古代史の旅4:スサノオの天羽々斬剣と日本武尊の草薙剣

三種の神器とは、八咫鏡、八尺瓊勾玉、、天叢雲剣(草薙剣とも言う)のことである。現在では八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、天叢雲剣は熱田神宮に神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は皇居の御所に安置されているという。ここでは神剣の話をしたい。
神剣の伝承を訪ねると、次のことがわかる。
1.出雲、吉備から大和や美濃への権力の移行
2.神剣は、霊験があり、祟る。(崇神、天武、桓武天皇など)
3.熊野、伊勢、熱田、石上などの神社の創建に深くかかわる。

このうち、聖剣の天叢雲剣は、記紀神話では須佐之男命が出雲・簸川上(ひのかわかみ)で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣である。その後草薙剣とも言う理由は、倭建命に渡され、倭建命が野火攻めから脱出する為に、この太刀で草を薙いだ事が草薙剣の名前の由来とされている。。『先代旧事本紀』では饒速日の子が天香語山命で、天から降った後の名が手栗彦命亦の名が高倉下で、その子が天村雲命となっている。その名から天叢雲剣を草薙剣とも言うのかもしれない。
一方、須佐之男命が、出雲・簸川上(ひのかわかみ)でヤマタノオロチ(八俣大蛇)を倒した剣は、十拳剣と言われている。別名は、天羽々斬剣(あめのはばきり)であり、“羽々”とは“蛇”の意味である。「十握剣」は、その長さ表わし、長剣であったことがわかる。この十拳剣は石上布都魂神社に祭られ崇神天皇の代に石上神宮に納められたとされる。布都御魂剣(フツノミタマノツルギ) とも言われている。一説には、布都御魂剣と十握剣は別物(呼び名が異なる)とも言われる。布都御魂剣は平国之剣とも言われ、神武天皇が高倉下(たかくらじ)より受けとり大和を平定した時に用いた剣であり、布都御魂剣を神格化したものが布都御魂大神とよび、十握剣を神格化したものは布都斯御魂大神(フツシノミタマノツルギ) なのだそうである。一文字「斯」があるかないかの差である。石上神宮の祭神には、布都御魂大神 配祀神 布留御魂大神、布都斯魂大神、宇麻志麻治命、五十瓊敷命、白河天皇、市川臣命となっており、この聖剣の御魂も配祀されている。そして、大蛇を切ったときの剣が、石上にあると日本書紀には書いてあります。
聖剣の歴史を訪ねると、悲運の日本武尊、入水した安徳天皇、祟られた天武天皇、新羅僧の道行や聖剣を盗み見た神主などの数奇な伝承がに彩られている。
この2つの聖剣の行方には、歴史の謎が含まれている。何故、出雲の十拳剣が、奈良の石上神社に祀られ、草薙剣が出雲から熱田神宮に祀られるようになったのであろうか。誰が、どのように聖剣を継承したのであろうか。そして、三種の神器として 、皇位継承の徴として天皇に受け継がれるようになったのであろうか
なにぶん、長い歴史の間に継承されたので、さまざまの伝承があるが、年代順に調べてみたい。

