鉄砲の歴史:戦国時代の伝来と技術波及、刀、鉄砲から自転車や花火まで

1543年8月の夏の日に、種子島に鉄砲を持った1隻の大船が漂着した。
戦国の大乱戦の始まる前の出来事である。鉄砲の伝来は、忽ち伝わり、大量に製造され、戦争に使われたと聞く。
1.何故、すぐに技術が移転できたのか。
2.大量の火器と火薬が生産、流通できた理由
3.鉄砲の技術はその後、日本の製造業の技術にどう生かされたか。
順を追って、考えたい。
鉄砲以前の火器
・中国では火薬は古くから知られており、硝石・硫黄・木炭の合成による火薬の作製は、唐代(618~907)に成功しているといわれている。
・14世紀ごろ、神機火槍(しんきかそう)という鏃(やじり)のような一種の弾丸を発射する火器もつくられている。
・命中力と破壊力が不足したためか、日本では普及していない。
・1510年には中国製鉄砲が伝来し、1528年には堺において製造されていたといわれています。これらは長さ30~40cm、重さ2キロほどの青銅製のもので、轟音と閃光で人馬を驚かせ戦意を喪失させる程度のものであったそうです。
火縄銃
・元栓付きの鉄の筒に導火孔が開いたもの。付属品として、火皿、火縄挟み、引金がある。火皿は導火孔に続き、ここに置かれた口火火薬に火縄挟みの火縄の火が点火し、筒内の火薬へ燃え移って弾丸を飛び出させるのである。引金は火縄挟みが火皿へ落ちる仕掛けだが、現代銃のように撃鉄式ではないから、銃身のブレが少なく、火縄銃は意外
に命中率が高い。火皿には火蓋が付いていて、誤って点火して暴発しないようになっている。火蓋を切るというのは、蓋を開いてすぐに発射できるようにすることである。
・鉄筒の元栓はなぜ必要か。筒内を掃除するために欠かせない。黒色火薬を使うので、硫黄が多く含まれていて、硫黄の燃え滓が筒内にこびりついてしまうのだ。火縄銃は先込め式だから、かるかを使って筒先からこそぎ落とそうとしても、元の方がどうしてもうまくいかない。定期的に元栓を抜いて大掃除してやらねばならない。
・火薬は上にした筒先から決められた量を銃身内に入れ、その上へ弾丸を押し込む。かるかと呼ぶ専用の棒が鉄砲に付属している。筒先を下に向けて発射するときは、弾が転がり出ないようにさらに紙などを丸めて詰める。
・当時の火縄銃は、有効射程百メートル。鎧を射抜くための殺傷力をもつ距離は30から50m程度とのこと
大筒:大砲
「和漢三才図会」:「大銃はおよそ三百目、筒の重さ四貫目ばかり。薬また三十目入れ用ゆ。地上におきてこれを放てば、その音あたかも雷のごとし。玉は数百歩に至る。その、銃後に退くこと二、三十歩。火勢のはなはだしきを知るべきなり。しかるに、巧者はこれを抱え、自ら放つ」(1匁は3.75グラム、一貫目は3.75kg)
伝来の経緯
鉄砲は堺と根来の2つのルートで大阪へ伝わる。
・1543年夏 種子島の西村小浦に1隻の大船が漂着した。船客は100余人。領主時堯はこれらの人々を引見。長さは2、3尺の鉄砲を所有していた。時堯はこの稀世の珍品の名も用途も知らなかったが、感嘆おくあたわず、 2丁、金2000両 で買いあげ、火薬の調合法を家臣の篠川小四郎に学ばせ、みずから射撃術を習い、百発百中の技量に達した。
・紀州根来寺の人が、鉄砲 をゆずってくれるよう懇望してきたので、時堯は津田監物丞を遣わして一挺を杉坊に贈り、使用法も伝授した。根来衆 の鍛冶屋 「芝辻 清右衛門」 という人が試作に成功、それが 雑賀衆 にも伝わり、こうして 雑賀衆・根来衆 は鉄砲集団へと変わって行ったのです。その後、雑賀衆が 「戦国最強の鉄砲を持つ傭兵集団」 になった。
・紀州の雑賀・根来衆の住む地域は、鍛冶 や 林業 などの工業技術が発達していた。雑賀の里は 瀬戸内海 と 太平洋 を結ぶ海運に適した土地でもあったため、古くから漁業 や 貿易業 に従事する海人でもあった。四国の 「土佐」 や 鹿児島の 「薩摩」 、さらに遠く 沖縄 まで行き交易をしていたという。
・雑賀衆 にはこの 「一向宗」 の門徒(信者)が多く、一向宗 のお寺も数多く建てられており、大阪(石山)本願寺とは友好的な関係にあった。近くの根来衆 は、「根来寺」 と呼ばれる 「真言宗」 という仏教のお寺を中心とした宗教勢力でした。
・一方時堯は鉄匠数人に命じ、そっくりの模造品をつくらせた。しかしその底の塞ぎかたがわからなかった。ところが、翌年またこの「蛮種賈胡」がやってきたとき、そのなかに一人の鉄匠がいたので、時堯はよろこび、金兵衛尉清定に命じて、底の塞ぎかたを学ばせた。そこで1年あまりのうちに数10挺の鉄砲ができあがった。
・その後和泉国堺へ橘屋又三郎なる商人が、たまたま種子島に1、2年滞在し、鉄砲を学んだ。彼は帰ってから鉄砲又とよばれるほどで、畿内近国の者はみなかれから学んだ。堺は、古くから刀鍛冶の町でもあった。

