かぐや姫 考 :竹取物語の謎  歴史推理その1

かくや姫の物語は、史実かものがたりか 異説がある。
参考になるサイト
Wikipedia
かぐやひめ文庫
大伴茫人さんの 『竹取物語』
竹取辞典
竹取物語
『竹取物語』はその構成要素を分解すれば、次のように六つに分けられる。
A.かぐや姫の誕生(竹中生誕説話)
B.竹取翁の長者譚(致富長者説話)
C.妻どい・五人の貴人の求婚(難題求婚説話)
D.御狩の行幸・帝の求婚譚
E.かぐや姫の昇天(羽衣説話)
F.ふじの煙(地名起源説話)
なんらかの史実に基づく、物語であろう。
讃岐の天川神社に酒の女神の伝説がある。
丸亀に流れ込む「土器川」の上流に「天川神社」があり、神社の創建は731年(天平2年)
・琴南町の天川神社には、酒部黒麿と星になった女神が祭られている。
この天川の里に住む綾黒麿の屋敷に、一つの星が降ってきた。
その星は、たちまち美しい姫君となり、成長した姫は酒造りがとても上手で、その酒はくめども尽きず、極上の味であった。病人を癒し、長生きをさせるという不思議な力をも持っていた。このうわさは都に伝わり、天皇に献じたところ大いに褒められ、「酒部」の姓を賜り、黒麿は讃岐酒造りの始祖となった。
黒麿に酒造の秘伝を授けた姫は、清流土器川のふちに身を沈め、星神となって再び天に帰ったという。
これは「かぐや姫:竹取物語の原型」ではなかろうか。

