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  1. 粟田口
    三条大橋の東側にあたる粟田口には、1624年(寛永元)に瀬戸の陶工が登り窯を築いたとの言い伝えが残り、この頃に登り窯によるやきもの生産が始まったと考えられます。1647年(正保4)頃には、瀟洒な色絵で知られる野々村仁清が仁和寺の門前で茶器を焼く御室窯を始めました。この前後、洛北から洛東の寺院の領地を中心に、粟田口焼を始め、八坂・清水・御菩薩池・修学院・音羽・清閑寺焼などの窯が創始され、繊細な文様を描いた陶器が焼かれました。

    仁清の弟子に尾形乾山(1663〜1743)は1699年(元禄12)に鳴滝に登り窯を築きますが、1712年(正徳2)に二条丁子屋町に移り、兄である尾形光琳(1658~1716)と合作で絵皿や琳派文様の懐石具を製作しました。京都町奉行所の記録から、この頃に窯場は洛東に集約され、粟田口に13基、清水・音羽には3基の登り窯があつたと分かります。乾山の時代、洛東では「古清水」とよばれる青・緑・金の三色の色絵陶器が完成しました。

    こうして、粟田口、清水、そして後に五条坂と呼ばれる音羽の三か所が京都の窯業地となります。粟田口では錦光山や岩倉、宝山などの有力な窯元が将軍・禁裏・諸大名家などの注文で、古清水を中心に伝統的な陶器生産を行いました。これが後に「粟田焼」と呼ばれます。清水は清水寺領内の窯場のことで、幕末には3基の登り窯がありました。18世紀の後半には奥田頴川(1753〜1811)が京都で初の磁器生産を成功させます。この技術が伝わった五条坂は徐々に生産量を増やし、幕末には9基の登り窯をもつまでになりました。

    初代清水六兵衛(1738~1799)、欽古堂亀祐(1765~1837)、青木木米(1767〜1833)、仁阿弥道八(1783〜1855)、永楽保全(1795~1854)などの名工が次々に登場します。頴川が明末・清初の呉須赤絵・交趾焼を復興したように、彼らは歴史的な中国や日本のやきものを復興します。そこに独自の創造を加え、抹茶具や懐石具、煎茶道具なども手がけました。名工たちは三田焼・珉平焼・東山焼(兵庫県)、春日山焼・九谷焼(石川県)、偕楽園焼(和歌山県)などの地方の窯を指導し、京焼のもつ高い技術が各地に広まっていったのでした。

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