  年 出来事
1543 種子島に漂着したポルトガル人が、領主種子島時堯に鉄砲を伝えた
1544 種子島時堯,島津貴久の仲介で将軍足利義輝に鉄砲献上
1549 時堯,本願寺の仲介で将軍足利義輝に鉄砲献上
1555 武田信玄、信濃旭山城の合戦に300丁を用いる。
1559 将軍,本願寺は密約を破り,謙信上洛火薬製方秘伝書を上杉謙信へ
1562 三好実休、根来衆の鉄砲に撃たれて戦死。
1563 吉川元春の兵が多く鉄砲に撃たれ、戦死・負傷する。
1570 織田信長、姉川合戦の時、殿(しんがり)軍に鉄砲500丁を持たせ退却。
1572 五箇山から日本海経由で石山城へ火薬運搬
五箇山の硝石で本願寺火薬使用,顕如信長と和睦
1575 本願寺顕如,信長と第二次和睦,信長長篠の戦で鉄砲使用
1576 安土城築城,本願寺謙信と盟す。鉄砲千挺で信長逃散
1577 信長,紀伊雑賀衆を討つ
1578 謙信没,鉄砲衆可参候(石山本願寺日記)鉄砲五百挺注文
1580 顕如信長と講和し石山開城,加賀一揆崩壊
1582 本能寺の変,信長没

