阿波 と 安房 :麻=総の国

神奈備という掲示板がある。
この結論正しい?
1.房総の安房は、むかしは阿波でした。
2.房総の富浦、富山は、天の富の命(海洋民のリーダー)に因んで名づけられた
3.房総の総は麻のことであり、神事を司る斎部氏が、神にささげる、麻織物を生産した。麻の国
4.岩井の名も、もしかしたら祝からきたのかもしれない
掲示板に 阿波から安房へ黒潮に乗って流れた海洋民の可能性について書いてある。
「『安房の忌部氏の祖は天富命(タケミナカタトミの命のトミと関係あるのだろうか。)とされていますが、阿波からの分家ですか?(阿波から安房へ?)』
結論:分家です安房一の宮(=安房神社)の由来にはっきり書いてあります。
『だとすれば、阿波→淡路→安房というのもそれほど荒唐無稽じゃないですね』
ありえると思います。ただ私的には、黒潮に乗って紀伊半島潮岬経由で、熊野灘にもめげず行ったと思いたいです。 ところで、千葉県船橋市に船橋大神宮(意富比オオイ神社)があります。いまの宮司さんは千葉さんですが、400年近く昔は 富(とみ)氏でした。
また、あの神武天皇さんの大阪入りをはばんだ長スネ彦さんのフルネームは登美(とみ)のナガスネヒコです」との記事発見。
安房神社と天富命(あめのとよのみこと)
神武天皇期、武力によらない房総の開拓者として斎部氏(皇室の神事担当氏族)の天富命が四国阿波より一族を引き連れてやってきた。黒潮に乗って野島崎近くの布良(めら)に上陸した。彼らは農業と織物、建築、製玉、金属加工の技術集団でその先端技術を東の国に移転した。根拠地に安房神社を立て祖神太玉命(富命の祖父)を祀った。彼らは先頭に立って開拓し安房から上総の地まで進めた。これらの事績は平安初に発行された「古語拾遺」に載っている。麻を育て良く育つ国=総の国と呼ぶようになった。かって麻を総と呼んでいた。上総、下総と別れて行く。
神武天皇の命を受け、天富命(下の宮祭神)は、天日鷲命の後裔を引き連れて、まず四国・阿波へ渡り開拓。その後、阿波国の忌部を引き連れて、当地へ上陸し、開拓。当地は、良い麻が生育することから、総(ふさ、麻の古語)の地と名づけ、阿波国忌部の居住地を安房として、祖神である天太玉命を祀ったのが安房神社の起源。
上の宮には、后神が配祀されているが、以前は忌部五部神も祀られていたようだ。
忌部五部神とは、天日鷲命、手置帆負命、彦狭知命、櫛明玉命、天目一箇命
下の宮には、当地を開拓し、当社を祀った天富命を祀り、天忍日命(天太玉命の弟、一説には兄)を配祀している。
タテミナカタは、出雲の富の関係者かと思っていたので、天富命の一族の系譜を知りたくなった。ちょっと調査中。
総の国の呼称
645頃 総を、上総、下総に分割
718(養老2) 上総から安房が分離
741(天平13) 安房が上総に併合
757(天平宝字元) 上総から安房が再分離
房総半島南端の安房と四国の阿波の読みは共に「あわ」。
平安初期成立とされる旧事紀の国造本紀には房総半島南端の方が「阿波」で四国の方は「粟」と表記されているそうです。
安房は房総半島の南端部にあり、鋸山、清澄山系によって上総と地域的に分断されている。養老2年(718)に上総国から分かれ安房の国となったが、一時的に合併され、再び、独立して、阿波国となった。
阿波国造の支配地域は、平久里川流域を中心とした安房西部および館山市であったと思われる。成務天皇の世に大伴直大滝を阿波国の国造に定めたと、「先代旧事本紀」の第10巻「国造本紀」にみえる。阿波の北半がのちに平群郡、南半が阿波郡となった。
布良神社
上陸地点の布良地区には漁港や灯台があり立派な布良神社が祭られている。祭神は天富命である。安房小湊にも行き長狭一帯を開拓し清澄山を開いた。富山の山頂が富命埋葬の地と言われている
洲崎神社
洲崎灯台の近くにあるのがこの神社で安房神社祭神の妃である天比理刀目命(あめのひりとめ)を祀ってある。斎部一族の神は年1回9月に総社の鶴谷八幡宮(館山JR駅近く)に集まる。祭は「やあたんまち」と呼ばれる。
