れていますが、前方部が短く、わずかに開き気味で、前方部と後円部には約6mの高低差があります。
    原口古墳出土の鏡は次のとおり。
       *天王日月・獣文帯三神三獣鏡
       *天・王・日・月・獣文帯三神三獣鏡
       *長宜子孫・獣文帯三神三獣鏡
     この古墳は、墳形や出土遺物から見て、九州地方では最も古い時期に作られた大型の古墳と考えられます。
  • 節の文様(笠松型文様)が7個もある鏡

    表題を見て大変ビックリされた方が多いと思いますが、確かに存在しています。

    その鏡は、ヤマト桜井の茶臼山古墳出土の鏡片です。勿論この鏡は鏡片ですから全体像は分かりませんが、幸いにも同型鏡が存在しています。その同型鏡には、西摂津の東求女塚古墳(神戸市)、北部九州の原口古墳(福岡県筑紫市)から出土しており、その他に伝祇園山古墳(久留米市)、伝三重県桑名市出土鏡等があります。

    そこで節の文様の位置を知っていただく為にその位置を説明しますと、まず、ひとつの獣像の顔の両側にそれぞ各一個、内区に三角の形をした小突起が7個ありますがその内5個の上部は節旄の形をしており、小突起は退化した台座であることが分かります。この鏡から節の文様が退化してゆく系譜が辿れます。

    この鏡を研究するにあたっては、三角縁神獣鏡新鑑(樋口隆康)を参考にしていますので其れを基に説明すると、茶臼山鏡片は鏡の形式は三角縁獣帯三神三獣鏡で内区の乳は捩乳座を持つ鏡で鏡式107にあたり、→鏡式104→鏡式105→鏡式108に変化してゆき、それとともに節の文様が退化してゆくようです。最後の鏡式108には椿井大塚山古墳、福岡県の石塚山古墳、同じく原口古墳、大分県の赤塚古墳などから出土している鏡群で最も節の文様が退化しています。

    では、ヤマト桜井の茶臼山古墳を含めた鏡式107の一群をどのように考えるべきでしょうか。
    私は、三角縁神獣鏡が卑弥呼が貰ったとされる鏡が100枚をはるかに超えていることを考えると、この一群の成立は、茶臼山古墳鏡が捩乳座であることを考えると、茶臼山鏡のみが台与遣使以後に貰った鏡でこれをもとに、その他の鏡はわが国で踏み返し鏡が造られたのではないかと考えます。

    この考え方をさらに推し進めると、ヤマト桜井の茶臼山古墳からは正始元年銘の鏡片が出土していると報道されていますので、卑弥呼に貰った銅鏡100枚のうち1枚はこの鏡で、同型鏡とされる群馬高崎の蟹沢古墳鏡はこの桜井の茶臼山古墳の鏡をもとにして踏み返して作られた可能性が考えられます。
    この鏡の踏み返しの行為そのものが、卑弥呼、台与につずく初期ヤマト政権の誕生を物語っていると考えます。