讃岐の酒のルーツである。
豊中町の宇賀神社は、延喜年間(901年~923年)から、神酒の醸造法が口伝授によって継承されてきたとされ、今でも全国的に珍しい醸造が許された神社として知られている。酒部公は神の酒をつくり代々世襲であったらしい。
かぐや姫の時代
時代は、藤原の不比等の頃のことである。壬申の乱で没落した藤原(中臣)氏が、権力の中枢に復活するには非常手段をとった。多くの皇族や豪族を闇に葬っている。藤原不比等には、謎が多い。特に、深い謎は、下記の2つである。
・藤原宮子(聖武帝の母)の出自の謎:宮子は紀伊の海人の娘か?
 梅原猛氏は、著書「海人と天皇」で、かみなが姫=宮子 説をとなえている。「宮子姫伝記」と道成寺をめぐる一連の考察から、道成寺は文武天皇勅願の寺(701年建立)であり、そこの言い伝えは真実であろうとしている。また、勅命の勅旨「道成卿」の名をもって、道成寺としたとしている。紀道成=紀麻呂が、宮子を見出し、出仕させたのではと考察している。不比等は、現代の官僚制に通じる太政官制を敷いて、皇帝の権力を絶対とする律令を改変したとしている。
・かぐや姫は宮子か?
 海人と竹取の翁の関係の謎
宮子姫(髪長姫)の伝説
九海士の浦の漁村で生まれた宮子という女の子は、大きくなっても頭髪に恵まれなかった。ある日、母親が海の底から観音様を拾い上げ、願をかけると、髪が生え美しく長い黒髪になった。この黒髪を燕がくわえ、奈良の都へ飛んで行き、藤原不比等の屋敷に巣を造った。この髪を見た不比等が宮子を探し、養女に迎え、文武天皇に嫁がせた(聖武天皇を生む)。自分を幸せにしてくれた観音様をお祀りしたいと「宮子姫」が天皇に願い出たため、道成寺が建立された。
(賀茂朝臣此売 カモヒメは藤原宮子の母である、と史書は記す。カモヒメの父は賀茂小黒麻呂、祖父は賀茂朝臣吉備麻呂と史書は言う)
『海士(あま)』という能がある
大臣藤原房前(ふささき)は、本当の母の顔を知らないで育つ。
生母が讃岐の志度(しど)の浦の海女だと知って、その地を訪れる。
通りかかった海女に尋ねると、生母の死の経緯を知っていた。「かつて唐土から贈られた宝珠が途中で竜神に奪われた。わざわざこの地まで来た藤原淡海(房前の父、不比等)は、契りを交わした海士に宝珠の奪還を命じ、生まれた子(つまり房前)を後継ぎにすることを約束した。海士は海底に潜り、竜宮から宝珠を盗み、乳の下を切り裂いて珠を押し込めて戻った」と物語り、「実は自分こそ、その海士。房前の母だ」と名乗って海中へ消えた。(房前:生681年、没737年。不比等の次男。正史では、母は「蘇我連子の娘、賀茂」とされる。)
神功皇后説:京田辺市説
1.神功皇后伝説は、伝説でなく山城を本拠地にして居住していた。
2.仁徳天皇「奴理能美の家と皇后いわのひめ磐之媛」は、日本最初の養蚕技術を持ち込んだところ。
3.継体天皇「筒城宮」は、息長氏(渡来人)の南山城と深い関係があり筒木に来た。
4.『竹取物語』のかぐや姫は、筒木を舞台にして書きあげられた。
5.山代の渡来人に関する地名について(酒・絹織物・鉄・発酵食品)がある。
神功皇后の系譜や伝承は、滋賀県坂田郡の息長氏が有力になる6世紀以前から山城南部の“息長”一族によって伝承されてきたものであり、この一族は息長帯比売の陵墓伝承のある、大和三大古墳群の一つとして有名な佐紀古墳群と深い関わりを有しているという。京田辺市にある普賢寺の山号は息長山である。
 記紀の登場人物のなかに「かぐや姫」という名の女性が唯一あげられる。それは、垂仁天星の妃の一人として迦具夜比売命と記され、大筒木垂根王の娘で垂仁妃となり袁那辨王を生んだとされる。神功皇后の名は息長帯日売とされるが、これは諡名で、実名はカグヤヒメとみられるのである。神功皇后の系譜は日子坐王の子孫であり、大筒木垂根王の父の比古由牟須美王は、様々な点で日子坐王と重なるからである。
用明天皇:聖徳太子の母説
太子の祖母、即ち用明天皇の母后は、「かぐや姫」と伝承される。用明帝もまた神秘の人である。「山路の牛飼」という古い物語では、彼は「草刈童」に身をやつし、牛に乗り、笛を吹く。そして美しい娘、玉世姫を至って、皇子が生まれる。この皇子が聖徳太子であるという。
大伯皇女説
大伯皇女は、大宝元年、つまり、文武帝が即位して四年後に、四〇歳で世を去っている。大伯皇女は、実在の確認される最初の斎王だ。僅か七歳で母親である大田皇女を失い、たった一人の同母弟である大津皇子とも別れ、一三歳にして伊勢に旅立つ。そして一四年の後、帰り着いた飛鳥の都に、愛する弟の姿はすでに無かった。
大津皇子の死のころから、天変地異や天候不順が続くが、そんな中で大津皇子の遺骸は、大伯皇女の手によって、二上山に改葬される。
持統女帝は斎宮を立てなかった。。持統が斎宮を立てなかったのは、女帝であることだけでなく、前斎宮・大伯皇女への意識があったからではないかとも言われている。持統が抜擢したのが、藤原不比等である。
「いざかぐや姫、穢き所にいかでか久しくおはせん。」というにふさわしい斎女である。
竹取物語 要約:省略 あとで
いくつかの所在地説
田辺説
『古事記』垂仁記に「大筒木(おおつつき)垂根(たりねの)王之女(みこのむすめ)、迦具夜(かぐや)比売(ひめの)命(みこと)」が記されていて「かぐや姫」は実在の人物であったことがわかり、その「大筒木垂根王」の墳と伝えられる古文書も地元で見つかった。そこで、この田辺が『竹取物語』発祥の地であり「かぐや姫」伝説地という説
広瀬郡散吉郷説