拝殿ははるかに高く、階段で148段登った所にあり参拝するのが大変だった。源頼朝の崇拝厚く後に大田道潅がここの神を神田明神として祀った。
讃岐の金比羅山は、大麻山とも呼ばれる山の中腹にある。何故大麻山なのだろうか。
小豆島、阿波にも大麻山がある。また、阿波の一宮は大麻彦神社であり、天富命が関係しているようだ。
http://www.nmt.ne.jp/~tomo44/yamakawa.html
麻:青和幣 梶の木(楮こうぞ):白和幣
忌部氏の活躍を著した「古語拾遺」大同二年(807年)によると「天富命をして天日鷲命の孫を率いて阿波国に移り、穀、麻を植えさせた。その一族がいま阿波におり、大嘗祭に木綿・麻布など種々の物を献上する。それ故、郡の名を麻植という」と書かれている。
 少し遡って阿波忌部の史料を探ってみよう。正倉院に納められている黄ぎぬに書かれた銘文には、天平四年(732年)10月麻植郡川島郷少楮里戸主忌部為麻呂が黄ぎぬ一疋を戸調として納めたと記されている。また、「続日本記」神護景雲二年(768年)7月14日には「阿波国麻植郡人外従七位下忌部連方麻呂。従五位上忌部連須美等十一人賜姓宿禰大初位下忌部越麻呂等十四人賜姓連」とあって大勢の忌部が活躍したことがうかがわれる。阿波忌部氏と同祖をいただく斎部広成の著した書物『古語拾遺』には、伊勢国の麻積(おみ)の祖である長白羽神(ながしらはのかみ)に麻を植えさせて「青和幣」をつくらせ、天日鷲神と津咋見神(つくいみのかみ)に穀木(かじのき)を植えさせて木綿から「白和幣(しらにぎて)」をつくらせたとある。これからして、「青和幣」が麻であり、「白和幣」が和紙原料である穀木=梶の木又は楮(こうぞ)であったことがわかる。その麻と木綿を真榊にとりつけて神に捧げ、神の降臨を願ったのである。
 奈良時代の仏教説話集「日本霊異記」(820年頃成立)には、次のような説話が残されている。「光仁天皇の代、麻植郡人忌部連板屋が法華経を書写して、麻植郡その山寺に施入した。忌部首多夜須子の過失を誹謗した罪によって、口が歪み終生直らなかった」という話がある。
 これらの史料を総合すると、どうやら山川町山崎字忌部を中心に阿波の忌部たちが活躍していたことが推定され、彼等の役割を特徴づけるものとして、践祚大嘗祭の由加物とし麻布や木綿などを貢進していたことになる。
 阿波忌部の足跡をたどってみると
 天富命は、阿波国以外にも肥沃な地を求め安房国(千葉県)で大いに発展し、その地に太玉命の社を建てた。また、讃岐、紀伊、筑紫、伊勢、島根の地へ忌部の祖神として進出し同地を開き大功を立てた。
 忌部神社の上方240メートルの中腹に「忌部山古墳群」が築かれた場所がある
大麻山の古墳
善通寺の大麻山(616メートル)の山腹に野田院古墳がある。古墳は、全長45メートル、後円部の径21メートルのほどの割石造りの小さな前方後円墳である。善通寺にはこのほか確認済みの古墳だけでも400基ほどある。
関東の鷲神社など
日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の際に東国治定や開発の為、日本武尊と共に三浦半島を経て船で安房国(千葉県)に移って来た忌部氏が、利根川を上るようにして東国を開発していくのに伴い、天日鷲命も広く祀られていきました。弓削連(ゆげのむらじ)の祖でもある天日鷲命は、東国武士等に弓矢を作り始めた神様、武道守護の神様としても篤く崇敬されていたようです。
安房大神
 安房大神は安房神社に鎮座する神で、平安期には安房国一宮でした。令制の安房郡の時期には神郡で、神主は安房国造がつとめました。安房国造の任命に際しては、出雲国造、紀国造とともに特別の任官方式がとられていました。東国では鹿島神につぐ扱いで、香取神を上まっていました。
 安房大神は天平2年(730年以後)、中央官庁の大膳職で御食津神(みけつかみ)として祀られ、安房の女性集団が祭祀のために上番していました。これは贄としてアワビが献上されていたせいかもしれません。このように朝廷にとって特別な意味をもった神社でしたが、8世紀前半に地位を低下させています。これは忌部氏の没落と関係があるかもしれません。