    私は、桜井の茶臼山の被葬者こそが初期ヤマト政権を創立した男王であり、この初期ヤマト政権を新たな政治勢力の体制の表明をするために、他の倭製大型内行花文鏡や方格規矩鏡、だ龍鏡等が製作されたのだと考えます。その時期は、恐らく、西暦280年代で土器形式でいえば布留1式期に当たると考えています。
  • 景行12
    景行天皇、高羅(高良)の行宮に国内を遊覧し、御井の大川(筑後川)に渡し船を備える
    仲哀9
    神功皇后、天皇と共に筑紫に幸し、高良山に御滞在(安在地・朝妻)
    次いで、朝鮮半島に出兵、高良の神、神功皇后を援け給うと伝える
    239 邪馬台国女王卑弥呼。魏に遣使、金印を受ける
    300
    祇園山古墳「御井町」
    367
    仁徳55
    高良の神(玉垂命)、高良山に御鎮座
    この頃、礫山古墳・釜口古墳・ひょうたん山古墳できる
    391 倭軍、百済新羅を攻め、高句麗と交戦
    400
    履中元
    高良山に社殿を創建し、玉垂宮と称する。
    ≪鏡山系譜≫
    527
    継体21
    筑紫国造磐井、大和朝廷側の近江毛野臣の任那救援軍を阻止
    527 磐井の乱起る
    528
    〃 22
    物部麁鹿火、筑紫国造磐井を筑紫御井郡に討つ。
    この頃、高良山神籠石が築かれる?
    538 仏教伝来(一説に552)
    645大化元 筑後国府設置。
    この頃、筑後川中流域に条里制が施行される
    604 十七条憲法制定
    645 大化の改新
    663 白村江の戦、百済亡び救援の日本軍敗れる
    673
    天武2 仏教高良山に入り、高良の神・仏教帰依の託宣を下す。
    672 壬申の乱起きる
    677 天武白鳳6
    隆慶上人・神宮寺高隆寺を創建する≪隆慶伝≫
    678 〃   7
    筑紫国大地震
    695
    持統9 筑紫国が筑前・筑後に分かれ、筑後国府設置される
    713
    和銅6 従五位下道君首名、筑後国司となる
    767
    神護景雲元 勅命により大祭礼(神幸祭)が開始される
    795
    延暦14 高良神が初めて従五位下の神階を授けられる
    818
    弘仁9 高良玉垂命神、名神となる
    840
    承和7 高良玉垂神に従五位上が授けられる
    855
    斉衡2 高良玉垂名神に位田四町が加えられる
    869
    貞観11 高良玉垂命に従一位、豊比咩神に正四位が授けられる
    897
    寛平9 高良玉垂命に正一位、豊比咩神に正四位上が授けられる
    901
    延喜元 菅原道真、高良山に参詣すると伝える(袴着天神)
    901 菅原道真を太宰府に左遷
  • 物部多遅麻もののべのたじま

    氏(ウジ): 物部 【先代旧事本紀】(もののべ)
    姓(カバネ): 連公 【先代旧事本紀】(むらじきみ)連公
    姓(カバネ): 連 【先代旧事本紀】(むらじ)連
    名: 多遲麻 【先代旧事本紀】(たじま, たぢま)
    性別男性生年月日( ~ 神功皇后摂政元年10月2日)没年月日(神功皇后摂政元年10月2日 ~ )
    父物部武諸隅もののべのたけもろすみ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
    母清媛きよひめ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】



    子供たち
    物部印葉もののべのいにば 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母: 安媛やすひめ】
    物部山無媛もののべのやまなしひめ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母: 安媛やすひめ】
    物部伊与もののべのいよ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母: 安媛やすひめ】
    物部小神もののべのおかみ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母: 安媛やすひめ】
    物部大別もののべのおおわけ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母: 安媛やすひめ】
    香児媛かこひめ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:不明】
    小甂媛おなべひめ 【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 応神天皇二年四月壬子条】【母:不明】
    称号・栄典
    大連おおむらじ 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 神功皇后摂政元年十月甲子条】

    神功皇后と武内宿禰は仲哀天皇の喪を隠し、天下に知らせなかった。
    そして皇后は、武内宿禰及び中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連・物部多遅麻連に詔して「いま天下は天皇の崩御を知らない。もし百姓が知れば怠る者が現れるか」と。
    即ち命じて「大夫は百寮を率いて宮中を守り、密かに天皇の遺骸を収め、武内宿禰に任せて海路から 穴門あなとに移して、 豊浦宮とゆらのみやで殯せよ」と。

    【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 仲哀天皇九年二月丁未条】
  • 物部胆咋
    ( ~ 成務天皇元年1月5日)没年月日(仲哀天皇9年2月6日 ~ )