かぐや姫の養父となる竹取の翁の名前であり、「讃岐」は、氏族名称か地名のいずれかということになる。本文的にも、紹巴奥書本では「さるき」(「さぬき」に同じ。「ぬ」は「る」に音訛する)、天理図書館武藤本では「さかき」とあって、分かれている。そこで、大和国にこの地名を捜すと、「広瀬郡散吉郷」(北葛城郡河合町)に想到する。ここには、讃岐神社(延喜式)もあり、ここを以て竹取の翁の居住地とするのが、従来の通説である。
讃岐氏に関係のある「讃岐神社」のことですが、讃岐と名付けられた神社のあるところは、大和国(現在の奈良県)内では奈良県北葛城郡広陵町だけです。讃岐神社は今も巣山古墳の近くの竹やぶに囲まれて、ひっそりと鎮座しています。この神社は、『神名帳考証』には讃岐国と関係が深い祭神である景行天皇の皇子五十香足彦命を祭ると記される。
新選東姓字録では「讃岐公は大足彦忍代別天皇皇子五十香彦命[亦名神櫛別命。]之後也」とある。
五十香足彦命(神櫛王は木国の酒部阿比古、宇多酒部の祖=古事記)
        (神櫛皇子は讃岐国造の始祖=日本書紀)
讃岐公―――――大足彦忍代別天皇皇子、五十香足彦命の後―――右京皇別下
酒部公―――――同皇子三世孫、足彦大兄王の後――――――――右京皇別下
酒部公―――――讃岐公同祖、神櫛別命の後――――――――――和泉国皇別
江戸時代までこの広陵町は、大和国広瀬郡散吉郷と『和名抄』(九三〇)に記載されています。讃岐と散吉は同音・同意であり、同じと考えられます。最初竹取翁の住まいを大和国広瀬郡散吉郷(現在の広陵町)と発表したのは、大阪市立大学講師塚原鉄雄氏で昭和二十九年でした。それ以来、岩波・新潮・講談社の『竹取物語注釈書』では、この説を今日まで使っています。
参考:http://www.town.koryo.nara.jp/kaguya/index.html
また迦具夜比売の叔父が讃岐垂根{サヌキタリネ}王で、かぐや姫の養い親 讃岐の造麻呂{さぬきのみやつこまろ}と相通ずるものがある。
香川県は、古くは「讃岐ノ国」と呼ばれていました。この名の起こりは日本書紀では「讃吉」、続日本書紀では「紗抜」、播磨風土記では「讃芸」、正倉院文書では「讃岐」といろいろ表現されています。
一方、広陵町三吉は古くは、散吉である。三吉の古音は散吉の字を当てサンキと訓む(日本三代実録・延喜式など)。ここは、讃岐一族の居住地と考えられる。
讃岐神社について・・・由緒: 当社の祭神は「三代実録」元慶7年の条に、正六位上、散吉大建命神、散吉伊能城神と見えるが、当社伝では大国魂神、倉稲魂神、大物主神を奉祀するという。
別に広瀬大明神と称するのは、大物忌神と同神の広瀬坐和加宇加之売神社の分霊を、勧請して祀ったことに因る。
広瀬の社 (河合村にあり)
広瀬に坐す和加宇加賣命(みこと)の神社(延喜式)。又の御名は大忌神(日本紀)、又御膳持若宇加賣命(みこと)(令義解)。又倉稲魂穀(うかのみたまめの)神(纂疏)とも申し奉つりて水徳の神なり。此の神は伊弉諾・伊弉冊尊(みこと)の御子、豊宇加
の賣神にして神祇官にいます御食神、是れなり(神祇秘書)。
延喜式に大忌祭り一座(広瀬社七月准之)祝詞(のりとのことば)
に曰く、広瀬ノ川合ニ稱ヘ 辞竟奉ツル皇神ノ御名ヲ 白シタテマツラク 御膳持スル若宇加ノ賣ノ命ト 御名ハ白シテ 中畧 將ニ奥都御歳ヲ 八束穂ニ作ラントス 皇神ノ成シ幸賜(さいわいたまわく)ハ 初穂ハ汁ニモ頴ニモ 千稲八十稲ニ引キ居テ横山ノ如ク打積置テ 秋ノ祭ニ奉ツラント 皇神ノ前ニ白シ賜ヘト宣ス(延喜式)
交通の要衝:合流点の広瀬神社
竜田、富雄、佐保、初瀬、飛鳥などの諸川が合流して大和川になるあたりに水神の広瀬神社がある。この右岸一帯の台地は北に生駒山地と矢田丘陵を背負い、南面は飛鳥と難波の交通路に当たる。斑鳩の里はまさにこの東西流通の首根っこを押さえた位置にある。聖徳太子は、推古天皇九年(601)この要衝地に宮を営む。
伊勢の瀬織津姫と広瀬神社は関係あるか?
伊勢で消されたはずの瀬織津姫の名が、伊勢神宮の神主であり、大和朝廷の神祀を司る中臣氏によって、年二回の年中行事である朱雀門前の大祓えの祝詞の中に、祓え四神の一つ、水の神として、公式文書として記された。広瀬神社の祭神は和加宇加之売命他とされるが、地元の古文献には、天照大神の荒魂で瀬織津姫と同体であると
いう。この広瀬の大忌神、天照大神の荒魂瀬織津姫が勧請されて伊勢の荒祭宮に祭られたという説がある。天武没後、後継者をめぐって大来の同母弟大津が謀反の疑いで処断され、大来も斎王を解任される。その後、斎王の任命は持統の孫の文武即位後の当耆皇女まで、空席のままであった。その間、持統の異様な行動が続くことになるが、このようなことがありえただろうか。
瀬織津姫は、穢れ祓いの神と共に水の神であり桜の神である。穢れを祓うシステムは瀬織津姫が大海へと罪や穢れを流し、やがて黄泉の国にと飲み込ませるというもの。そこに関わるのは、直接的な水の流れと間接的に人の罪と穢れを溜め込みそれを川という流れに戻す役割として桜の存在があったのかもしれない。
瀬織津姫の誕生は、伊邪那岐命が黄泉の国から戻って「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し」と言い放ち、中の瀬に下りたって禊祓いをして初めて誕生したのが八十禍津日神であった。そしてこの神が、瀬織津姫なのである。何故八十禍津日神が瀬織津姫なのかというと『倭姫命世記』に「荒祭宮一座、皇大神荒魂、伊邪那岐大神所生神、名は八十禍津日神也、一名瀬織津姫神是也」とある。
『倭姫命世紀』には、日本の代表的な神社である伊勢神宮に祓戸の大神のうち三神が祭られているという伝承が載せられています。
