築地の魚河岸と佃島の歴史:徳川家康が食べた白魚と佃煮

江戸の佃島の始まり
魚河岸400年に、佃島の由来が書かれている。これによれば、
『江戸名所図会』の佃島の由来には森一族の記述があり、江戸へ出てからのかれらの行動が記されています。これによると、大坂の陣で家康に仕えた後、漁師三十四人が江戸に呼ばれ、小網町の安藤対馬守の屋敷をはじめ、小石川網干町、難波町(のちの日本橋浪花町)などの屋敷町に分宿し、漁業を営む一方で海上偵察の任にあたり、その様子を安藤対馬守に報告していました。そして慶長十八年(1613年)、江戸湾での漁業の特権を得たとあります。
小田原攻めなど数々の手柄を立てた森一族は 家康と時を同じくして江戸へ入り表向きは漁業を業としながら 江戸湊一帯の警護にあたりました その際、かれらには江戸の海の漁業をみとめられその見返りとして幕府への御肴納入が義務づけられたようだ。
徳川家康とともに、森孫右衛門らが江戸に出てきて、江戸向島、のちの佃島を拝領して漁業を営み、幕府に魚を献上した残りを市中に売ったというのが魚河岸のはじまりということらしい。
何故、家康は森孫右衛門らを厚遇したか?
その始まりは、信長が本能寺の変で殺されたときに始まる。
見つかれば、「信長」の盟友である「家康」も殺されるので、戦うか逃げるかしかない。なんとしても岡崎城へ戻らねばならないと、家康一行は決死の覚悟で脱出を図ります。ところが神崎川(現在の大阪市住吉区)で足留めとなる。住吉神社に参拝中だったらしい。
徳川家康は徳川家康が住吉神社に参拝、源氏の始祖を祭る摂津多田神社(兵庫県川西市の多田神社)に参拝するために神崎川(摂津国田蓑嶋)にさしかかったとき、神崎川に渡し舟がないので困った。 このとき、舟を出して家康を助けたのが田蓑嶋(佃)の漁民であった。その働きによって税金免除の特典を与えられた佃の漁民は、大坂方に対する隠密役や献魚の役なども命じられたとのこと。
佃村は大坂の冬・夏の陣のときも徳川方につき、漁民たちは家康を当地から堺へ護送したり、西国方の船団を看視するなどの役目を果たした。
家康は、自分が源氏の嫡流ということで、摂津源氏の始祖である源満仲、源頼光らを祀る多田神社に参拝した。家康公が漁民に田も作れと命じてから佃と改め、江戸の佃島の名の始まりである。
徳川家康公の神崎川の渡船:伊賀越えの開始
田蓑神社由緒
貞観十一年(八六九年)九月十五日、鎮座。田蓑嶋神社という。
寛保元年(一七四一年)九月に、住吉神社と改名し明治元年(一八六八年)に田蓑神社となる。
天正十四年(一五八六年)、徳川家康公この地に立ちよられ多田の廟(現在、池田市多田神社)に参詣の時、田蓑嶋漁夫等、漁船をつかって、神崎川の渡船を勤めた縁により、漁民等には「全国どこで漁をしても良し又、税はいらない」という特別のごほうびをいただき、漁業の一方、田も作れと命じられ、その竟をもって田蓑嶋を佃と改め、後、寛永八年(一六三一年)、田蓑嶋神社内に、徳川家康公が奉られることになった。
信長が殺された時、家康は、わずかな供だけを連れて堺に滞在していた際、伊賀出身の人脈を生かして伊賀者を味方につけ、家康を伊賀を抜けて三河へと無事送り届ける「伊賀越え」を成功させた。
江戸に移ったのは
田蓑神社宮司平岡正太夫の弟、権太夫好次と佃の人等三十三名であった。
この時に、家康に同行したものがいた。それは茶屋四郎次郎 、服部半蔵らである。
茶屋四郎次郎
茶屋四郎次郎清延は、近世初頭、朱印船貿易商、糸割符商人として活躍、徳川家康の側近として、政権確立に大きな役割を果たし、京都商人総筆頭として、角倉・後藤とともに京都三長者と称された。
茶屋は本姓を「中島」と称し、清和(せいわ)天皇の流れをくむ武家の名門・小笠原源氏(げんじ)の末流。
朱印状を授けられた8人の豪商:長崎の荒木宗太郎、末次平蔵、船本弥平次、糸屋隋右衛門、京都の茶屋四郎次郎、角倉与一、伏見屋、堺の伊勢屋。
上京区茶屋町であるが、これは、茶屋四郎次郎の邸があったことに由来する