    十市根命とおちねのみこと 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】

    時姫ときひめ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
    配偶者たち
    比咩古命ひめこのみこと 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
    鴨姫かもひめ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
    伊佐姫いさひめ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
    止己呂姫ところひめ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】


    清媛きよひめ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:不明】
    物部五十琴もののべのいこと 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母: 比咩古命ひめこのみこと】
    物部五十琴姫命もののべのいことひめのみこと 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母: 比咩古命ひめこのみこと】
    物部五十琴彦もののべのいことひこ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母: 比咩古命ひめこのみこと】
    物部竺志もののべのちくし 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母: 鴨姫かもひめ】
    物部竹古もののべのたけこ 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母: 伊佐姫いさひめ】
    物部椋垣もののべのくらかき 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母: 止己呂姫ところひめ】
  • December 2017 編集されました
    弓頭神社
    久留米市三潴町高三潴字宮の脇528-1

    主祭神
    国乳別皇子

    弓頭神社(旧郷社)

    本社は水沼別(みぬまわけ)の始祖、国乳別(くにちわけ)皇子を主祭神とする。
    成務天皇紀で「吾が国造(くにのみやつこ)を任命する時には必ず楯矛を授けてあかしとする。」とあって、

    第12代景行天皇の皇子、国乳別皇子が「古式にのっとり、弓矢楯矛をいただいて下向し、高三瀦の地に在所を定めて、久しく筑紫地方を治められた」と書かれた部分に由来するものと思われる。

    この高三瀦は水沼の君累代の政治の地であり、古代の行政と文化の中心として繁栄した所である。

    古伝説には「神功皇后韓攻撃の時、弓大将だったために、弓頭大明神と称えられた」と言い伝えたとの説もある。

    国乳別皇子のお墓は烏帽子塚(弓頭神社御廟塚ともいう)と称し、本社の西北3町(約300m)ばかりの所にある。
    明治6年6月、郷社に定められる。なお、神社が所属する銅剣、石包丁、石戈、耳環は町の文化財に指定されている。
    平成10年3月 三瀦町教育委員会


    景行天皇の第三皇子ということは 小碓皇子のすぐ下の弟ということになります

    さらに水沼別(みぬまわけ)の始祖とあります水沼別と言うと筑紫の君磐井のことを『先代旧事本紀』に、物部の阿遅古(アジコ)の連は筑紫のミヌマの君の祖なり とあります。

    しかし筑紫の君磐井は 玉垂命の子孫です

    そして「高良玉垂神秘書」では
    ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズの尊は住吉大明神であり、明星天子の垂迹である(垂迹とは、菩薩が人々を救済するために仮の姿をとって現れること)

    叔母のオバキ玉依姫と夫婦になった。二人の間には5人の御子がいて住吉五神という。
    内訳は女子が二人で、男子が三人である。
    女子の名は表津少童命(ウワツフカタツミの命)、中津少童命(ナカツフカタツミの命)。

    男子は嫡男が表筒男の尊で、大祝(おおはふり)氏の先祖であり、日神の垂迹である。
    二男は中筒男の尊で、このクニに留まって初代天皇の神武天皇となった。
    三男は底筒男の尊で、高良大菩薩の事である。月神の垂迹である。

    とあります。

    総合すると ウガヤフキアエズの三男の家系が物部氏と縁組し その家系が景行天皇の三男と結ばれ水沼別の始祖となったということになります
  • December 2017 編集されました
    玉垂宮は下宮が先に祭られ、上宮は後に祭られたもので、中古より玉垂宮を武内宿禰とするのは誤りである。 民部省図帳残編に「天平年中、武内宿禰・荒木田襲津彦を祭って相殿とす」とあり、山城八幡にも「上の高良、下の高良」の二社がある。上高良は玉垂、下の高良は武内宿禰といえば別神であること疑いなし(矢野一貞説)。