信長にとって不幸だったのは、雑賀衆を敵にしたこと、本願寺を攻めあぐね、全国統一の総仕上げ中に死亡。信長の後半生は鉄砲+本願寺との戦いだったようだ。
「石山本願寺城」 に篭城した 本願寺軍 を援護し、鉄砲の連続発射によって織田の軍勢を散々に撃ちのめし、攻め寄せてくる敵をことごとく撃退。この戦いで 雑賀鉄砲衆 の指揮を取ったのが、伝説の鉄砲使い 「雑賀 孫市」。
その後、豊臣秀吉 は、雑賀衆・根来衆 が持っていた紀伊半島の独自の支配を認めようとしませんでした。秀吉 は「検地(土地や収穫量を調べて税金を決める事)」を日本全土で行っていましたが、雑賀衆・根来衆は元々そうした制度を独自に決めて、自分達で領地を運営していた者達なので対抗した。豊臣秀吉は雑賀衆・根来衆 の討伐を決意し、かつての信長の侵攻の時と同じく約十万の大軍で紀伊半島に進軍。一方、雑賀・根来軍 は合わせて2万程度でしたが、鉄砲 を使った篭城戦で迎え撃ったが、敗れる。
根来寺の2つの顔
家康は根来組をつくり、御家人として重用した。「忍者」として有名である。根来寺は、2つの顔をもつ。
中世の大学都市としての顔
1288年頼瑜僧正が高野山から『大伝法院』を根来に移した頃は、学問の中心地であり、塔堂2700・寺領72万石と言われた巨大な修行僧の都市であった。高野山で真言密教の探求に励む覚鑁(かくはん)上人が、教義上の対立から、1140年に下山し、当時の神宮寺を根来寺として創建。
僧兵集団としての顔
僧兵集団として、戦国大名なみの経済力をもった寺領をまもっていた。リーダーの一人である杉之坊は種子島に鉄砲の伝わった情報を手に入れると自ら入手に赴き、近隣に先んじて新兵器導入に成功。明との私貿易で経済力をつけ、種子島や坊の津を中継地貿易を行っていた。種子島の砂鉄の流通を高野山の別当が仕切っていたとも言われる。杉之坊が津田監物と名乗って砲兵術を体系化したと言われている。(他人説もある)当時の、本願寺や根来寺は、強大な勢力となっていた。
どこが生産地か
鉄砲の大量生産の中心は和泉(大阪)の堺、紀伊(和歌山)の雑賀・根来、近江(滋賀)の国友。
・堺では橘屋又三郎が鉄炮の製造に着手、後に「鉄炮又」と呼ばれる大商人となる。また根来の刀鍛冶 芝辻清右衛門が後に堺に移住したこともあり、堺は一大鉄炮生産地として知られるようになる。
雑賀:本願寺方 雑賀には、雑賀衆の使用したと伝える二枚板の強靭な「雑賀鉢」と称する兜があり、鉄砲の伝わる以前にすでにかなり高度な鍛冶技術があった。
国友:信長方 1544年(天文13年)将軍足利義晴が、種子島に伝わる鉄砲の存在を知り、管領細川晴元に命じ、各地の金大工を探し出し、「国友善兵衛」ら四人の者に鉄砲を造らせた。これが国友村における鉄砲の初見である。後年、織田信長の知るところなり、その国友村に対して鉄砲の注文を出している。( 信長公記 ) 長篠の戦いのときの信長の鉄砲衆は「国友鉄砲衆」であった。国友村の発展は、信長とその後の家康のお陰。大阪夏の陣の頃が最盛期で、国友村には、鉄砲鍛冶七十三軒、鉄匠が五百人余いたという。
鉄の技術
この大量生産を可能にしたのは、刀鍛冶の伝統であった。当時の製鉄技術や鍛造・鋳造技術の水準の高さにあった。
筒は心棒に細い鉄板をらせん状に巻きつけて鍛造できる。
困難は、「ねじ」を知らなかったこと。銃底をふさぐための”尾栓”及びそれがねじ込まれる銃底の雌ネジが、日本人が見た最初のネジであるとされている。尾栓の雄ネジは、たがねやヤスリで作れただろうが問題は雌ねじ。これは雄ネジを鋳型として砲身を再度加熱して、作ったようだ。ヤスリで削った雄ネジ(尾栓)を十分に焼き入れし、熱した銃底部に差し込み、周囲を叩いて雌ネジを刻ま
せる方法。大量生産はできないが、ピッタリ整合する精密なネジができあがったそうだ。こうしたことは、当時の刀鍛冶が持っていた基本的な加工技術だったという。
世界最大の鉄砲合戦
