古代史の旅3:讃岐の古墳時代の王族、神櫛王と鷲住王

鷲住王は、讃岐と阿波の海部の祖であり、相撲の神ともいわれる力持ちの自由人であった。
鯽魚礒別王(フナシワケ)の子供と言われ、妹の二人「太姫朗姫(フトヒメノイラツメ)」と「高鶴(タカツル)朗姫」は履中天皇の妻となっている。鷲住王が「恆に住吉邑に居り」とあるが、履中天皇は鷲住王を召したが行方が分からず、召すのを諦めたとある。行動的で、讃岐、阿波、土佐方面の海部の村々で活躍している。
景行天皇と五十河媛の間の子、神櫛皇子が讃岐國造の始祖なり(書紀巻7)その三世、須売保礼命の子が魚即魚磯別王とされる。


脚咋別は、阿波國海部郡の肉咋(徳島県海部郡宍喰町)であるが、鷲住王は、宍喰川の流域を開拓し、農耕をはじめ、そこにはじめて邑をつくったとされる。『富田家文書』という古文書によれば、海部氏の祖先は鷲住王であると書かれている。鷲住王は阿波の却咋より、鵜足郡富隈村に移り住み、讃岐で薨玉し、飯山に葬ったと三代実録に記述がある。
履仲紀に「六年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」と見える伝説上の人物であるが、香川県の讃岐富士の麓の坂本町に、面白い伝承がある。
高木神社,香川県丸亀市土居町2-,(主神)鷲住王
大山神社,徳島県海部郡宍喰町塩深字尾鼻,(主神)鷲住王命
城山の西方約2km西坂元の国持地区に居館を構えた。西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。坂元村史に「楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる」とある。
輝く星の氏子われ-坂本神社由緒-
秋風そよぐ夕まぐれ、飯野の山は神さびて、星のまたたく宵なりき。 国持の里 鵜殿の越し、五の坪・倉前・馬倒し古き地名は今もなおここなしここに残れども、世の盛衰はいちじるしく。高木屋敷はいずこにや、梅の香りはなけれども、星の輝く丘なりき。
南海治乱記によれば、鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。摂津・住吉また阿波内喰にあり。一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。
薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。飯山大権現また力山大明神とも称す。その後、康保元年、菅公修造を加え軍神となす。祈れば必ず勇力を賜ると。
初めに王に男あり。高木尊と云い、讃岐国造に任ず云々と日本書紀にもあり。
鷲住王もその跡も、遠い遙かの昔より、今に輝く天の星。小さいながら私らも、これにつながり生きる星。
飯野の山を仰ぐ時、輝く星の氏子われ、氏子のわれらここに輝く。(昭和六十年六月吉日)
略系図は、以下のようになる。
景行天皇─ー神櫛別命(神櫛王)──千摩大別礼命─〔讃岐国造〕須売保礼命─ー鮒魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君
景行天皇以降の讃岐の王族
景行天皇の時代に、その命により、日本武尊は、東国を平定しその帰途に鈴鹿で亡くなられた。
東国の平定は、日本武尊に従ったのが稚武彦命(吉備武彦)と大伴武日であり、日本武尊の死を天皇に報告する役回りとなったのも吉備武彦であった。
景行天皇の皇子、皇女はたくさんいて、日本武尊と稚足彦尊と五十城入彦皇子を除いた御子はそれぞれ国や群に封じたという。あまりに、たくさんですが、母系で見れば、地域との関係が判りやすい。
東国遠征により、その後の美濃の八坂入媛の氏族が東国で反映する基盤となった。
主な景行天皇の皇子:日本書記
景行天皇(美濃の八坂入媛)—稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦、五十狭城入彦など
景行天皇(妃、播磨稻日大郎姫)—双子の男子:大碓皇子と日本武尊(小碓皇子)
景行天皇(妃、五十河媛)—-神櫛皇子(讃岐の国造の祖)と稲背入彦皇子(播磨別の祖)
景行天皇(妃 阿部氏木事の娘の高田媛)—武国凝別皇子(伊予国御村別の祖)
日本武尊の系譜
吉備と播磨の発展も、播磨稻日大郎姫や吉備武彦一族によるところが大きい。