    室大墓古墳(むろのおおばかこふん)は、奈良県御所市大字室に所在する古墳時代 中期前半の前方後円墳である。「宮山(みややま)古墳」、「室宮山古墳」ともいう。1921 年(大正10年)3月3日国の史跡に指定される。(wikipedia)
    被葬者の候補に葛城襲津彦や竹内宿禰の名が出ています

    本体所  「大祝家の宅地内に武内宿禰の霊を斉き祭る所を本体所と言う」と、高良玉垂神社々伝に在ると言う。
    大祝家の邸宅内にその御霊が祀られていました。 当家は竹内宿禰の末裔だと言っていました
  • December 2017 編集されました
    久留米市高良内

    『高良山雑記』に
    矢野一貞はその著『筑後将士軍談』に、「高良内」は元来、高良山の一部で、「内」は武内宿禰の采邑であった大和国「宇智」鄕より起り、一ノ岳二ノ岳の内という意義であろうと説いている。

    其の所説は、
     昔、高良山と言ったのは今の社地より広く、高良内の諸山をかけた惣名であっただろう。その証明として、『肥前風土記』に「高羅山を梶山とす」と書かれた梶山は当山東北の方に当る山に其の名が遺っている。

    この山は箕尾より山脈を発して高良内村に属している。今、鍛冶山と書くのは訓読が通じるので、そのまま訛って来たのだ。正しく梶山の遺名であることは論ずる間もない。

    『鈔』に「鍛治は鍛冶の誤りである」というが、カヂの仮字ではないか。カナウチを切りつめてカヌチと言ったのを又、略してカチとも言ったのだろう。

    当時の名称は神領が他領となって別れた頃よりのことだろう。しかし、なお旧名を村名に呼んで高良内と言ったのだろう。

    「内」とは如何なる意味だろうか。思いつかない。しいて言えば、これも武内宿禰の「内」に由緒があったと思われる。

    それは大臣を武ノ内と言い、弟を味内(うましうち)と言うことから考えられる。「内」は大和国宇智鄕より起こった。この鄕は大臣の采邑であったことは、先哲も論じていた。

    又、一ノ岳二ノ岳の内という意味で言われたのであろう。(略)
    一ノ岳と言うのが即ちこの岳(明星山)で、二ノ岳と云うのが今の高良山に違いない。云々。
    これが矢野一貞の高良内村名の考証論である。(高良内管見)
  • December 2017 編集されました
    弓頭神社

    三瀦の大神は高良よりも偉かったという。
    反歌にたまきはる内の大臣は?

    天皇 宇智の野に 遊猟(みかり)したまふ時、
    中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして
    献(たてまつ)らしめたまふ歌

    やすみしし わが大王(おおきみ)の 
    朝(みかど)には とり撫(な)でたまひ     
    夕(きさき)には い倚(よ)り立たしし      
    御執(みと)らしの 梓の弓の          
    中弭(なかはず)の 音すなり          
    朝猟(あさかり)に 今立たすらし        
    暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし
    御執らしの 梓の弓の              
    中弭の 音すなり                 

    反歌
    たまきはる 内の大野に 馬並(な)めて    
    朝踏ますらむ その草深野           

    (第一巻 第3・第4番)
  • 弓頭神社
    由緒等 弓頭神社(旧郷社)

     本社は水沼別の始祖、国乳別皇子を主祭神とする。
     成務天皇紀は「昔、国造を封せられる時は必ず楯矛を賜ひて其表とす」とあり、第十二代景行天皇の皇子国乳別皇子が「古式に則り、弓箭楯矛を賜りて、下向し給ひ、高三潴の地に御在所を定め給ひて、久しく筑紫地方を治め給へり」に由来するものと思われる。
     この高三潴は、水沼君累代の政治の地であり、古代行政・文化の中心として繁栄した処である。
     古伝説に「神功皇后征韓の砌、弓大将なるが故に、弓頭大明神と称え奉られる由」と云い伝えられたとの説もある。
     国乳別皇子の御墓は烏帽子塚(弓頭御廟塚とも云う)と称し、本社西北三町(約300メートル)許りの処にある。
     明治六年六月、郷社に定められる。
     なお、神社が所蔵する銅剣、石包丁、石戈、耳環は町の文化財に指定されている。
    (案内板より)
  • 「高良玉垂神秘書」では
    ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズの尊は住吉大明神であり、明星天子の垂迹である。
    (垂迹とは、菩薩が人々を救済するために仮の姿をとって現れること)