1:出雲の斐伊川の川上
須佐之男命は、出雲の斐伊川の川上に降り立ったといわれる。スサノオが高天原を追放になった後、やってきたところは、古事記では、「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」、日本書紀では、「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」となっています。「肥」を「簸」の違いが気になりますが、出雲の斐伊川の川上のようです。船通山(1142m)の麓に、鳥上(トリガミ)があります。これが古事記にある鳥髮と思われます。
2.ヤマタノオロチ退治とは何か
スサノオは出雲國の肥の河の上流の鳥髮の地の川上で、泣く老夫婦に合う。大山津見神(オオヤマツミノカミ)の子の老父と老女である。「私の名は足名椎(アシナズチ)と謂う。妻の名は手名椎(テナズチ)と謂う。娘の名は櫛名田比賣(クシナダヒメ)と謂います」そして「私の娘は、元八人の幼い子がいました。そして、高志の八俣の遠呂智が毎年来て喫(ク)ってしまいました」と聞く。そこで、このオロチに酒を飲ませて、十握剣で退治する。
日本書紀では、「素盞嗚尊、乃ち所帯かせる十握剣を抜きて、寸に其の蛇を斬る。尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。故、其の尾を割裂きて視せば、中に一の剣有り。此所謂草薙剣なり。素盞嗚尊の曰はく、「是神しき剣なり。吾何ぞ敢へて私に安けらむや」とのたまひて、天神に上献ぐ。」とある。
田村誠一氏は、この話は、タタラ製鉄の村主を退治した話であろうとしている。山の傾斜に窯を作り、高温を作り出す窯があり、八つの頭も八つの尾をもち、チラチラと炎が噴出する製鉄所があったのかもしれません。鉄を作るためには、膨大な木や炭が必要です。これを運ぶために、川が使われ、そしてそこを船が通りましたので、山の名前が「船通山」と呼ばれたようです。
京都の祀りは、八坂神社というのは全国に7千ほどある。祭神はスサノオノ命である。命は出雲に住んでいたが、韓国の新羅が故郷であったのか、新羅のソシモリにも住み、日韓の間を往来していたとも日本書紀などで書かれている。スサノオ自身が、鉄の生産や交易に係っていたのかもしれない。
出雲大社と熊野大社の関係
『出雲國風土記』に熊野大社、『延喜式神名帳』に熊野坐神社と見える神社が出雲にあり、主祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)と称える素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。『日本書紀』に出雲國造をして厳神の宮を作らしむとの記載があるが、八束郡八雲村宮内にある熊野神社かもしれない。天菩比命の子、建比良鳥命は出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等の祖である。そして、出雲大社には、大国主命が祭られていますが、大国主命はスサノオの孫ということになっています。出雲大社の宮司が「古伝新嘗祭」に使用する神聖な「火」をおこすためのひきり臼とひきり杵を受け取るために熊野大社を訪れます。「古伝新嘗祭」とは出雲国造の祭ですが、この祭のなかで出雲国造とその祖先神であるアメノホヒノミコトとが、ご一緒に食事をなさる儀式(相なめの儀)があり、このときに用意される食事はすべて神聖な鑚火(きりだした火)でつくります。この火をきりだすための臼と杵を「ひきり臼・ひきり杵」といい、毎年熊野大社から授けることになっています。
3.神剣奉天神事:スサノオから天照大神へ草薙剣が渡される