香取神宮

 鹿島神宮とともに日本屈指の名社です。神武天皇18年の開基と伝えられ、延喜式神名帳にも名神大社として名前を残しています。祀神は経津主命です。古来から武神として尊信を集め、鎌倉時代までは20年ごとに社殿の造替が行われるしきたりになっていました。源頼朝や足利尊氏の寄進状も現存します。阿波忌部氏に続いて神八井耳命の血を引く肥後国造一族の多氏が西上総に上陸し、農業開拓を行い、そこから常陸に進んで香島に社(鹿島神宮の原型)を築き、また出雲系の拓殖氏族が香取神宮の原型をそれぞれ農耕神として祀ったとされます。
 地図を見てもわかるように、香取神宮の兄弟社ともいえる香島(鹿島)神宮は香取の海を挟んだ両側にあり、まるで要塞のような位置です。東国において極めて重要視されている香島と香取は、古代において東国進出の基点だったのかもしれません。
 『日本書紀』では天の悪神・天津甕星を誅する神・斎主神(いわいのかみ/『古語拾遺』では経津主神)とされています。
海部(あまべ)と阿波の海部川
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/awa_kaif.html より
平安時代に成立した『和名類聚抄』のなかの阿波の南部に、「加伊布郷」がみえている。加伊布とは海部のことで、大里古墳ならびに和奈佐意富曾神社を中心とする下灘地方であったと推測されている。そして、平安時代から室町時代にかけて、現在の海南地域は「海部郡司の領地」であったとも「宍咋庄」という荘園に属していたともいわれる。そして、中世の阿波南部海部地方に勢力をもっていたのが「海部氏」であった。海部氏の出自に関してはは藤原姓ともいうが、古代豪族の後裔とする説もあり、いまだ定説がないというのが実状である。
 そのようななか、海部氏の起りに関する説として、海部郡司の後裔とするものがある。海部川にのぞむ吉田山には、むかし、海部郡司が築いた吉田城があったと伝えられている。そして、吉田城主である海部郡司は海部川流域の農業地帯を支配していたという。その後、海部郡司は海部川流域の支配地を地頭や庄官などに横取りされないように、武力をたくわえるようになり武士団海部氏へと成長していったというのである。
 他方、『富田家文書』という古文書によれば、海部氏の祖先は鷲住王であると書かれている。それによれば、鷲住王はその家来たちとともに大里海岸に住みつき、はじめは漁業などに従事していた。やがて鷲住王の後裔は、海部川下流の平野を開拓して農業を行うようになり、平安時代から鎌倉時代にかけて、北の日輪庄と南の宍咋庄という二つの荘園にはさまれた地域の開発領主として武士化していった。
 鷲住王とは、履仲紀に「六年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」と見える伝説上の人物である。鷲住王のことはともかくとして、阿波南部の荒野を開拓した海部氏の先祖を中心として、海部武士団が成立したことは疑いのないことと思われる。
出雲神族 富氏
http://hw001.gate01.com/sangatu/tango.htm#amabe_sinshutu より
莵狹族と大江山や貴船山との関わりはきわめて古い時代のことで、現在その痕跡が残っているほうがおかしいことになるが、宇佐公康氏の本に出てくる年代は出雲神族の富氏に伝わる年代とすこし食い違っているようである。莵狹族は貴船山からさらに稲荷山に9000年ほど前に根拠地を移したが、裏日本沿いに移動してきて鞍馬山に住んでいたシベリア種族の猿田族が勢力を伸ばしてきて、8500年ほど前に稲荷山を追われ、各地に分散して行ったという。この宇佐氏の伝承の猿田族は出雲神族を思わせるが、この猿田族を出雲神族とするとその後の宇佐氏の伝承と矛盾が出てくる。稲荷山以後の伝承には混乱・錯綜が見られるが、稲荷山から隠岐諸島に移動していった莵狹族もいたらしい。