  瀬織津姫尊・・・伊勢神宮内宮・荒祭官(天照大神の荒魂として祭る)
  速秋津姫尊・・・伊勢神宮内宮・滝沢宮並宮
  気吹戸主尊・・・伊勢神宮外宮・多賀宮(豊受大神の荒魂として祭る)
瀬織津姫という女神は、古史古伝の「秀真伝」(ほつまつたえ)のなかで、男性太陽神・天照大神の妃神として登場します。秀真伝は大物主神と大直根子(おおたたねこ)が編んだ書物と伝えられ、「記紀」にはない男性太陽神の記述がある。伊勢の天照大神の荒魂が瀬織津姫というと、太陽神男性説とも符合するか。
坂東千年王国:水の神の系譜 に記載された意見
とても参考になります。
「天武が祭っ竜田越の広瀬の水神は、同時に祭られた風神に比して、何故か大忌神と呼ばれる。この大忌神、よく広瀬神社とされるが、元の水神は西にある讃岐神社である。広瀬神社の祭神が櫛玉媛命・和加宇加之売命・水穂雷神という農耕神であるのに対して、ここの祭神は御井神木俣命・大己貴命・井精粟井水神とされ、大己貴命の他は歴とした水神である。
この讃岐神社はその名の通り讃岐国、四国香川県から勧請された。『延喜式』神名帳の讃岐国苅田郡に栗井神社を挙げ、観音寺市粟井町に現存もする。
ところが、讃岐の栗井神社の祭神は本座を天太玉命とする。斎部宿禰広成の奏上した『古語拾遺』は讃岐国忌部の祖を手置帆負命とした。讃岐の忌部らが忌部の天富命が立てた房総半島の安房社を奉還したという。『先代旧事本紀』巻七に、天富命が忌部の祖神天太玉命社を立て、これを安房社というとある。
讃岐の忌部は麻を繁殖させたから、一名大麻神とも呼ばれる。いうまでもなく、麻は水辺の植物である。してみると、讃岐の栗井神社から勧請された広瀬の水神が大忌神と呼ばれたのも、それが忌部氏の祖神を祭る神社であってみりば、当然のことであろう。
斎部氏が『古語拾遺』を奏上したころの神祀のことは中臣氏の独占状態になりはじめていたが、天武が広瀬の水神を祭ったときは両者は肩を並べていた。中臣氏が東の伊勢に天照大神を祭るのに対して、忌部氏は西の広瀬に水神を祭った。
『古語拾遺』によると忌部は各地にいたらしい。上に挙げた他に、天日鷲命を祖
とする阿波国の忌部、彦狭知命を祖とする紀伊国忌部、櫛明玉命を祖とする出雲
国の忌部玉造、そして天目一箇命を祖とする筑紫と伊勢両国の忌部があるという。」
古語拾遺にある八百竹の貢進の話
讃岐忌部一族の斎部広成が書いたと言われる『古語拾遺』(807)には、[大和で矛竿を造っていた手置帆負命神の子孫が今は別れて讃岐国に住んでいて毎年讃岐から大和朝廷に調庸以外に八百竹を貢進していた]と書かれています。大和と讃岐にいた手置帆負命神(讃岐国造、建築の神様)。天太玉命(あまのふとたまのみこと)の孫の天富命(あまのとみのみこと)は、手置帆負(たおきほおい)と彦狭知(ひこさしり)の二神の子孫を率いて、神聖な斧と神聖な鋤を使って、はじめて山の原材を伐り、正殿を造営しました。
これが所謂、畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立てて、高天原の千木高くそびえ、はじめて天下を治められた天皇が、天皇による国政を創められた日です。
手置帆負神(讃岐忌部の祖):地鎮祭の建築の神
手置帆負神は古事記の中に出てくる神様で、天の岩の宮殿の造営にあたり、日本に下っては大国主命(オオクニヌシノミコト)の笠縫として奉仕せられた方である。手置帆負神を文字通り解釈すれば、帆掛け舟の帆を立てる神様です。 船に帆を張り、それを背にして(帆を負って)、オールを漕がない(手は使わず置いている) こうした船の使い手だった。
「金毘羅船船シュラシュシュシュ」の廻り歌を思い出します。その舟つくりの技を活かして家も作った。 今でも建築の棟上式には、必ず呼び出される大工の神様で、航海安全の神様でもある。
於神社(うえのじんじゃ):奈良県北葛城郡広陵町大塚
祭神:天兒屋根命 配祀 天照皇大神、品陀和氣命
由緒: 広瀬郡の式内社の於神社に比定されている。
川合の広瀬神社の摂社の水分神社を式内於神社とする説もある。
讃岐国苅田郡には於神社、同じく鵜足郡には宇閇神社(ウヘ)が鎮座、ここ広瀬郡には讃岐神社が鎮座、葛城の地域と讃岐、どのような関係があったのだろうか。 讃岐については、他に御歳神社の神封、また大和の寺院の寺封も讃岐にある。小治田寺、橘寺、薬師寺など。
二上山のサヌカイト、これは讃岐石のこと。讃岐と広瀬郡の関連は、深そうである。讃岐にも、広瀬神社(:祭神 若宇乢廼賣神)がある。祭神は、どう読むか。和加宇加之売=若宇乢廼賣 ではないか。
広瀬郡の讃岐神社において、祭神として掲示されているものは散吉伊能城命、右に若蔵稲之神、左には若宇迦比売命とある。これは広瀬神社の
大物忌神と同神の広瀬坐和加宇加之売神社の分霊を、勧請して祀ったことによるらしいので、広瀬神社も讃岐の広瀬神社と関係が有りそうですね。屋船豊受姫神は、手置帆負神(讃岐国造)とともに建築の神様であり、広瀬神社の由緒では、和加宇加之売とは屋船豊受姫神のこととある。ここでも、讃岐国造と関連がある!!!!。伊勢神宮に屋船豊受姫神を祀る神社がある。ここの忌部は讃岐から移ったのではなかろうか。
広瀬は、屋船豊受姫神ともよび家屋を鎮め奉る宅神で養蚕をも守る神として古来より崇敬が厚い、讃岐は琴平の大麻山で有名だが、綾郡で絹織物(綾織)を献上している。忌部の扱うものであろう。
参考:建築の神