葵の紋の由来
徳川家の出自である松平郷。奥三河の深い山中の、田を造る平地もほとんど無い、小盆地です。
松平武士団は松平郷が、京都賀茂神社の荘園があったと思われる三河国加茂郡に属していたからで、その関係で家紋も同社と同じ葵の紋を使用するようになったようだ。
東京都中央区佃の住吉神社の由緒
天正十八年(一五九〇年)八月一日、家康公が関東(現在東京)へ下降の時に佃の人等三十三名と田蓑神社宮司平岡正太夫の弟、権太夫好次が住吉四神の分神霊を奉戴して、当時安藤対馬守、石川大隅守の邸内に一時奉祭し寛永年間に鉄炮洲(現在佃嶋)の地をいただき、大阪の佃と同じ名を付け、住吉大神の社地を定め正保三年(一六四六年)六月二十九日、住吉の四柱の大神と徳川家康公の御霊を奉られた。
田裳見宿禰(たもみのすくね) から田裳見の地名がでている。
田裳見宿禰は天忍男命の9世孫、度美媛命の甥。津守氏である。
紀に、神功皇后の臣下。三韓遠征に従った神として、筒之男三神を、穴門の山田邑に社を建てて祀るように進言している。これが、山口県下関市の住吉神社にあたる。旧正月には、和布刈神社と同じ、和布刈祭が行われる。長門国一の宮である。
津守連豊吾田(つもりむらじとよあた) という田裳見宿禰の子が15代応神朝に難波大隅宮(応神天皇の皇居)の摂津住吉神社を奉斎。社家の祖となる。
田蓑神社と三河一ノ宮 真清田神社の縁
「新撰姓氏録」によると、住吉大社の神主であった津守氏が饒速日命の子孫にあたり、その関わりで物部氏滅亡以後、住吉四神が祀られたとも考えられている。尾張氏の祖神となる天香語山命と、御炊屋媛門との間に生まれた、物部氏の祖神となる宇摩志麻治命の二人の子がいる。真清田神社の御祭神は尾張開拓の祖である「天火明命=饒速日」。尾張国の一之宮として2600有余年の歴史を持つ。田蓑神社の神主(津守氏)は、この縁で信長、家康に近しい感情があり、また茶屋四郎次郎とも知り合いであったのではなかろうか。
(これは推測??)そこで、信長が殺され、家康に危機が及んだとき、伊賀越えを支援したのではなかろうか?。
茶屋の由縁
茶屋四郎次郎清延の祖父にあたる宗延の代に、山城国中島郡に領地を持っていたことから、「中島」姓を名乗るようになった。室町幕府の将軍・足利義輝が、しばしば中島氏の屋敷を訪れ、千利休と並んで茶人であった茶屋四郎次郎明延より茶の接待を受けたことにちなんで「茶屋」の屋号(店の呼び名)が使われるようになったと言われています。現在も、尾州茶屋家には江戸時代に徳川幕府に提出されていた代々の「由緒書」が残されているとのこと。中島明延:中島宗延の男。通称茶屋四郎左衛門。若い時分に病を患い、大病の際、京都へ出て風流の生活を送ったとゆう。武田晴信に信濃を追われた小笠原長時が同宗である三好長慶を頼って1553年に京都へ逃れ、長慶の斡旋で将軍義輝の弓馬師範となったとき、主従の縁でしばしば明延宅を訪ねて茶会を催した。
兵糧として佃煮(?)を得て、半蔵らと伊賀越をした
この「伊賀越え」に最後まで同行し 船で伊勢から岡崎まで家康を運んだのが茶屋四郎次郎配下である堺の森孫右衛門およびその一族らしい。
森孫右衛門が漁民達に声を掛けて手持船や漁船を集めました。
そのときに不漁の際に備えて備蓄していた大事な小魚煮を兵糧として差し出しました。この小魚煮は住吉神社の祭礼に白魚などの塩漬けを神前に供えたのが起源といわれています。
津守氏は住吉神社の神主家として連綿と世系を継いで、明治になると男爵を授けられて華族に列した
塩辛から佃煮への移行
江戸の佃島の漁民もこの伝統から湾内で獲った小魚類を塩辛く煮込んで保存食を作ることを考えます。このころは、塩辛いだけの塩辛やイリコみたいなものではなかろうか。千葉より醤油が渡って後、塩煮から醤油煮にかわり佃島で作られたので佃煮と命名され江戸市中に売り出したのです。
醤油の企業的な生産は、下総の野田(千葉県野田市)で永禄4(1561)年に開始されたようですのでこの後に佃煮ができたとおもわれる。