日御碕神社(大社町)は、上の宮に素盞嗚尊、下の宮に天照大神を祀っている。この神社の宮司小野家は素盞嗚尊五世の孫天葺根命の後裔と伝えている。天葦根命は、素盞嗚尊が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、その尾から出たという草薙剣、もとの名は天叢雲剣といわれる神剣を素盞嗚尊の使者として、天照大神に献上したといわれる。この故事にちなんで、毎年大晦日の深夜、小野宮司ただ1人で、天一山に登って行われる神秘的な神事がある。
ずいぶん後世になって、天葦根命が聖剣を渡したようですね。
4.布都御魂剣:天照大神から高倉下を経て神武天皇に
布都御魂剣は平国之剣とも言われ、神武天皇が高倉下(たかくらじ)より受けとり大和を平定した。天照大神が、高倉下に託した。『勘注系図』では、高倉下命を天村雲の弟とする。一方『先代旧事本紀』は天香語山命と高倉下、手栗彦命は同一人物とする。尾張氏系譜では、高倉下命は天香語山命の亦の名とする。
5.物部神社の布都御魂剣伝承:神武から饒速日命・宇摩志麻遅命に
御祭神宇摩志麻遅命は、物部氏の御祖神として知られていおります。 御祭神の父神である饒速日命は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯(いかるがみね)に天降り、御炊屋姫命を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。
神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くしたので天皇より布都御魂剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、布都御魂剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)
石上神社は、石上振神宮・石上布都御魂神社・石上布都大神社。岩上大明神・布留大明神などと呼ばれた。
『記紀』に、神武天皇東征のとき天降り、邪神を破り、国々を平定したので、物部氏の遠祖宇摩志麻治命(うましまじのみこと)をもって宮中に奉斎したと記し、崇神天皇七年物部伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が大臣のとき、詔により天社、国社を定め八百万神を祀らせ布留御魂神とともに石上高庭の地に祀ったのを創始とする。その後、物部氏の歴代奉仕するところとなり、『垂仁紀』には五十瓊敷命(いにしきのみこと)が剣一〇〇〇口を作って神倉に納め、また丹波国桑田村の人甕襲(みかそ)が八尺瓊勾玉を献じた、とある、延暦一三年(七九四)桓武天皇による山城遷都に際し、神宮の神宝を京に移すことがあり、造石上神宮使石川吉備人は運搬に要する人員を一五万七〇〇〇余人と返答したという。後、天羽斬剣、天日槍の神宝寄贈などを合わせて、古代の武器庫ともいうべき御神宝類を蔵していた。
宇美神社の伝承:布都斯は、須佐之男の別名。布留は饒速日命の別名
宇美神社(島根県平田市平田)は、布都御魂を素佐之男の父親として祀り、総社神社は布留を素佐之男の子として祀り、このことから、布都(素佐之男の父)と布留(須佐之男の子)の間の布都斯は、須佐之男の別名である。
そこで、十握剣は、布都斯の御魂ということになるようです。
6.備前の石上布都魂神社の伝承:天羽々斬剣
ここは元石上であり、天羽々斬剣はここから奈良の石上神社に移されたとしている。社伝によれば、仁徳天皇の御代に、春日臣の族の市川臣(石上神社に市川臣命として配祀されている)が遷したようです。
『石上布都魂神社略記』(昭和二十年頃)には、
「古事記、日本書紀、古語拾遺という本によりますと素盞嗚尊が天上(高天原)から天降られて出雲國の簸(ひ)の川上で八岐大蛇をお斬りになった際、大蛇の尾から一振りの剣を獲られた。その剣を天照大神に奉られた。 また大蛇をお斬りになった剣を 「蛇の麁正」(おろちのあらまさ) 「羽羽斬剣」 または 「布都斯魂剣」 と申し上げ、この剣が吉備神部許にあると記されていますが、これが当社の鎮祀されたおこりであります。 なお布都斯魂大神は仁徳天皇の御代に大和國石上神宮(現在の奈良県天理市布留)へ当社からお遷りになりおまつりされております。」