1570年9月12日「石山合戦」の序盤戦ともいうべき野田・福嶋の戦いの幕が斬って落とされた。 戦いは、雑賀・根来衆らが,天満ヶ森の信長方の陣を襲い勝利する。ここで使われた鉄砲は3000挺といわれる。大量の鉄砲が、孫市らの指揮により大活躍したことで、いわゆる「鉄砲いくさ」が 常道となりつつあった。またこれは当時の世界で最大級の鉄砲生産でもあった。このときの火薬はどうやって入手できたのか?
足軽隊と一斉射撃の考案者:信長
1575年の長篠合戦では、一斉射撃を行ったといわれていますが。西洋での一斉射撃の記録は、それよりも300年後の1899年のポーア戦争だそうです。信長は、近代的歩兵(ほへい)戦術の開祖(かいそ)といえるそうだ。
鉄砲が城を立派にした
日本独特の堀と石垣の巨大な城の構築は、鉄砲の登場以降である。
1.大規模な外堀を作り大砲から守る
2.累(るい)の表面に高い石垣。
3.櫓(やぐら)や塀(へい)の壁が分厚い塗込(ぬりごめ)造
4.堀や建物に狭間をつくり、城累に曲折をつくる
火薬の製法:バイオ技術
日本の花火の火薬の製法も鉄砲とともに伝わった
火縄銃は黒色火薬を使用する。黒色火薬は硝石(硝酸カリュウム)、硫黄、木炭の混合物である。粉状にして、ほぼ、7:1.5:1.5の割合で混ぜる。硝石は日本で産しないので輸入に頼るほかはない。戦国時代には、当時最大の貿易港であった堺が火薬の生産でも他地域を圧倒した。硝石は中国から購入したのか、それとも
国内で生産されたのか?
国内で生産されたようだ。
火薬の製法の秘伝が、1559年に謙信に伝えられている。チリの硝石は、鳥のふんが堆積してできたそうだが、これを早く作成するほうほうがあった。
硝石の成因は、空気中あるいは土壌中のアンモニアを酸化して硝酸とする、いわゆる硝酸菌の硝化作用によって生成される。硝化作用の行われている大気中では、何処にでもあることになりますが、水に溶けやすいため、雨で流出しない処に堆積する。だから、神社の縁の下などには硝石が結晶する。硝石の生産は床下からの採取土を煮詰めて精製するものでした。火薬原料は二度煮詰めて生産、三度煮詰めて薬品原料が製造されるといわれています。
江戸時代に佐藤信渕(のぶひろ)という人の著した『硝石製造弁』(1854年)に書かれた製造法を、『花火の科学』(細谷政夫/細谷文夫著、東海大学出版局、1999年)は次のように紹介しています。
1.炎天下で刈り取った草を1日干す。
2.30センチから60センチの高さに積み上げた土の上に、切り刻んだ干草を敷き詰める。
3.その上から、下水のたまり水、風呂の水、古池の腐り水、魚のはらわたや鳥の死骸などを漬けて腐らせた水をかける。
4.以上を繰り返し、土と草を積み上げる。
5.積み上がったら、雨風があたらないように小屋がけをする。
6.月に一度、土と草の積み直しをし、牛馬の糞尿や腐れ水をかける。
この作業を3年続けると硝石がとれる。
戦国時代末期には、蚕のフンやヨモギから作った火薬が使われていたようです。
五箇山探訪:弾薬製造の道
作り方は、縁の下や倉の土間を掘って、1間四方ぐらいの空間を作り、わら、フン、ヨモギ、土を重ねて入れて、数年寝かせておき、土に成分が移った頃にその土を煮詰めて煙硝を抽出する方法。
大地は火薬工場だったに下記の記事がある。
・戦国時代以来、明治21年まで塩硝産地であった富山県東砺波郡平村で全国的に散逸した資料を集約した報告書『塩硝一硝石と黒色火薬)全国資料文庫収蔵総合目録』(1995)、平村郷土館著がある。これによると鉄砲伝来当初には、火薬のひとつの原料である硝石を、堺の商人を通じて外国から輸入したが、まもなく本願寺の仲介で国産化した。それは日本独自のすぐれた技術だったとある。文化8年孫作書上『五カ山焔硝出来之次第書上申帳』 より