日本武尊(妃 穂積忍山宿禰の娘の弟橘媛)—稚武彦王
日本武尊(妃 両道入姫皇女)—稲依別王(犬上・武部君の祖)、足仲彦尊、布忍入姫命、稚武王
日本武尊(妃 吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛)—武卵王(讃岐綾君の祖)と十城別王(伊予別君の祖)
景行43年;景行天皇は日本武尊の功績を伝えようと思い武部を定めた。
景行51年:日本武尊が神宮に献上した蝦夷を遠くに置くことにした。播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五つの国の佐伯部(さえきべ)の先祖。
景行52年:皇后の播磨大郎女が亡くなり、八坂入媛命を立てて皇后とした。
景行55年:彦狭島王を東山道十五国の都督に任じたが、春日で亡くなり、子の御諸別王に任じる。
景行60年:冬に天皇は高穴穂宮で崩御
以上が、日本書記に書かれた主な出来事です。
讃岐の神櫛王
『神櫛王』は讃岐国造の祖といわれ、その墓は、『牟礼の王墓』にあり毎年十月二十日には宮内庁からも来讃されちるようです。宮内庁所管で守部を置き、毎年王の命日(10月20日)を正辰祭と称し例祭を行うとある。
ずいぶん、人気のある王であり、広く讃岐の神社に祀られている。陵墓は、讃岐の城山と櫛梨と王墓(木田郡牟礼)の三説がある。寒川・三木・山田三郡の戸主であった讃岐氏は、王の子孫で、後の寒川・高松・植田・三木・十河・三谷・神内・山田・由良の諸氏は皆その後裔という。阿波脚咋・宇陀酒部・凡・神内・木国酒部・酒部・讃岐・紗抜大押・十河・星・三谷・益甲・和気なども同族とのことである。
神櫛王は宇陀酒部等の祖
宮道氏(みやじし)は、日本武尊の子である武卵王(たけかいこのみこ)の子孫と伝える宮道別の後裔氏族と推察される。山城国宇治郡(京都府京都市及び宇治市)を本拠とした宿禰姓の宮道氏が最も知られた。宇治郡大領だったと伝えられる宮道弥益の娘(一説には妹)宮道列子は、内大臣藤原高藤との間に藤原胤子(宇多天皇女御)らを産み、醍醐天皇の外祖母となった。宮道神社(みやじじんじゃ):宇治郡を本拠としていた宮道氏が、祖神である日本武尊・稚武王を祀ったことに始まる。また、山科神社立札によると「日本武尊・ 稚武王を祀る。社伝によれば寛平九年(897)宇多天皇の勅令により創建されたと伝え、以後、この地の豪族宮 道氏の祖神として、また山科一ノ宮とも呼ばれてこの地の産土神として人々の崇敬を受けて栄えてきた。
櫛梨神社 神櫛王命
社伝によれば、「景行天皇の命を受けた神櫛皇子が、大魚(海賊の比喩か)を討つために土佐から、舟に乗って当地へ来た時、雲が厚く、雨が降り、何も見えない状態になった。そこで、皇子は小山に登り、天に乞うたところ、天から火が降りて来たという。皇子はそこに舟をとどめ、祓戸神(磐船大明神)を祀った。また、当地の神を祀るため、翁に、この地の神についてたずね、大麻神・大歳神、更に、山下明神・諏訪明神を祀った。さらに、船装束する時に、経津主神・武甕槌神(赤坂大明神)を祀った。その後無事に、大魚を討ち取って当地に城山を築き、国造となった。仲哀天皇8年(199)9月15日。120歳で亡くなった皇子を
櫛梨山に葬り廟を建てて祀ったのが当社の起源。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という」とある。
大麻神社 善通寺市大麻町
穂積忍山彦根は、景行天皇の御代、その皇子・神櫛皇子命の勅により、当社を祭祀したという。穂積忍山彦根は、穂積忍山宿禰(物部氏の祖とも言われる穂積家)は、弟橘姫と忍山彦根の父である。神櫛皇子とともに、讃岐に定着したようです。(穂積忍山彦根は、現宮司白玖氏の遠祖)父親の穂積忍山宿禰は相模の国の西側の磯長の国の領主になった。
物部の系図では、
饒速日尊-宇麻志麻治命-彦湯支命-大禰命-出石心大臣命-大綜杵命-伊香色雄命-大水口宿禰命-建忍山宿禰→弟橘媛
皇子神社 丸亀市綾歌町岡田上 神櫛王命
香川県神社誌によると「祭神は景行天皇の皇子にして當国国造の始祖たるを以て里人其の徳を慕ひて奉祀すといふ」とある。
富隈神社 香川県仲多度郡満濃町
祭紳は吉備武彦命で、命は神櫛王の悪魚退治に従軍した部将で、仲多度郡の海岸に近い、多くの神社の祭紳として祀られいる神である。
皇美屋神社 善通寺市与北町 大己貴命 神櫛皇子 大伴武日連命