また、神剣「十握劒」を石上神宮に奉遷したことが奈良の石上神宮の記録にも残されている。大正十五年発行の石上神宮由緒記に、「(略)斬八岐大蛇とありて、もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る」とある。
日本書紀別伝:太刀一千口を石上神社に
「垂仁天皇の時、その皇子である五十瓊敷皇子は茅渟の菟砥の河上で太刀一千口を造らせ、その太刀を初め忍坂邑に納め、次に石上神社に移し納めた。この時に神託があり「春日臣の一族である市河という者に治めさせよ」とあったので、市河に命じて治めさせた。この市河は今の物部首の祖先である。
7.崇神天皇の災難と伊勢神宮への遷座
政権樹立後、崇神五年に国内に疫病が蔓延して人民の大半が亡くなった。その上、六年には百姓が逃げたり背いたりしてまったく治まらなくなった。廷では、天照大神と倭大国魂神を一緒に祭っていたが、その二柱の神の折り合いが悪いのでうまくゆかないと考えて、豊鍬入(とよすきいり)姫命に命じて、まず天照大神を
現在の奈良県桜井市大神神社境内の檜原あたりの笠縫邑(かさぬいむら)に奉らせた。
崇神48年、1月 豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて決断した。4月 弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。崇神60年7月 飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。神宝を司っていた出雲振根(いずもふるね)が筑紫へ出かけて留守の間に、弟の飯入根(いいいりね)は神宝を我か子鵜濡渟と弟の甘美韓日狭に持たせて朝廷に貢上する。
『日本書紀』によると、垂仁天皇二十五年三月十日、垂仁天皇の皇女、倭姫命は、天照大神の神威が強すぎて、大和の国内で祀ることができなくなったため、豊鋤入姫命により大和の笠縫邑に祀られていた御神鏡(八咫鏡)を奉じ、祭祀にふさわしい場所を探す巡幸の旅に出た。垂仁二十六年に物部十千根を神宝の検校のために出雲へ行かせる。(崇神の時に出雲に神宝提出の命令を伝えるのは物部武諸隅であり、彼は十千根の兄大新河の子、すなわち十千根の甥である?)
垂仁天皇87年2月, 十千根大連が石上の神宝を管理することになった。
日本武尊が、伊勢の斎主・倭姫命から賜った天叢雲剣であるが、何故に倭姫命が、伊勢にてこの剣を管理するようになったか「記紀」には、記載がない。八咫鏡を奉ずる場所を探したとはあるが・・?。出雲の神宝の際に、出雲から遷座したのかもしれないが、謎である。崇神天皇(紀元前148年~前30年)の時代に皇女豊鋤入姫命により八咫鏡とともに皇居の外に祭るようになったのかもしれない。「古語拾遺」によると、このとき天叢雲剣も遷され、模造の神剣が皇居に残されたそうです。
8.日本武尊が持参した草薙剣
日本武尊は、東征の際に伊勢神宮にお参りし、倭姫命から草薙剣を受け取る。倭姫命に辞して曰はく、「今天皇が命を被りて、東に征きて諸の叛く者どもを誅へむとす。故、辞す」とのたまふ。是に、倭姫命、草薙剣を取りて、日本武尊に授けて曰はく、「慎め。な怠けそ」とのたまふ。〔巻第七、景行天皇四十年十月戊午(7日)条〕