    叔母のオバキ玉依姫と夫婦になった。二人の間には5人の御子がいて住吉五神という。
    内訳は女子が二人で、男子が三人である。
    女子の名は表津少童命(ウワツフカタツミの命)、中津少童命(ナカツフカタツミの命)。

    男子は嫡男が表筒男の尊で、大祝(おおはふり)氏の先祖であり、日神の垂迹である。
    二男は中筒男の尊で、このクニに留まって初代天皇の神武天皇となった。
    三男は底筒男の尊で、高良大菩薩の事である。月神の垂迹である。

    とあります。

    総合すると ウガヤフキアエズの三男の家系が物部氏と縁組し その家系が景行天皇の三男と結ばれ水沼別の始祖となったということになります
  • December 2017 編集されました
    国乳別皇子はこの地で亡くなり、烏帽子塚古墳に埋葬された。
    廟堂が建ち、大変厳粛だったと書かれている。
    この古墳が前方後円墳で、かなり大きい。

    実は、弥生時代の前方後円墳が福岡の各地にある。
    被葬者の名も伝わっている。
    「烏帽子塚古墳」は三潴町内最古の神社「弓頭神社」でお祀りされている国乳別皇子のお墓。東西258m、南北100m、周囲712mという巨大なお墓だったと記されていますが、およそ2千年の時を経た現在はその面影もなく、小さな石塚の上に1本の萵苣の木が生えているのみ