景行天皇の御宇南海の悪魚討伐の為め神櫛王、大伴武日、吉備津武彦と共に當地に下り給ひし時、大己貴命および國魂神を祀りて皇美和の社と称し悪魚討伐を祈り給ひしに始まり、悪魚平定の後里人其の徳を欽慕して皇子及び大伴武日連命を配祀せりといふ」とある
城山神社
「城山神社由緒略記」には、「 … 景行天皇はこうした勇気ある神櫛王を「讃岐の国造」としました。神櫛王は城山に城を築き讃岐の国を治めた。」とある。
清水神社 高松市川島町
三谷神社 綾歌郡飯山町
海部を統括した凡直氏と讃岐公
寒川氏は讃岐国造の始祖である神櫛王(景行天王皇子)の流をを汲むものである。
神櫛王の子孫は東讃で栄え、敏達天皇の代に国造であった星直(ほしのあたえ)は、国を押し統べるという意味で大押直(おおしあたえ)の姓(かばね)を賜い、のち凡直と改めたが、延暦10年(791)願い出て讃岐公の姓を許され、任明天皇の承和3年(836)にはその一族二十八家に讃岐朝臣の姓を賜った。寒川氏は讃岐氏の一族で、代々寒川郡司をしていたので、寒川をもって氏とした。
凡直(のべのあたい)氏が寒川郡山田郡三木郡を管轄し、後に敏達天皇より紗抜大押直(さぬきおおしのあたい)の姓を賜り讃岐公となったのである。讃岐公の遠祖は景行天皇の第十王子神櫛王とされ、後の国造橘の公成、公業らは平安末期讃岐東部を支配していたようであり、大川郡長尾町内の真鍋(真部)一族が今も神櫛王の墓のお祭りをしている。
安岐・周防・淡道・伊余・都佐などの諸国造は凡直の姓を持つ。 讃岐も凡直を称することがあるが、大押直の意で、所部の地域を統率するいわゆる大国造であったことを示す。
建貝児王は、神櫛王とは、別人
日本武尊が『神櫛王』の兄で、讃岐綾氏の祖といわれる『讃留霊王(武殻王)』の父です
建貝児王のまたの名前を武殻王・武卵王・武皷王・武養蚕命・多祁比古王命・武明王、武殻王(吉備穴戸媛生武皷王)は讃留王と呼ばれ、讃岐綾君(さぬきあやきみ)の祖となった。(栗田寛:新撰姓氏録考証による)
建貝児王も、軍事にすぐれていたようで、壱岐、平戸、三河の神社で祀られている。
景行天皇51年の条に『妃吉備武彦之女吉備穴戸媛生武皷王与十別城王其兄卵王是讃岐綾君の始祖也』とある。日本武尊吉備穴戸の悪神を誅し給ふ時吉備国に幸し吉備穴戸武媛武殻王を生む。王亦悪神を誅するの功により讃岐に留まり香川郡以西は王の領有となり當社を崇敬し給ふ。武殻王四世の裔綾眞玉の子酒部黒麿は世に城山長者と云ふ。四十六代孝謙天皇に奏し酒を献じ奉る。帝大いに賞し玉ひ勅ありて酒部の姓を賜ひ酒部黒麿と號す。
垂水神社(那賀郡三宅の里 垂水村字行時)武殻王
「讃留霊公の政事を行いし時、 この村に広き松原あり。その中に三本の大樹ありて常に枝葉繁れるが、この木の枝枝の葉に 水を含み、滴る露、雨のごとくなり。霊公不思議に思し召され、この下に水神が鎮まりおわし 座さんと宣いて,即ち社を建て三女神(註、田心姫命、瑞津姫命、市杵島姫命)を合祀し、太留水 社(たるみのやしろ)と称し奉り、これにより豊年うち続きたればこの地を垂水と名づけたり」とあります。
富隈神社(高篠村大字公文字山内)吉備武彦命
木烏神社(本島村大字本島字甲松ヶ浦)讃留霊王
宇夫階神社(宇多津町字西町)武殻王
春日神社(川津村字春日)武殻王
讃留霊王(武殻王)を祀る神社は、西讃岐に多い。穂積も同じ。讃岐の三野郡の三野物部が有名。
阿野郡陶村に有る讃留霊王の社、那珂郡興北村の讃留霊王の社、共に神櫛王を祀っている。
志々岐神社「武加比古王」長崎県壱岐郡石田町南触
神功皇后の新羅遠征に、十城別王、稚武王とともに、参戦した可能性がある。
宮道天神社「建貝兒王」愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂
建貝児王が宮道別の祖であり、その子の宮道宿禰速麿は穂国の県主(国造の下位の地方長官)となられ、その子孫は引き続き当地に在住し、ある時、その祖である建貝児王を祀ったのが宮道天神社
白鳥神社 香川県東かがわ市松原 日本武尊 両道入姫命 橘姫命
「成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王をして日本武尊の御子、武皷王に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる(武皷王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)。日本武尊の御子 仲哀天皇の時代神籬を建て封戸を寄らせる。今の神社即ちその御跡である。」

