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math:天文学と数学

天体の運動の観測と数学

 科学・数学的視点からの天動説の始まり 2世紀

2世紀にはアポロニウス、ヒッパルコス、クラウディオス・プトレマイオスが天動説を体系化した。彼らは決して迷信や宗教的な考えから天動説を唱えたのではなく、当時知られていた知見に基づき、科学的・合理的な解釈の帰結として天動説を唱えた。

張 衡 78 - 139年

太陽の1年を、365日と1/4と算出した。小惑星(1802 張衡)には、彼の名がつけられている。 張衡は力学の知識と歯車を発明に用いた。彼の発明には、世界最初の水力渾天儀(117年)、水時計、候風と名付けられた世界初の地動儀(132年)、つまり地震感知器などがある。地動儀は500キロメートル離れた地点の地震を感知することができた。彼は円周率も計算し、2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。著書の「霊憲」において月を球形と論じ、月の輝きは太陽の反射光だとした。

コペルニクスの地動説 1543年

ニコラウス・コペルニクス。16世紀に地動説を唱え、星の軌道計算を行った。カトリック教会の司祭であったコペルニクスは、この誤差に着目した。彼は地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたと言われ、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。コペルニクスはアリスタルコスの研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した。1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる。 コペルニクスは1543年に没する直前、彼の思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定しなおせるようにした。コペルニクスが地動説の創始者とされるのは、このように検証を行なったためである。

グレゴリオ改暦が議論され始めていた1560年頃には、平均太陽年は、約365.2422日であることが知られていた。(365.25日 − 365.2422日)× 400年 = 3.12日/400年 であるから、ユリウス暦における置閏法(400年間で100回の閏年)に比べて400年間に3回の閏年を省けば、かなりよい近似となることが分かる。

 ガリレオ・ガリレイ(1564-1642 )とケプラー

1581年ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年頃からトスカーナ宮廷付きの数学者 オスティリオ・リッチにユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。 1589年にピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた。 1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、彼は多くの画期的発見や改良を成し遂げている。ガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、 息子のガリレオは、物体の運動の研究をする時に(父に倣って)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。彼以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパには無かった、と考えられている。さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考える時にアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験も行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法を採った、と一般に考えられている。それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。

一方、ケプラーの家は貧しかったものの、奨学金を得て神学校に進学したのち、1587年、テュービンゲン大学に入学し数学を学んだ。1594年にはグラーツの学校(現在のグラーツ大学)で数学と天文学を教えるようになった。1596年には「宇宙の神秘」を出版し、この中でニコラウス・コペルニクスの唱えた地動説を全面的に支持した。 天文学者の中でコペルニクスの説を全面的に支持したのはケプラーが初めてであり、これを読んだガリレオ・ガリレイはケプラーにその考えを支持する旨の手紙を送った

ガリレオは、中世イタリアの権力者たちの権力争いの渦に巻き込まれる中で、(物理や天文の研究に関しては天才的ではあったものの)政治や人間関係に関しては不得手で素朴な考え方をしていたガリレイは(他の世渡り上手な学者たちに比べると)あまりうまく立ち回れず、次第に敵を増やす形になってしまい、ついには彼のことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ることになった。職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは病気がちになった。これを知ったルネ・デカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。追い打ちをかけるようにガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。さらに1637~1638年ころには失明した。 だが、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に没した。

ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた これを用いて1609年月に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた)があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった。 また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者』(Sidereus Nuncius) として論文発表された(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。

1633年第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。 晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。

何が裁判の発端となったのでしょうか。ガリレオが書いた「二大世界体系についての対話」という本です。実際のところその本は,地動説を唱道するものでした。著者のガリレオは1632年に法廷に召喚されましたが,すでに70歳に近く,しかも病気だったので,すぐには応じませんでした。身柄が拘束されて強制移送させられるという脅しを受けた後,翌年ローマに向かいました。教皇の命令により尋問され,拷問の危険にもさらされました。 この病気の老人が実際に拷問されたかどうかは,論議の的となっています。判決文にはガリレオが「厳しい審査」を受けたと記されています。イタリアの法制史家イタロ・メローイによると,その表現は当時,拷問に言及する際に使われた専門用語でした。多くの学者がその解釈に同意しています。 いずれにせよ,1633年6月22日,ガリレオは厳かな雰囲気の漂う広間で異端審問官たちから判決を言い渡されました。有罪でした。判決理由は,「聖なる神の書に反する偽りの教理,つまり,太陽は……東から西へ動いているのではなく,地球が動いており,地球は世界の中心ではないという教理を掲げて信じた」ということでした。 ガリレオは殉教することを望まなかったので,主張を撤回せざるを得ませんでした。判決が読まれた後,悔悛者の装いをしてひざまずいたこの老齢の科学者は,重々しくこう宣言しました。「私は前述の誤りや異説[コペルニクス説],また聖なる教会に反する他のいかなる誤り,異説,教派をもおしなべて放棄し,のろい,嫌悪します」。 確たる証拠はないものの,よく知られた言い伝えでは,ガリレオは宣誓した後に床を踏み鳴らし,「それでも地球は動く!」と抗議したということです。自分の発見を放棄するというこの屈辱的な経験は死ぬまでこの科学者を苦しめたと,注釈者たちは述べています。ガリレオは投獄を言い渡されていましたが,終身の自宅拘禁に減刑されました。その後徐々に視力を失い,隠遁生活に近い日々を送りました。