竹野神社の神馬は、いつのころか隠岐国から奉納される慣わしで、神馬が倒れるたびに繰り返し奉納されたというから、はたしてそれが莵狹族の隠岐への移動と関係するかどうかは分らないが、隠岐と丹後は古くから何らかの関係があったようである。その隠岐の莵狹族と朝鮮から渡来してきた和邇族は出雲族の統治下で生活していたが、稲葉の素莵の話は莵狹族が和邇族に経済上の取引で玄人くさい駆引きを使って失敗し、和邇族に資産を押えられ、大国主命の教示で全財産や隠岐の領有権を和邇族に渡して赤裸になってしまったことを物語っているという。大国主命は莵狹族に因幡国八上の地を無償で与えたので、やがて此処を根拠地にして山陽・北九州・東九州にまで発展して古の莵狹国をつくって繁栄するに至り、大国主命の慈愛と恩恵は現代の宇佐家に至るまで伝承されているという。もし、猿田族が出雲神族であるとすると対立関係にあったことになり、この大国主命と宇佐氏の関係と正反対になってしまうわけである。また、菟狹族と大国主の出会いであるが、宇佐公康氏の本ではただ、6000年以上前の出来事と推測できる記述がある。ただそうすると、吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば富氏の伝承に「この世界が、一夜にして氷の山になった。大祖先であるクナトノ大神は、その難を避けるため、一族をひき連れて移動を始めた。東の彼方から氷の山を越え、海ぞいに歩いた。そうして何代もかかって、ようやくたどりついたのが出雲の地であった。(今から4000年も前のことである)」とあり、それからすると出雲神族が出雲にきたのはどんなに古くても4000年前ということになり、宇佐氏の伝承と少なくとも2000年以上食い違うことになる。宇佐氏が大江山から九州の宇佐へ移動していったのは、もっと後の時代、それもかなり後の時代の可能性もあるのではないだろうか。
元出雲
丹波の出雲大神宮は元出雲とも称され、出雲大社を勧請したとも、逆に当社祭神を遷したのが出雲大社ともいわれるが、第二次世界大戦終了後のある日、出雲大神宮の広瀬宮司が丹後の籠神社の海部宮司を祇園に誘って、お互いの秘密を打ち明けあった話が吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』にのっているので、引用させてもらう。
 (日本の神社など、つぶされてしまうだろう。いや、明日のことさえわからないのだ)広瀬宮司は酔いにまかせて、「神社にはいろいろ秘密があるだろうが、ここまできたんだ、お互いにバラしてしまおうじゃないか」と、宮司に言いました。「いいとも。なんでも話そう」「お前さんのところの祭神は、アマテラスだとか天のミクマリだとか言われているが、いったいどんな神さんを祭っているのかね」「うむ……。実は、主祭神は出雲の大神さんなんだ。あんたのほうは?」「中央は空位でね、左がミホツ姫とオオクニヌシ。右は天つヒコネの命と、天のヒナドリの命となっている」。籠神社では、祭神を知っていても公表しなかったのです。(いつ、弾圧されるかわからない)そう考えてのことでしょう。出雲大神宮の中央の空座には、クナトの大神が鎮座していたに違いありません。何代目かの宮司が危険を感じ、どこかへ遷座するなどして、心の中では礼拝を続けていたのでしょう。しかし、数代、数十年たつうち、祭神が不明になったものと思われます。
出雲神族とも関係があると思われる神社に名神大社であり但馬一ノ宮でもある粟鹿神社がある。粟鹿神社の社家は日下部宿禰であったが、最近発見された『粟鹿大明神元記』という、和銅元年八月に但馬国粟鹿神社の神主(祭主)神部根が勘注上申した案文の写しでは、粟鹿神主は古代神部氏が奉斎していたことが知られ、系図を見ると素戔鳴尊より五世に大国主命がみえ、さらに太田々弥古命に連なっており、また、太田々弥古命の子太多彦命の子孫の速日・高日兄弟が神部直の姓を賜り、速日の子忍が但馬国造となり併せて粟鹿大神祭主となったと記されているという。そうすると粟鹿神社の神主神部氏は、大三輪氏と同族であり、出雲神族ということにもなるわけである。祭神は彦火々出見尊、あるいは日子坐王とされているが、摂社をみると厳島神社の市杵嶋姫命・床浦神社の大己貴命・天満宮の菅原道真など出雲神族系の神が多く、猿田彦神社の猿田彦神もクナトノ大神が猿田彦に代えられてしまったのであろう。