20 thoughts on “古代史の旅3:讃岐の古墳時代の王族、神櫛王と鷲住王

  1. 佐伯直と稲背入彦皇子

    稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ) – 佐伯直・播磨直(播磨国造)祖である。
    姓氏録では、右京皇別、佐伯直景行天皇の皇子稲背入彦命の後、男御諸別命。男御諸別命が針間別その男阿良都命(一名伊許自別)が針間別佐伯直
    景行天皇–稲背入彦皇子–御諸別命–阿良都命(一名伊許自別)
    稲背入彦皇子は景行天皇と五十河媛の子であり、神櫛皇子と兄弟である。
    空海は佐伯直の後裔である。

  2. 佐伯直と稲背入彦皇子

    稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ) – 佐伯直・播磨直(播磨国造)祖である。
    姓氏録では、右京皇別、佐伯直景行天皇の皇子稲背入彦命の後、男御諸別命。男御諸別命が針間別その男阿良都命(一名伊許自別)が針間別佐伯直
    景行天皇–稲背入彦皇子–御諸別命–阿良都命(一名伊許自別)
    稲背入彦皇子は景行天皇と五十河媛の子であり、神櫛皇子と兄弟である。
    空海は佐伯直の後裔である。
    彦狭嶋王は、孝霊帝の皇子にもいる
    記によると、この彦狭嶋王は、日子サメ間命で播磨の牛鹿臣の祖である。 
    一方、景行帝の孫の御諸別王は、播磨国造であり、両方とも播磨である

  3. 布忍神社

    布忍神社, 今、ヌノセ神社という, フヌシか?
    日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこ、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。『景行紀』に、「日本武尊、両道入姫皇女を娶って、稲依別王・足仲彦天皇・布忍入姫命・稚武王を生んだ。」とあります。
    鯽魚礒別王とは、フナシワケ=布忍別ではなかろうか。
    鯽魚礒別王の子供が鷲住王と妹の太姫朗姫と高鶴朗姫である。太姫朗姫と高鶴朗姫は履中天皇の妻。
    また、『新撰姓氏録』河内皇別の条に「布忍首。的臣同祖、武内宿禰の後なり。日本紀に漏れたり」とある。