グレゴリオ暦 1582年

グレゴリオ暦は、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良して制定した暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + 97/400 = 365.2425日、とすることがグレゴリオ暦の本質である。この平均日数365.2425日は、実際に観測で求められる平均太陽年(回帰年)の365.242 189 572日(2013年年央値)に比べて26.821秒だけ長い。 日本では明治5年(ほぼ1872年に当たる)に採用され、明治5年12月2日(旧暦)の翌日を明治6年1月1日(新暦)(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とした。

教会はリリウスやクラヴィウスらに改良案を依頼する前に、コペルニクスに依頼したのであるが、コペルニクスは遠慮深く、「今の天文学は不確かで、暦を改良するほど知識が揃っていない」として断っている。

ケプラーの法則 1619年

ヨハネス・ケプラーによって発見された惑星の運動に関する法則である。ティコ・ブラーエの観測記録から、太陽に対する火星の運動を推定し、以下のように定式化した。

  1. 第1法則(楕円軌道の法則)惑星は、太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動く。
  2. 第2法則(面積速度一定の法則)惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は、一定である(面積速度一定)。
  3. 第3法則(調和の法則)惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する。

先に、第1法則および第2法則が発見されて1609年に発表され、後に、第3法則が発見されて1619年に発表された

ケプラーの法則は、天動説に対する地動説の優位を決定的なものにした。コペルニクスによって地動説が唱えられて以降も、地動説に基づく惑星運動モデルは従来の天動説モデルと比べ、実用上必ずしも優れたものではなかった。しかしケプラーの法則の登場により、地動説モデルは天動説モデルよりもはるかに正確に惑星の運動を記述することが可能になった

アイザック・ニュートンは、自分が発見した運動の法則と、このケプラーの法則などを元に万有引力の法則を導き出した。一方、ケプラーの法則は万有引力の法則を、惑星のポテンシャルエネルギーと運動エネルギーの和が負である(すなわち、惑星が無限遠まで飛んでいかない)という条件の下、太陽の質量に比べ惑星の質量が十分小さい(すなわち、太陽は静止していると見なせ、惑星間の相互作用は無視できる)という近似を行って解くことによって導くことができる。

ガリレオの名誉回復 1992

1992年に、カトリック教会は、ようやく『ガリレオ』の『名誉回復』を決定しました。ローマ教皇『ヨハネ・パウロ2世』は、『ガリレオ』の正しさを認め、当時の神学者の洞察力の浅さが誤認の原因と以下のように声明をだしました。草葉の陰で『ガリレオ』は、『400年も経ってから、いまさら何を』と苦笑しているのではないでしょうか。

逆説的なことに、敬虔な信者だったガリレオは、この問題(科学と聖書の表面的な矛盾)について、敵対する神学者たちよりも深い洞察力を>持っていることを証明しました。大半の神学者は、聖書とその解釈のあいだにれっきとした区別が存在すると気付かず、科学的研究の分野に>属するはずの問題を、宗教原理の問題へと不当にすり替えてしまったのです。