但馬一宮・粟鹿神社には古事記より古く和銅元年の成立といわれる『粟鹿大神元記』が伝わる。この神社の祭祀者は日子坐王の後裔とする日下部氏の以前はミワ氏であり、「古代氏族の系譜-ミワ氏族の移住と隆替-」(田中卓氏『日本国家成立と諸氏族』所収)によれば、次のようなことが書かれているそうである。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/kasagun6.htm より
 …この神部氏の系譜の伝へるところを信ずれば、同氏はもとミワ氏と祖先を同じくするが、先づ、崇神天皇の御世、大田田祢古命の子の大多彦命が命を承けて、国々の荒ぶる人等を平服せしめむがため、大国主神の術魂・荒魂を桙・楯・太刀・鏡に取着けて西国に出征し、但馬国朝来郡の粟鹿村に宿住したといふのである。…
その後、成務天皇の御世、武押雲命の孫の速日が、粟鹿大神を拝祭するが故に神部直の姓を賜ひ、また但馬国の国造に定められたといふ。但馬国造については日下部氏との関係があり、後述するが、この頃に当地方における祭政両面の権威を確立したことが察せられ、殊に系譜によれば、速日および子の忍が共に物部連小事の女を娶ってゐるらしいから、物部氏と結ぶことによってこの氏の勢力は更に増大したことであらう。そしてそれは次代の忍が神功皇后の新羅征伐に但馬国の人民を率ゐて参加したといふ所伝とも照応する。新羅征伐にいかなる氏族が参加したかといふことは、重要にして興味ある問題であるが、別に詳しく之を論ずる機会があるので、ここには割愛する。
しかし、本書によってミワ支族が”粟鹿大神の荒術魂を船鼻に取着けて”百済に赴いたといふ所伝の知られることは、実に珍重としなければならず、之は神功皇后摂政前紀の「令二諸国一集二船舶一練二兵甲一。時軍卒難V集。皇后曰、必神心焉。則立二大三輪社一。以奉二刀矛一矣。軍衆自聚。」といふ所伝とも、恐らく内面的に関連するところがあるであらう.そして事実において、粟鹿神社の摂社に住吉大神を祭る社があり、lこの社の下は古墳らしい。両者の関係の密接であることを物語ってゐる。…
成立年代は和銅元年といふ本書奥書の年紀にふさはしく、疑ふべき積極的な理由の存しないことを詳述し、貴重なる本書の内容を基にして、ミワ支族たる神部氏が、崇神天皇の御世、山陰道但馬国へ移住し、粟鹿大神を奉祭して発展するが、やがて日下部氏興隆の前に、旧豪族としての地位を失ふに至ったといふ、一古代氏族盛衰の運命を明らかにしようとしたのであった。それは、一方において、天武天皇の御世を頂点とする対国造(豪族)政策の一面を、具体的に考へしめる結果となった。しかし、何分取扱った史料が和銅の原撰といふ希代の、しかも従来学界に殆ど知られなかった古記であって、非力なる私の文献批判が、果して識者の賛同をいただけるか否か、疑はしい切に御叱正を乞ふ次第である。
クナトの神
「塞の神峠」は中世では「矢柄峠」と呼ばれていました。戦国時代にはこの地方でも勢力争いが起り、その戦の激しさは
「無数の矢を天に埋めるほど」であったと言い、そこから「矢柄峠」の名が付いたそうです。
近世になってからは、この峠に「塞の神」が祭られ、以来この峠は「塞の神峠」と呼ばれる事になりました。
塞の神とはイザナギ・イザナミの神話に出て来る、黄泉の国との境に立てられた杖の事で、クナトの祖(さえ)の神の事です。
そこから悪霊や疫病をさえぎる、塞ぐ神という役割が生まれ、村境や峠に祭られるようになりました。
ここの塞の神峠にはヤチマタヒコ、ヤチマタヒメ、クナドの三神が塞の神として祭られています。
その昔、付知の村で悪性の病が流行したらしく、病気平癒を祈願して村人が祭ったものだそうです。
