天体の運動から、暦ができ、Π が求められた。
円周の直径に対する比率が円の大きさに依らず一定であり、それが 3 より少し大きい程度だということは古代エジプトやバビロニア、インド、ギリシアの幾何学者たちにはすでに知られていた。また、古代インドやギリシアの数学者たちの間では半径 r の円板の面積が πr2 であることも知られていた。さらに、アルキメデスは半径 r の球の体積が (4/3)πr^3 であることや、この球の表面積が 4πr^2(その球の大円による切り口の面積の4倍)であることを示した。
14世紀インドの数学者・天文学者であるサンガマグラマのマーダヴァは次のような π の級数表示を見いだしている(ライプニッツの公式):
${\displaystyle {\frac {\pi }{4}}=1-{\frac {1}{3}}+{\frac {1}{5}}-{\frac {1}{7}}+\cdots =\sum _{n=0}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}}{2n+1}}.}$
これは逆正接関数 Arctan x のテイラー展開の x = 1 での実現になっている。
後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現河南省南陽市臥竜区石橋鎮)の人。
没落した官僚の家庭に生まれた。祖父張堪は地方官吏だった。青年時代洛陽と長安に遊学し、太学で学んだ。
30歳くらいで、天文を学び始め、「霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算網論」を著した。彼は歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為、当時争議を起こした。順帝の時代の宦官政治に我慢できず、朝廷を辞し、河北に去った。南陽に戻り、138年に朝廷に招聘されたが、139年に死去した。文学作品としては他に、「帰田賦」、「四愁詩」、「同声歌」がある。
張衡は力学の知識と歯車を発明に用いた。彼の発明には、世界最初の水力渾天儀(117年)、水時計、候風と名付けられた世界初の地動儀(132年)、つまり地震感知器などがある。地動儀は500キロメートル離れた地点の地震を感知することができた。ある日、地動儀の設置場所からみて西北方向の地震の揺れを感知したが、人々は少しの揺れも感じないことがあった。一部の人は地動儀の誤りを疑った。しかし数日後、甘粛から急使が来て、地震の発生のことを報告した。このことがあって以来、地動儀の正確性を疑うことはなくなったという。
そのほか、彼は円周率も計算し、2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。著書の「霊憲」において月を球形と論じ、月の輝きは太陽の反射光だとした。「霊憲」には以下の記述がある。
月光生于日之所照,魄生于日之所蔽;当日則光盈,就日則光尽也。
また続いて以下の記述があり、
当日之冲,光常不合者,蔽于地也,是謂暗虚,在星則星微,遇月則月食。
張衡が月食の原理を理解していたことがわかる。
月の直径も計算したとされ、太陽の1年を、365日と1/4と算出した。小惑星(1802 張衡)には、彼の名がつけられている。なお、彼の天文の研究や地震計の発明には、2世紀に入り、後漢に天災が多発しだした時代背景がある。
王蕃(おう はん、228年 - 266年)は、中国三国時代の呉の天文学者・数学者・政治家。字は永元。弟は王著・王延。揚州廬江郡の人。『三国志』呉志に伝がある。博学で天文・数学に通じていた。
張衡の説を容れて渾天儀(天球儀のようなもの)を制作し、1年は365と145/589日≒365.2461799日であると計算した。また、円周率を求め、142/45≒3.155とするなど科学の探求に実績があった。
甘露2年(266年)、晋に使者として赴いていた丁忠が戻って来た時、行われた宴会の席で王蕃が酔いつぶれて突っ伏していると、酔った振りをしているのだと思った孫皓から、孫皓の息のかかった者達を伴い、穏やかに宴会場の外へ連れ出された。酔いが覚めないうちに王蕃は宴会に戻ったが、威厳が備わっていて立ち居振る舞いが自然だった。このため自分の予想が正しいと思い込んだ孫皓は怒り、命令して正殿の前で王蕃を斬らせ、死体を山野に投げ捨てさせた。
滕牧や留平は王蕃のために弁護したが聞き入れられなかった。また、陸凱は王蕃の死を惜しみ上疏した。その文章が正史に収録されている。
王蕃の家族は広州に強制移住させられた。弟の王著と王延は才能ある人物だったが、天紀3年(279年)の郭馬の乱で郭馬からの味方要請を断ったため、殺害されている。
薛瑩は王蕃を「器量が大きく様々な物事に通じた人物」として、楼玄・賀邵・韋昭と並ぶ人物であると評価した。また胡沖は、韋昭を除いた三名の人物について楼玄を最も高く評価し、賀邵がその次であるとしつつも、三者とも甲乙付け難いと評している。陳寿は、薛瑩や胡沖の評価を踏まえつつも「乱れた政治の時代に高官にあったのだから、非業の死を遂げたことも仕方のないことである」と評している。
小説『三国志演義』では、孫皓の所業を諌めて怒りを買い、処刑された人物の一人として名が挙がるのみである。