当時の新聞は、大ニュースとして報道しました。

アイザック・ニュートン 1642 - 1727

当時、大学での講義のカリキュラム編成は、スコラ哲学に基づいて行われており、つまり主としてアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンは当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好み、例えば、数学分野では、エウクレイデスの『原論』、デカルトの『幾何学』ラテン語版第2版、ウィリアム・オートレッドの『数学の鍵』(Clavis Mathematicae )、ジョン・ウォリスの『無限算術』などであり、自然哲学分野ではケプラーの『屈折光学』(Dioptrice )、ウォルター・チャールトン(英語版)の原子論哲学の入門書などを読んだのである。 恩師のアイザック・バロー。ニュートンを大切にしてくれ、すぐれた指導をしてくれたうえに、さらに自身のルーカス教授のポストを譲ってくれた、ニュートンの大恩人である。 ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の初代教授に就任したバローは、ニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えた。バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトニズムを奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。バローのおかげもあり、1664年にニュートンは「スカラー」(奨学金が支給される学生)にしてもらうことができ、さらに翌年には学位を授与されることになる。彼との出会いによってニュートンの才能は開花し、1665年に万有引力、二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。ペスト禍を逃れて故郷の田舎にいた18ヶ月間の休暇でなしとげたことで、ニュートンの三大業績は全て25歳ころまでになされたものである。 ニュートンは「流率法」 (Method of Fluxions) と彼が呼ぶもの(=将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、プリズムでの分光の実験(『光学』)、万有引力の着想などに没頭することができたのである。結局、このわずか1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績の発見および証明がなされているので、この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれている。 万有引力の法則に関して、古い伝記などでは「庭にあるリンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」とするものが多かったが、基本的にウールスソープ滞在当時の文書記録や物証があるわけではなく、はるか後に(ロバート・フックと、万有引力に関して先取権争いのいざこざも生じた後に)そうだった、とニュートンが知人や親類などに語った話などがもとになって流布した話にすぎない。つまり利害関係者当人が語る話やその伝聞の類にすぎず、内容に関しては真偽が不明である。

微積分を駆使して宇宙の真理に到達したニュートン

ニュートンが万有引力の法則を発見するまで、微積分をどのように使ったかを見ていきましょう。

 ニュートンは、ケプラーの第2法則から、惑星には常に太陽からの引っ張る力が働いていることを、積分の考え方を用いて証明しました。

 ケプラーの第2法則とは「面積速度一定(一定時間に太陽と惑星を結ぶ線が描く軌跡の面積は等しい)」というものです。図で惑星がAにいて、A1の方向へ動こうとしているとします。惑星に外から何の力も加わらなければA1に動きますが、実際にはBへと動きました。描く軌跡はOAが共通なので、面積速度一定を満たすためには、三角形OAA1と三角形OABの高さが同じでなければいけません。そのため、公転する惑星には原点Oに向かう以外の力がかかってはいけないことになります。

 そして、AとA1の距離を縮めて、限りなく0に近づけると、実際の公転軌道にあてはまります。積分法の考え方を用いることで、面積速度一定から太陽の引力を示したのです。

 また、ニュートンは、惑星がその公転軌道の中心に向かう加速度(速度の瞬間的な変化のこと/速度を微分して求められる)を、微分法を用いて算出し、ケプラーの第3法則と併せることで、引力が距離の2乗に反比例することも導き出します。

 惑星の位置ベクトルは、公転半径r、公転周期Tで表される時間tの関数になります。この位置ベクトルを2回微分すると、惑星の加速度が求められ、これは に比例する式になります。この計算結果に、ケプラーの第3法則「惑星の公転周期Tの2乗と公転半径rの3乗は比例する」を当てはめると、 に比例するという結果が得られます。rは惑星から太陽までの距離ですから、太陽が惑星におよぼす引力は、距離の2乗に反比例していると証明されるわけです。

 これらの計算結果から、どの惑星も太陽からの引力を受けていて、その力は太陽までの距離の2乗に反比例するという法則が導かれました。この法則は、太陽と惑星だけでなく、惑星とその衛星など、あらゆるものにあてはまりました。

 ニュートンが導き出した万有引力の法則は、アルバート・アインシュタインが登場するまで、物体の運動をもっとも正確に説明する理論として君臨し、現在でも、一定の条件下では十分有用なものです。そして、その理論は数学を駆使することで導き出されたものだったのです。

ダランベール 1717-1783

質点の力学から剛体の力学への橋渡しを研究。「ダランベールの原理」。 また弦の振動や風の研究から偏微分方程式をはじめて考察。 有理関数の不定積分と関係して、「代数学の基本定理」(多項式が複素数の中では 必ず因数分解できること)を発見したが、証明できなかった。

無限次元の微分法というべき変分法によって「最小作用の原理」 を明解に定式化すると共に、 変数変換が代数的演算で自由に行なえる枠組を開発。 月や地球の摂動の問題に応用し、 ここにコペルニクス以後の天文学が 「単一の原理から天象を予言する」までに高められた。 「解析力学」では、剛体および流体の静力学(つりあい)と動力学(運動)が論じられ、 ニュートン以後の研究(特にオイラー、ダランベール)を体系化し、 図による発見法を廃し いわゆる運動方程式を解くことで統一的に物体の運動を論ずることが目標であった。 その為、この本には図が一つもないという。 「解析力学」はポリテクなどの標準的教科書となり、 これ以後近代の大学での物理学教育が制度として定着した。