現代になり「塞の神」の名は隧道に受け継がれました。トンネルなだけに黄泉平坂を連想してしまいます
神代文字とクナト
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/mojizukan2.htm :神代文字図鑑
安曇野に唯一、おそらく日本でも唯一存在するといわれる神代文字道祖神(昭和50年町指定文化財[民俗資料])。
 碑面に彫られた三柱の神の名は『延喜式』(927年成立)第八巻の祝詞「道饗祭」(みちあえのまつり)に登場するヤチマタヒコノカミ、ヤチマタヒメノカミ、クナトノカミで、チマタもクナトも「道の分かされ」の意味であるところから三柱とも辻に立って災厄を防ぐ神の性格を帯びている。 その点が道祖神の「塞の神」と共通するところである。道祖神としての祭祀は大正ころからで、もとは旧庄屋の屋敷神であった。最近の研究から、この神代文字道祖神が実は庚申塔の一種「塞神塔」(さえのかみとう)の貴重な作例であることが分かった。平田国学の影響からこの道祖神の造立の時期は文政の終わりころと考えられる。
出雲大国主命の家系を継いできた富氏の語りによれば、原出雲族は紀元前2,500年頃大祖先であるクナトの神に引き連れられて出雲の地に着いた。原住民に鉄、製布、農耕等を教えた。出雲の地の王となった。大移動途中、信濃に建御名方命、大和に登美族などの出雲族の分家が出来ていった。それぞれが土着の民人と融合し、地方の支配者となっていった。各地の大国主命の誕生である。
登美神社とニギハヤヒ
http://homepage2.nifty.com/gombe/BOUKEN/shrines.htm
越谷久伊豆神社
http://marikoh.hp.infoseek.co.jp/hisaizu/hishizu_001.htm より
西角井正慶「利根川中流域の神社分布」という図がある。これによると、氷川神社は、荒川を挟んで武蔵野台地・大宮台地に多い。ここは、6000年前までの縄文海進(関東平野の奥まで海が入り込んでいた時代)の時代に陸地だった地域である。一方の、久伊豆神社は、大宮台地と下総台地の間の元荒川と古利根川を中心とする低地帯に多く、縄文海進の時代には海である。この分布から推定できるのは、氷川神社が畑作中心の地域で縄文時代からのこの地方に根ざしていた部族の信仰神であり、久伊豆の出雲系を信奉する一族は縄文海進より後に、低地帯が居住可能になってから移住してきたということであろう。氷川神社が出雲系の三神(素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、 大巳貴命(おおむなちのみこと=大国主命))を祭神とするようになったのは、後世のことで、本来は、縄文の神(産土神)を祀っていたのではないかと思える。氷川神社の名称が、出雲の簸川に由来するという説は、検討の余地があるだろう。
 ここに、「武蔵国造の乱(528-534年)」として記録されている出雲族同士の争いがある。国造をめぐって同族の小杵が争い、年経ても決着が着かなかった。そこで小杵は利根川対岸の上毛野君小熊に援軍をたのみ、笠原直は朝廷に訴えて勝利を得たとある。勝者の笠原直使主は、鴻巣市笠原に居住しており、おそらく兄多毛比命の子孫であろう。この笠原地区にある神社が、なんと久伊豆神社である。国造の氏神が氷川神社ではなく、久伊豆神社だというのは面白い。この神社は、後の世になってできたものかもしれないが、出雲族が祀っていたのはやはり、久伊豆神社であろう。
利根川は登美川かもしれない:新説みたい。珍説????かな
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地名の歴史http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei10.htm