地獄網を伝えた佃島漁民
さかな物語によれば、漁民達の漁獲法は地獄網と呼ばれ、当時としては格段に優れたもので漁獲量はたちまち徳川家への献上分をオーバーしてしまったらしい。
家康公と魚市場によれば、「天正年間初期(1575年頃)までの江戸近海の漁法は、今でも残る「日本橋小網町」の地名のように、一本釣や四つ手網などの原始的なものでした。この頃、綿花の栽培が各地で盛んになります。肥料の干鰯(ほしか)の需要が増え、関東地方が鰯(いわし)の宝庫と知った西日本の漁師が、大規模な底引き網の一種の地獄網を持って東海地方に進出しました。」とある。
その後の魚河岸
慶長8(1603)年に完成した「日本橋」の付近一帯に魚問屋が移動し、享保年間(1716~36)には、江戸の人口は百万人を超えます。その頃には、問屋は128軒、仲買320人程の大市場になっていました。
白魚漁地獄網は、白魚を取るのに欠かせないが、禁止されるべき漁法である。
『慶長見聞集』には、地獄網の威力とともに、それによる資源枯渇の危惧を「この地獄網にて取り尽くしぬれば、いまは十の物一つもなし」と書かれています。
 将軍さまは、白魚を食べており、白魚という魚は江戸にはもともとなく、家康入国の際に誰かが三河から持ってきて浅草川(隅田川)に流したものだとも言われている。
そのために将軍家献上以外は獲ってはいけない「御止魚」となり、永らく佃島漁師の独占となった。
大造成工事でできた佃島
寛永七年(1630年)向井将藍が海賊奉行として海上警護にあたることになってから後は、漁民が江戸湊の偵察するのも不都合ということで、かれらに鉄砲洲干潟百間四方を与えて、そこで漁業に専業させることとした。
森一族は江戸湾入江に位置するその干潟が故郷の佃村にそっくりだということで、佃島と名づけて造成工事に着手し15年の歳月を経て、完成した。
家康の食あたり
「慶長日記」に、元和2年(1616年)家康の所望によって京都の豪商茶屋四郎次郎が、当時上方ではやっていた鯛の天ぷらを献上したところ、あまりのうまさに家康、たくさん食べすぎて、腹痛をおこしてそのまま75歳の生涯をとじたという話があるらしい。この話は、実際ではなく、テンプラを食べた時
にすでに悪性の胃腸病にかかり死期が迫っていたものらしい。
家康は白魚が好きなのに、茶屋の鯛で食あたりとは???
鯛茶漬けを食べたのかな??。(これは冗談)
鯛は駿府ならば興津鯛でこれは真鯛ではなく甘鯛のことらしい。
当時のてんぷらは、すり身を使えば、さつま揚げに似ていたらしい。
また、栢の実の油で揚げ、それをさらに煎り、上にニラの摺ったものをかけた「から揚げ」の一種らしい。
1616年には醤油があったので、佃煮を家康が食べたのは間違いないでしょう。
築地本願寺
浄土真宗本願寺派の寺。関東の人々に「築地本願寺」と親しまれているこの寺は、正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」という。その発祥は元和三年(1617)西本願寺の別院として、第12代宗主(ご門主)准如上人によって建立されたが、当時浅草橋南の横山町にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていた。
 明暦三年(1657)歴史的に有名な振袖火事で焼失してしまったが、大火後の幕府の区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として下付されたのが八丁堀の海上だった。そこで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、延宝七年(1679)に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになった。
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