讃岐の瀬織津姫神を祀る神社:黒島神社黒島神社(観音寺)は、創建年代は詳らかではないが、清和天皇貞観式(八七一年)讃岐國五社の一と伝えられ 延喜式(九二七年)讃岐國二十四社の一として県内有数の格式を誇り 古より地域内外を問わず深い信仰を集め 明治五年村社に列し 大正六年郷社に昇格 その神威高きたたずまいを損なうことなく 今日までこの地の産土神として 変わらぬ崇敬を寄せられている境内は、池神社と荒魂神社、若宮神社の3つ。神紋は、社殿や賽銭箱にも付いていた三つ巴。御祭神は闇山津見神・瀬織津姫神の二柱を祀る。
瀬織津姫=和加宇加之売=屋船豊受姫神ということらしい。
讃岐 櫛梨神社 社伝
「景行天皇の二十三年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、付近の稍西、
此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり。悪魚征討後、城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる。仲哀天皇の八年九月十五日、御年百二十歳にて薨じ給う。
国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲(直線距離およそ15km)に在り」
山城国の「綴喜」説
 雨海博洋氏訳注の旺文社文庫本『竹取物語』(80年)も、首肯している。 すなわち、かぐや姫と讃岐の造の名前が、『古事記』に基づいて命名されたと考えられる時、竹取の翁の家が構想の当初から広瀬郡散吉郷に設定されていたと考える蓋然性は、低くなるのではあるまいか。むしろ、讃岐垂根王の兄であり、迦具夜比売の父である大筒木垂根王の居住地である「大筒木」こそ、構想時点での讃岐の造の家のモデル地であった可能性が高いのではあるまいか。
 「大筒木」の所在地については、『古事記』中巻・開化天皇条に「又其の母の弟袁祁都比売命に娶ひて生める子、山代の大筒木真若王」(新編日本古典文学全集本、原漢文)とあり、山城国であることが知られる。また、石之日売が嫉妬に駆られて、奴理能美の家に滞在した時、口日売が歌った「山代の 筒木の宮に 物申す 吾が兄の君は 涙ぐましも」(古事記下巻)から、奴理能美の邸宅は皇后の滞在に相応しい立派なもので、仁徳天皇も後日、石之日売を訪ねて行幸したところであり、それが「筒木」、すなわち、山城国の「綴喜」にあったことが知られるのである。
富士市のかくや姫伝承
0.かぐや姫の名前
-契沖の指摘は、『河社』(契沖全集第十四巻 岩波書店 74年)であり、次のようにある。 かくやひめの名は、古事記垂仁天皇段云、又娶大筒木垂根王之女迦具夜比賣、生御子袁邪弁王。これをかれる歟。
-野口元大氏校注の日本古典集成本『竹取物語』(新潮社 昭和54年)でも、次のように継承されている。
この系図を眺めていると、いろいろな連想に誘われる。事はただ「かぐや姫」という一名辞だけの問題ではないように思われてくるのである。まず、カグヤヒメの叔父の讃岐垂根王という名は右に見た「讃岐の造」と関係があるのではないか、また、大筒木垂根王の娘なら、竹の筒から生れるという想像と結びつきやすいのではないか、そして、その先祖は竹野媛なのである。(中略)なお、ここの大筒木垂根王以下三人の名は、『日本書紀』の方には見られない。作者は『古事記』によって迦具夜比売の名に逢着したと考えるべきであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・古事記と日本書紀の記載・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
開化が丹波大県主・由碁理の娘・竹野比賣娶り、比古由牟須美王が産まれた。比古由牟須美王の子に大筒木垂根王、讃岐垂根王の二人の息子がいた。この兄弟には、あわせて五人の娘がいた(以上古事記開化条)。五人の娘のうちの一人は、迦具夜比賣といい、垂仁の妃となった(古事記垂仁条)。
 開化が丹波竹野媛を娶り、彦湯産隅命が産まれた(書紀巻四・開化六年条)。彦湯産隅命の子に丹波道主王がいた(書紀巻六・垂仁五年一〇月一日別伝)。丹波道主王の五人の娘が垂仁に嫁いだ(書紀巻六・垂仁一〇月一日条本文)。
 古事記の開化及び垂仁条の迦具夜比賣の父・大筒木垂根王と開化紀及び垂仁紀(別伝含む。)の丹波道主王については、父が比古由牟須美王(紀の表記は、彦湯産隅命)であることが共通している。
 また、丹波道主王の娘には、娘が五人、大筒木垂根王・讃岐垂根王の兄弟にも五人の娘がいる。つまり、丹波道主王あるいは、大筒木垂根王・讃岐垂根王の兄弟の父・ヒコユムスミからみれば、五人の孫娘がいて、孫娘が垂仁に嫁いでいる点で、共通している
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1.竹取の翁は、誰か。そして、どこに住んでいたか。
現在、竹取の里として名乗りをあげている地域が何箇所もあるが、
奈良の生駒の広陵町に讃岐寺という寺がある。そこの近くに住む翁であろう。讃岐寺は、讃岐忌部の寺であり、紀氏との関連が深い。
竹取の翁の名前は「名をば、さかきのみやつこ(造)となむいひける」と書かれている。
2.権力者に対する批判が込められているか
そのように見える。一説では、土佐に流された紀の貫之(土佐物語の作者)の作とも言われている。紀の一族と讃岐寺の関係が問題であろうが、物語の文学性からみても、相当な知識人の作であろう。
今までに紀貫之、紀長谷雄、源融、僧正遍昭、源隆国、鳥羽僧正、その他諸説あるが、文体に漢文訓読語があるので男性説が多い。
登場人物
大筒木垂根
開化天皇=かいかてんのう
若倭根子日子大毘毘命は春日の伊邪河宮(かすがのいざかわのみや)*1 にて、政を行った。