伊勢神宮の斎宮(磯宮)にいた倭媛[やまとひめ]命から守護刀として天叢雲剣を与えられ、タケルは東夷征討へと向かう。途中、賊(『古事記』は相模国「国造」と記す)の策略にはまり、野火に囲まれる危機をむかえる。書紀は「一説に」として、このとき「皇子の差しておられた天叢雲剣が、自ら抜けだして皇子の傍の草をなぎ払い、これによって難を逃れられた。それでその剣を名づけて草薙という」と、剣名の変更由来および剣の霊験あらたかな旨を書いている。第十二代景行天皇の時代、日本武尊は草薙剣を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた。日本武尊が三重の能褒野で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定めて、草薙剣を祀った。
9.清水市の草薙神社の伝承:草薙剣
日本武尊の死後、景行天皇が、日本尊命の勲功の地を尋ねられ、景行天皇五三年九月二十日に当地に御着になり、一社を建立したのが、当社の創祀。日本武尊を奉祀し、御霊代として、草薙の剣 を奉納された。
その後、草薙の剣 は第四十六代天武天皇の朱雀元年に勅命により、熱田神宮に奉祀されたという。
10.天智天皇の時代に沙門道行が草薙剣を盗む
沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあ
ひて、荒迷ひて帰る。〔巻第二十七、天智天皇七年是歳条〕
盗まれたとき熱田神宮清雪門を通ったといわれ、以来不吉の門として忌まれたとも、神剣還座の際、門を閉ざして再び皇居へ還ることのないようにしたものともされ以来、開かずの門となっている。
社伝によると道行はその後捕らわれの身となり、草薙剣は宮中で預かることになった。686年(朱鳥元年)になって、草薙剣は熱田神宮に返還された。ただしこれは、天武天皇が草薙剣の祟りによって病を得て崩御したことがきっかけであったとされる。
阿遅速雄神社(八剣神社)の伝承では、天智天皇7(668)新羅の沙門道行が熱田の神剣を盗んで逃げるとき、神剣を河中に捨て、里人がその剣を拾い当社に納めたのが創始と伝う。例祭日には熱田神宮より宮司、或いは神職が参拝し、同様に熱田神宮の例祭日には、当社の宮司・氏子総代等が参列する慣習が現在も遵守されている。「船にて本国へ帰途、難波の津で大嵐に遇ひ流し流され、古代の大和川河口であった当地で嵐は更に激しく、これ御神罰なりと御神威に恐れをなし、御劔を河中に放り出し逃げ去りたり(之が地名となり、放手 放出 今「はなてん」と云ふ)」とある。御祭神は阿遅耜高日子根神(迦毛大神)と草薙御神劔御神霊(八劔大神)
。愛知県知多市八幡にある法海寺は道行が開いたと伝わるお寺である。由緒には「捕らえられた道行が高僧である事が認められ、天智天皇の病を加持法で治し、薬師如来を本尊とする法海寺の基礎とした」と伝わり、山門前の石柱には「天智天皇勅願所」と書かれているそうです。
11.熱田神宮の酔笑人(えようど)神事
熱田社では、突然の神剣の還座に大喜びの様子が神事として伝わる。毎年5月4日の夜7時に境内の灯りを全て消し、古来より見る事を禁られている神面を狩衣の袖に隠し、先導役の笑いを合図に、祭員が一斉に大声で笑うという「酔笑人(えようど)神事」です
12.天武天皇が草薙剣の祟りで病になる
戊寅に、天皇の病を卜ふに、草薙剣に祟れり。即日に、尾張国の熱田社に送
り置く。〔巻第二十九、天武天皇下、朱鳥元年六月戊寅(10日)条〕
宮簀媛は、タケルの忘れていった神剣をまつる社を建てたとされ、書紀は「草薙剣は、いま尾張国年魚市[あゆち]郡の熱田神宮にある」と記す。熱田神宮の神剣はその後、天智七年(六六八)に新羅僧・道行によって持ち去られたが、紆余を経て宮中にもどり、朱鳥元年(六八六)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りであるとして熱田神宮に返却される(日本書紀)。
「熱田大神鎮座記」は、朱鳥元年(六八六)六月に「天武天皇の勅命」によって草薙剣が返却され、「このとき改めて大宮や別宮諸神社を造営して、十二月に新宮に遷宮の儀を行った」と記録している(宮庁編『熱田神宮』)。この記録を真とするなら、和銅元年(七〇八)の勅命による別宮・八剣宮の創祀の前に、すでに天武によって「別宮」祭祀がはじまっていたことになる
