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math:天文学と数学

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math:天文学と数学 [2017/01/12 ]
N_Miya [ケプラーの法則 1619年]
math:天文学と数学 [2017/03/10 ] (現在)
N_Miya [アイザック・ニュートン 1642 - 1727]
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 グレゴリオ改暦が議論され始めていた1560年頃には、平均太陽年は、約365.2422日であることが知られていた。(365.25日 − 365.2422日)× 400年 = 3.12日/​400年 であるから、ユリウス暦における置閏法(400年間で100回の閏年)に比べて400年間に3回の閏年を省けば、かなりよい近似となることが分かる。 グレゴリオ改暦が議論され始めていた1560年頃には、平均太陽年は、約365.2422日であることが知られていた。(365.25日 − 365.2422日)× 400年 = 3.12日/​400年 であるから、ユリウス暦における置閏法(400年間で100回の閏年)に比べて400年間に3回の閏年を省けば、かなりよい近似となることが分かる。
  
-##​ ガリレオ・ガリレイ 1564-1642+##​ ガリレオ・ガリレイ(1564-1642 ​)とケプラー
  
 1581年ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年頃からトスカーナ宮廷付きの数学者 オスティリオ・リッチにユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。 1581年ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年頃からトスカーナ宮廷付きの数学者 オスティリオ・リッチにユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。
 1589年にピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた。 1589年にピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた。
 1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、彼は多くの画期的発見や改良を成し遂げている。ガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、 息子のガリレオは、物体の運動の研究をする時に(父に倣って)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。彼以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパには無かった、と考えられている。さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考える時にアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験も行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法を採った、と一般に考えられている。それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。 1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、彼は多くの画期的発見や改良を成し遂げている。ガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、 息子のガリレオは、物体の運動の研究をする時に(父に倣って)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。彼以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパには無かった、と考えられている。さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考える時にアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験も行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法を採った、と一般に考えられている。それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。
-当時、中世イタリアの権力者たちの権力争いの渦に巻き込まれる中で、(物理や天文の研究に関しては天才的ではあったものの)政治や人間関係に関しては不得手で素朴な考え方をしていたガリレイは(他の世渡り上手な学者たちに比べると)あまりうまく立ち回れず、次第に敵を増やす形になってしまい、ついには彼のことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ることになった。職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは病気がちになった。これを知ったルネ・デカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。追い打ちをかけるようにガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。さらに1637~1638年ころには失明した。+ 
 +一方、ケプラーの家は貧しかったものの、奨学金を得て神学校に進学したのち、1587年、テュービンゲン大学に入学し数学を学んだ。1594年にはグラーツの学校(現在のグラーツ大学)で数学と天文学を教えるようになった。1596年には「宇宙の神秘」を出版し、この中でニコラウス・コペルニクスの唱えた地動説を全面的に支持した。 
 +天文学者の中でコペルニクスの説を全面的に支持したのはケプラーが初めてであり、これを読んだガリレオ・ガリレイはケプラーにその考えを支持する旨の手紙を送った 
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 +ガリレオは、中世イタリアの権力者たちの権力争いの渦に巻き込まれる中で、(物理や天文の研究に関しては天才的ではあったものの)政治や人間関係に関しては不得手で素朴な考え方をしていたガリレイは(他の世渡り上手な学者たちに比べると)あまりうまく立ち回れず、次第に敵を増やす形になってしまい、ついには彼のことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ることになった。職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは病気がちになった。これを知ったルネ・デカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。追い打ちをかけるようにガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。さらに1637~1638年ころには失明した。
 だが、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に没した。 だが、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に没した。
  
-ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた[9]。+ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた
 これを用いて1609年月に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた)があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった。 これを用いて1609年月に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた)があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった。
-また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者』(Sidereus Nuncius) として論文発表された(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。1633年第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。+また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者』(Sidereus Nuncius) として論文発表された(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。 
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 +1633年第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。
 晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。 晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。
  
ライン 64: ライン 74:
 万有引力の法則に関して、古い伝記などでは「庭にあるリンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」とするものが多かったが、基本的にウールスソープ滞在当時の文書記録や物証があるわけではなく、はるか後に(ロバート・フックと、万有引力に関して先取権争いのいざこざも生じた後に)そうだった、とニュートンが知人や親類などに語った話などがもとになって流布した話にすぎない。つまり利害関係者当人が語る話やその伝聞の類にすぎず、内容に関しては真偽が不明である。 万有引力の法則に関して、古い伝記などでは「庭にあるリンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」とするものが多かったが、基本的にウールスソープ滞在当時の文書記録や物証があるわけではなく、はるか後に(ロバート・フックと、万有引力に関して先取権争いのいざこざも生じた後に)そうだった、とニュートンが知人や親類などに語った話などがもとになって流布した話にすぎない。つまり利害関係者当人が語る話やその伝聞の類にすぎず、内容に関しては真偽が不明である。
  
 +微積分を駆使して宇宙の真理に到達したニュートン
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 +ニュートンが万有引力の法則を発見するまで、微積分をどのように使ったかを見ていきましょう。
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 + ニュートンは、ケプラーの第2法則から、惑星には常に太陽からの引っ張る力が働いていることを、積分の考え方を用いて証明しました。
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 + ケプラーの第2法則とは「面積速度一定(一定時間に太陽と惑星を結ぶ線が描く軌跡の面積は等しい)」というものです。図で惑星がAにいて、A1の方向へ動こうとしているとします。惑星に外から何の力も加わらなければA1に動きますが、実際にはBへと動きました。描く軌跡はOAが共通なので、面積速度一定を満たすためには、三角形OAA1と三角形OABの高さが同じでなければいけません。そのため、公転する惑星には原点Oに向かう以外の力がかかってはいけないことになります。
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 + そして、AとA1の距離を縮めて、限りなく0に近づけると、実際の公転軌道にあてはまります。積分法の考え方を用いることで、面積速度一定から太陽の引力を示したのです。
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 + また、ニュートンは、惑星がその公転軌道の中心に向かう加速度(速度の瞬間的な変化のこと/速度を微分して求められる)を、微分法を用いて算出し、ケプラーの第3法則と併せることで、引力が距離の2乗に反比例することも導き出します。
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 + 惑星の位置ベクトルは、公転半径r、公転周期Tで表される時間tの関数になります。この位置ベクトルを2回微分すると、惑星の加速度が求められ、これは に比例する式になります。この計算結果に、ケプラーの第3法則「惑星の公転周期Tの2乗と公転半径rの3乗は比例する」を当てはめると、 に比例するという結果が得られます。rは惑星から太陽までの距離ですから、太陽が惑星におよぼす引力は、距離の2乗に反比例していると証明されるわけです。
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 + これらの計算結果から、どの惑星も太陽からの引力を受けていて、その力は太陽までの距離の2乗に反比例するという法則が導かれました。この法則は、太陽と惑星だけでなく、惑星とその衛星など、あらゆるものにあてはまりました。
  
 + ニュートンが導き出した万有引力の法則は、アルバート・アインシュタインが登場するまで、物体の運動をもっとも正確に説明する理論として君臨し、現在でも、一定の条件下では十分有用なものです。そして、その理論は数学を駆使することで導き出されたものだったのです。
  
 ## ダランベール 1717-1783 ​ ## ダランベール 1717-1783 ​
math/天文学と数学.1484191168.txt · 最終更新: 2017/01/12 by N_Miya