家居敷板の下,いろりの辺貮間四方(3.6メートル四方)も摺鉢のようにして囲炉の辺は6-7尺(約2メートル)も掘る。縁の方ほど浅く3尺斗堀,炉の辺板をまくり出入するように仕置,6月蚕時分底に稗がらを不切其侭長いながらを敷,その上に彼の麻畑土を取入,蚕の糞を鍬にて切交ぜ厚1尺斗も敷,其上に稗がらたばこから,蕎麦から,麻の葉,山草の肥たるを刈干しても又は積置むし草にしても5,6寸程穴に切,是を1扁敷(中略)<注この厚さの記述なし>この培物を敷たるうえに土に蚕糞を切交せ壱尺斗敷又蒸培など<山草などのこと>一遍敷土と培とを何遍も敷重ね,板敷のした6-7寸程透く程に積置。土は何遍にても皆蚕の糞と切交て敷事なり(以下略)
まさにバイオテクノロジーだった。最近塩硝床を復活しようとしたが,塩硝の硝酸菌がいなくなっているらしく,塩硝は生成しなかった」と高田善太郎氏が言われたとのこと。
参考:http://www.bigai.ne.jp/~miwa/powder/bunka3.html
富山が日本最大の塩硝の生産地であったこと、そして一向宗徒が多いこと、上杉謙信と本願寺は同盟を結んでいることから、白川村や五箇山の硝石は、本願寺方が使ったのかもしれない。信長の時代,美濃、飛騨、近江、加賀、越中、越前は当時の本願寺の強力な地盤だった。
石見銀山と鉄砲
日本ではもともと中国に比べて、金銀の比価が金が安くて銀が高い。それが石見の銀生産と同時に反対となり、銀が安くなったため、日本銀が大量に輸出される状況が出てきたのである。大永6年(1526年)、寿禎は温泉津(ゆのつ)(島根県邇摩(にま)郡)沖で、頂上が光っている石見銀山を見つけたという。 採掘した銀鉱石は、博多に運んで銀を取り出していたが、7年後の天文2年、灰吹(はいふき)法によって現地での精錬が可能となり、産出量は飛躍的に増えた。温泉津は積み出し港になった。 灰吹法は、朝鮮から博多に伝わったとも、寿禎自身が明で習得したとも言われる最新の精錬方法だった。銀鉱石に鉛を加えて溶かし、銀と鉛だけの合金にして、灰を敷き詰めた炉の中に入れる。鉛は酸素と結びついて灰にしみ込むので銀だけを取り出すことができる画期的な技術だった。石見銀山の発見と灰吹法は海外にも影響を与えた。 それまで銀は朝鮮から日本へ輸入されていたが、数年で、流れが逆になった。 1542年ごろには「倭国で銀が造られ始めて10年もたたないのに、銀はありふれたものになってしまった」と嘆く朝鮮側の記録がある。80年ごろには、ポルトガル船が年に五千貫(約1万8700キロ)の銀を日本から持ち出したとされる。 天文2年から10年後の天文12年に鉄砲が伝来する。銀を目当てに日本に来たとの説もある。日本銀の産出量であるが、世界の産出量の5分の1か6分の1ぐらいとのこと。中国からも日本に鉄砲を売りに来ていることから、銀を狙って日本に商船がきた可能性もある。
自転車や釣具のリールに生かされた鉄砲技術
堺や国友に自転車工業が芽生えたのは鉄砲鍛冶の技術が根底にあります。明治初頭、廃藩置県により従来の藩主に仕える鉄砲鍛冶は不要になってしましました。生きてゆくため鉄砲鍛冶はその技術を活かして種々の製品製造に努力し、その一つが自転車の製造でした。(宮田製銃所から宮田製作所に)
また、釣具のリールのメーカーにシマノがある。アテネオリンピックの自転車競技では、ほとんどの選手の自転車にシマノの部品が使われていました。シマノは昔からの、鉄を扱う技術を活かして自転車を造っています。この部品も堺で作られている。
花火と彫金と望遠鏡
江戸時代初期が国友鍛冶の最盛期でしたが、世の中が平和になると鉄砲の受注は少なくなり鍛冶師たちは金工彫刻や花火などに活路を見出していきました。江戸時代後期には、東洋のエジソンとも呼ばれた科学者・国友藤兵衛一貫斎は自作の望遠鏡で日本で初めて宇宙をのぞいた人で、国友は、日本の天文学発祥の地とも言われています。
参考:http://www.ainet21.com/os1-series1a.htm