この天皇と旦波の大縣主、由碁理=ゆごり の娘
竹野比売=たかのひめ との間に誕生した御子は
比古由牟須美命=ひこゆむすびのみこと
【比古由牟須美命の御子は二人。大筒木垂根王=おおつつきたりねのみこ、讃岐垂根王=さぬきたりねのみこ。この二王には五柱の娘がいる。】
また庶母の伊迦賀色許売命=いかがしこめのみこと との間に誕生した御子は
御眞木入日子印惠命=みまきいりひこいりえのみこと
次に
御眞津比売命=みまつひめのみこと
また丸邇臣=わにのおみ の祖、日子国意祁都命=ひこくにおけつのみこと の妹
意祁都比売命=おけつひめのみこと との間に誕生した御子は
日子坐王=ひこいますのみこ
また葛城の垂見宿禰=たるみのすくね の娘
わし比売(*わしは変換できませんでした)との間に誕生した御子は
建豊波豆羅和気=たけとよはづらわけ
三室戸のいむべのあきた(斎部秋田)が かぐや姫の名付け親
万葉集巻二に「玉匣三室戸山」とあり、御室は神の降臨する聖所の意を持ち、戸はその祭祀の場所をいう。此処は三輪山祭祀を指すことから忌部氏は大神神社の祭司を職掌とし、秋田は豊饒の意を持っている。当時の名付の儀式は一族の長がつける。讃岐の忌部ではないか?。たしかに、忌部が讃岐の国造の時代もあったそうな。従って忌部氏は竹取の翁の本家となる。
求婚者と難題
1.石作皇子:仏の御石の鉢(ほとけのみいしのはち)
2.車持皇子:蓬莱の玉の枝(ほうらいのたまのえだ)
   蓬莱という山にある白銀を根とし、黄金を茎とし、
   真珠を実として立っている木を一枝
3.阿部御主人:支那にある火鼠の皮衣 (ひねずみのかわごろも)
4.大伴大納言:龍の頸の玉 (りゅうのくびのたま)
5.石上中納言:燕の子安貝 (つばくらめのこやすがい)
富と権力では、手に入れにくい物を求婚者に要求。
それぞれ 実在の人物に対比されている。
  石作皇子 ― 丹比島
  庫持皇子 ― 藤原不比等
  阿部御主人 ― 阿部御主人
  大伴御行 ― 大伴御行
  石上麻呂足 ― 石上麻呂
蚕が登場
物語の内容との関連もあります。先程の多々羅地区は渡来人がやってきて絹織物の養蚕技術を伝えたといわれる「日本最初外国養蚕飼育旧跡」の碑があるところです。ここは、『古事記』によれば、仁徳天皇の浮気に嫉妬した皇后磐之媛が、天皇の待つ難波には帰らず、筒木の韓人(百済からの渡来人)の奴理能美(ぬりのみ)の家に滞在したところとあります。仁徳天皇は奴理能美が飼っている虫(蚕)は三度変化する奇しき虫なので見に行くという口実をつくって磐之媛を迎えに来ますが、磐之媛は帰りませんでした。
なぜ車持皇子が藤原不比等であると推定できる?
不比等は内大臣鎌足の二男ということになっているが、母は車持与志古の娘で、実は天智天皇の皇子であることが、当時隠れもないことであった[松尾聡 竹取物語より]
これは、本当か?
こんな説もある?:その後のかぐや姫
記紀の登場人物のなかに「かぐや姫」という名の女性が唯一あげられる。それは、垂仁天星の妃の一人として迦具夜比売命と記され、大筒木垂根王の娘で垂仁妃となり袁那辨王を生んだとされる。神功皇后の名は息長帯日売とされるが、これは諡名で、実名はカグヤヒメ(香哉で光かがやくの意か)とみられるのである。神功皇后の系譜は日子坐王の子孫で山代之大筒木真着王の曽孫とされるが、この系譜は実際に比べて世代数が多く、同一人物が重複してあらわれるうえに、大筒木垂根王の父の比古由牟須美王は、様々な点で日子坐王と重なるからである。神功皇后の実際の夫君も、仲哀天皇でも垂仁天皇でもなく、その中間に位置する成務天皇であった。
垂仁天星+迦具夜比売命の系図
藤原房前と讃岐の伝承
かぐや姫は九州王朝の最後のプリンセス 説
竹取の翁として登場する讃岐の造麻呂とかぐや姫のなづけ親となった三室戸斎部の秋田の背景に讃岐斎部あることを洗い出している。そこから出た斎部広成の書いた『古語拾遺』の中に、毎年讃岐国から竹竿八百本を貢進する記事もあり、また中臣氏から忌避された斎部氏を思うとき、杉本苑子説以上にこの説の蓋然性は高いとわたしは思っている。
持統十年(六九五)冬十月の条
「冬十月の己巳の朔乙酉に、右大臣丹比眞人に輿・杖賜ふ。以て致事ることを哀しびたまふとなり。庚寅に、假に正廣参位 右大臣丹比眞人に資人百二十人賜ふ。正廣肆大納言阿倍朝臣御主人・大伴御行には、並びに八十人、直廣壹石上朝臣麻呂・直廣弐藤原朝臣不比等には、並びに五十人。」(『日本書紀』)
 問題は最初の褒賞から次の昇進までの五年の間における状況の変化(齟齬)にこそ、この作者の怨念は胚胎していたのではないか。それはどんな怨念であったか。
 『二中歴』によれば九州年号の最後を飾ることになった大化がその前年の六九五年に改元されているその意味は白村江の敗戦によって転げるように凋落していった倭国が、それと対照的に昇竜のごとく近畿から立ち上がった日本に追い詰められ抵抗を繰り返していたが、もはや時代が倭国のものでないのを悟り、内部の軋轢を制し、実際的な明日の身分保証を大和朝廷に求め、つまり妥協路線への転換にこの年号の意味があったのではないのか。それを不服とする者が倭国の長久を願い大長と六九八年に改元したのではあるまいか。
高松塚古墳も竹取物語の関係者の墓か
石上麻呂は、かぐや姫に求婚する貴公子の一人「いそのかみのまろたり」として物語に登場する。美しい姫が望んだのは「燕の子安貝」。乗り込んだ籠(かご)を釣り上げさせて軒下の巣を探る。手には確かに触れるものが。喜んだのもつかの間、バランスを崩して仰向けに転落してしまう。このような傷が遺骨にあるので、石上麻呂との見方があるとか。
竹取物語から文武の時代を探る