総国は、現在の千葉県、茨城県南西部の一部、埼玉県東部の一部の地域です。関東平野の東部、房総半島と利根川下流の流域、江戸川の流域の地域で、北は常陸国、西は武蔵国に接しています。この地域は、古くは「総(ふさ)」といい、7世紀後半の令制国の建置にともなつて上総(かずさ)国と下総(しもうさ)国が成立し、のちに養老2(718)年に上総国から4郡が分かれて安房国が成立しました(天平13(741)年から天平宝字1(757)年まで上総国に併合)。
 『国造本紀』によれば、成務朝に須恵(すえ)、馬来田(うまくた)、上海上(かみつうなかみ)、伊甚(いしみ)、武社(むさ)、菊麻(くくま)、阿波(あわ)の国造が定まり、応神朝に印波(いんば)、下海上(しもつうなかみ)の国造が定まつたといい、これ以外に長狭(ながさ)、千葉の国造の名が見えます。
 安房国が分かれた後の上総国は、須恵、馬来田、上海上、伊甚、武社、菊麻の国造の地域に、下総国は、印波、下海上、千葉の国造の、安房国は阿波、長狭の国造の地域にあたります。
 『延喜式』では、(1)上総国に市原、海上、畔蒜(あひる)、望陀(まうた)、周淮(すえ)、天羽(あまは)、夷隅(いしみ)、埴生(はにゅふ)、長柄(ながら)、山辺、武射(むさ)の11郡が、
(2)下総国に葛飾(かとしか)、千葉(ちば)、印旛(いんば)、匝瑳(そうさ)、海上、香取(かとり)、埴生(はにゅふ)、相馬(そうま)、猿島(さしま)、結城(ゆうき)、豊田(とよた)の11郡が、
(3)安房国に平群(へぐり)、安房(あわ)、朝夷(あさひな)、長狭の4郡が記載されています。
式内社 忌部神社(旧國幣中社)
http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/tokushima/inbe.html より
忌部氏の祖神「天布刀玉命(あめのふとだまのみこと)」 は記紀神話において重要なシーンに登場している。天の岩戸開きの段では太玉串を捧げ天の岩戸注連縄(しめなわ)を張るという大役を果たし天孫降臨の段では瓊瓊杵命(ににぎのみこと)に付き従って日本の国に降り立った。いわゆる天孫族である。忌部の後裔斎部(いんべ)広成が、祖先以来の経歴を述べて平城天皇に奉った『古語拾遺』によればほかに天太玉命に従っていた五神があり、そのうち天日鷲命が阿波忌部氏、手置帆負命が讃岐忌部氏、彦狭知命が紀伊忌部氏、天目一箇命は筑紫伊勢忌部氏、櫛明玉命は出雲国造の祖となり、阿波忌部より分かれた天富命は安房忌部氏の祖とされている。
歴史的には大王家と共に半島より渡来し麻を携えて各地を殖拓していったと考えられる。忌部という名前が示す様に、神祇祭祀に携わる部民のことで、それを統率したのが忌部氏であった。忌の字が否定的な意味合いとなったのは仏教用語として使用され単純に「死=穢れ」を連想させる様になったからであり原始神道においてはもっと広範囲に森羅万象に対する畏敬の念を表現する字であった。忌部氏は初期の大和朝廷において中臣氏ら数氏と共に神事を掌ったが、 のちに中臣氏だけが栄えるようになった。祭祀と政治が未分化な原始国家においては祭祀を掌る氏族はかなり重要な位置づけにあったでであろうが、(最も初期においては大王自らが司祭者であったであろう)大和朝廷の中央集権化が進むにつれ政治力に勝る中臣氏が主流となり、大王家譜代の忌部氏は傍流に追いやられていったのである
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忌部に関連する神社
忌部氏のの役割は神事に携わる事であったが、後世中臣氏に重点が移った。斎部広成が「古語拾遺」を表し、祖先以来の経歴を述べて、対抗している。忌部氏の遠祖は天岩戸隠れの段で活躍する天太玉命である。天太玉命の後裔に天日鷲命(阿波忌部氏の祖)、手置帆負命(讃岐忌部氏の祖)、彦狭知命(紀伊忌部氏の祖)、天富命(安房忌部氏の祖)となった。
   徳島県鳴門市大麻町坂東字広塚13 大麻比古神社「大麻比古神」天太玉命、猿田彦命などの説
   徳島市二軒屋町2丁目48 忌部神社「天日鷲命」
   香川県善通寺市大麻町上ノ村山241 大麻神社「天太玉命」