    水沼君は日本書紀にも登場する。筑後川河口の平野に栄えたらしい。
    水沼君の墓と伝わるのは、御塚(おんづか)古墳である。鬼塚ともいう。百二十メートルを超える帆立貝式前方後円墳で、辺りには、権現塚、イロハ塚など四十基以上の古墳が点在している。五世紀後半造営、武人埴輪も出土したという。近くには、「鬼夜」という行事で有名な大善寺玉垂宮がある。高良玉垂宮とも深い関係の神社だそうである。
     景行天皇の子孫という国乳別皇子(水沼別)は、筑紫の豪族の始祖という。この皇子が祭られているのは、塚崎にある町内最古の弓頭神社である。皇子の墓と言われる烏帽子塚古墳(南北100m・周囲720m)も塚崎にあり、大古墳だったたらしいが、今は壊されてなくなった。旧三潴郡が、水沼君の本拠地だった事は分かる。が、古事記にも日本書紀にも登場しない氏神(高良玉垂命)が、高木神を高牟礼山から降ろしたとは。
  • 水間氏(みずまうじ)は日本の古代氏族で水沼(みぬま)氏に同じ。 『日本書紀』に
    よれば景行天皇と襲武媛(そのたけひめ)の間に生まれた国乳別皇子(くにちわけのみ
    こ)を始祖とするという。国乳別皇子は、神功皇后が新羅を攻めたとされる際に弓頭
    (もしくは弓大将)として従ったとされ、現在の久留米市三瀦(みずま)にある弓頭神
    社に祭られている。
    水沼氏は大和政権の一員として筑紫地方を支配していたとみられ、久留米市大善寺(だ
    いぜんじ)には、水沼氏のものとされる御塚(おんつか)と権現塚(ごんげんづか)の
    二つの古墳が残っている。また、日本書紀には、雄略天皇の時代に呉から天皇に献じら
    れた鵞鳥を水間君の犬が喰ってしまい、鴻10羽と養鳥人(とりかい)を献じて罪を贖
    い許されたとの記事も残っており、大陸から有明海、筑後川を経て筑紫に到った使者を
    迎える役を担っていたとも推察される。
  • わが国の現存する円墳をみると、最大級のものは直径一〇〇Mほどであるが(六世紀前半築造とされる埼玉古墳群の丸墓山古墳や、四世紀末頃築造とされる岡山県総社古墳群の小盛山古墳の例)、径が約一五〇Mという巨大円墳は、わが国ではまずありえない。畿内では八〇M級が最大級の円墳であり、奈良市大和田町の富雄丸山古墳(径八六M、高さ十Mほどで、四世紀末頃築造とされる)、五条市近内の鑵子塚古墳(径八五Mほど)が主なものとしてあげられるが、桜井市・橿原市辺りにはめぼしい円墳は見られない。
      九州では、円墳が少ないともいわれるが、仔細に見ていくと相当あり、主なものをあげておく。なかでも、福岡県久留米市大善寺町の権現塚古墳には留意される。その墳丘自体は径約五五M、高さ八M弱ほどで、全国の円墳のなかでは第二〇番ほどであるが、幅約十Mずつの二重の周濠があって、これを加えると径が一四〇M超にもなって、兆域では最大級となる。同墳は、南東六~八キロほどの近隣に石人山古墳や岩戸山古墳があり、築造時期は六世紀前半とみられる特異な古墳である。
     同県前原市の釜塚古墳も大型円墳で、径約五六M・高さ一〇Mで周濠があり、朝倉郡三輪町仙道の仙道古墳も、二重の周濠をもつ高さ四Mの円墳で六世紀中頃の装飾古墳であり、外側の周濠を入れた直径は四五Mとされる。大牟田市黄金町の潜塚古墳は径二五Mほどの初期の円墳であり、近くの山門郡瀬高町にも径五〇Mほどの権現塚古墳がある。豪華な出土品をもつ宗像郡津屋崎町の宮地嶽大塚古墳も、径三四Mの円墳であった。
  • 畧方形ノ造出アル圓形墳ニシテ高サ約三十四尺徑約三十一尺頂部ニ発掘セシ形迹アリ環湟ハモト三重ヨリ成リ今第二湟第三湟ハ多ク埋メラレテ僅ニ一部ヲ存セルニ過ギザレドモ尚舊規ノ見ルベキモノモアリ
    圓形墳ニシテ高サ約三十尺徑約三十一尺頂部ニ発掘セシ形迹アリ環湟ハ二重ヨリ成リ内外二湟ヲ界セル地域ニ埴輪圓筒竝列シヨリ舊規ヲ存セリ コノ地方ニ於ケル他ノ古墳ガ殆ド皆耕地整理ノ爲メニ廃滅ニ帰シタルニ係ラズ御塚権現塚両古墳ガ幸ニ保存セラレタルノミナラズソノ二重又ハ三重ノ環湟ヲ有セルコトハ近畿ニ於テモ類稀ナル特例ナリトス

    [[御塚]おんつか]・[[権現塚]ごんげんづか]古墳(旧名称 御塚古墳、権現塚古墳)