3 thoughts on “鉄砲の歴史:戦国時代の伝来と技術波及、刀、鉄砲から自転車や花火まで

  1. tokyoblog Post author

    隅田川で初めて花火が打ち上げられたのは、1711年のことでした。
    1659年に創業した「鍵屋」が、徳川家宣の命令で実現させたのです。
    1732年、江戸では大飢饉とコレラが発生し、多くの死者が出ます。そこで、翌年、徳川吉宗が鎮魂のため水神祭を催し、このとき、20発ほどの花火が打ち上げられました。これが「両国の川開き」の始まりで、後の隅田川花火大会の起源です。
    1808年、鍵屋からのれん分けして「玉屋」が誕生。両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持ち、交互に花火を打ち上げた。

    『蔭凉軒日録』(おんりょうけんにちろく)
     1466年、琉球の使いが幕府に入貢して退出するとき、総門の外で「鉄炮一両声」をはなち、人々を驚かせた

    『碧山日録』(へきざんにちろく)
     1468年、応仁の乱のさなか、和州之匠(わしゅうのしょう)が営中に来て、「発石木」(はっせきぼく)で石を飛ばし、当たったところをことごとく破壊。
    東軍・細川勝元の陣には「串楼(かんろう)・層櫓(そうろ)、飛砲(ひほう)・火槍、戦攻之具」が完全に装備されていた

    『北条五代記』
     小田原の玉滝坊という山伏が、1510年に渡来した鉄砲を堺で見て、これを関東に持ち帰り、屋形氏綱に献上した

    『甲陽軍艦』
    村上義清が上杉謙信に「1510年に渡来した鉄砲を50人に持たせ、1人に3発の玉薬をあてがった…しかし、武田晴信との戦には負けた」と語っている

    種子島に伝来した2丁の銃のうち1丁は、和歌山県の根来(ねごろ)に持ち込まれ、根来は鉄砲の一大生産地となりました。伝来の2年後には、堺の商人・橘屋又三郎が早くも鉄砲生産を開始。堺は日本最大の鉄砲産地となり、戦国大名に鉄砲を売りさばき、大きな利益を上げました。
     さらに滋賀県の国友村にも鉄砲の生産地は広がります。

    国友村は旧坂田郡であり、ここは坂田金時で有名。

    火薬の製造
    日本の火薬は長らく黒色火薬のみでした。これは木炭と硫黄、硝酸カリウム(硝石)の混合物ですが、日本では硝酸カリウムが採れないのです。ただし、大貿易港だった堺は硝石の輸入が可能でした。つまり、火薬は堺でしか作れず、これが戦国時代の堺の自治を支えました。

    硝石を「国産化」する技術が広がります。原料は意外なところにありました。トイレです。バクテリアがアンモニアを分解すると、硝酸ができることを利用する

    人糞や厩肥に、ヨモギ、麻、サクなどの雑草を混ぜ合わせ、そこに尿を掛け、何度もかき混ぜる。すると分解が促進され、硝酸塩ができる。これが土中のカルシウムと結合して硝酸カルシウムに変化。これを灰汁(炭酸カリウム)で煮詰め、結晶化させる

     硝石も火薬も、当時は「焔硝(塩硝)」と呼ばれていました。この焔硝製造は、秘中の秘です。
    焔硝と、和田家の鑑札(製造許可書)

    最も有名なのが、富山県の五箇山(ごかやま)と岐阜県の白川郷です。ともに合掌造り集落として、世界遺産に登録されています。合掌造りの特徴は、大家族制。つまり、大きな家に多くの家族が住み、そこから出る大量の糞尿で、火薬を製造していたのです。

    白川郷は幕府直轄の天領でした。そして、五箇山は加賀藩に含まれます。加賀藩は幕府にも火薬を献上しますが、加賀100万石の力の源泉は、この火薬製造だったわけです。

    白川郷
    世界遺産・白川郷は火薬製造の町だった

    江戸時代、日本には20万丁とも言われる鉄砲がありました。しかし、平和が長く続き、火薬は花火として浪費されるようになります。

    ペリー来航以後、各藩は武装強化を強いられ、全国で硝石製造がさかんになります。大産地は南部藩と加賀藩。幕府は江戸防衛のため東京湾に台場を築きますが、ここに蓄えられた火薬はほぼすべて南部藩の硝石だったといわれます。

    そんな硝石製造ですが、明治になってチリから大量の「チリ硝石」が輸入されると、国産硝石の製造はあっさり壊滅してしまうのです。
    1543年に伝来した鉄砲は、一気に日本に広まります。
     文献上、最初に登場する鉄砲の実戦投入は、伝来から7年後の1550年。細川晴元の鉄砲隊が三好長慶の兵士を射殺したことだとされています。
    1554年には、島津貴久に仕えた伊集院忠朗が大々的に鉄砲を投入。この流れのなかで、1575年、織田信長が、武田勝頼を相手に3000人の鉄砲隊を導入し、圧勝するのです(長篠の合戦)。