  4. 布忍神社

    大鳥羽衣浜神社:大阪府高石市羽衣5-2-6
    祭神:両道入姫皇女
    堺市にある大鳥大社の摂社
    日本書紀によれば、日本武尊は、両道入姫皇女を妃し、稲依別王・足仲彦(仲哀天皇)・布忍入姫命・稚武王を生まれた。
    大鳥神社は、全国の大鳥神社の本社とされる。式内社(名神大)、和泉国一宮で、旧社格は官幣大社(現、神社本庁の別表神社)。「延喜式」神名帳には「大鳥神社名神大、月次新嘗」と見え、和泉国唯一の神名大社となっている。延喜22年(922年)の奥付を持ち内容的には鎌倉時代の様子を表したものと推定される『大鳥神社流記帳』には、同郡の式内社の大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥浜神社とともに「大鳥五社」の集合が見られる。
    社伝では、元々日本武尊一柱であったが、明治初めの官社祭神考証によって、大鳥連祖神とされてしまったとある。その後、念願の増祀が叶い、2柱となった。日本武尊を当社の祭神とし、天照大神と日本武尊の三妃を大鳥五社明神のそれぞれの祭神とする説だ。
    大鳥大社は、白鳥伝説が世に広まった天武天皇から元明天皇の頃に創建されたのではないかと云われ
    ています。
    斉衡2年(855)8月18日に記された「大鳥五社大明神并神鳳寺縁起帳」という資料に慶雲三丙午(706)「始めて三妃を祭り神宮造営、大鳥五社大明神と名付け奉る」とあり、記録として残るこの頃以前から存在していた事になります。
    大鳥北浜(鍬靱)神社:吉備穴戸武媛命 (日本武尊の妃)
    大鳥羽衣浜神社  :両道入媛命 (日本武尊の妃)
    大鳥井瀬神社   :弟橘姫命 (日本武尊の妃)

  5. 播磨太郎姫

    播磨太郎姫は日本武尊の生母、二年に結婚しておられるから50年後になる。この姫は古事記によれば、若日子建吉備津日子命の女(むすめ)であるが、若日子建吉備津日子命は第7代、大日本根子彦太瓊天皇(孝靈天皇)と繩伊呂杼の間の子(書紀巻4)であり、腹違いの兄が大吉備津日子命であった。「大吉備津日子の命と若建吉備津日子の命とは、二柱相副(あいたぐ)ひて針間(はりま)の氷河(ひかは)の前(さき)に忌瓮(いわひべ)を居(す)ゑて、針間を道の口として、吉備の國を言(こと)向(む)け和(やは)したまひき。故、この大吉備津日子の命は【吉備の上つ道臣の祖なり】。次に若日子建吉備津日子の命は【吉備の下つ道臣、笠臣の祖】。(岩波文庫) 」。吉備への口となる播磨に配された二人であり、姫はここで生まれたか

  6. 播磨太郎姫

    大依羅神社(おおよさみじんじゃ)
    この神社を創祀した依網之阿毘古(我彦、よさみあびこ)の祖先である建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ、古事記によれば第9代開化天皇の第4皇子である)を主神として、住吉三神の底筒男、中筒男、表筒男を祀っています。創祀は依網我彦男垂見が神功皇后の新羅征討の際に住吉三神を祀る祭主になりました。
     代々この神社の祭祀を司った依網阿毘古一族は、天皇の直轄領である依網屯倉を管理する豪族でした。阿毘古は古代の姓(かばね)の一種であったといい、海にちなむ祭神(住吉三神)を祀ったり、この言葉に網(あみ)が含まれていることから(寄網→よせあみ→よさみ、網引→あみひき→あびこ)古くから漁業に関係し、朝廷に海産物を奉献していた縁で、依網池築造後の屯倉の管理を任されたのではないかとの興味深い説があります。
    依網屯倉は地名から見て、河内国丹比郡依羅郷であった天美地区の城連寺・池内・油上・芝・我堂・堀や、同郡三宅郷の松原市北部に置かれていました。さらに、摂津国住吉郡大羅郷に含まれる大阪市住吉区我孫子・山之内・杉本・浅香・苅田・庭井町にも広がっていたと思われます。庭井には大依羅神社があります。
    いまも、松原に三宅の地名が残っているのは、そこに屯倉を管理する役所や収穫物を納める倉庫が建てられていたからでしょう。同地に屯倉神社が鎮座しています
    屯倉(みやけ)神社 :依網屯倉址に建てられた三宅の産土神
    「日本書紀」によると、仁徳天皇の時代に、三宅・天美から大阪市住吉区にかけての「依網」という地に依網屯倉が設置されたとある 。