天武が「宿願」によって神宮の式年遷宮の制を定めたとされるのは天武十四年(六八五)のことだが(『太神宮諸雑事記』)、翌年の朱鳥元年九月九日に彼は他界する。『日本書紀』は天武を死に追いやった「祟り」の真相を明らかにしないが、元明女帝が別宮・八剣宮創設の勅命を発したのは和銅元年「九月九日」のことで、彼女は天武の命日をもって、新たな「別宮」祭祀を熱田神宮に命じたことになる。
別宮の八剣宮の祭神も本宮と同神、つまり草薙剣によりつく神霊・熱田大神とされている
天武天皇3年(674年)には忍壁親王を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還した。
日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。
石上神宮で、毎年11月22日に鎮魂祭が催されます。八神を鎮魂する為に、1081年に、白川天皇がじきじき参拝し、始められたものであり、祟りを恐れているから鎮魂する訳で、何故、この八神の祟りを恐れたのかよくわからない。
13.壇ノ浦の戦いで海底に沈んだ天叢雲剣
『吾妻鏡』に、壇ノ浦の戦いで「二位ノ尼は宝剣(天叢雲剣=草薙剣)を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する。」とある。また戦いの後の元暦二年に戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は御座すが。宝剣(天叢雲剣)は紛失。」と記されている。古くから唱えられた説のひとつである。この説の元となっているのは伊勢神宮を司る忌部氏が持統天皇に鏡と太刀を渡した事に由来する。この時の太刀が天叢雲剣と八咫鏡と言うところから出ている説であるが定説はレプリカではないかと言われている。『平家物語』では、オロチが安徳天皇となって天叢雲剣を取り返しに来たとしている。
鹿島神宮の神剣:武甕槌大神の神剣
鹿島神宮には日本最古最大の直刀、御祭神タケミカヅチの神剣「フツノ御霊の剣」(推定1300年前製作)が展示されています。この神剣は刀身2メートル25センチ、全長2メートル71センチのまっすぐな直刀です。
鹿島は武道発祥の地である。仁徳天皇の時代(4世紀)に、鹿島神宮の神官で国摩真人(くになずのまひと)という人物がいた。高天原の鬼塚に祭壇を築き、鹿島神宮の武甕槌大神から「神剣の極意」を授かったという。これが「日本の剣術の始まり」と伝わる。
常陸国の防人(さきもり)たちは鹿島神宮に集まり、神官から剣術を教わり「鹿島立ち」していった。諸国から派遣された防人と交流し、鹿島の剣術が広まっていった。こうして築かれた武芸は、後の塚原卜伝(ぼくでん)につながっていく。
芦原中国(あしはらのなかつくに)を天照大御神(高天原総帥)の子孫に治めさせるために,その一部である出雲地方総帥大国主命の協力を得ようと,3度目の交渉に向かわせたのが武甕槌神です。『日本書紀』では主神が経津主神,副神を武甕槌神としている。『古事記』では主神を武甕槌神,副神は天鳥船神と記述されている。
布都御魂剣は武甕槌神が大国主命に国譲りを迫ったときに使ったものとされている。さらに神武東征のおり、武甕槌神が高倉下に布都御魂剣を授けたという話が日本書紀にのっている。石上神社の布都御魂と鹿島神宮の布都御魂剣の関係はよくわからない。
ただし、国宝の神剣は「・・・刀身は、奈良~平安時代に、拵えは平安時代の制作と考えられ、その長大な刀身は例を見ない。また、鹿嶋の砂鉄との関連については証明できないものの常陸国風土記の記述もあり、貴重な文化遺産である」と書かれている。
by tokyoblog