11 thoughts on “かぐや姫 考 :竹取物語の謎  歴史推理その1

  1. 杉本苑子説

    杉本苑子はこの『竹取物語』の作者を藤原氏によって政界を追われた大伴、石川、阿倍、石上、多治比、紀、巨勢という七氏族のなかに求め、物語の中でかぐや姫によって揶揄、嘲笑される五人の出世頭から外れた紀麻呂の系譜上にこの作者を求め、この物語の成立が平安初期の九世紀後半から一〇世紀前半に活躍する紀貫之と紀長谷雄に注目し、藤原氏によって左遷された菅原道真に重用され応天門の変で没落した紀長谷雄を掘りだしている。
     これはなかなか穿った興味深い見解だが、この杉本説に限らず、従来この『竹取物語』の作者については雨海博洋によれば 1). 源順、2). 僧正遍照、3). 源融、4). 壬申の乱の近江朝に近い筋、5). 斎部氏関係、6). 漆部関係、7). 紀長谷雄、8). 賀茂峯雄といった諸説があったと言う。これらの説を踏まえて雨海博洋はこの『竹取物語』の作者について百数本に及ぶ文献の現存状況を踏まえた上で古本系統と流布本系統に別れるところから、原『竹取物語』の作者と現『竹取物語』の作者という画期の二段階成立論もって、これまでの諸説の矛盾を埋め、次のように断案した。
     「漢文体の原『竹取物語』は弘仁年間の後半に空海の手によって、それを翻案した和文体の現『竹取物語』の基は貞観年間の後半に遍照の手になったと考えられる。」  弘仁年間とは八一〇年~八二四年で、貞観年間とは八五九年~八七七年である。つまり『竹取物語』の漢文体の原本とおぼしきものは九世紀の始めに成立し、半世紀かけて現在の和文体の歌物語への昇華が行われたというわけだ。そしてこの遍照→空海と遡行する背景に雨海博洋は、竹取の翁として登場する讃岐の造麻呂とかぐや姫のなづけ親となった三室戸斎部の秋田の背景に讃岐斎部あることを洗い出している。そこから出た斎部広成の書いた『古語拾遺』の中に、毎年讃岐国から竹竿八百本を貢進する記事もあり、また中臣氏から忌避された斎部氏を思うとき、杉本苑子説以上にこの説の蓋然性は高いとわたしは思っている。

  2. 大麻神社 穂積氏忍山宿禰

    丸亀京極家編纂の「西讃府誌」に「相伝ふ弟橘姫(おとたちばなひめ)は讃岐人穂積氏忍山宿弥(おしやますくね)の娘なり」という記述があり、弟橘媛の父忍山宿弥は大麻神社の神官を務めたとされる。
    大麻神社は琴平にある。

  3. 真井御前のこと

    籠神社の三十一代神官海部直雄豊(雄富)の娘の真井御前(厳子)。竹野神社に仕える巫女は「竹野の姫神」と呼ばれ、特に厳子は神に仕える巫女は浄く、かぐわしくあらねばならないということから、「香の姫」と呼ばれていたと伝えられています。真井御前は、淳和天皇の寵愛を一身に集めていましたが、世の無常を感じてか、宮廷生活を辞し、二人の女官とともに仏門に入る決心をします。兵庫県西宮市にある「神呪寺(かんのうじ)」が真井御前が創建した寺といわれています。そこで名を如意尼(にょいい)と改めますが、この寺にある如意輪観音は空海が真井御前をモデルにしてつくったとされている。
    空海より阿闇梨灌頂まで受けている!!。彼女は空海が入定する承和二年(八二五年)三月二十一日の前日に、空海のいる高野山に向けて合掌し、如意輪観音の真言を唱えながら亡くなりました。
    迦具夜比売の系譜に羽衣伝説ゆかりの地の竹野媛がいるが、空海は、この真井御前を念頭に、漢文体の竹取物語を書いたのかもしれません???。