    火縄銃
    戦国時代は、言うまでもなく火縄銃が使われていました。火縄についた火が、口薬(起爆剤となる黒色火薬)を燃やし、その火が銃の奥の火薬を一気に燃やすことで弾丸を発射します。これが、「口火を切る」という言葉の語源です
     明治政府は、1876年、近代火薬の国産化を目指し、板橋の旧加賀藩邸内に陸軍管理の火薬製造所を建造します。

  2. tokyoblog Post author

    五箇山

    戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦(1570年(元亀元年) – 1580年(天正8年))の織田勢との戦いにも五箇山の塩硝が使われた。また、黒色火薬自体を製造していたとされる。日本古来から、古民家の囲炉裏の下には自然と塩硝は製造されていたが、五箇山では、自然の草(ヨモギ、しし独活、麻殻、稗殻…など)と、蚕の糞などで製造する「培養法」を使って、より多くの塩硝を製造した。16世紀後半には、前田家が加賀一帯を統治し、一向一揆が沈静化したころより、加賀藩に召し上げとして買い付けられる。
    加賀藩は、外様大名として100万石の経済力をもち徳川家の2分の1の石高を持っていた
    取り潰しの危機にあったが、裏では五箇山での火薬の原料を調達していたのである。しかし、この塩硝も、日本が鎖国を解いてから南米のチリからの硝石(チリ硝石)の輸入によって廃れてしまう。

    信長の時代、越中をはじめ加賀・越前・美濃・飛騨・近江は本願寺の強力な地盤だった。1570年(元亀元年)9月、信長は石山本願寺に兵を進め、11年に及ぶ石山合戦が始まった。

    全山を信長の軍勢に取り囲まれた本願寺は、諸国の寺院・門徒に檄を飛ばして決起を呼びかけた。当時の越中でもこの檄に呼応し石山合戦に多数の農民がかけつけた。なかでも、五箇山の浄土真宗寺院・門徒は出陣しては大いに手柄をたてたという。

    この石山合戦に、紀州根来寺(岩出町)の僧兵が鉄砲を持参して本願寺側に加わり、信長軍と戦って威力を発揮した。この根来寺の鉄砲は、1543年(天文12年)種子島に伝来された鉄砲を、根来寺の杉坊妙算が火薬の製法と共に本願寺に伝えたものである。
    鉄砲の威力に自信を深めた本願寺は、北陸の軍備強化のため、金沢の尾山御坊へ鉄砲を送り、火薬を五箇山で製造するため、塩硝製造技術者を五箇山に派遣した。
    また、利賀谷の西勝寺は、僧を大阪堺に派遣し塩硝製造法を習得させ五箇山に広めた。

    1572年(元亀3年)五箇山から石山本願寺へ運びこまれた火薬は実戦に用いられ、鉄砲を背景とした本願寺勢は、信長の天下統一の野望を打ち砕いた。

    ※1580年 朝廷の調停により信長と和議成立し石山開城
    ※1583年 家康が領国での一向宗禁制を解除         
    ※1591年 秀吉が本願寺に京都六条の地を与える

    驚異のバイオテクノロジー
    その塩硝(硝石)を世界でも唯一、450年の長きにわたり製造しつづけたのが五箇山。庄川が作り出した急峻な地形ゆえ、鳥も通わぬ秘境とうたわれた五箇山にあって、塩硝は米年貢の代替品として納められ、主食購入の貴重な質であり命の糧でもあった。

  3. tokyoblog Post author

    紀州家に残る「南紀徳川史」に

    幸村公が今や家康を狙撃しようとしたときに、馬が揺れて、手にしていた馬上宿許筒(ばじょうしゅくしゃづつ)を取り落としてしまったため、家康は家臣に守られ逃げ去った。これが運命の分かれ目でした。真田軍は敗退し、幸村は安居神社で討たれてしまう。幸村が落とした馬上筒は紀州徳川家に伝わり、明治時代まで密かに保存されていた

    「南紀徳川史」に
    「器の巧拙今にして論ずるべきに非るも、三百年のむかし既に此器あるは驚嘆に堪へざりし也。宿許銃は真田左衛門が神祖(家康)を狙撃し奉りしものと語れり」と記述され、精細な絵図も付けられています。馬上宿許筒は速射連発できる、当時のハイテク銃。

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