ピエール・シモン・ラプラス 1749-1827

少年時代のことは語らなかったというが、ノルマンディの貧農に生れたらしい。 力学についてダランベールへ書いた手紙によって20才頃パリへ招かれ、陸軍学校の 教授となった。1773- アカデミー会員、ラヴォアジェと化学研究もした。 革命の後、ナポレオン政権で内務大臣に任ぜられるが 「政治にも無限小を持ち込む(緻密すぎた?)」とナポレオンに評された。 1799 上院議員、1803 副議長、1806 伯爵。 更にナポレオンが支持を失うと退位に賛成、新政府派となり貴族院に入るなど、 世渡りに長けた。 主著「天体力学論(全5巻)」1799-1825 で太陽系の諸惑星の摂動を扱う。 ナポレオンに献呈した際、 「神はどこに出てくるのか」の問いに「私は神を必要としません」と答えた話が有名。 また「確率の解析的理論」1812 において、今でいう「ガウス分布」を論じた。 これらの書は後の時代(ハミルトン、グリーン)に影響が大であった。 79才の時、コーシーが無限級数の収束の定義を発表すると、 「天体力学論」で使った全ての級数の収束を確かめるまで家に籠って「面会謝絶」 したという.

エマヌエル・カント 1744-82

「純粋理性批判」はニュートン力学が唯一可能な力学であることを、 人間が直観できる形式の 限界という視点から 「論証」を試みたものという。

ナポレオン・ボナパルト 1769-1821

革命後期の不安な政情を安定化させるための軍統率者として実権を得る。 自身は数学を陸軍学校で習っただけだったが 数学に非常な価値を認め、数学者を多く登用。 権威づけのためにアカデミーを用い、 またその関係をエジプト遠征にも生かした。

カール・フリードリヒ・ガウス 1777-1855

「数学の王者」。 17才でニュートン、オイラー、ラグランジュを読み、 大学生となった18才に、統計的データからより正しい実験式を得る方法の 一つ「最小二乗法」を発見。言語学にも魅かれていたが、 19 才のとき正17角形の作図可能性を発見したことで数学に進むことを決意し、 この日から数学上の発見を綴った「日記」をはじめる。 父ボヤイともこのころ知りあった。 大学卒業後の 1798 再び故郷に帰り、公の庇護の下で 大著「数論研究」をまとめつつ小惑星の観測などもした。 1805 ヨハンナ・オストホフと恋愛結婚。 愛妻は 3 年後急逝、寂しさからすぐに再婚するも不幸な結婚となり、 1831 この妻も結核で亡くして以後は独身であった。 ブラウンシュヴァイク公はプロシアの対ナポレオン戦における 指揮官であったが、1806 この時の傷がもとで死亡。 ガウスは翌年ゲッチンゲン大からの招聘を受ける。 1810、彗星の軌道の決定などの天文学の業績に対し フランス学士院が賞を与えるが、フランスから賞金を受けとることを 潔しとせず、かわりとして時計が送られた。 このころ色消しにすぐれた「ガウス式レンズ」を設計。 また同年フランスのエコール・ポリテクやエコール・ノルマルを模した 大学をベルリンに作る案があり、アーベルと共に招聘されるが辞退。 1816から 新設のゲッチンゲン天文台長を併任。 講義の他に 1851 まで天体観測を続け、また 1818-22 には ハノーヴァ領の測量も任され多忙をきわめた。 政情の不安定から、大学の給料だけでは生活できなかったためともいわれる。 1812-22 の10年間が彼の創造の絶頂であり、 算術幾何平均や楕円積分の研究を通じて学生時代に発見した 楕円函数の理論の、惑星の摂動問題への応用なども発見。 また測量に際しては器具の改良から始まって、後には(1826)曲面論も創始。 このころの睡眠時間はわずか 2 時間ほどであったともいう。 物理学、天文学の理論家としての存在も大きいが、生涯を通じて 数論を「数学の女王」と呼んで愛し、 「平方剰余の相互法則」について少くとも 7 種の別証明を 与え、また「代数学の基本定理」にも 3 種以上の証明を与えている。

math/天文学と数学.txt · 最終更新: 2017/03/10 by N_Miya