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math:gauss

カール・フリードリヒ・ガウス 1777-1855

「数学の王者」。 ブラウンシュヴァイクの煉瓦職人の子に生まれ、終生この地方の訛りがぬけな かったという。 3 才で父の計算間違いを指摘、 本人によれば「言葉より先に計算を覚えた」。 小学校のころ、9才にしてすでに等差数列の和の公式を見つけた話が有名。 先生がもてあまし、 同郷で小学校の助手となったばかりのバーチェルス(1769-36)が友達となり 一緒に数学を勉強、11才で二項定理(一般羃の場合)を発見。 先生が父を説得しギムナジウムへ進学、更にゲッチンゲン大学へ。 厳格だった父は「職人に学問は要らない」という意見だったが、 子が大学進学にあたりブラウンシュヴァイク公フェルディナンドに謁見を 許され、宮廷から奨学金を受けるに至ってやっとあきらめがついたという。 17才でニュートン、オイラー、ラグランジュを読み、 大学生となった18才に、統計的データからより正しい実験式を得る方法の 一つ「最小二乗法」を発見。言語学にも魅かれていたが、 19 才のとき正17角形の作図可能性を発見したことで数学に進むことを決意し、 この日から数学上の発見を綴った「日記」をはじめる。 父ボヤイともこのころ知りあった。 大学卒業後の 1798 再び故郷に帰り、公の庇護の下で 大著「数論研究」をまとめつつ小惑星の観測などもした。 1805 ヨハンナ・オストホフと恋愛結婚。 すでに天才大学者の誉れの高かったガウスの求婚に彼女は躊躇したという。 愛妻は 3 年後急逝、寂しさからすぐに再婚するも不幸な結婚となり、 1831 この妻も結核で亡くして以後は独身であった。 ブラウンシュヴァイク公はプロシアの対ナポレオン戦における 指揮官であったが、1806 この時の傷がもとで死亡。 ガウスは翌年ゲッチンゲン大からの招聘を受ける。 ペテルブルグからも招きを受けており、 そちらに行っていたら純粋に数学のみをやったかもしれないと、 後年語っている。 1810、彗星の軌道の決定などの天文学の業績に対し フランス学士院が賞を与えるが、フランスから賞金を受けとることを 潔しとせず、かわりとして時計が送られた。 このころ色消しにすぐれた「ガウス式レンズ」を設計。 また同年フランスのエコール・ポリテクやエコール・ノルマルを模した 大学をベルリンに作る案があり、アーベルと共に招聘されるが辞退。 1816から 新設のゲッチンゲン天文台長を併任。 講義の他に 1851 まで天体観測を続け、また 1818-22 には ハノーヴァ領の測量も任され多忙をきわめた。 政情の不安定から、大学の給料だけでは生活できなかったためともいわれる。 1812-22 の10年間が彼の創造の絶頂であり、 算術幾何平均や楕円積分の研究を通じて学生時代に発見した 楕円函数の理論の、惑星の摂動問題への応用なども発見。 また測量に際しては器具の改良から始まって、後には(1826)曲面論も創始。 このころの睡眠時間はわずか 2 時間ほどであったともいう。 一方、1820 年代には電磁気についてビオ、サバール、オームらの研究が 世に出ていた。これについても 1831 ウェーバーを物理学教授に招き、翌年より電磁気を共同研究、 その翌年には電信を実験。彼らの電信機はその後 1873 にヴィーン 万国博に展示された。 アレキサンダー・フォン・フンボルトとも交友、 科学政策について意見をかわした。 物理学、天文学の理論家としての存在も大きいが、生涯を通じて 数論を「数学の女王」と呼んで愛し、 「平方剰余の相互法則」について少くとも 7 種の別証明を 与え、また「代数学の基本定理」にも 3 種以上の証明を与えている。 1840 前後からは創造的活動は少なくなったが、ロシア語やサンスクリット語 を学ぶなど好奇心は衰えなかった。 またリーマン(1846)、デデキント(1850)らが学んでいる。 晩年は聖書に親しみ、その精神的孤独を自ら慰めた。

座右銘「数少なけれど熟したり」を印章に用いたといい、実際 発表論文の数はその発見に比して多くない。静かに研究のできる 時間とそのための社会の安定を何より欲し、自身の発見でも それを完全なかたちにできるまで寝かせておくのが常であった。 このため楕円函数論や非ユークリッド幾何についても、アーベル、ヤコビ、あ るいはボヤイ、ロバチェフスキーなどの発表によって「書く必要が無くなった」 と発表せずじまいであった。

math/gauss.txt · 最終更新: 2017/01/12 by N_Miya