淡路島の古代:卑弥呼の時代の弓の神

九州と大和を結ぶ海上交通の要衝である淡路島は、古墳時代の幕開を解く上で重要である。
淡路島の北部(北淡インター近く)の山中で、国内最古級の鍛冶工房跡が見つかった。垣内(かいと)遺跡と呼ばれ、ここでは、鏃(やじり)やその未完成品、鉄片など計75点、砥石(といし)などの製作道具がまとまって出土し、生産の様子を復元できるとのこと。
遺跡は標高約200メートルの丘陵にあり、約1・8ヘクタール。2007年度からの調査で見つかった竪穴建物跡計17棟のうち、10棟が工房跡と判明。うち直径10メートル前後の大型の建物も3棟ある。材料として使われた可能性がある大型鉄板(縦約5センチ、横約20センチ、厚さ3センチ)も見つかった。
弥生時代後期(1世紀~3世紀初め)に淡路島で10棟の鉄工房が営まれていた。その工房は170年間稼動し、畿内・中国地方へ鉄を供給していたものと思われる。しかし古墳時代に入る3世紀前半には工房の役割りを終えている。
九州の鉄は有名であるが、国内最大級の鉄の遺跡が、これほど大和に近い海上交通の要衝で見つかったことは画期的でしょう。弥生時代後期(100-220年ごろ)の鉄器工房であり、卑弥呼の時代以前に、鉄で大量の鏃(矢じり)を生産したことになる。
淡路島は古代史を解く鍵になる地域である。
1.神話の国生みで、何故か最初に作られた島である。
2.遺跡の近くに伊弉諾神宮がある。
3.神武天皇の東征に水先案内として功のあった国津神の槁根津彦(ウズ日子)が初代の倭直。珍彦は速吸之門の曲浦で神武を待ちうけた国神である。海筋の案内人として“乃特賜名、為椎根津彦。此即倭直部始祖也”と神武紀其年十月条に載る。
4.北淡路の御井(おい)の清水は、古事記にも登場する名水で、仁徳天皇が「朝夕、淡路島の寒水を汲みて大御水奉りき」記されている、天皇の御料水として運ばれた『淡路の寒泉』。
そして、淡路には、古代に多くの天皇が、狩りに立ち寄っている。
『日本書紀』応神紀
「妃の皇后の妹の弟姫は、阿部皇女・淡路御原皇女・紀之莵野皇女・を生んだ。
秋、九月六日、天皇は淡路島に狩りをされた。この島は難波の西にあり、巖や岸が入りまじり、陵や谷が続いている。芳草が盛んに茂り、水は勢よく流れている。大鹿・鳧・雁など沢山いる。それで天皇は度々遊びにおいでになった」とある。
また淡道国造は、国造本紀(先代旧事本紀)によると仁徳天皇の時代に神魂命(かみむすびのみこと、神皇産霊命)の9世孫である矢口足尼(矢口宿禰)を国造に定めたことに始まるとされる。
弓の歴史
ここで、古代の弓について考えたい。
日本では、高句麗の始祖伝説のように、弓が神器にはなっていない。3種の神器は、剣・玉・鏡である。
日本書紀には、「天照大神、千箭の靱・五百箭の靱を負い、臂に稜威の高鞆を着け、弓弭振り起て…」とあり、また、「天稚彦、天鹿児弓・天羽々矢をもって雉を射殺す」とあることから、神代より弓が使われてきた。日本書紀に「天の羽羽矢(あまのははや)」の持ち主として、神代紀下では天稚彦、神武紀に饒速日、が出てきます。
神社や記紀でわかる弓の一族を探ってみよう。
1.天日鷲翔矢命(天日鷲):忌部の祖
天日鷲命は神魂命の裔神であり、阿波国を開拓し、木綿・麻を植え、布帛を作った。高皇産霊尊の孫の天日鷲命(天日鷲翔矢命)の後裔は多く記載されて、弓削宿祢、天語連、多米連・宿祢、田辺宿祢などといわれる。
酉の市(とりのいち)は、天日鷲命をまつる鷲神社のお祭りです。浅草・鷲神社の社伝では、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり、その際、社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから、大酉祭を行い、熊手を縁起物とするとしている。
2.大伴大連:靫負部と弓削部を率いるその発生段階から久米部や靫負を率いて宮門の警衛にあたる軍事職掌の氏族であり、倭建命の東征にも武日命とその子弟等が随行した。大伴武日命は、日本武尊より「靱部」を賜ったことから靱部社=弓削社となったという。
3.譽田別命:応神天皇
八幡大菩薩ともいい、応神天皇でもあるが、八幡神とも捉えられている弓矢神 です。
特に大伴氏は、代々 大君の御門の守護であり、大将軍として天皇に仕えている。御門の守りは令制にあっては五衛府が担当し、これはもともと大伴氏の主管。雄略天皇の時代、『大伴氏』と、その息子の一族『佐伯氏』が、『衛門開闔之務』に充てられた 。即位式の時、朝廷の百官の貴族・氏族たちがうやうやしく拝礼する新大王の横に、大伴氏は黄金の靫(ゆき)を帯びて立つ。靫は、矢をたばねて入れて背中に負う武具で、古代においては武人の象徴だった。
大王の軍隊が靫負部(ゆげいべ)と呼ばれるのは、このことからだ。
神武天皇の即位式の職掌
1.ヒノオミ(日臣命)が来目(くめ)部を率いて宮門を開閉する。
2.ニギハヤヒ(饒速日命)が内の物部氏を師いて、矛と盾を作り備える。
3.アメノトミ(天富命)が忌部氏を率いて、天璽の鏡と剣を捧持し、これを正殿に置き、瓊玉を懸け、幣物を陳列して、大殿祭・御門祀りの祝詞を申し述べる。
4.物部氏が矛と盾を立て、大伴と来目が武器を立て、門を空けて天位の貴いことを四方に知らしめる。