11 thoughts on “古代史の旅4:スサノオの天羽々斬剣と日本武尊の草薙剣

  1. 神剣

    石上神宮は、宝剣そのものが依代(よりしろ)である。石上坐布留御魂神社(元名)の布留(ふる)は、魂振り(たまふり)の呪術、鎮魂(ふるみたま)からきたとされる。

  2. 神剣

    神剣奉遷の後石上神宮においても神剣所在は明らかでなかったが、明治七年水戸の人菅政友が古典に石上神宮(当時布留神宮)社内の禁足地に韻霊の神剣埋蔵されていることを知り教部省の許を得て発掘し神剣と勾玉を発見した。明治天皇にお見せし再び布留神宮の御霊(これを布都斯魂之大神と呼ぶ)を祀ることとなった。その時この剣を模して造ることを月山貞一に命ぜられ宮内省に納められた。その影造の剣が本神社に寄進された。

  3. 綾氏と讃岐藤原氏

    景行天皇の皇子日本武尊の孫爾彌麻命(武卵王の子供である)が綾氏を称した。
    後裔の綾貞宣の娘が讃岐に赴任した藤原家成との間に章隆を生み、以後藤原姓を称し、この系統は讃州藤氏と呼ばれる。
    日本武尊─武卵王─爾彌麻命──奈鬼爾麻命──竈王多富利大別命──日向王──綾 多祁君──依志──意止之古──奴手古──大人堅石─
    三野氏、羽床氏、林田氏、宅間氏、塩飽氏、宮本氏、高原氏、香川氏が綾氏族、成相氏、脇氏が羽床氏庶流。

  4. 綾氏と讃岐藤原氏

    日本武尊(小碓命)(犬上君、建部君、讃岐綾君、伊勢の別、登袁の別、麻佐首、宮首の別、鎌倉の別、小津、石代の別、漁田の別の祖=古事記)

  5. 綾氏と讃岐藤原氏

    綾氏系図によると
    日本武尊~武皷王~雨彌麻彦~奈鬼爾麻命~竈王~多富利別命~日向王~多郡君~依志君~奴乎古君太夫~堅石~大山麿~圓麿~石床~業長~蔵捨~季世~百行~能臣~定時~貞清~行隆~貞宣等々、代々続いて綾郡を領し、日向王以来、綾の大領と呼ばれた。

  6. 綾氏と讃岐藤原氏

    JR鴨川駅
    「日向王の墓」というのが路傍にたっている。説明によると「全讃史に景行天皇のとき南海の悪魚を退治した讃岐の国司讃留霊王の7代目の子孫で後に綾川流域を支配した綾氏の祖先である日向王の墓である」とある。

  7. 吉備の神部

    八岐の大蛇を斬った剣が『日本書紀』の一書に「いま吉備の神部のところにあり」と記されている。蛇の「韓鋤(からさび)」「麁正(あらまさ)」と呼ばれた。備前国赤坂郡の石上布都之魂神社の祠官家も物部と称している。大和国の石上神宮の奉斎者も、神別の物部連と皇別を称する和邇氏族の物部首であった。
    和気清麻呂を出したことで有名な和気朝臣氏は、備前東部の和気・磐梨・赤坂三郡を中心に繁衍して、もとの姓氏を磐梨別君(〔いわなしわけ〕。石生別、石成別、石无別などの表記がある)といい、垂仁天皇の子の鐸石別命(〔ぬてしわけ〕。大中津日子命)の後と称していた。物部郷は吉備では唯一、磐梨郡にあげられる。
    奈良朝廷で立身出世するに応じて、別部(わけべ)・忍海部・財部・物部ら六四名が同族と称してもとの姓氏である石生別公に改姓を願い出て、これが認められた記事が見える(神護景雲三年〔769〕六月条)。そのなかに、御野郡の物部麻呂らの賜姓記事がある。
    旧赤坂郡石上村(現赤磐市石上)は、『延喜式』当時は石生別君の領域であった赤坂郡の宅美郷に属しており、改姓された物部が石生別公一族でだっったのであろう。
    備前の物部が石生別公の一族であり、応神天皇が出た息長氏族と近い一族であり、ともにわが国の鍛冶神天目一箇命の後裔という天孫族の流れを汲んでいるようです。
    和気氏の先祖の弟彦王が応神天皇に味方して、針間と吉備の堺あたりで仲哀天皇の遺児である忍熊王らとの合戦に功績を挙げたと伝える。『播磨国風土記』讃容郡(備前・美作との国境にある佐用郡)の条には、別部犬という者が鹿庭山の谷で鉄を発見し、孝徳朝にその子孫がはじめて献上したという記事が見えるが、これも和気氏の同族ないし配下とみられる。
    わが國で剣工といえば、備前の赤磐郡・邑久郡とその周辺で中世ではとくに長船・福岡(現瀬戸内市長船町)の刀鍛冶が名高い。そして古剣工は宅美剣工とも言われたようです。石生別公の当地到来は仁徳天皇のようです。
    天理の式内社夜都伎神社の論社に八剣神社(やつるぎ)が鎮座する。「石上振神宮略抄」に見える由緒には、夜都留伎の神は八岐大蛇の変身で神体は八つの比礼、小刀子なりとして、スサノオが大蛇を退治し八段に切ったので八つの小竜となって天へ昇り、水雷神となって叢雲の神剣に付き従って「布留河上の日の谷」に天降って鎮坐し、貞観年中には八剣神として祀られたという。