  4. 阿刀大足

    大伴御行(646年-701年):実在の大伴御行は、天武天皇、持統天皇、文武天皇の3代に仕え、文武朝で大納言になっています。
    にかぐや姫が与えた難題が「龍の首の珠」。
    龍神を捕らえようとして、多くの人々の命が危うくなったのは、かぐや姫のせいだと言い、かぐや姫の家には近づくなと命じます。大伴御行が海で嵐にあう場面が、「竹取物語絵巻」に描かれています。
    神谷神社は、讃岐の三ヶ庄(松山・林田)の総氏神として、五社大明神・青龍社とも呼ばれ、古来より郷人から崇められてきました。この神社は、平安時代初期の弘仁3年(812)、阿刀大足(あとのおおたり)が社殿を創建し、併せて春日四神を相殿に勧請し祀ったといわれています。祭神は、火結命(ほむすびのみこと)、奥津彦命(おくつひこのみこと)、奥津姫命(おくつひめのみこと)です。阿刀大足は空海の母方の叔父で、桓武天皇の皇子伊予親王の儒学の侍講(講師)を務めるほどの大学者であり、少年時代の空海の優秀さをみて都へ連れて行き、大学に入学させるために儒学を教えた人物です。

  5. 衛門三郎伝説

    衛門三郎と弘法大師像 香川県多度津町 通隆寺 (平13.3) 衛門三郎. 唐から帰国した弘法大師に師事した道隆公の子で第2代住職の朝祐法師が七堂伽藍を建立し、寺号を開祖の名をとって道隆寺と名付けた。
    大師と大師の前にひざまづいて、両手を大師に捧げている衛門三郎の石像 。四国遍路の始まりといわれる衛門三郎伝説。天長の頃、伊予の国荏原の郷、今の松山市久谷町に河野衛門三郎という強欲非道の大庄屋が住んでいました。衛門三郎は悔いて、弘法大師に許してもらおうと、四国を巡っている大師を捜して四国の道を東からまわったり、西からまわったりして歩きます。

  6. 衛門三郎伝説

    河野家は衛門三郎の父親の家系なのです。彼の父親である河野三郎は、若かりし頃、御所の門の警護役という非常に名誉ある役目を仰せつかり、一人で京都に赴くのです。当時、この職は「門衛」と呼ばれていましたので、彼は字を逆さにして「河野衛門三郎」と名乗るようになったと言われています。

  7. 衛門三郎伝説

    河野通堯公ハ村上義弘公ト共ニ吉野朝廷ニ仕ヘ懐良親王ニ謁シ刑部大輔通直ノ名ヲ賜リ北条方伊予守仁木義尹ヲ破リ再ヒ伊予一国ヲ領スルニ至リシモ 後足利氏ノ重臣細川頼之大軍ヲ以テ伊予ニ攻メ寄セ 通義通直公ニ従ヒテ奮戦天授五年十一月六日桑村郡佐志久原ニ於テ討死ス 

  8. 衛門三郎伝説

    七郎左衛門通広は、河野四郎通信の末子五郎通尚の子なリ。この生子、幼名徳寿丸と云い、後に別府弥七郎通秀とて、即ち通信の孫にて、その頃、執権北条家へも親戚の因あリ。その後、二男出生す。七郎通高と申して、筑前長淵の庄を賜わりしなり。
    通秀は前生右衛門三郎が事跡を詳しく尋ねて、「さては疑いなきことよ。」とひたすら菩捷心に傾き、先ず久米郡に一つの伽藍を建立し、出生の時手持ちの石を本ぞれに作リ篭めて、石手寺と号するはこのいわれなリ。
    鎌倉時代、河野家には時宗の開祖として有名な一遍上人が現われ、上人はこの〃玉の石〃を河野家代々の菩提寺として知られている道後の安養寺「神亀5年(728年)聖武天皇の勅願で創建」に奉納した。そして吉野朝時代、河野通尭のときの寛平4年(892年)に衛門三郎の故事にちなんで、〃石手寺〃と寺名を改めた。これが現在の石手寺の宝物殿に安置されており〃衛門三郎〃の刻字を見ることができる。

  9. 衛門三郎伝説

    「予陽盛衰記」ではこの赤子が成長し一遍上人となったと書かれている。河野家、(弘法)大師、一遍伝説が三位一体的に集約された伊予国の伝承である。子規の句に「南無大師 石手の寺よ 稲の花」がある。

  10. 讃岐氏

    「讃岐造」とは讃岐村の長で、讃岐村を治めていたのは讃岐氏であったことも想像できます。では、古代に「讃岐」なる姓をもった人が存在していたかを調べてみますと、我が国の最も古い歴史書と認められている『古事記上巻』に、第九代開化天皇の項に、天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前を見つけることが出来ます。更にこの讃岐垂根王の姪に「迦具夜比売命」なる名も見つける事が出来ます。讃岐なる名前の人の姓は、『古事記』の記録に記載されているから存在していた実証となります。そして更にこの迦具夜比売は十一代垂仁天皇の妃となり、その子の袁邪弁王なる御子の名も歴史の中に記載されています。

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