こういう順序で、こういう職掌分担で、フルコトは進んだという
有名な万葉集最後の段の歌:族(やから・うがら)を喩(さと)す歌があります。
「・・・皇祖の 神の御代より はじ弓を 手握り持たし 真鹿児矢を 手挟み添へて 大久米の ますら健男を 先に立て 靫(ゆき)取り負(お)ほせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国求(ま)ぎしつつ ちはやぶる神を言向(ことむ)け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へ奉(まつ)りて・・・」
これは、神武の時代を言っています。
大伴氏は、軍をまとめ、久米氏、靫負部、弓削部などを率いて、戦功があった。大久米命は神武天皇の東征の際、大伴氏の祖の道臣命(みちのおみのみこと・日臣命)と共に大活躍し、その時、士気を鼓舞する為に歌われたのが久米歌である。
また 大伴旅人が歌った「賀陸奥出金詔書歌」でも、
「・・・大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立  人の子は 祖の名絶たず 大君に 奉仕ふものと 言ひ繼げる 言の職ぞ 梓弓 手に取り持ちて 劒大刀  腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守護 吾をおきて 又人はあらじと ・・」
と歌っている。佐伯宿禰は大伴 談(かたり)の子 歌(うたふ)が佐伯部の統轄という新しい職掌を得て大伴氏からわかれた家柄とも考えられている
日本の弓
日本の長弓は、だいたい二メートル以上で、握り部が一般に中央より下部にあり縦形式に使用する。正倉院に27張残る7世紀の弓は平均して8尺近くあり、『延喜式』にも弓の一般的な長さとして7尺6寸と記されている。今の和弓は7尺3寸がふつうだ
「魏志倭人伝」一節にも卑弥呼が魏に朝貢したものの中に木弣短弓(もくふたんきゅう)と矢が含まれている。理由は判らないが、贈り物用に特別に作ったのではなかろうか。
騎馬民族説があるが、蒙古や中国の短弓を使わないことからも、騎馬民族説は無理があるでしょう。
『伊勢物語』に「梓弓真弓槻弓年を経て」という文があるように 梓弓、真弓、槻弓を古来三大弓と呼ぶ。
梓で作ったのが「梓弓」、マユミで作ったのが「真弓」で、槻(ケヤキ)で作ったのが「槻弓」
アズサ(梓)とは、カバノキ科の植物で、落葉高木。マユミ(檀、真弓、檀弓、)とは、ニシキギ科ニシキギ属の木だそうです。
また、矢羽は、下が甲矢、上が乙矢矢に取り付けられている羽であり、鷲、鷹、白鳥、七面鳥、鶏、鴨など様々な種類の鳥の羽が使用されるが、特に鷲や鷹といった猛禽類の羽は最上品として珍重され、中近世には武士間の贈答品にもなっている。使用される部位も手羽から尾羽まで幅広いが、尾羽の一番外側(石打とよばれる)が最も丈夫で、また希少価値も高いため珍重されるという。
羽根の神紋もある。
1.阿蘇神社の神紋
2.その流れを汲むという菊地一族が「違い鷹の羽」。西郷隆盛も菊地氏族で「違い鷹の羽」を用いている
3.浅野家が鷹の羽紋
石切剣箭神社は、生駒山のふもとにあるが、山門の左側には「天の羽羽矢」を持つ「ニギハヤヒ尊」、山門の右側には「フツノ御霊ノ劔」を持つ「ニギハヤヒ尊の御子ウマシマデ命」が祀られている。神社の由緒では饒速日尊を武神としていますので、弓の神かもしれません。また、射盾の神社というのは多くは素盞嗚五十猛の神と考えられているので、これも弓に関係があるかもしれない。
淡路島の鉄の鏃は、桃太郎伝説の吉備の征服に使われたかもしれない。淡路島から讃岐に渡ると、ヤマトトモモソヒメが若いころに暮らしたという伝承があり、讃岐一宮の田村神社は姫を祭っている。そして、桃太郎の吉備津彦は家来として犬養健命(いぬかいたけるのみこと)、楽々森彦命(ささきもりひこのみこと)、留玉臣命(とめたまのおみのみこと)の3名を従えていたとされている。この3人は役職また別姓で、順に犬飼部、猿飼部、鳥飼部だったともいわれている(吉備津神社の社記)
そして、矢喰神社(岡山市高松田中)の伝承では、「命は矢を放ち給えば、鬼の礫を打ちて、途中に喰い合い落ちるなり。故に命の矢は竹と生じ、今は繁茂して薮となる。礫の岩もここに落ちて、境内、今に大岩数多散乱せり」とも縁起にある。「命は神力をもって、強力な弓を一時に二矢を射った。これには鬼も不意をつかれ、一矢はかみ合って海に落ちたが、一矢が見事鬼の左眼を貫いた。血が眼からほとばしり、この血が川のように流れた。今の血吸川である。さすがの鬼も片目を失い、たちまちに雉となって山中に逃げ隠れた。命は機敏に鷹となって追いかけた。そこで鬼は、鯉となって血吸川に入った。今度は、命は鵜となってついにこの鯉を捕まえ喰った。」という。
また、姫路の鉄鏃は、神武天皇と登美饒速日命(ナガスネヒコ)の戦いに使われたのかもしれない。
鉄の鍛造の技術が2~3世紀からあり、鉄の鏃が弓に使われていたことが判ったので、これまで以上に、古墳時代の日本の統一的な広域の交流は、鉄と麻の栽培によってはじまった可能性が高いと思われる。
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