  8. 播磨の総社、射楯兵主神社

    飾磨郡伊和里(姫路市街地周辺)は伊和族(宍粟市一宮町播磨国一宮伊和神社の伊和大神を祀る氏族)の平野部においての拠点であったようで、兵主神は伊和大神であると言われている

  9. 剣璽等承継の儀

    昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御してわずか3時間半後、皇居の正殿・松の間では、125代天皇になられた今上陛下が「剣璽(けんじ)等承継の儀」に臨み、歴代天皇が受け継いできた三種の神器のうち、宝剣「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と、神璽(しんじ)「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」を引き継がれた。戦前までは「剣璽渡御の儀」と呼ばれた皇室で最も重要な儀式のひとつである

  10. 剣聖:卜伝と上泉伊勢守

    塚原卜伝(1489-1571)は、父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。鹿島神宮の神官、鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢)の子。後に塚原安幹の養子となり、名字が塚原となる。塚原氏の本姓は平で、大掾氏の一族・鹿島氏の分家。実父からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を学び、義父からは天真正伝香取神道流を学んだ。鹿島史によれば1571年、83歳で死亡。 法名は宝剣高珍居士。墓は須賀村(現・鹿嶋市須賀)の梅香寺にあるとするが同寺は焼失し、墓のみが現存。若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込んだ際、囲炉裏の鍋の蓋を盾にしたとする逸話があるが、宮本武蔵は塚原の死後に生まれており、史実ではない。鹿島神宮の卜部職を務める吉川家に生まれました。吉川家は鹿島城の家老でもあったようで、幼少時に鹿島神宮北西の北浦に面した要害の地、塚原城主の養子として迎えられ、後に城主となっています。
     卜伝は将軍足利義輝や伊勢国司・北畠具教(とものり)などに剣の指導をした後に信玄を門弟としています。
    上泉伊勢守秀綱(1508-1577)は竹刀を考案。伊勢守は11歳か13歳ごろ、鹿島城の宿老でもあり鹿島神宮で剣の奥義を極めた松本備前守政信に師事。卜伝は伊勢守より19歳年上で、上野国(群馬県)から剣術修行のために鹿島神宮で備前守の指導を受けていました。
    その後、上泉伊勢守は大胡城主で、箕輪城主の長野氏に仕えていました。箕輪城は1566(永禄9)年、武田信玄の攻撃を受けて落城。19歳年下の兄弟弟子である伊勢守を師と呼び、箕輪城落城の際に救出したという。卜伝は伊勢守の命の恩人。卜伝は斬り合いで相手を倒し、剣の道に疑問を抱いて故郷に帰ったとき備前守に委ねられ、伊勢守の『剣は人を切るものばかりではない』という一言で剣へのためらいが消え、以降、伊勢守を師と呼んだと伝えられています。ものの本では卜伝の弟子とも語られる上泉伊勢守ですが…。

  11. 新陰流

    上泉伊勢守は、上州出身の戦国時代の兵法家。
    上泉信綱は、新陰流を伝授するために全国各地を巡っており、多数の弟子がいた。疋田景兼、神後宗治、柳生宗厳、丸目長恵の四天王を筆頭に、松田清栄、野中成常、駒川国吉などが有名。また、胤栄とも交流があった。
    柳生新陰流
    柳生宗厳が伝えた新陰流は一般には柳生新陰流と呼ばれることが多い。しかし、これはあくまでも俗称で、正式な流儀名は新陰流である

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