  7. 与謝野晶子

    与謝野晶子の歌碑。
    『和泉なる わがうぶすなの 大鳥の宮居の杉の青き一むら』 『時事新報』の大正3年1月1日号に掲載された。 与謝野晶子は堺市出身で、旧姓は鳳(ほう)。 大鳥との因縁が感じられる

  8. 香坂王・忍熊王

    若建王が、飯野の真黒比売と結婚して生まれたのが、須売伊呂大中つ日子王で、この王が近江の柴野入杵の娘の柴野比売と結婚して生まれたのが、迦具濾比売命(かぐろひめのみこと)です。
    大帯日子の天皇がこの迦具濾比売命と結婚して生まれたのが、大江王です。この王が庶妹銀王と結婚して生まれたのが、大名方王と大中つ比売です。そして、この大中つ比売命は、香坂の王・忍熊王の母になります。

  9. 鯽魚礒別王と船氏と布忍入姫命

    大阪府柏原市に松岳山古墳がある。
    この古墳は側石は凝灰岩で香川県の鷲の山石であるという。さらに4世紀頃の前方後円墳で「船氏王後首(ふなしおうごのおびと)」の墓誌がここで発見されたと伝えられている。
    4世紀となると鯽魚礒別王(フナシワケ)の時代と考えておかしくない。なぜなら、履中天皇の妻が鯽魚礒別王の子供であるから。そして、鯽魚礒別王の子の鷲住王は、海部の祖であり、讃岐のに鷲の山に近い富熊郷に居住し、薨して讃岐富士の西麓に葬られている。
    また、船氏と鯽魚礒別王(フナシワケ)は似ているので、何か姻戚関係があったと思う。
    また河内の藤井寺市から羽曳野市にかけての一帯は百済系氏族が多く居住し、王仁一族、船氏、津氏など辰斯王や辰孫王の子孫が栄えた地である。
    日本書紀によれば、日本武尊は、両道入姫皇女を妃し、稲依別王・足仲彦(仲哀天皇)・布忍入姫命・稚武王を生まれた。布忍(フヌシ)入姫命は、堺市で祀られている。布忍神社もある。
    鯽魚礒別王と布忍入姫命は日本武尊の子孫であるが船氏とどのようにかかわったのであろうか?。

  10. 羽曳野

    羽曳野は東の古市の白鳥神社の縁起に、「白鳥は舞い上がり、埴生の丘野を羽を曳くようにして飛び去った」とあるように日本武尊ゆかりの土地であり、船氏など渡来人も移り住んだ。堺の大鳥大社(祭神:日本武尊)の摂社の布忍神社のもある。

  11. 羽曳野

    応神朝にこの地に住み着いた帰化人には、 西文(=カワチのフミと読む=)氏、葛井氏、船氏、津氏、馬氏などがあるとされている。4世紀であろう。船氏の氏神は国分神社(大阪府柏原市国分市場1-6-35)とされている。
    応神天皇に仕えた王仁文学博士の後裔が河内の船氏といわれるが・・・。
    羽曳野市東阪田にあった「塚」から、前方後円墳の遺構が現れ三角縁神獣鏡および鉄製の刀、筒状の飾り銅器
    などが発見されたとのこと。また、この鏡は、静岡県磐田市・新豊院山墳墓群D2号墳から出土した鏡と「同じ鋳型」で造られた古い形式の中国製とみられ直径21.5センチの舶載鏡の銘帯には、
    吾作竟自有紀 辟去不羊宜古市 上有東王父西王母 令人長命多孫子
    の銘文が見られます。市の教育委員会では『石川左岸流域に勢力を持った古墳時代前期後半(四世紀中頃から後葉)の首長の墓』で『副葬品の内容から武人的性格が強い被葬者』が想像され、ヤマト政権の軍事を担った豪族である可能性を示唆していました。

  12. 住吉の伝承

    鷲住王が「恆に住吉邑に居り」とある
    鷲住王壕(わしすみのおほきみのつか) 住吉より五町ばかり北、街道の東にあり 大伴金村塚(おほとものかなむらのつか) 同所にあり。土人この両塚を帝塚山(ていづかやま)といふ。
    住吉郡(すみよしこほり)東は河内、渋川・丹比・八上三郡の界に至り、西は海浜、南は和泉、大鳥郡の界に至り、北は東生・西成の二郡に至る