    御塚と権現塚の両古墳は、久留米市街地の西方筑後川の左岸の低台地上に相接して営まれた[[三潴]みずま]地方の代表的な古墳である。西方の御塚は、帆立貝式前方後円墳で昭和45年の発掘調査により、墳丘主軸長76メートル、後円部直径67メートル、後円部高さ約10メートル、前方部幅22.5メートル、外周に3重の外濠外堤をめぐらしていて、外堤外径が123メートルに達することが判明した。東の権現塚は御塚と約20メートルを隔てて営まれた円墳で直径51メートル、高さ9メートル、2重の外濠外堤とその外側に空濠を伴い、その外径は150メートルに達することが判明した。両墳には円筒埴輪片が認められ、両古墳が相前後して営まれたこともわかった。
     この両墳は、かつて大善寺町付近に営まれていた40余基の古墳群の中心的なものとして相接して営まれたものであり、かつ御塚・権現塚として並び称されたものである
  • 高良玉垂宮神秘書 第1条
    (前略) 仁徳天皇時、神功皇后、崩御され、高良明神、豊姫、玄孫人臣安曇磯良、その子、大祝日往子尊、武内大臣は皇宮をともに出られる。武内大臣は、因幡国へ・・
    豊姫(ゆたひめ)と玄孫大臣は、肥前国川上に留まりて、豊姫は河上大明神となりたまう。高良大明神、甥の大祝日往子尊は九月十三日に高良の山に遷幸あり。
    神功皇后が存命の時、皇宮にて三種神祇の取り扱いを協議された。玉璽は、高良大明神が預かり給い、宝剣は、神功皇后が持たれ、内侍は、玄孫大臣が預かり給うなり。
    大祝は本名字「鏡山」と申すなり。大祝は職についての名なり。

    高良玉垂宮神秘書 第6条
    安曇磯良は、筑前国にては志賀、日立国にては鹿島大明神、大和国にては春日大明神と申すなり。

    高良玉垂宮神秘書 第7条
    皇后の御妹に二人おわします。一人は宝満大菩薩、一人は河上大明神になりたまう。これ豊姫のことなり。

    高良玉垂宮神秘書 第12条
    皇后は異国征伐のおり、御舟には、志賀の前より乗りたまう。

    高良玉垂宮神秘書 第15条
    皇后は23歳の時、仲哀天皇の后になり給う。崩御は42歳ごろ。

    高良玉垂宮神秘書 第14条
    仁徳天皇、今は平野大明神と表わし給う。

    高良玉垂宮神秘書 第183-187条
    五姓仕人:丹波氏、安曇氏、前田氏、草部氏、草賀部氏
  • 多羅国については、日本書紀に一言出てくるだけで文献資料では様子がわからない。そのため、発掘資料で構成するしかない国である。ここでは5世紀はじめ頃から、甲冑、馬具、装身具などの金属遺物が突然出始める。金官伽耶の影響の強いもので、金官から人々が移住したと考えられている。というのも400年に金官が高句麗、新羅に敗れているからである。多羅国が成立したのもこの時期とされる。

    この地域は5世紀中葉までは新羅の影響が強い。その後大伽耶の影響が強くなり、大伽耶系の竜鳳紋環頭大刀が出土する。ここで作られたものでなく、大伽耶から関係ある勢力にくっばられたものだが、1つの古墳から4本も出ていて、ここの勢力の強さがわかる。この大刀は埼玉県稲荷山古墳 の鉄剣の系譜を知るためにも重要と言われる。一方で倭系の甲冑なども出土する。
  • July 2018 編集されました
    「高良玉垂宮神秘書」
    祭神
    一五三条 一、左宮 宇佐八幡大菩薩   (末梢文字)
    一五四条 一、中宮 玉垂大菩薩     (末梢文字)
    一五五条 一、右宮 住吉大明神     (末梢文字)
    一五六条 一、善神王 左本地 或は両部大日 右本地 或は不動毘沙門

    156条の「善神王」は 武内宿禰。

    22条(祭礼の次第の事)一、大菩薩抱き奉る次第の事、覆面の絹一疋、(略)。
    これより、安曇磯良の顔を覆う白い布から、

    玉垂大菩薩は、「安曇磯良とその奉斎する綿津見の神」か

    善神王が武内宿禰だという根拠は「高良御子神社 高良系神社乃分布」に「武内宿禰を祀る神社名は(略)… 善親(神)王…(略)」とあることと、安心院の佐田神社(祭神武内宿禰)が善神社となっていることから、黒殿、白髭などと同様に武内宿禰を指すものとしました
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