   香川県観音寺市粟井町1716 粟井神社「天太玉命」
   香川県三豊郡豊中町竹田214 忌部神社「手置帆負命」
   千葉県館山市大神宮589 安房神社「天太玉命」
   和歌山市鳴神1089 鳴神社「本来は天太玉命」
   和歌山県那賀郡桃山町神田101 三船神社「木靈屋船神 配 太玉命、彦狹知命」
   和歌山市下三毛508 上小倉神社「手置帆負命 配 彦狹知命」
斉部(いんべ)広成の『古語拾遺』によれば、安房国は天富命(アマノトミノミコト)が神武天皇の命を受けて、四国阿波忌部(いんべ)の祖・天日鷲命(アマノヒワシノミコト)の後裔を率いて四国阿波に赴き、穀(かじ)と麻を殖培し、更に房総半島に上陸し、土地を開拓し穀と麻を育成したことに始まる。麻の古語が「総(フサ)」で、安房、上総、下総の三国とも「総(フサ)の国」と呼ばれた。天富命は安房に祖神の天太玉命(アマノフトダマノミコト)を祀ったのが安房坐神社であり、延喜式によると安房四郡(平〔へぐり〕、安房、朝夷〔あさひな〕、長狭)は神郡となっており、神社の所領であった。天太玉命(金工神)は天児屋根命と共に天照太神の重臣で、天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)に従い高天原より葦原中(あしはらなか)つ国(豊葦原の瑞穂〔みずほ〕の国)へ降り立った神である。国家祭祀の神へ奉る種々の幣帛(へいはく)(麻、鏡、玉、矛盾、刀、斧)などを司る。安房開拓の祖・天富命の墳墓は安房神社より東北35キロメートル、清澄山の西隣の富山にあり、その廟所が清澄の妙見山であった(明治の神仏分離令により天富命廟所は下の小学校近くへ移る)。
 清澄山は標高347メートル、安房分水嶺山脈の中心地で、清澄山系は冷たい北風を遮り、南は黒潮の暖かい風を迎えて気候温暖、年降水量2000ミリの多雨地域である。清澄寺は摩尼山(妙見山)・宝珠山・如意山・露地山・金剛山・鶏(けいもう)山・独鈷山・富士山(浅間山)の八名峰に囲繞され、台密、真言の回峰行、星信仰の道場(虚空蔵求聞持法)であった。54代仁明天皇の承和3年(836)に慈覚大師円仁が来山し、虚空蔵求聞持法を修し、祠堂25、僧坊12の名刹となった。円仁は清澄寺の前嶺に露地檀を築き求聞持法を修したので露地山と称し、独鈷を投じた山を独鈷山といい、南嶺に棲む怪物を法力で退治して鶏山、不動明王を安置して金剛山、北嶺に浅間菩薩を祀って浅間山(富士山)と命名したと伝える(大川善男博士の資料提供によると)。
坂東は出雲国だった?
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/band/ban-102.htm
武蔵国造の系譜
□ 武蔵国造は天穂日命にはじまる出雲国造の出雲臣を祖とする。『先代旧事紀』国造本紀に
□□ 无邪志国造、志賀高穴穂朝(成務)に出雲臣祖の名をニ井之宇迦諸忍神狭
□□ 命の十世孫、兄多毛比命を国造に定め賜う
とある。武蔵国造家の系譜もこの間を埋めて、先祖が出雲族であることを主張している。
□ この記事は『記・紀』とも一致しているから疑うべくもない。
□ 『古事記』神代には「天菩比命之子建比鳥命、此れ出雲国造、无邪志国造、上兎上国造、下兎上国造、伊自牟国造、島津県直、遠江国造等之祖也」とあり、『日本書紀』一書には「天穂日命、此れ出雲臣、武蔵国造、土師連等遠祖也」という。
□ ところが、 国造本紀には武蔵国が二つあったかのごとき次の一条が続いて記されている。
□□ 胸刺国造、岐閉国造祖の兄多毛比命の兒、伊狭知直を国造に定め賜う
□ 伊狭知直は神功紀元年に海上五十狭茅と出てきて、上にあげた『古事記』の 上兎上・下兎上に分れる以前の海上の内、上海上(千葉県市原市)の人である。国造家の系譜では武曾宿禰になっているが、その子の宇那毘足尼が海上五十狭茅かもしれない。これが无邪志国の兄多毛比命を父にもち、胸刺国造であったというから、まずこの三角関係を整理しなければならない。ともかく武蔵国造家の系譜は複雑である。