  13. 住吉の伝承

    帝塚山古墳 4 世紀末~ 5 世紀初頭の前方後円墳
    昔は大帝塚と小帝塚があった。現在の帝塚山古墳は小帝塚であり、大伴金村の墓といわれる。金村の子大伴狭彦は詔を承けて兵士数万を将ゐて高麗を攻むる。つひに国中を乎治して大いに功ありという。
    大帝塚は、現在の大阪市立住吉中学校の敷地になったと書かれていた。
    帝塚山は古代には海が望まれる風光明媚な住吉大社の社前に続く高台の地として豪族の館や別邸が営まれてきた地
    茶臼山古墳は現状では円墳だが、地形図から復元すると墳丘長200m程度の前方後円墳と考えられ、茶臼山古墳の規模は上町台地最大の古墳となる。築造時期は四天王寺に安置されている石棺の蓋が「長持形石棺」だから、古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)の古墳である可能性が考えられる。

  14. 神戸市本住吉の伝承

    神戸市の東灘区御影塚町の処女塚古墳を真ん中にして、西方二キロほどに灘区都通の西求女塚古墳、東方二キロ弱に東灘区住吉宮町の東求女塚古墳があって、海岸部にほぼ一直線で並んでいる。発掘調査によって三古墳は、副葬品や墳形などからみて、ほぼ同時期に築造されたとみられている。
    これらの古墳は、葦屋の菟原処女という美しい娘と、その娘を求めた2人の男、同じ郡の菟原壮士、和泉国から来た茅渟壮士の墓との伝承がある。
    東・西の求女塚は三角縁神獣鏡などの銅鏡を多量に出土した。。西求女塚の三角縁神獣鏡は椿井大塚山・佐味田宝塚や福岡県の石塚山古墳、広島県の中小田一号墳などの出土鏡と同笵関係にあることが知られる東求女塚から出土した三角縁神獣鏡が福岡県原口古墳出土鏡と同范鏡の関係にあることが分かっている。
    三角縁神獣鏡が大量に出土した大和纏向の黒塚古墳と同じく、景行天皇の時代かもしれない。
    また神功皇后摂政元年二月条には、神功皇后の韓地征討に随行した津守連の祖・田裳見宿祢が登場する。そこでは、海神の筒男(住吉)三神の和魂が「大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡」、すなわち務古水門(武庫の泊)を押さえる摂津国兔原郡住吉郷に居て(『古事記伝』『本住吉神社誌』などの説)、往来する船を監視したことが記される。
    仁徳朝になって住吉郡墨江に港津が定められたが(仁徳記)、そのときに今の住吉大社の地(大阪市住吉区住吉町)に住吉神社が遷座し、津守氏が住吉神主となって代々奉斎したことが知られている(『姓氏家系大辞典』など)。旧地には、住吉宮町遺跡のなかに本住吉神社がある。
    古くは、神武東征の際に神戸の和田岬あたりから難波への海上先導にあたったと伝える椎根津彦(珍彦)を主神とする東灘区本山の式内社の保久良神社がある。こちらは、その後裔の倭国造一族の倉人氏(後に大和連を賜姓)が奉斎したとみられるが、津守氏の同族の海神族であった

  15. 両道入姫命:仲哀帝の母

    崇神帝の兄弟でもある彦坐王の最初の妻(妃)は山背国造・長溝の娘の山代之荏名津媛(またの名・刈幡戸弁、カリハタトベ)で、この夫婦の間に『品遅部君の祖』とされる大俣王が生まれていることが応神帝との「関連」を強く示唆しています。更に、垂仁帝自身が山背国造大国不遅の娘二人(苅幡戸辺カリハタトベ、綺戸辺)を後宮に入れ、綺戸辺(カニハタトベ)が仲哀帝の母(両道入姫命)と三尾氏の祖(磐衝別命)を生んだとある。
    継体天皇の母「振姫」の出身氏である三尾氏の祖と言われる「磐衝別命(イワツキワケノミコト)」(大湊神社)。磐衝別命の子供である磐城別命(いわきわけのみこと)は高島一帯を治めた三尾氏の祖であり、5世孫に継体天皇の母である振媛がいます。

