慶長の津波、鴨川の西徳寺

西徳寺は、山号を龍光山。本尊は不動明王で真言宗智山派のお寺です。江戸時代に檀徒16軒によって創始されました。慶長9年(1604)の大津波で建物は流出してしまいましたが、2年後には、中興開山されました。安置される善行寺如来は、かつて明幢院に安置されていましたが、慶長の津波で流され、西徳寺の井戸の底で釜を被った状態で発見されました。
その後、善行寺堂を建てて安置されました。仏像は、南北朝から室町時代に、長野善光寺の本尊を模して造られた仏像で、天面善光寺とよばれています。

現在の西徳寺の位置まで、津波が来たか不明か。明幢院の位置が津波にあったのは間違いない。中興開山しているので、より高台に善行寺堂を建てたかもしれない。

3月6日の、NHKの報道は間違いないでしょうか?

慶長三陸地震は、東日本大震災のちょうど400年前、慶長16年(1611)10月28日午 前10時過ぎに発生、マグニチュード約8.1と推定されています。大津波が来襲し、伊達 藩領内で1783人、牛馬85匹が溺死、南部・津軽等も海辺の在家・人馬等3000余溺死 という記録が残っています。

千葉県勝浦市興津の日蓮宗妙覚寺が所蔵『上総国興津 村広栄山妙覚寺継図写』
慶長の津波のことが 記され、記事は次のような ものである。
キノヘ
「 一、慶長九甲辰十二月十六日、戌ノ時大地震、則時
ニ津波入、諸浜ノ人馬鶏狗ニ至マテ海上ニ引出ル、船魚家 皆山谷へ打上ル、前代未聞故、如ク此為後代物語記者也、」

この文章が書かれているのは、この史料の後半、『日保門 流本末建立目禄(録)覚記之事』という、祖師日蓮上人の 文永元年 (1264 年)の鎌倉説法から元禄 2 年(1689 年) に至る記録の部分である。
日付・時刻の明確な記述や、格 別の誇張を含まない記述から、この記事が軍記ものや後世 の史書からの引き写しでないことは明らかで、妙覚寺やそ の末寺に伝えられていた文書・記録類に基づいて書かれた 可能性が高い。

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