  16. 鷲住王と野根命

    鷲住王が住吉邑(大阪)から宍喰の地に来て、「宍喰川の流域を開拓し、農耕をはじめ、はじめて邑をつくった」と宍喰町史はいう。鷲住王は履中天皇と姻戚関係をもつ河内の豪族と考えられ、讃岐・阿波・土佐の支配を任されたのではないかと思われる。仁徳天皇は神功皇后・応神天皇を祖として新たな王朝を開いたと考えられ、その次代が履中天皇である。鷲住王は旧勢力である「かいふ氏」と土佐の間に割り込み、嫡男野根命を置いて、自らは讃岐に居住した。野根命の子孫は土佐東部に勢力を伸ばし、北へは関西への航路上に拠点をつくっていったと思われる。

  17. 天香山を祀る神社

    讃岐塩飽島 三所神社「天照皇大神 配 手置帆負神、天香山神」丸亀市本島町生の浜635
    讃岐多度  大麻神社「天太玉命 配 天津彦彦火瓊瓊杵尊、天香語山命、天櫛玉命、天糠戸命、天御陰命、天神立命、天三降命、天伊佐布魂命、 天事湯彦命、天神玉命、天村雲命、天世手命、天湯津彦命、天神魂命、天乳速日命、天活玉命、天下春命、天鈿女命、天道根命、天明玉命、 天造日女命、天玉櫛彦命、天日神命、天伊岐志迩保命、天表春命、天兒屋根命、天椹野命、天背男命、天斗麻彌命、天八坂彦命、天少彦根命、天月神命」善通寺市大麻町上ノ村山241
    讃岐阿野  城山神社摂社横関神社「天香語山命」摂社長谷神社「天太玉命、天道根命」綾歌郡綾上町羽床上1697ー2
    讃岐鵜足 亀山神社摂社金神社「天香山命」綾歌郡飯山町東坂元1372

  18. 阿波 海部 野根

     永正9年(1512)8月に大津波が襲来して、宍喰の町はほぼ全滅する。死者3700余人、生存は約1500人といわれる。当時、宍喰川を挟んで北町と南町があって、南町が中心であったが、この津波で南町は川沼と化してしまったので、北町で再建が進められた。当時の城主は藤原孫六朗とある。
     この頃、宍喰には南北二つの城があり、南城は愛宕山城で、城主は藤原朝臣・本木孫六朗元信という。一族に本木五郎衛門信久、本木孫六朗正信といった名前も出てくる。北城は祇園山城で、城主は藤原朝臣下野守持共で、やはり本木氏である。下野守持定も一族で、ともに鷲住王の子孫とされている。

  19. 摂津国兎原 津守郷は敏馬社 住吉郷は本住吉社

    阪神間の夙川から生田川までが古代の摂津国兎原(うはら)郡である。 平安初期には東から賀美 葦屋 佐才 住吉 覚美 天城 津守 布敷の八郷に分かれていた。 佐才郷が後の魚崎郷にあたる。 津守郷は敏馬社、住吉郷は本住吉社を中心としていた。 賀美が宮川、覚美が石屋川、布敷が生田川流域に比定される。 天城は摩耶山山麓。 
    古代の葦屋郷は圧倒的に芦屋川右岸が中心であった。 現在の神戸市東灘区東部は芦屋郷の中心であるだけでなく兎原郡全体を統括していたようである。 東灘区深江北町遺跡は古代山陽道芦屋駅家の最有力候補になりつつある。 

  20. 忍山宿禰

    三重県亀山市野村に鎮座する、忍山神社
    『延喜式』神名帳の伊勢国鈴鹿郡に、「忍山神社」が見えます。
    主祭神は猿田比古命。
    ほか、饒速日命、大水口宿禰命、忍山宿禰命、伊香我色雄命をはじめ、旧村内合祀の祭神を併せて二十四柱を祀ります。
    数度にわたって兵火に遭い、中世荒廃しましたが、近世には復興、享保十八(1733)年に亀山城主板倉勝澄によって社殿の修復がなされたと伝えます。
    境内の案内板には、「弟橘媛命生誕地」ともありました。
    日本武尊の妃・弟橘媛の父は、穂積氏の祖・忍山宿禰ですから、社名との関係からそのような話が生まれたのかもしれません。